パンチの独り言

(8月3日〜8月9日)
(愚か者、暴君、頑固者、過ち、歯止め、我に返る、暇潰し)



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8月9日(日)−暇潰し

 つける薬が無いとは、あの手の人々を、揶揄する為に、使われる表現だが、世の中全体が、愚かな方に向かう中、誰も彼も、つける薬が無い程に、馬鹿げたことを、やり続けるばかりか、それが、どんどん悪化している。何ヶ月も、文句を並べ、警告を出し続けたが。
 こんなに、小さな声では、皆の元に、届きそうにない。その一方で、愚かさを、増し続けることに、強力な後押しを、しているのは、専門家と呼ばれる、偉い方々のようだ。名声を誇る人も、そうでない人も、これまでに得た地位で、頼りとする人々から、信頼を得ている。その中で、発言の多くは、強い影響を及ぼすが、その中身は、社会全体に広がる、間違いに、基づいたものでしかなく、そこら中にいる、大衆の考えと、大差ないものでしかない。同じ言葉も、発する人間の格で、受け取り方が、違ってくるのは、いつもながらの状態だが、緊急事態でさえ、こんな為体を、続けることは、破滅への道を、突っ走ることになる。愚かさの極みは、こんな状況でさえ、制動をかけたり、方向転換を促す動きが、全く、起きてこないことだ。誰もが、我を失い、冷静な判断を、投げ出してしまった結果、こんな事態に、陥ったことに、群衆心理を、専門とする人間も、驚いているのではないか。自由な発想、身勝手な判断、人それぞれに、様々である筈のことが、成立しなくなっている。国や組織を、治める人間にとって、好都合な状況だが、それが招いた事態に、張本人でさえ、驚いているだろう。いや、ひょっとすると、あの世界機関の連中は、そのことにさえ気付かず、更に加速を続けようと、あり得ない想定を、垂れ流し続けている。非科学的な論拠が、これ程の効果を産むとは、当人達でさえ、予想もしなかった。逆に言えば、この成功体験が、彼らの意を強め、更なる妄言を、発する機会を、与えたのだろう。暫くの間、休みが続くようだが、この機会に、これまでの流れを、見つめ直し、再検討を、してみたらどうだ。どうせ、暇なのだから。

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8月8日(土)−我に返る

 騒ぎは、収まる気配を、見せない。普通の感覚なら、もう、とうの昔に、片付いている筈で、対策を、十分に講じれば、救える命は、確実に、救えているのだ。では、何故、世界中が、こんな混乱の渦に、巻き込まれているのか。間違いを、犯し続けているからだ。
 こんなことを、書いたとしても、騒ぎに、巻き込まれている人々は、何一つ、信じようとしない。それどころか、出てくる数字の解析や、状況の判断を、論理的に、冷静に、行ったとしても、その結果に、目を向けようともしないのだ。何故、こんなことが、起きるのか。こちらが、普通と感じるものが、異常にしか見えない。そんな異常者に、多くの人々が、成り果てているのだ。だが、多数決で言えば、こちらに、勝ち目は無く、異常は、そっちの方だ、とまで罵られる。最大の惨事は、実は、そこにあることに、今は、気づくべきだろう。皆が、戦争に賛成し、勝利を信じて、窮状を凌いでいた時、まさに、そんな状況が、築かれていた。その中で、真っ当な発言は、異常なものと、扱われるだけでなく、非国民などと、罵られていたのだ。時に、権力に、目を付けられると、徹底的な拷問や、処刑まで行われ、命を、落とす人さえ、居たと伝えられる。まだ、その域には、達していないが、今のまま、狂気に走れば、早晩、その事態を招くこととなる。その気配は、すぐそこまで来ており、普通なら、異常と切り捨てられる発言が、巷に溢れ、まるで、正当なものの如く、扱われている。人の往来を、忌み嫌う世論も、差別意識から、来るものであり、厳しく叱責されるべきだが、多勢に無勢となり、正論かのように、扱われる。その中で、異常な発言を、繰り返す人々は、元々、正常ではなく、多くが、それまで無視され、相手にされなかったが、今や、まるで、英雄の如く、振る舞うことさえある。この事態を、招いた連中を、糾弾することも、必要だが、それ以上に、我に返ることが、まず必要だ。

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8月7日(金)−歯止め

 暴走が、止まりそうにない。これまでは、世界の衛生環境を、整える為に、欠くことのできない、機関と、言われていたが、彼らの暴走は、止まる所を知らず、発言は、激化するばかりで、世界を、混乱どころか、恐慌に、陥れている。何故、誰も、止められないのか。
 国内でも、首長などの、愚かな政治家が、慌てふためくのは、仕方ないと、諦めるしかない。しかし、世界では、あの機関の構成員より、遥かに優秀な、専門家が、数多居る筈で、暴走に、横槍が、入れられないことに、強い違和感を、覚える。はじめから、触れていたように、海の向こうの、疾病予防管理センターは、国立機関だが、独立性が高く、世界でも、指導的立場に、置かれるだけに、この騒動でも、冷静な判断を、下すものと、期待していた。ところが、現状は、そこからの発信は、稀であり、別の機関の長が、暴走を後押しする発言を、繰り返すことで、解決を、遠ざけている。人間社会で、暴走が、繰り返されるのは、人の性であり、歴史上、性懲りもなく、繰り返されてきた。予防策は、様々に、講じられているが、今回の騒動から、解ったことは、権力の集中の弊害、という点だろう。特に、強制力という権力を、備えていなくても、脅迫に似た、提言を振り翳し、情報を、制御することで、大衆を煽動し、愚かな指導者達を、自在に操ることが、できる。人間にとり、死の恐怖は、何にも増して、強いものであり、冷静な判断を、排除することさえ、起こりうるのは、現状を眺めれば、誰にも理解できる。だが、そんな心理では、全体を、俯瞰した上で、最善の策を、講じることは、不可能となる。その勢いに、更に、拍車をかけるのは、誤った情報伝達であり、過剰反応を、引き起こす為の、数値操作や、取捨選択により、大衆の心理は、弄ばれる。この国で、40万人の死者を、予想した話は、すっかり忘れられているが、やっと千人を、超えただけでは、恥ずかしくて、思い出したくも、ないのだろう。そんな中で、はじめの機関の長は、稀代の愚君として、歴史に名を残す、と思う。

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8月6日(木)−過ち

 情報伝達は、今の社会にとり、重要な役割の一つだろう。だが、その中で、伝達とは、どういう意味なのか、その役割は、何なのか、という問いに、答えることは、常に必要なのではないか。情報媒体の多様化が、急激に進んだことで、様々なものに、触れることができる。
 だが、それらの源が、たった一つだった場合、どんな結果を、招くのだろう。受信者は、異なる情報源に、触れたと思い込み、その信用度を、高いと判断するが、実は、唯一のものが、発端になっており、それも、情報操作が、施されたもの、となってしまう場合も、多いのではないか。特種、と呼ばれる情報も、時に、不十分な裏付けしかなく、結果的に、嘘でしかなかった、となる場合も多い。戦争中の行為を、糾弾することに、躍起になることで、事実を見誤り、虚偽を見破れずに、誤報を、流してしまったのは、多くの新聞社だけでなく、通信社にも、経験があり、他山の石だけでなく、自らの不明を、詫びることや、反省することが、繰り返されている。だが、何度やっても、同じ過ちを、繰り返すのは、報道に携わる人間の、独特の心理、によるものかもしれない。嘘や捏造でなくとも、説明が足りず、誤解を招くものもある。例えば、最近のものも、通信社からのものだが、煽情的な見出しからも、衝撃を与える意図が、明確だろう。だが、一つの数字で、十分な衝撃を、与えられるとの判断からか、何の比較も無いことに、気付くことなく、垂れ流すのは、どうかと思う。世界で、肺疾患で亡くなる人は、平均でさえ、11秒に一人であり、この報道の15秒と比べ、明らかに多いのだ。それも、片方は平均であり、一方は、これまでの最大値なのだ。情報伝達に、恣意が入っては、困りものだ。だが、大衆も、実は、同じ過ちを、繰り返す。

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8月5日(水)−頑固者

 読書は、何の為に、行うのか。悪名高き、感想文の為、という話は、多分、十年毎くらいに、話題となるが、教育現場では、課題は、当然のものであり、悪者呼ばわりは、御門違い、というものだろう。楽しさを、如何に伝えても、面白くないものは、面白くないのだ。
 そういう意味で、読書は、押し付けられて、やるものではない、と言われる。だが、どうだろうか。多くの人は、話題の本を、手に入れて、読んでみようとするが、それは、押し付けの一種、ではないのか。仕事上の必要から、という人も、多く居て、止むを得ず、といった感がある。純粋に、愉楽の目的で、手に取る人は、実は、少ないのかもしれない。毎月、5冊程の本を、読む習慣となる身も、子供の頃は、読むより書く方が、楽しいと思い、読書習慣は、まるで無かった。それが、こうなったのは、実は、仕事上の問題で、業務が滞り、矢鱈に時間が余り、暇潰しの一つとして、始めたに過ぎない。今は、それ程の暇は無いので、時に、少ない数と、なることもある。最近、読んだ本の中で、先月中に、読み切れなかったので、まだ、リストに上がっていないが、興味深いものがある。本選びは、書店に出向く習慣も無く、検索で、拾い上げるのも、面倒だから、新聞書評に、頼るしかなく、この本も、その流れで、購入したものだが、目に留まった理由は、思い出せない。何れにしても、その内容は、まさに、今、世間で話題になっている、例の感染症の、馬鹿騒ぎの理由を、説明するもの、と見えなくもない。それは、事実が、示されても、人の考えを、変えることはできない、というもので、別の言い方をすれば、事実を突き付けられても、人は、自分の考えを、変えようとしない、ということだ。それも、著者によれば、教育水準の高い方が、その傾向が強い、とのことだ。事実より、自分の考えに拘り、感情的な判断を、繰り返す、という行動様式は、理解力の不足が、産み出すもの、と言われるが、そうではないと言う。ただ、この本は、著者の興味に、偏った為、その他は、余り役に立ちそうもない。

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8月4日(火)−暴君

 物事には、様々な見方がある。つい、この間まで、多様性の重要性を、あれ程までに、強調していたのに、今の状況は、何だと言うのか。一方的な決めつけで、人々の自由を奪い、まるで、それらの行為が、罪を犯すものかの如く、断定する態度には、異端の思いしか無い。
 一神教においては、唯一のものを、信じる以外に、道が無いのは、当然だが、それとて、一部の人々が、始めたものに過ぎず、全てに適用できる、などと考えるのは、傲慢以外の、何ものでもない。特に、あらゆる場所に、神が宿り、日々の営みにおいて、それへの感謝を、怠らぬように、生きてきた、この国の人々が、古から、守ってきた考え方を、投げ捨てて、一つの考えに、縋る姿は、西洋かぶれでしかない。彼らの言動は、単に、舶来品への憧れ、という、馬鹿げた動機だけでなく、それが、科学的な根拠もなく、感情のみで、成り立つことが、異常さを、際立たせている。今回の騒動の、嘗て無い程の異常性は、本来、科学が拠り所とする、一神教の考え方が、中心教義となる一方で、科学そのものを、利用して、説明していながら、肝心の根拠が、科学の条件を、満たしていないことにある。この国では、暫く前から、科学的な論拠を、示したフリをして、非科学的な主張を、繰り返す人々が、事ある毎に、登場して、無垢な大衆を、騙すことが、横行しているが、その片棒を、担ぐ人々は、報道機関や、それに類する機関に、居座っており、不安や心配を、煽る行為に、精を出しているのだ。そこに、科学に基づいた、分析や調査から、状況把握を行い、世界の健康を保つ、役割を負う筈の機関が、あるまじき行為を、繰り返すどころか、ありもしないことまで、捏造し続けることで、自らの存在意義を、保とうとさえしている。独立性の保証は、機関にとっての命綱で、それでこそ、独自の正当性が、保てるとされてきたが、これでは、暴虐の限りを、尽くさせているだけではないか。

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8月3日(月)−愚か者

 批判しか、できない輩を、扱き下ろすのは、根拠薄弱どころか、無根拠のまま、ただ、否定するだけだからだ。批判の多くには、耳を傾ける価値が、あるのが当然なのだが、それだけの人々は、何を言っても、反対するだけで、日替わりの、正反対の話にさえ、何方にも反対する。
 これでは、参考にする価値は、全く無いと、言うしかない。だから、機会ある毎に、愚かな行為を、槍玉に上げてきた。しかし、批判自体を、悪いこととは、決して思っていない。だからこそ、価値が無いばかりか、害悪さえ及ぼす、例の世界機関については、何度も、厳しい意見を、書き連ねてきた。よく似た機関は、国際連合の傘下にあり、その多くは、高い評価を受けている。それについても、一家言あるが、ここでは触れぬこととし、実は、機関の運営が、成否を定めており、今回の陣営が、嘗てない程に、劣悪なものとなったことが、全てである、と考えるべきと思う。たった一つの過ちで、これまでに築いた、強い信頼は、完全に失われつつある。先日も、この災禍が、今後数十年に渡り、継続する可能性を、事務局長自らが、言及した、と伝えられたが、引き合いに出される、約百年前の災禍は、あの機関が、存在しない中、数年で終息した。脅威を振るう病原体に、闘う武器も無く、数年に渡り、何度も流行に襲われたが、ある意味、自然終息が、起きたのだ。それこそが、自然の理だが、それさえも、理解できぬ人間が、機関を牛耳る状況は、異常でしかない。そんな長期間、災禍が、続くとしたら、それこそ、彼らの関与が、世界中に蔓延し、別の被害が、及んだ結果でしかない。一方で、ある日の新聞に、発生から、約半年を経て、あの機関の総括を、論じた記事が、掲載されたが、その的外れぶりには、驚くしかなかった。彼らが提示した、誤った前提に基づく、対策を、その筋書きに沿って、総括しても、何の役にも立たない。それどころか、最後には、機関の権限を、更に増す必要を、主張するに至っては、愚の骨頂でしかない。

(since 2002/4/3)