パンチの独り言

(8月24日〜8月30日)
(血を継ぐ、天秤、終幕、切り札、不信、日常回帰、忘却の彼方)



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8月30日(日)−忘却の彼方

 歴史は、繰り返す。と言っても、多くは、人間の愚かさと、懲りなさの、表れとしての、反復なのだ。だが、今回の騒動が、始まった時、世界中で、二つの歴史的出来事が、思い返されていた。黒死病と、スペイン風邪という、世界的な疫病の、大流行の歴史だ。
 前者は、ペストと呼ばれる、細菌を病原体とする、感染症であり、世界的流行ではなく、その殆どが、今回の騒動でも、大きな被害を出した、地域に蔓延した。200年以上前に、市民を、恐怖の底に、落とした疫病は、衛生状況の悪さが、大きな要因とされ、流行地域の水源の問題が、疫学により、明らかにされた、と言われるが、収束の要因は、明らかではない。後者は、インフルエンザだったとされ、ウイルスを病原体とする、感染症であり、世界的に、爆発的流行が起きたとされ、今でも、その事例の典型として、様々に引用される。こちらは、感染による反応が、免疫の獲得となり、それが、収束の要因だった、と考えられているが、確証は無く、これを根拠として、集団免疫の獲得こそ、唯一の手立てとする考えには、数々の異論がある。どちらの例も、多くの死者を出し、甚大な被害を、及ぼしたとされ、衛生管理の問題が、世界的課題となったのは、これらの歴史的事例が、あったからだとされる。しかし、ここには、大いなる誤解がある。実は、衛生状態の問題は、こんな大事件ではなく、日常的なものとして、重視されているのだ。世界的に、乳幼児の死亡原因の、最大のものは、病原体による下痢であり、病原体に、汚染されたものを、飲食することにより、起きている。何れにしても、対策として、衛生状態を、改善することは、不可欠だろうが、今回の感染症には、何が必要なのか。巷で行われる、馬鹿騒ぎには、呆れるばかりで、それが、たった一つの方法、などと宣う専門家達は、無知の極みでしかないが、では、何が必要か。歴史が語るように、以前と変わらず、少しの注意を、払うだけで、済ますことを、第一とすべきだろう。誇大広告の悪影響を、払拭するには、ただ、忘れるだけで、いいのだ。

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8月29日(土)−日常回帰

 共に暮らす、という掛け声に、大衆は、どんな思いを、抱いているのか。新たな生活様式が、必要となる、と話題に上るが、どんなものか。変化を求める人には、明るい未来と、映るようだが、如何わしくも見える。理由は、簡単なのだ。今の混乱が、続くからだ。
 不慣れな扱いに、不自由を感じる人が、多いのは事実で、それが、なお、続くことになれば、どんな気分に、させられるか、戸惑うのは、当然のことだ。一方で、変化を求める人は、更なる変化が、起きてくれれば、この閉塞感も、打開できると思う。本当に、そうなるかは、誰にも分からず、掛け声を、上げている人でさえ、何が起きるのか、理解できていない。その不安を、解消するために、明るい未来が、必ず来ると、訴える訳だが、現状からは、何も見えてこないのだ。だったら、どうすべきか。実は、簡単なことだ。改めて、考えるまでも無く、長い歴史の中で、数ある病原体と、人類は、戦いを行なってきた。その中で、共に暮らすとは、当然のことであり、何の新しさも無いのだ。だとしたら、今回のものは、何が違うのか。これまでの暮らしを、大きく変えることが、共に暮らす為に、不可欠なことだろう。だが、今まで通りに、でも、この病気になれば、治療が必要、と考えるのが、共に暮らすことなのではないか。これだけなら、誰でも、今すぐに、できるだろう。なのに、あれもこれもと、やるべきことが、挙げられて、厳守せよと、強制される。少し考えれば、誰でも、理解できることだが、今の騒動は、理解不能と映る。どこが、おかしいのか。死への恐怖が、盛んに喧伝されるが、その数は、予想程には膨らまず、今や、減少に転じている。ならば、他の感染症と、大差無いと思え、何故、これだけを、特別視せねばならぬのか、分からないのだ。その異常さに、多くの人々が、気付く中で、掛け声の中身は、異様でしかない。それなら、今まで通りで、良いのではないか。

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8月28日(金)−不信

 科学者は、不確実なことは、断定せず、あくまでも、可能性の話として、説明を行う。これが、大衆受けせず、批判の的とされたことは、何度も起きた。原発事故の際には、それが強まり、時に、個人攻撃にさえ、至ったと伝えられる。研究とは、無関係なことで、だ。
 その際に、重用されたのは、研究は行わず、社会問題として、これらの事象に関わってきた、自称科学者達で、学会では、鼻摘まみ者とされ、極論として、無視されてきた持論を、ここぞとばかりに、主張していた。命に関わると、脅された大衆にとって、彼らの話は、傾聴に値すると、見えたのだろうが、感情に訴える、非論理性では、すぐに、御里が知れてしまった。警告のようには、何も起きず、すぐに飽きられたが、あれが、彼らの人生の、頂点だったのか。それとは、大きく異なる状況が、今回の騒動では、作られている。専門家と呼ばれる人々が、次々に登場し、恐ろしさを、声高に訴える。本来なら、科学に携わる者なら、いつも通りに、可能性しか示さず、煮え切らぬ話に、終始する筈が、今度は、全く違っていた。死への恐怖は、大衆にとって、何よりも強く、逃れたいと願うのが、常となっている。毎度お馴染みの、場面演出だが、今回の登場人物は、賛否両論ではなく、暴走車に乗ったものだけでなく、後押しする者まで、加わっていた。何故、彼らは、あれ程までに、自信たっぷりに、断定的な話が、できたのだろうか。はじめに書いたことから、思い当たるのは、これらの専門家達が、科学者とは異なる人種、ということだ。様々な可能性を、検討した上で、これまでに起きたことから、次に起こることを、推測するという、科学の常道とは、明らかに異なる道を、爆走する人々は、あの活動家と、何の違いも無く、騒ぎを、大きくするだけの、役割を持つ。そろそろ、自作自演のお芝居も、終演が、近づきつつある。筋書き通りに、運べばいいのだから、気楽なものだろうが、信に能わず、となるだけだ。

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8月27日(木)−切り札

 大々的に、撒き散らされた、恐怖は、そう簡単には、収まりそうにない。病気の収束を、望む声の一方で、数字の変遷を、眺めれば、解りそうなことも、植え付けられた恐怖に、震える人々には、容易なことでは、ないらしい。恐怖を、広げる意図は、無かっただろうが。
 それでも、感染症の恐ろしさを、理解させねばならぬ、という目的で、次々と、編み出された方策は、その殆どが、過剰反応に基づき、効果の程も、期待できないもので、世界各地で、同じ状況が、同じ変遷を辿り、それぞれに、数字の大きさだけを、流布することで、更なる恐怖を、広げてきた。しかし、その実態は、空騒ぎでしかなく、他の病気で、亡くなる人の数と、大差ない状況が、徐々に、見え始めてきた。こちらからすれば、そんなことは、端から分かっており、馬鹿げた騒ぎを、広げることに、躍起となった人々の、愚かさだけでなく、彼らの嘘を、見抜けなかった大衆は、ここに来て、突然の方針転換に、戸惑い始めている。周りにも、そろそろ幕引きの時、と伝えているが、誰も彼も、その言葉への期待は、あったにしても、頭から信じることは、できないと訴える。それ程に、恐怖の拡大戦略は、期待以上の効果を、生じたということか。嘘でも、実でも、信じさせたければ、恐怖感を催させ、繰り返し、刷り込むことが、如何に重要かは、今回の騒動で、十分に確かめられた。しかし、この手法は、ある欠陥を持つことに、注意が必要だろう。今は、その時ではないが、騒ぎが収まり、日常を取り戻すと、大衆は、嘗ての恐怖を、すっかり忘れるだけでなく、その悪影響のみを、心深くに刻むのだ。効果的だからと、何度も使えば、その力は、徐々に減退し、最後には、何の影響も、及ぼせなくなる。死への恐怖は、特に、強力なものだが、後遺症も、重篤なものとなり、失われた信頼は、二度と戻ってこない。生死の境では、そうしてでも、生き延びることを、選ぶべきだが、こんな茶番では、その深刻さには及ぶ筈もない。

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8月26日(水)−終幕

 何事にも、専門的な見地が、必要である、と言われるが、どうだろうか。今、世界に蔓延する、混乱の根源は、まさに、専門家達の見解が、誤っている為であり、それが、露呈しているのに、いつまでも、自分達の考えに、固執する人々の、愚かさが、混迷を増している。
 こうなると、素人考えも、ことによったら、通用するかもしれない。本来は、専門的な見地は、あらゆる可能性を、検討した上で、導き出されるから、多面的な解釈が、施されている。だが、例の世界機関を、先頭に、感染爆発に、拘る人々は、現状把握を怠り、結果の分析さえ、筋書きに沿ったものだけを、拾い出すことで、歪曲された結論を、恣意的に、提出している。本来なら、科学的見解は、一つとはならず、多種多様なものを、比較検討することで、妥当な結論を、導き出すが、結論ありきの論法が、罷り通っている。一つには、死への恐怖を、煽り続けることで、拒否できない環境を、作り出した為だが、一方で、反論を、妨げる空気が、出来上がったことも、大きな要因だろう。これまで、ウイルス感染症で、一度も、行われたことのない、検査方法が、唯一の頼りとして、世界に広まったが、その成果を、どう分析するかは、誰にもわかっていない。確かに、検査により、数値は、導き出されるが、その変動が、何を意味するかだけでなく、陽性とされた人間が、どんな状態にあるかさえ、見極められぬままに、数字だけで、解析を進めれば、間違いは、必ず起きる。にも拘らず、依然として、同じことを繰り返し、まるで、それが、正しい答えを、導いているかの如く、伝えることは、大いなる欺瞞であり、大衆を、欺く行為と言うべきだ。科学に携わる人間は、事実に基づき、自らの見解を、手直しするのが、常だろうが、あの連中は、兎に角、自分が描いた筋書きに、沿った展開を、見せ付けている。だが、所詮、三文芝居であり、早晩、幕を下さねばならない。

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8月25日(火)−天秤

 教育現場の混乱は、甚だしいものと、なっている。そのことへの懸念は、眼前の恐怖を、打ち消す程には、強くないようだ。だが、その影響が、表面化するのは、恐らく、彼らが、子供を持ち、育てる頃になる。今、社会を操る人々には、関係ないことだろう。
 だから、という訳ではないだろうが、命より大切なものは、無いとの訴えが、重苦しい空気を、満たしている。それも、自分のことより、他人のことを、という訴えは、いい大人ならまだしも、子供達には、重圧としか、なっていない。社会の規範を、教えることや、集団行動の大切さを、伝えることが、教育現場で行われる、最初の役割だが、これが、蔑ろにされている、と感じる人は、多いと思う。だが、声を上げられない空気が、作り上げられた中では、ただ、寡黙を通すしか、手立てが無い。にしても、小さな声が、上がり始めており、人々は、この異常事態の、悪影響の大きさを、認め始めている。命という、天秤に掛ければ、何よりも、重くなるものが、どれ程のものかを、日々発表される数値から、推し量ることで、社会に蔓延する、欺瞞の正体が、徐々に、その姿を現し始めたのだ。馬鹿げた騒動は、まだ続くだろうが、それとの付き合いは、個人の判断で、決めればいい。そんな簡単なことさえ、許さぬ状況は、非常事態であり、それに見合うような、実態が伴わねば、詐欺の一種としか、ならないものだ。その片棒を、担ぐことを、よしとするか、それとも、目を覚まして、人間らしい生活に、戻るのか。自分で、判断すればいい。本当の非常時なら、こんなことは、許される筈ないが、今の状況は、それには、程遠いだけで、空騒ぎが、横行するだけだ。誇大広告じみた、非論理的な嘘が、喧伝される中で、どんな判断を下すかは、人それぞれだ。文化的な活動も、その為に必要なら、参加すればいい。気をつけるのは、普段から、当然のことだ。何故、そんなことが、判らない。

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8月24日(月)−血を継ぐ

 子は宝、と言われるが、今の状況は、どうか。この星に、棲む生物で、永遠の命を、保つものはおらず、種の存続には、次の世代を、産み出すしか、方法はない、と言われる。それこそが、この言葉の意味、と捉える人も居るが、本当に、そんなことを、考えたのか。
 そうではない、と思う。別に、生き物として、繁栄を続ける為、などと思わずとも、次の世代を、担う子供達を、大切に育てる必要を、伝えたかっただけだろう。宝物として、飾ることではなく、大切に、教え育むことで、血筋を守ると共に、社会全体を、平穏に保つことが、頭に浮かんだのだ。そんなことを、思い出しつつ、今の社会の混乱を、眺めてみると、実に、恐ろしいことが、起きていると思える。子供を大切にする代わりに、彼らに、年寄り達への配慮を、強いる空気が、押し付けられている。社会全体を、考えることが、大切だとする考えには、大きな歪みがあり、自分より、他人を尊重する考えを、命を道具として、伝えようとするのは、如何にも、残酷な考えに、思えてくる。伸び伸びと育ち、次代を担う人材として、成長する姿を、見守ることこそが、子は宝、という考えの、根源だと思うが、それを、取り違えた人々は、社会の治安を、守る為と称して、いたいけない子供達に、重圧をかける一方で、その年代で、学ぶべきものや、その機会さえ、奪おうとしている。この事態に、恐怖に震える人々は、立ち上がることもできず、逃げ惑うばかりとなる。一体全体、どうなってしまったのか。長い歴史の中で、こんな状況に、陥ったことは、殆ど無いだろう。だからこそ、精神的に追い詰められ、保身に走る人々は、宝である子供を、放り出して、あらぬ方に、向かっている。そろそろ、正気を戻さねば、大切なものを、全て、失ってしまう。命さえ、守れればいいと、考えているのだとしたら、取り返しのつかない、大きな過ちを、犯すことになる。

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