パンチの独り言

(8月10日〜8月16日)
(事実とは、差別発言、救世主、活況、解析と処理、あれこれ、無駄な存在)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



8月16日(日)−無駄な存在

 感染症を、押さえ込む為に、編み出した方法を、全世界に流布することで、収束を目指す。そんな戦略を、世界機関は、採用したのだろうが、現状を見る限り、惨憺たる状況、としか言いようが無い。その理由は、明らかだと思うが、本人達は、認めたくはないようだ。
 責任転嫁としか、思えない状況は、彼らの発言の変遷にも、現れている。発生直後の、軽率な発言は、自分達も、思い出したくないだろうが、ある国への配慮から、発したと言われる。その真偽の程は、決して、明らかにならないが、疑惑の念は、世界中に広まった。その後も、猫の目の如く、変わり続ける、発言の趣旨に、論拠など、求めても無駄なことは、明らかだった。従来の感染症対策と、同じ戦略を、一つ覚えのように、繰り返すだけで、状況把握も覚束ず、戦略の修正は、死んでも嫌、とでも言いたいのか、頑なさだけが、印象に残る。一方で、異端の国が、出てくるのも、当然だろう。北欧の一国と、南米の大国が、全く別の目標を示し、隔離政策を、採らないことを、決めてきた。結果について、今の所、何が考えられるか。一昨日のデータから、様々な隔離政策を、採った国と、然程変わらぬ結果を、示している。2ヶ月以上前に、北欧の国の政策が、失敗だったと伝えたニュースが、如何に、劣悪なものかを、Twitterで伝えてみたが、その後も、同じ傾向を保ち、失敗も成功も、無いことが判る。但し、集団免疫の獲得、という目標は、この対策では、達成できなかったようだ。同様に、南米の国も、他国との違いが、出て来ておらず、違い無しと見るべきだろう。これらの状況を、何故、報道機関やテレビは、伝えようともしないのか。理解力が、足らないのは、当然だろうが、それにしても、一つの考えに、取り憑かれたように、振る舞うのは、世界機関の横暴と、何の違いも無い。批判を、常とする連中が、死の恐怖に、恐れ戦き、こんなことしか、できないのでは、無用の長物だ。

* * * * * * * *

8月15日(土)−あれこれ

 長く、安定した時代が、続いたことで、人々の心の中には、隙が、できたのだろうか。決まり切ったことが、繰り返される中、備えは、万全とさえ、思えていた。ここで、何度も書いてきたが、傾向と対策は、単に、試験対策だけでなく、普段の生活にも、使われる。
 こうすればいい、とか、これだけで十分、とか、そんな形で、広げられるものに、人々は、飛び付いてきた。情報を頼りに、行動を決めれば、安心が得られ、間違いが起きない、という触れ込みに、誰もが、従うようになった。同じことが、繰り返される限り、同じ対応で、間違いは起きず、成功を、手に入れられる。そこでの違いは、決められたことを、決められた通りに、行えるかどうかであり、その程度の違いが、結果の違いへと、反映されていた。対策が、多過ぎても、手に余ってしまい、達成できないから、元から、少数に限り、それを、反復することで、達成度を、高めようとする。こんな方法が、最適と言われ、多くの現場で、実施されてきたが、その歪みは、徐々に、社会全体に、広がっていた。対策が、講じられなければ、何もできない人間が、巷に溢れ、対策が、与えられずに、路頭に迷う人が、目立つようになった。そこに起きたのが、今回の騒動だ。日々、対策が報じられ、それに従うことが、強いられる中、徐々に、人々の精神は、安定性を失い始めた。対策さえ、示されれれば、それに従うことは、難しくない、と思われていたが、実は、その数や状況が、大きく影響し始めたのだ。一つを、守ることなら、誰でもできる、とばかりに、はじめは、少ない数の指示が、与えられたが、多くの事例が、出てくるに従い、指示も、多種多様となった。その上、季節の変化で、別の問題が、起きてくると、正反対の対策が、並べられ、戸惑うしかなくなる。これでは、無策より、悪い事態を、招きかねない。傾向と対策に、慣らされた人ほど、窮地に、追い込まれるのだ。

* * * * * * * *

8月14日(金)−解析と処理

 数字を、突き付けて、世界の混乱を、伝えている。だが、その中身に関しては、恣意的な操作や、改竄とは言えぬものの、数字の取捨選択など、伝達者の意図が、露骨に現れている。世界の混乱と、この国の迷走、全く異なる様相だが、原因と結果は、明確だろう。
 マッチポンプが、横行する社会では、混乱は、拡大するばかりで、抑制が利かなくなる。そこで、煽りの手口として、汎用される、情報操作を、見抜ける能力を、育成しようという動きが、近年、急激に強まった。データ解析、統計処理、数字を扱うだけでも、様々な道具が、使われている。単純に、数字の大きさで、恐怖を煽るのも、度々行われており、その効果の程は、十分な信頼を得ている。原発事故当時、放射線量を表すのに、単位の桁を、変えたことがあったが、その時、今でも、偉そうに批判を口にする、テレビの解説者は、数字を小さくする操作、などと叫んだが、あの不明は、今も続いている。簡単に、騙される人々は、数字を眺め、そこから見えるものを、探そうともせず、誰かが、操作したものを、信じ込む。その弊害は、社会的な大問題となり得るから、育成こそが、喫緊の課題と言われたが、今は、別の騒動に、現場の混乱が極まり、放置されてしまったようだ。ただ、解析も処理も、その前に必要となる、手順がある。数字を集めることと、簡単な計算をすることだ。4月からの4ヶ月の変動を、間隔を置いて、まとめてみると、こんなものができる。ここから見えることは、数々あるが、世間で、盛んに喧伝されるものとは、明らかに違う。陽性者の割合は、調べた国で、1-2%に止まり、何か意味を持ちそうだし、最近の傾向が、陽性者あたりの死亡率が、低下しつつあることを、示している。治療法が、徐々に、見つかりつつあり、回復の兆候が、見えているのだろう。その上に、この国の特殊事情は、陽性者の急増が、死亡率の低下を招き、迷走ぶりを、表しているのだ。

* * * * * * * *

8月13日(木)−活況

 市場の動向に、目を向け、その解析から、利益を産み出す。そんな日々を、送ることで、収入を得ている人は、沢山居るだろう。特に、このサイトが、始まった頃に、参加していた人々は、まさに、その中に、身を置いていて、市場の変化の要因に、目を凝らしていた。
 その後、人々の多くは、この場から去り、何処か別の場所で、活躍しているだろう。今、尋ねてみたいのは、この状況を、どう考えるかで、依然として、活況を続ける、市場には、どんな原因が、あるのかについての、考えを、聞いてみたい。歴史上、市場が、大暴落したことは、何度もあるが、今回は、これまでとは、大きく異なる。一時的な暴落は、確かに、示したものの、その後は、以前にも増して、力強いとさえ感じられる、好況を呈し、経済指標が、軒並み、芳しくない数値を、示したのに対しても、全く異なる反応を、示すことに、異常を感じた人も、多いのではないか。特に、これまでの事例にも、人為的な要因が、数多く存在し、それが、連鎖を招き、下落の一途を、辿ったのと比べ、今回は、どんな違いが、存在するのかが、見えてこないことに、不安を抱く人は、多く居る。だが、以前の例と比べ、今回のものには、連鎖という感覚は、当てはまらない。確かに、不安要素は、拡大するばかりで、歯止めが、かからないのは、事実に違いないが、それが、一つの様相を、示すだけで、悲観的な筋書きが、大仰に、示される中、想定を超えることも、想像を絶することも、起きていない。危機の内容は、大仰さとは裏腹に、小さなものとなり、皆の不安感は、縮み始めている。一方で、経済的な不安は、拡大し続け、将来への期待は、縮むばかりで、本来なら、市場も同じ反応を、示す筈だろう。だが、そうならないのは、経済の再建が、不可欠であり、今ある、大きな障害も、永遠にあるとは、思われていないからだ。その中で、対策として講じられた、支援の多くは、経済を戻す為の応急手当てであり、その補填には、経済を支える必要が、あるのだ。

* * * * * * * *

8月12日(水)−救世主

 騒ぎは、広がるばかりで、収まる気配が、見えてこない。となれば、治安を司る、人間達への批判が、強まるのも、当然のことと思える。だが、現在の状況には、これまでとは、大きく異なる点が、あることに、気付かぬ人が、多いのだ。他人事ではない、という点で。
 騒ぎが、長く続き、影響が、強まってくると、人々の気持ちは、萎えてくる。これまでも、定番のように、将来への不安を、口にする人が、多かったが、単なる心配と違い、終わりが見えない混乱には、克服する手立ても、見えてきそうにない。これこそが、真の不安であり、将来が見えぬことに、その気持ちが、募っている、と見えてくる。その中で、出される方策の、多くには、批判が集中し、付け焼き刃で、根本解決を、目指そうともしない、無策ぶりに、罵声を浴びせたくなる、気持ちも、理解できる。でも、この様相、何処か、変ではないか。つまり、批判される側も、する側も、同じ路線に、乗っており、その正しさを、誰も、疑おうとしないのだ。もし、進むべき道が、間違っていれば、進路変更を、すべき時なのに、ただ、漫然と、皆が進む方に、向かいつつ、いつまでも、悪化ばかりが続き、解決の兆しさえ、見えてこない現状に、不安を募らせ、不平不満を、口にするのは、何故だろうか。その疑問に、向き合おうともせず、大きな過ちに、自身も加担することに、気付かないのは、大馬鹿者が、やることでしかない。批判を、役目とする人々は、中でも、無能さが際立ち、以前にも増して、数字の変遷や、解釈の検証に、目を向けることなく、ただ、恐怖を前に、萎縮するばかりだ。前から、何度も繰り返してきたが、世界機関の、感染症への認識が、根本的に、間違っていることを、世界を挙げて、追求することこそが、今必要なことであり、その為に、不可欠となる賢人達を、集めることが、喫緊の課題なのだ。多様な考えこそが、今、必要なものなのだ。

* * * * * * * *

8月11日(火)−差別発言

 謝罪が、繰り返されている。この事態を、異常と捉えるのは、変なことだろうか。これまでも、予防法として、様々な対策が、論じられてきたが、その効果の程は、誰も知らず、絶対確実な方法が、有るのか無いのか、誰にも、判らないのではないだろうか。
 だが、世間の風潮は、このご時世に、感染を広げるのは、犯罪の一つ、かのように扱う。罪の意識から、謝罪をするのは、芸能人に始まり、組織の長、庶民などなど、様々に及ぶ。村八分の精神が、こんな現れ方を、しているのかもしれないが、それにしても、これ程に罪作りなことは、無いのではないか。風邪の一種に過ぎず、その拡散の経路は、これまで、誰も明らかにできていない。あれもこれもと、専門家達は、好き勝手なことを、並べるけれど、そのどれもが、確実なものではなく、更に、彼らが示す予防法は、何をどう防ぐのかさえ、曖昧なものが、数多くある。都市伝説だろうが、巷の噂だろうが、専門的な知識と、大差無く、当たりが有るかさえ、誰にも判らないのだ。にも拘らず、恐怖に震える人々は、悪者を見つけ、罵声を浴びせることで、溜飲を下げているのか。何とも、情けない性根の現れ、としか思えない。寄ってたかって、糾弾すれば、気が晴れるとでも、言うのだろうか。次は自分、という、簡単な想像でさえ、思いつかぬ人間に、他人を、とやかく言える筈がない。世界が、狂気に走る中、こんな言動が、様々な場面で、見られるようになり、謝罪会見を、番組冒頭に、持ってくる報道も、腐り切っており、身近な人間を、守るためと称して、外部の人間を、排除しようと、発言する愚か者は、正義を振り翳し、善行を、しているとさえ、信じているのだろう。利己的な考えに、酔い痴れる人間には、教えることも、導くことも、できることが、一つも無いことは、明らかだ。こんな人間に、守られたりしたら、次には、敵として、排除されるのだから。

* * * * * * * *

8月10日(月)−事実とは

 大衆媒体の役割は、何だろうか。今更、考える必要も、無いと思うが、こんなことを、言い出すのには、理由がある。報道の役割は、事実を伝えること、と言われるが、最近の傾向を見ると、そこでは、事実を、そのままに、伝える代わりに、一部だけを、取り上げるのだ。
 都合の良し悪し、としか思えないような、細工の仕方だが、そこに並ぶ数字は、事実に基づいている。しかし、細工後は、一部のみが強調され、他は、無いことにされる。皆が、注意すべきなのは、彼らを疑うことで、なるべく多くの情報に、触れることだけでなく、情報源そのものに、辿り着く必要がある、ということだ。情報社会において、これは、簡単なことで、誰もが、少しの手間をかければ、行き着ける。手間を省き、大仰な話に、耳や目を奪われ、心を乱されるのは、愚かでしかない。一方、この媒体の役割の中で、重要と見做されていたのは、速報ではなく、じっくり時間をかけ、集めた情報に基づく、記録番組だろう。虚構でなく、現実を、そのままに映し出すことで、視聴者に、ある考えを、伝えようとする。これまで、多くの番組が、高い評価を、得てきたが、今回の騒動では、大きく違う事情が、別の問題を、暴き出したように感じる。世界が、狂ったように、異常事態に進む中、作られた番組では、各国の事情を、伝えていた。その中に、欧州のある国の、親子の姿があり、久しぶりに学校に、通う娘の姿を、先生に撮影してもらい、それを見た母親が、娘に尋ねる場面があった。級友が、誰も居ない教室で、一人勉強する姿に、驚いた母親は、学校で友達と何をしたか、尋ねてみたのだが、誰とも手を繋ぐことも、近づくこともできない、との返答に、自分の時代には、罰として、そんな目に遭ったことを思い、娘が罰を受けている、と感じているのでは、というものだった。普段なら、可哀想と思うだろうが、今はどうか。自分達も、似た境遇にあり、同情とは異なる、感情が湧いてくる。だとしたら、この番組は、事実の上に、何を伝えたいのか、加えるべきだろう。無責任としか、感じられなかった。

(since 2002/4/3)