パンチの独り言

(7月27日〜8月2日)
(余暇と実益、大前提、狂ったか、調べよう、期待外れ、学問の危機、呟き)



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8月2日(日)−呟き

 このサイトを、始めた人から、譲り受けた時、管理としか、思っていなかったが、折角の機会と、ある年度の始まりに、独り言を、書き始めた。はじめの頃は、様式も決まらず、気紛れの物でしか、なかったのだが、その後、20年近くなると、様式も、方針も、ほぼ固まった。
 時の流れと共に、主たる訪問者だった、証券社員は、転職などで、次々に、姿を消してしまい、居なくなってしまった。それでも、一度始めたことは、切りのいい所まで、という思いで、日々の思いを、書き綴ってきた。だが、備忘録の類、と思いながらも、やはり、誰かに、読んで欲しいと願うのは、当然のことだ。検索で、行き着けるように、仕組みを整えたが、一向に変化はなく、別のきっかけに、とばかりに、ツイッターを始めて、暫くは、繋がりだけを、残していたものの、これもまた、何の変化もないので、最近は、そちらにも、思い付きを書き残している。効果という程では、ないものの、ここ数週間、徐々に、訪問者が現れている。呟きでも、最近は、感染症の話題が、主となっており、人口当たりの陽性率にも、言及している。例えば、ふた月ほど前の、一連の発言では、感染拡大が続く国々が、率の小さな範囲に、留まっていることに、触れており、1%という値が、集団内の陽性者となる確率を、表しているように見える、と主張している。今朝の値を、調べてみると、急増を騒ぐ、この国も、0.03%に達し、1ヶ月で5割増となっているが、最大と伝えられる国々は、率としては、微増でしかない。検査数の増加が、急増の原因とすれば、今後、この国の状況も、今の十倍から三十倍に、到達すると、予想されるが、この数値に、どんな意味があるのか。更に、増加が続く中でも、急増した国々は、鈍化が始まり、爆発的増加は、杞憂に過ぎない、と見えている。はじめは、感染の広がりについて、この国の特殊性を、説明しようと、様々な要因が、取り沙汰されたが、実際には、検査数の違い、だけとなるかもしれない。何方にしても、騒ぎを続ける理由には、決してならないことに、愚かな人々は、気付かないのか。

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8月1日(土)−学問の危機

 窮地に、追い込まれた時、人間の本性が、表に出る、と言われる。今の状況は、実際には、一部の人々が、自分達に都合がいいように、作られただけのもので、真の窮地とは、呼べない代物だが、然りとて、本性を、露呈する人が、出るのは、物の理、なのかも知れない。
 以前、この混乱が、始められた頃、真の問題は、今、失われる命より、次代を担う人々の、将来であると書いた。その為に、不可欠なこととして、教え育むことが、最も重要であり、その機会を、奪うことは、あってはならない、とした。その後、新たな体制が、整えられ、それによって、不十分な部分は、残るものの、ある程度の機会は、確保されてきた。だが、世の中を、見渡してみると、理解不能な状況が、残されていることに、気付かされる。初等中等教育は、就学年齢に、達した子供達が、義務教育を、受ける期間と、その後に続く、高校教育を、意味することだが、一時的な休みや、停滞があったとは言え、その後は、現場の努力により、機会の確保が、図られている。教育現場に、日常が、戻ったことは、社会全体で、評価すべきことで、もっと強調すべき、と思うが、より大きな問題が、未解決であることにも、目を向けるべきだ。過半数の同世代が、社会に飛び立つ前に受ける、最後の教育現場は、その多くが、依然として、隔離政策の如く、異常な状況を、継続している。確かに、広範囲から、通学する人々を、対象とするから、危険度が、高まる可能性は、あるだろうが、これ程までに、徹底する必要は、本当にあるのか。既に、一部では、正常化が、図られているが、多くは、過剰反応とも、言える対応を、続けている。最高学府が、自らの判断ではなく、国や自治体の方針に、従うことを、当然と見る向きもあろうが、度々書くように、無根拠の方策に、従うことは、学問の府が、すべきこととは思えない。学問が、恐怖や不安という、心理的なものに、左右されては、人類の将来は、危うくなるだろう。

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7月31日(金)−期待外れ

 これこそ、人災に、違いない、と後々語られるのではないか。人口当たりの、死者数が抑えられ、原因も理由も、定かではないものの、理解不能の成果に、国への評価が、高まっていたが、ここに来て、行方知れずの迷走が、露呈し始め、過去の栄光、となりつつある。
 政策の効果とは、報道だけでなく、庶民でさえ、認めたがらなかったが、死者数の抑制は、確かな数字として、世界から、高い評価を、受けてきた。確実なのは、医療現場の活躍であり、これを、否定する人は、殆ど居ないだろう。だが、折角の成果も、ここに来て、何処に向かうか、分からぬ政策が、木っ端微塵に、破壊しようとする。これこそが、人災の典型、と呼べるものだろう。目的不明の検査数の増加が、陽性者数の上昇を、招いたことは、事実であり、率の問題を、取り上げるまでもなく、説明可能だ。昨日紹介した、新聞社のデータを、眺める限り、この所全国で、1万から2万の検査が、実施され、それに対して、陽性者が、千を超えたと、報道が騒ぐが、これとて、世界と比べれば、僅かなものに、過ぎない。比較に、世界機関の発表が、恣意的操作を、疑われて以来、信頼を勝ち得た、ある大学の発表の中の、日々州ごとのデータを、見てみると、全国で、80万程度の検査が、実施される中、66000を超える陽性者が、見つかったと分かる。率としては、8%弱であり、こちらの首都の数値より、僅かに上回った。見て欲しいのは、率ではなく、総数で、騒ぐ人々は、こちらにだけ、目を向ける。六十倍ほども、違う数値は、検査数が、違うからであり、世間が、惑わされる理由は、そこにある。この傾向は、どの国にも見られ、総数のみで、騒ぐことの馬鹿らしさは、万国共通の話題となる。一方、州ごとのデータで、見えているのは、陽性率の変遷で、これこそが、第二波を、主張したい人の、頼りとなる。ただ、彼らの期待と、大きく違うのは、今の波は、はじめのと比べ、半分以下に、止まったことで、更なる騒ぎを、起こすには、不十分だったことだ。

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7月30日(木)−調べよう

 毎朝、独り言を、書き始める時に、3週間前のものを、削除してから始める。今朝も、消す前に、それを、読んでみたが、人災についてのものだった。それも、今回、取り上げようとする内容と、合致するものだ。偶然ではなく、必然であり、問題が、未解決だからだ。
 感染症では、最大の問題は、命を、どのように守るか、だろう。本来、それのみを、目的として、様々な対策が、講じられるが、人災が、そこに加わると、途端に、問題が、多様、多彩になる。今、巷で騒がれるのも、全く同じ様相で、人災の複雑さを、表している。第二波とか、より大きな波とか、首長も報道も、一つ覚えのように、繰り返している。だが、その実態は、どうだろうか。データを、詳しく眺めたい人は、この新聞社のデータが、信頼できそうだ。推移を、冷静に眺め、自分なりの判断を、する材料として、参考になると、評判が高い。最近の傾向も、分かり易く示されているが、今の問題は、何故、陽性者の数が、急増しているか、である。下の方に行けば、首都の事例が、示されており、何となくだが、原因が、見えてきそうだ。だが、今の状況において、問題を、大きくしたい人々が、盛んに、取り上げているのは、陽性率という、新たな指標であり、検査数の増加だけでなく、こちらの数値の上昇が、大問題、と訴えている。こちらに関しては、首都の役所のデータの方が、より詳細まで、示している。その中で、件の率は、項目(4)として、示されており、確かに、緩やかな上昇が、あるように見える。報道では、一部を、拡大することで、恐怖を煽る思惑が、活かされているが、ここでは、その意図は、見えていない。その上、日々の検査数の棒グラフが、同時に、示されているので、他の要因にも、触れることができる。検査数の変動が、日々、激しくあるのに、何故、陽性率は、安定して上昇しているのか。前者は、日々の数値なのに、後者は、移動平均と呼ばれる、平均化の結果であるからだ。統計の専門家に、意見を求めたいのは、こういう数値の信頼性だろう。騒ぐ人々は、そんな手間もかけず、主張を、し続けるだけだろうが。

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7月29日(水)−狂ったか

 狂気、と思うのは、パンチだけだろうか。冷静な判断が、難しくなり、非論理的な主張が、押し通される。だが、この程度のことは、日常茶飯事であり、特段、珍しいことではない。では、何が、狂気と思えるのか。感染源の特定に、躍起となる国や自治体が、始めようとすることだ。
 役所が主体となって、進めていることには、意味不明なものも含め、不可思議なものが多い。だが、これ程のものは、と思えるのは、クラスターと、彼らが名付けた、多数の感染者を、出した場所を、特定するだけでなく、公表することだ。庶民の多くは、被害を広げた責任を、特定の店が負うのは、当然と思うだろう。この考えの底には、感染した人々は、自粛の中で、禁を破ったのだから、悪者であり、それを、自分の利益だけの為に、引き起こした店の責任は、更に重い、という、今では、当然の論理、と受け取られるものが、あるに違いない。庶民感覚では、自分達が、厳しい状況に、追い込まれる中、じっと我慢を、続けているのに、「何だ、彼奴らは!」と思うらしい。だが、現時点で、この考えは、正しいとは言えない。何故なら、騒ぎが大きくなっても、この病原体が、集団の中で、どのように伝播するかが、わかっていないからだ。三密を避ければ、という提言も、忘れかけているが、この対策の有効性も、検証されておらず、どのような接触や、どのような環境が、感染を広げるかも、ましてや、どうすれば、防げるのかも、わかっていないのだ。単に、局所的に、検査を実行し、多くの陽性者が、見つかったからと言って、それが、その個人や店の責任かどうかは、断言できない。防ぎ得ない原因で、拡大したとしたら、責任を、問うと言うのは、暴論でしかない。冤罪になりかねないことを、役所が自ら、行うことは、暴挙と見るべきだろう。それが、この国の人々が、得意とする、風評被害を、招くとなれば、事は、更に重大化する。

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7月28日(火)−大前提

 経済では、成長が、前提となっている。人々の生活が、豊かになることで、消費も生産も、成長を続ける。しかし、先進国の多くは、その成長に、陰りが見え始め、単純な要因では、前提が、成り立たなくなっている。そこで、物価上昇や、新市場の開拓などが、図られる。
 理論的には、何の誤りも、無いように見えるが、現実には、間違いだらけ、と言われる。この国で言えば、想定した上昇が、起きたことがなく、物の値段への、過剰な反応は、安売りに飛び付く、行動規範を、強め続けるから、結果は、悲惨なものとなり、机上の空論に、批判が集まる。だが、理論は、あくまでも、理論であり、前提の範囲内では、正しいものだ。それが、誤りとなるのは、前提に、瑕疵があるからだろう。そこで、投資の世界では、平均を、目指すのではなく、成長するものだけを、選び出し、利益を稼ぐ、手立てが講じられる。話は、それ程には、上手くいく筈もなく、ババを引く、こともあるが。何事にも、前提は、重要なものだが、それを忘れて、上部だけの議論を、進めようとするのは、無謀でしかない。今も、感染症の拡大で、多くの人々が、様々な議論に、参加しているが、そこにある大前提に、目を向けずに、議論を進めていることに、気付いていないようだ。ウイルスの蔓延は、世界の危機を、招くものであり、その排除を、達成しなければ、人類滅亡さえ、起こりかねない、とする主張には、流石に、誰も触れないが、今の議論は、それに近いものであり、大災厄という前提が、議論の参加者の、頭の隅々まで、染み通っている。これまでに、何度も、書いてきたことだが、その前提を、覆さねば、次の展開は、起こし得ないのに、凝り固まった考えは、他の可能性に、目を向ける余裕さえ、奪っているようだ。そこに、世論という、愚かな化け物が、加わることが、事態の悪化を、招いている。となれば、前提の発信源を、断ち切るしか、手立ては残っていない。

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7月27日(月)−余暇と実益

 人災とは、まさに、人が作り出すものだ。それも、と思う所がある。それは、どんな人間が、それに、加担しているかだ。今、目の前で、起きていることを、眺めていると、それに関して、見えてくるのは、誤った情報や、間違った考えを、広げる人の、素性なのだ。
 彼らも、重用する人々も、その人物のことを、専門家、と呼ぶ。簡単に、騙される大衆は、それだけで、正しい意見が、伺えると思うが、玉石混淆どころか、石ばかり、それも、普段なら、見向きもされない、路傍の石でしかない、役立たずのものばかりが、綺麗に並べられ、光を浴びせて、輝くかのように、見せているものだ。その言説の主は、自信を見せつつ、持論を展開したり、世間に流布される、情報の解説を、得得と語っている。だが、彼らの論も、解説も、不十分な知識と、理解不足が、見え隠れし、大衆を、誤った方に導く、誰かの思惑に、加担するものとなる。そんな姿が、画面や紙面に、何度も現れるのを、眺めていると、ふと思うことがある。この専門家達は、何故、これ程に、時間があるのか、と。本来、主たる職業に、就いているのが、専門家の条件、と思う人が、大部分だろうが、彼らは、平日、朝から晩まで、媒体に、登場する。肩書きが、紹介されても、職務が、果たされているとは、俄には、信じ難い。緊急時、との解釈も、時に、出されるものの、これ程の長期間、緊急が続くとは、あり得ない話だ。その上、最前線で、活躍する人物、として紹介される専門家も、確かに、そこで、働いているのは、事実には違いないが、その見識は、一個人のものでしかなく、多分、新たな情報を、手に入れる暇さえ、無いのだろう。だったら、あんな所に出る代わりに、情報収集に、励んだ方が、遥かに有意義ではないか。そんな思いが、過ぎる度に、やはり、あの人々は、余程暇に違いなく、別の餌に、引き寄せられた、だけに見えてくる。

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