パンチの独り言

(8月31日〜9月6日)
(一条の光、悪魔の囁き、近視眼、群盲評象、記録、一瞬、救いの声)



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9月6日(日)−救いの声

 騒動が、始まってから、半年程が、過ぎた。その間、この国だけでなく、世界各地が、恐怖に襲われ、数々の制限が、押し付けられた。中でも、精神的な圧迫は、想像を絶する程、強められ、人々の心は、苛まれていった。人に会うことさえ、憚られる状況は、異常でしかない。
 その騒動の発端は、何度も取り上げたが、例の世界機関である。その指針に従い、各国の政府が、行動制限の方針を、定めてきた。一部の国は、指針に従わず、独自の方針を、編み出したが、両者の結果から、極端な違いが、起きていないことが、分かる。恐怖の拡大の、支えとなった人々は、どの国でも、異常な程の活躍を、見せてきたが、この結果を、受け入れようともせず、頑なに、同じ路線を、驀進している。感染症の本質を、理解する気も無ければ、その力さえ無い、自称専門家達は、無能さが、暴かられることを、殊更に恐れ、自己否定は、禁忌となっている。だが、彼らの横暴は、庶民の精神を、蝕むことへと繋がり、現状からは、その回復には、かなりの時間がかかる、と言われている。騒動が、始まった頃には、海の向こうの大統領のような、異常者には、無理だとしても、欧州の女性首相には、冷静な判断が、期待できる、と書いていたが、この状況では、大衆の心を、癒すには力不足だろう。ましてや、騒動を拡大させた、専門家達にも、その力は、備わっていない。何しろ、科学者にあるまじき、非論理を、撒き散らした張本人だからだ。でも、この荒廃を、一気に晴らす手立てが、無い訳ではない。嘘八百で、世界を、恐怖のどん底に、落とした張本人達が、自らの過ちを、あっさりと、認めた上で、この感染症の恐怖は、自分達が作り出し、捏造したものだと、明言すればいいのだ。その上で、これまでの生活と、ほぼ同じものを、続けることで、何の問題もなく、ただ、発症した時に、正しい治療を、受ければいい、と断言すればいい。それだけで、大衆の恐怖は、打ち消せる筈だ。

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9月5日(土)−一瞬

 自然災害が、起こる度に、登場する役所を、知っているだろうか。地震、大雨、台風、その度に、状況説明と解説を、施してくれる。と言うと、如何にも、有り難い存在、と思うかもしれないが、どうも、そうでもないらしい。彼らが、施した説明で、苦しめられるのだ。
 例えば、集中豪雨が、起きそうな時、どんな言葉が、飛び交っただろうか。如何に、甚大な被害が、生じるかを、誰にも分かる、衝撃的な表現で、伝えようとする。伝達が、第一の目的であり、その後の影響には、目を向けようとしない。だが、世間では、衝撃の後遺症に、苦しむ人が、多く出ており、その症状を、表す呼称さえ、登場しているのだ。衝撃が、大きければ、大きい程、その傷は深く、回復には、時間も手数も、かかると言われる。それでも、命の危険より、という想定から、言葉の勢いは、増すばかりであるのは、これまでにも、取り上げてきたことだ。これで、信を得れば、今後の災害でも、便利に違いない、とばかりに、次々に、繰り出される新表現は、馬鹿げたもの、大袈裟なもの、数々登場し、消えていった。その中で、結局は、切り札となるものは、見つからず、手詰まり感が、強まるばかり。一方、予測は不可能、と断定された、地震への対策は、直前の警報で、置き換えられたが、誤報が、出てしまうのでは、何とも情けない。焦りは、様々な形で、現れ続け、その度に、新機軸が、試みられる。今回も、その一つだが、騒動でしかない。台風は、そう呼ぶには、基準が設けられ、最大風速で、決めるとある。台風の周囲に、描かれる円も、最大風速の値で、決めたものだ。一方、最強とか、最悪とか、仰々しい表現で、伝えられるものでは、瞬間最大風速が、引き合いに出される。何が違うのか。瞬間は、あくまでも瞬間だが、前者は、10分間の平均となる。風の強弱について、誰もが知る所だが、随分違うものなのだ。だが、数字の大きさで、衝撃を与えるには、どちらが有効か、すぐに理解できるだろう。

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9月4日(金)−記録

 記録の重要性は、高まり続けている。実は、今に始まったことではないが、何故か、この国では、記録が、見つからないことが多く、その度に、重要性を、再認識するにも関わらず、それが、何度も繰り返される。不思議、としか言いようがないが、それが事実なのだ。
 だが、不思議では、何の意味もなさない。何故、そんなことが、起きるのか。何故、そんなことを、起こすのか。その理由を、明らかにした上で、対策を、講じなければ、解決する筈がない。では、理由は何か。その前に、記録は、本当に、残っていないのか。これまでの不祥事の、おそらく全てにおいて、何らかの記録が、残されている。理由の第一は、それが、いつの間にか、無くなることにある。そこには、ある人々の思惑があり、はっきり言えば、不都合なものを、始末する、というだけだ。今の騒動の最中でも、頻繁に開催された、会議の議事録が、見当たらない、とされた。これは、事実か。十中八九、事実ではない。記録は、様々に、残っており、走り書きを含め、出席者が、何らかの記録を、残している。中には、記憶もあり、それも、重要な記録となり得る。問題は、頻繁とは言え、開催直後に、結論をはじめとして、記録を残す、努力をしたか、という点にある。役所の人々は、自身に役立つ、記録は残すが、議事録という、公式なものに、関わろうとしない。歴史的にも、経験的にも、不都合が、生じてきたからで、一部には、うっかりしたものを、残すな、という不文律さえ、あるようだ。だが、今や、誰かが、書き取らずとも、電子的に、全ての状況を、残すことが、可能となっている。これもまた、不都合の元と、捨てたり、消したりと、様々な悪事の、元となるようだが、簡単に、残せるものだ。記録とはなるが、議事録には、別の作業が、必要となる。それでも、これを残せば、あとは、何とでもなる。なのに、無いと言うのは、嘘も方便、なのだろうか。

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9月3日(木)−群盲評象

 大真面目、という意味では、講じるべき対策が、的外れなのと同じで、感染症の専門家達が、議論する内容も、思い込みに、引き摺られ、思惑だけが、先行するようでは、推測結果や、データの解析も、明らかな間違いを、繰り返すばかりで、信頼は、失われつつある。
 真面目に取り組むことや、努力をすることが、特に、大きく評価される、この国の伝統は、こんな状況でも、主流派の優位を、揺るがすことがない。決定権を、有する組織が、少々の不安定が、あったとしても、自信を、失わない為に、この環境は、大きな支援となる。だが、世界中で、間違いが繰り返され、過ちが、暴かれつつある中、方針転換が、必要なことは、火を見るより、明らかなのだ。その中で、自論にしがみつき、過去の判断の、再検証さえ、行おうとしない人々は、信頼の価値が、失われてしまった。頂点に立つ人間が、その座を退くことに、話題が、集まっているが、今、肝心なのは、全ての人々が、巻き込まれている、混乱の極みを、どう緩和するかなのだ。その為には、頑なに、誤った考えに、拘る人々を、脇へ押しやり、もっと、総合的で、俯瞰的な、見解を示す人々の、意見を伺うことを、始めるべきだ。相変わらず、感染過程さえ、明らかにできず、分析が、進みそうにない状況では、研究の進展を、待つことは、適切ではなく、異なる観点からの、推測に基づく、対策の検討を、始めねばならない。表面的には、厳しい制限の有無が、たいした違いを、生じなかったことは、明らかになりつつある。そこから、見えてくるのは、騒動前の様式でも、被害は広がらず、似た結果にしか、ならない、ということだ。つまり、このような感染症に対し、集団としての、予防措置は、ほぼ無力に過ぎず、各人の初期反応が、全てを、決めている。この理解により、今の愚かで、馬鹿げた制限を、解除できる。何故、これが、理解できないのか。それ程まで、愚かなのか。

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9月2日(水)−近視眼

 あまりにも馬鹿げたことを、大真面目で行う。平時なら、嘲笑の対象だが、恐怖に、押し潰された人々には、他に、方法は無い、と映る。だが、馬鹿は、馬鹿なのだ。どんなに、正当化しようが、非常識であり、非論理的な、手立ての多くは、無駄でしかない。
 だが、恐怖から、逃れる為、という掛け声に、言い返す勇気も無く、渋々、長い物に、巻かれている。今を、やり過ごせば、後は、何とかなる、と思うのだろうが、本当に、そうなのか。緊急事態として、様々な方策が、講じられ、自主的に、という言い訳を、押し付けられて、無理強いされてきた。それも、一時のこと、と思えば、我慢もできる、と思ってきたが、長期化する中、更なる圧力が、かかるとなると、限界を超えた、と思えてくる。それ自体も、大きな問題だが、生活様式の変化、という、不思議な表現で、馬鹿げたことを、押し付けられるのが、後々、大きな悪影響として、残ることこそが、実は、もっと大きな問題なのだ。緊急だからと、様々な手続きが、簡略化されるが、無駄だったものなら、それはそれで、事のついでとして、歓迎しても、いいのかもしれない。だが、肝心なことを、省略するのは、大問題だろう。例えば、教育現場は、この混乱の最中、様々に、酷い仕打ちを、受けているが、更なる追い討ちが、かけられようとしている。それは、将来、現場を支える人間の、訓練という、最重要課題の一つが、緊急の一言で、省いても良い、とされたことだ。混乱が続き、対策を徹底する為に、外部者の参加を、避けるべきとの判断が、そう決断させたのだろうが、愚の骨頂ではないか。何しろ、現場の混乱は、教員の資質の低下が、元凶とされ、再訓練の必要性から、新制度が導入されたのに、今、これから参入する人間に、何の訓練も施さず、何をさせる、というのだろう。同じ役所が、正反対のことを、平気で決める。官僚制度も、この為体では、望みは薄い。

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9月1日(火)−悪魔の囁き

 厳しい言葉を、綴っても、それが届くことは、無いのだろう。そんな思いを、毎日、抱きながら、それでも、綴ることを、辞めない人が多いのは、本当に、理不尽だと思い、明らかな、横暴が、罷り通っているからだ。たとえ、小さな声でも、発したいと思うのだ。
 痛烈な批判も、届かなければ、何の意味も、成さないだろう。だからと言って、無駄なことを、続けることに、意味が無いと思えば、すぐに、静かになるに違いない。だが、社会の小さな声は、その数を、増すばかりで、強さも、同意を得ることで、増しているように見える。以前なら、何かを発したくとも、その手立てもなく、精々、ご近所さんや、家族に向かって、毒を吐くくらいの、ものだったのだが、今は、堂々と、世間に対して、言葉を送ることができる。有名、無名に関わらず、言葉が、届けられれば、その重みは、本来であれば、内容によって、変わることとなる。この辺りの事情は、以前から、殆ど変わらず、依然として、愚かな著名人が、害悪を、撒き散らしているが、それでも、一部には、まともな論争が、起こっている。何度も、指摘しているが、愚者達の言葉の中でも、最凶と思えるのは、無症状の人間が、感染を広げている、というものだ。何の根拠も無く、ただの思いつきで、言い始めたのだろうが、彼らにとって、反論を、打ち砕く為の、最強の武器となった。何しろ、この表現は、誰もが、悪者になり得る、と訴えているのだ。善良な市民にとって、無意識に、悪事に加担することは、恐怖へと、結びつく。それを、十分に理解した上で、この言葉を、掲げた連中は、卑怯者の極みに、違いない。無症状では、自覚できず、その状態で、感染拡大を行えば、今の騒動を、激化させる、悪事となるからだ。人の心を、破壊する程の力が、あるかどうかは、分からないが、これによって、穏やかで、居られなくなった人は多い。だが、よく考えてみよう。これまでの人生で、無意識に、風邪や感冒を、うつしたことのない人は、誰一人として、居ないのではないか。

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8月31日(月)−一条の光

 繰り返すのは、良いことよりも、悪いことの方が、多いようだ。何度間違えても、同じ過ちを繰り返すのは、愚かな生き物の、特徴の一つだろうか。学習のことが、強調されるのは、まさに、その裏返しであり、過去の出来事に、学ぶことなく、同じことを、間違える。
 そんな筈は無い、と考える人は、数え切れぬ程、居るに違いないが、彼らとて、同じ轍を踏むのだ。他人には、わかったような口をきき、偉そうに振る舞っても、所詮、人の性から、逃れることは、できない。少し、違った対応を、示したとしても、結果が、同じになってしまえば、同じ間違いなのだ。ただ、それが、本当の意味での、大過にならぬから、人類は、何とか生き延びてきた。様々な障害が、歴史の上では、起きてきたが、それでも、絶えることが無かった。だからこそ、皆は、今の時を、楽しむことができる。逆の見方からは、様々な対処は、功を奏せずとも、逆効果で、甚大な被害を、及ぼすことが、無かったのだ。だが、今の状況は、どうだろうか。一部の人間が、極端な解釈から、過剰な手立てを、世界中に、押し付けている。戦争などの、国家間の争いであれば、当事者だけの問題、に終わることだが、これは、世界中を、巻き込む形で、混乱の極みを、来しているのだ。命を守る為、という掛け声の下、強制されたことの多くは、真に下らなく、役立たずなばかりか、大きく、深刻な悪影響を、及ぼし続けている。それも、今だけでなく、将来への負債として、後々まで、積み上がるようなものを、築いているのだ。この状態を、強く懸念する声は、様々に、上がってきているが、組織化された動きに、対抗する手立ては、殆ど無いに等しい。愚かな連中を、引き摺り下ろす手立ても、見えない中、諦めに似た空気が、満ちているが、一つだけ、望みがあるのは、繰り返す歴史だろう。

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