庶民、大衆にとって、今の騒動は、どう映っているのか。恐怖の対象、命の危険、様々に、恐ろしさが、先行するばかりで、その実体は、謎のまま、闇の中である。だとして、自分に、何ができるのか。真剣に悩む人も居れば、振り回され、動き回る人も居る。
だが、こんな時だからこそ、考えるべきことが、あるのではないか。自分の為に、何ができるのか、何をすべきか。世間では、他人の為とか、社会の為とか、そんな掛け声が、盛んに、投げられているが、発言主達は、そんなことを、微塵も思わず、好き勝手に、振る舞っている。その正体を、見抜きさえすれば、悩む必要が、何も無いことに、気付けるのだが、元々、そんなこともせず、掛け声通りに、動き回る人々は、右往左往を、繰り返すばかりだ。早晩、精神を病む、とも思えるが、何も考えずに、ただ従うだけなら、悩むことも無く、盲目的に動くだけだから、そんなことも、起きないだろう。だが、社会では、次の問題として、精神障害を、引き合いに出し始め、次の騒動へと、野次馬達は、移動していく。こんなことに、付き合う必要は、ある筈が無い。だとしたら、何をしたらいいのか。まさに、自分の為に、何ができるのか、考えるしかないだろう。自分中心とか、自己中心的とか、これまで、散々に、批判されてきた行為で、少し躊躇いを、覚える人もいるだろうが、まずは、自分の為に、何が必要かを、考えてみることだ。したい放題、とは言わないが、他人の為という、馬鹿げた考えを、捨て去ることで、ずっと気楽になれる。それも、外圧によって、押し付けられたことより、自分で考え、自分で決めれば、精神的な安定も、健康さえも、手に入れることができる。でも、死に至る感染症が、と思う人は、そのまま、泥舟に乗り、破滅への道を、進めばいい。自分にとって、何が大切かを、考えてみれば、答えは、簡単に見つかる。気楽に過ごそう。
潔さに、憧れるからか、それとも、単に、正直なだけか。できないことは、できないと、答える人が、増えているような、気がしている。無理難題を、押し付けられ、それに、苦しめられるくらいなら、さっさと、解放されたい、と願い、その思いを、吐露しているだけ、と。
この言葉を、投げられた時、どう反応するか。努力もせずに、何を言うのか、と立腹する人も居れば、それを受け止め、更なる支援の必要性を、痛感する人も居るだろう。教育現場では、人それぞれの、反応が出てくるようだが、では、実社会では、どうだろうか。注文を受け、検討した上で、製品として、完成させる。新製品を、自分達の力で、開発するのと違い、受注生産では、注文主の期待に、応える必要がある。しかし、内容によっては、要望通りに、作り上げることが、難しく、時に、できないとの返答を、せざるを得なくなる。だが、それが、不可能かどうかと、できるできないには、大きな違いがある。発注する側は、何らかの目的で、その製品を必要とし、それができねば、目的は達成できない。となれば、できなければ、話にならず、早々に、撤退することとなる。初めから、不可能なものが、要求されれば、受注段階で、断念を伝えることが、できるだろうが、できそうに思えたが、実際には、技術革新を必要とし、簡単ではないことが、徐々に、明らかになる場合もある。そんな時、技術者は、つい、できません、と言ってしまう。潔く、正直な態度に、好印象を抱く、という発注者が、居るかもしれないが、目的は目的であり、その実現を断念すれば、こちらの商売は、成り立たなくなる。この辺りの、鬩ぎ合いは、様々な所で、起きており、ある意味、日常茶飯事となる。だが、その成否が、鍵となるなら、諦めるよりは、続けることを、選びたくなる。でも、目の前の技術者は、無理の一点張りだ。さて、どうしたものか。どちらが、折れるべきか。明白に思うが、今の世では、そうでもないらしい。
発表を聴いて、ほっと、胸を撫で下ろしたろうか。はたまた、油断禁物、とでも思ったろうか。日々、発表される数値に、一喜一憂を、繰り返すことは、殆ど無くなり、騒ぎの主役達も、そろそろ、飽きてきたのか、とんと、取り上げなくなった。その中で、重い腰が、上がったのか。
確かに、数字は、減少傾向を、示している。騒ぎたくとも、騒げない程に、小さくなる数字に、用心深い、というより、脅すことで、有利に働かせようとの、思惑に満ち満ちた、首長達も、仕方なく、重い腰を上げた。目の敵とした、夜の接客業も、この数字では、叩き続けることも、難しくなり、挙げた拳を、下さざるを、得なくなったのだ。だが、恐怖を、撒き散らすことで、注目を集めようとの、目論見だけで、動いていた報道は、興味を失い、冷たい扱いを、始めている。まだ、勢いを、失わぬようにと、恐怖を、取り上げる姿勢を、貫くところは、その手の発言を、巷で、必死になって掻き集め、さも、大事の如く、流し続ける。だが、頼みの綱の数字は、勢いを無くし、落ち着きを、取り戻しつつある。だったら、大衆の気持ちにも、変化が、起こる筈と、考える人も居るだろうが、事は、それ程には、容易くはない。傷付き、乱された心を、癒す手立ては、簡単には、見つからず、脅され続けた結果、糠喜びを、避けようとするものだ。だから、今回の発表で、規制が、緩和されたとしても、調子に乗れば、また、悪者呼ばわり、されかねないと思う。政府や報道が、あれ程躍起になって、脅し続けた結果は、この通りであり、その払拭には、張本人達の言葉では、力不足であり、届きもしなければ、洗い流すことさえ、できないのだ。今週初めに、書いた通りに、恐怖拡散の張本人である、あの世界機関が、謝罪と共に、これまでの見解や方針を、過ちとして認め、収束ではなく、元々、恐怖の対象でなかった、としない限り、心の傷を、癒すことも、こびり付いた、汚れた恐怖を、払拭することも、できないのだ。
決断を、迫られる。検討したくとも、相手が、迫ってくれば、余裕は無い。少し違うが、今でしょ、と言われるのも、決断を渋る人に、対するものだ。確かに、決めるのに、時間的余裕は無く、目の前の問題を、解決しなければならない。だが、決める事は、将来だ。
その違いに、気付かずに、何事も、目の前に、あるもので、決めようとする。将来、どんな変化が、起きるかに、目を向けずに、決めた事の多くは、期待外れ、想定外、となるのが常だ。決断は、確かに、今、この時に、行わねばならないが、決めるべき対象は、先々を見通し、変化を読み切らねば、的を外すことになる。その責任は、決めた人々にあり、その後に、新たに加わった人は、時に、泥舟に乗せられる。近視眼が、忌み嫌われるのは、こんな事情があるからだ。視野が狭いとは、幅広く見渡せず、見落としが、起きることを指すが、それと同時に、時間軸上の視野も、狭いものとなり、過去も未来も、見渡すことがなく、今しか、見えていないのだ。歴史を活かせず、変化を読めない、人々の多くは、こんな間違いを、繰り返す。その結果、失敗を繰り返し、いつまでも、自分の地位を、高められない。ここまで話せば、原因は明確で、それを改善せねば、成功は、夢のまた夢、としかならない。では、何をどうすれば、改善が図れるのか。視野の狭い人間が、何をすれば、広い視野を、獲得できるのかは、何もわかっていない。多くの人が、自分の変化に、気付くことなく、成果を上げて、初めて、何かが変わったことに、気付くだけなのだ。また、上手くいかず、努力を続ける人は、あれやこれやと、様々な可能性を、検討するが、殆ど改善できない。思いつく限り、と言っても、所詮、見渡すことが、できない人間には、遠くも、広くも、できないからだ。これでは、先行きは、暗いままだ。だが、可能性があるとすれば、無駄を知りつつ、失敗を繰り返すことだけだ。突然、視野が開ける、からだ。
日々、使う言葉だが、個人情報とは、何なのか。保護法が、施行される中、情報とは、どんなものか、具体的に、示していたと思うが、さて、理解できたのか。その辺り、かなり怪しい。にも拘らず、人々は、情報漏洩に関して、懸念する意見を、出しているのだ。
具体的に、と言ったとしても、幾つかの項目を、示したに過ぎず、それが、誰かに知られると、何が起きるのか、そちらに関して、具体的な提示は、なかったようだ。これでは、結局、何が、どうして、守られるのか、分かる筈がない。分からないのに、何故だか、人々は、その心配を、口にしている。具体的でない為に、その心配は、過剰に膨張し、騒動は、広がるばかりとなる。今の時代、この手の話題が、多過ぎて、問題を、整理することが、できないままだ。この騒ぎも、他と同じように、実体の無い、怪物のようなものを、思い描くことで、成立している。世界各地で、人々の接触が、厳しく禁じられ、教育現場では、情報の提供や共有に、新たな仕組みが、導入された。そこでは、教室と同様の、内容が提示され、時に、積極的な参加も、可能となったと言われる。だが、導入時、一部に、強い懸念が広がったことは、あまり知られていない。情報漏洩が、深刻な問題として、表面化する、と伝えられ、提供する企業は、その噂を、払拭しようと、躍起になっていたらしい。根も葉も無いものか、それとも、確かな根拠が、あったのかは、不明だが、仕組み自体が、脆弱な面を有し、そこが、攻撃目標となっていたことが、伝えられた。だが、はじめに懸念された、個人情報については、何の問題も、出てきていない。他の仕組みでも、情報漏洩が、度々発生し、伝えられるが、その後の話は、殆ど聞こえず、実態は不明なのだ。同じように、この事例でも、たとえ、漏れたとしても、どんな影響が出るのか、理解している人は、殆ど居ない。なのに、心配だけが、膨らむ。何故、こんなことが、起きるのか。幽霊を、怖がるのと、同じことなのか。だったら、皆で、考える必要は、無い。
違和感を、覚えたのではないか。昨日の独り言は、それまでとは、大きく異なる文体で、話の展開も、違うと感じただろう。ほんの少しのことだが、書き方により、感じ方が違ってくる。文章を作ることの、面白さは、こういう所にも、あるようだ。その為のものではないが。
ほんの少し、未来の出来事を、作り話として、書いてみたが、これこそが、今の窮地を、救う為の、唯一の手立て、だと思う。それをツイートしてみたのだ。一握りの人間が、作り出した窮状を、解消することは、本人達でなければ、容易なことではない。大衆の恐怖を、煽る為に、様々に編み出された、作り話の多くを、否定する為には、確かな証拠が、必要となる。だが、不確定なままで、暴走を続ける地球号は、その為に必要となる、確実な数値さえ、拾い集められない程に、混乱を極めている。その原因を、作り出した張本人達は、ありもしない話を、実しやかに騙り続け、その筋に沿った、非論理的な展開は、大衆の頭に、こびり付いて、離れない。その状況で、焦げ付きを、剥がす手立ては、簡単には、見つけられず、人々は、戸惑うばかりとなる。世界を、制御下に収め、反論を、押さえ込む中で、好き勝手な脚色さえ、施し始めた連中は、自らの責任を、顧みることなく、破滅への道を、爆走している。だが、彼らが思い描いた、筋道は、既に、的を外し続け、折角築いた地位は、崩れつつある。となれば、感染症の終息より、彼らの終焉の方が、先に訪れ、批判の声が高まり、退陣を余儀なくされる。そろそろ、そんな危機感を抱き、世界各国の政府の、目を逸らすことに、躍起となるだろう。だが、そんな保身は、今の情勢に、何の影響も与えず、ただ、問題を、深刻化するだけだ。となれば、あの作り話の如く、過ちを認め、自ら膨らませた、恐怖の正体を、暴く以外に、道は残っていない。他からの否定には、証しが不可欠だが、狼少年どもの嘘には、ただ一つ、嘘を認めることだけが、必要となるからだ。
新型コロナ感染症の問題で、そろそろ決着をつけるべきと思います。そのための唯一の方法は、世界保健機関、WHOが組織として全世界に謝罪をすることです。「私たちは、この感染症が見つかった当初から、その実体を見誤り、間違った対処法を全世界に提言してきました。
今、ある程度状況が明確になる中、感染者(正しくは検査陽性者でした。訂正します)を見つけ出し、彼らを隔離することや、社会全体の動きを制限することが、感染の広がりを止める唯一の手段としたことは、間違いであったことが明らかです。また、この感染症の恐ろしさについても明らかな誤りを喧伝してきました。それによって、大衆に誤った知識を植え付け、過度な恐怖を撒き散らしてきました。現状で明らかなことは、多くの国で百人に一人の検査陽性者が見つかり、そのうち、百人に一人に重症化のリスクがあることです(この点は変わるかもしれない)。この程度の数字は、多くの感染症において記録されており、新型コロナ感染症が特別に危険なものではないことが、わかってきました。まだ、この感染症の感染の仕組みや重症化の仕組みは、詳しくはわかっておらず、それを防ぐための手立ては、見つかっていません。しかし、過度な恐怖から起こされた生活の歪みは、感染症の重大さより、遥かに多大な影響を世界中の人々に与えており、その原因を作った私たちは、重大な責任を感じています。今後は、既知の病原体と同じように、気をつける対象として新型コロナウイルスを考え、生活の上で、注意すべきことを注意してほしいと思います。また、この騒動の中で、ただ一つの解決策として、ワクチン開発を掲げましたが、これについても、研究途上とはいえ、過度な期待を持つことは避けてほしいと思います。何故なら、同じ系統のウイルスを原因とする、SARSやMERSのワクチンもまだできておらず、可能性があるとはいえ、できるものと考えるには、あまりにも不確実なことが多すぎるからです。これまで、事務局長をはじめとして、機関内の感染症の専門家たちが、自分たちの知識と情報網を駆使して、見解を述べてきましたが、実際には、十分な議論や多面的な見解を得たものとは言えず、反省点が多くあります。これらを踏まえて、私たちはこれまでの方針を転換し、新型コロナ感染症に対して、従来のウイルス感染症と同様の対処を行うことが、正当、確実な道であることを宣言します。発症者が多く出た組織においては、組織を閉鎖するなどの措置を取り、それ以上の拡大を防ぐ手立てを講じますが、消毒や検査などに関しては、実施する必要がないことを認めます。以上、大いなる反省の下に、この見解を発表することで、新型コロナ感染症が、終息に向かい、平穏な世界が戻ってくることを約束します。」とでも発表すれば、多くの人は安心して普段の生活を取り戻せます。いかがですか?