パンチの独り言

(9月14日〜9月20日)
(自分の為、次は誰、矛盾発見、愚の骨頂、落伍者、非人道、新技術)



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9月20日(日)−新技術

 今、画面を見つめ、思うことを、書き綴る。昔なら、原稿用紙や、ノートのようなものに、書き綴ったものだが、鉛筆の代わりに、両手指を、動かすことで、頭に浮かんだ文字が、目の前に、現れてくる。溢れるように、とはいかぬが、それでも、鉛筆程度の速度はある。
 考えを、文字にする作業で、人々が、思い悩むのは、どう書くか、ということだろう。毎日、こんな作業を、していると、そこに、悩みは殆ど無い。思い描いたことを、言葉にするのは、口にするのと、同じ調子だからだ。口下手の人には、想像がつかぬだろうが、普段から、語ることを、日常とする人間にとり、その作業に、苦を感じることは、殆ど無い。一つだけ、あるとすれば、言葉が、思い浮かばぬことだ。様相は、思い描けているのに、それを、一言で、表す為の言葉が、浮かんでこない。ある作家は、他人が、長々と説明した内容を、一言で、言い表すことに、長けていた、と言われた。多種多様の言葉を、使いこなすことが、職業上で、必要不可欠なのは、当然のことだが、その仲間内でも、特に、秀でていたとされる。どんな努力を、積み重ねたのか、知る由もないが、晩年の、好き放題の言動からは、その欠片も感じられず、単なる才能、とした方が、いいのかも知れない。さて、そんな作業が、可能となり、それが、一瞬の後には、世界中の人々の、目に触れることとなる。この仕組みは、何とも便利だ。原稿では、大部分の人間にとり、それが、他人の目に、触れることなく、反故になるのは、当然だったが、今は、違っている。ただ、単に、それを使いこなせるか、だけが問題となる。新技術に触れ、その虜となり、多くの人々が、自分の意見を、日々綴ることが、可能となった。唯一の壁は、使えるかどうか、その点にある。新しいものが、出てくる度に、人々は、戸惑いながらも、使い始める。技術とは、使う人がいてこそのもの、自分が、そうなるかどうかは、自分次第だ。

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9月19日(土)−非人道

 弱者救済は、人道的な見地からのもの、と思う人は多い。だが、巷に溢れる、弱者救済には、そんなことを、微塵も感じさせないものも、数多くある。救済を語りながら、私利私欲を、満たすだけのものも、少なくない。それも、公的組織が、先頭に立つものだ。
 公的なものと、私利私欲は、相容れぬもの、と思う人が多いだろうが、実際には、一個人でなくとも、自分の組織の利益を、優先させれば、偏った考えに、基づくものと言えそうだ。こんな事例を、次々と、挙げてみても、何の意味もない。個々の事例を、一つずつ取り上げ、それぞれの問題点を、指摘することで、厳しく批判しなければ、今の誤った風潮を、静めることは、できそうにない。これまでも、話題になる度に、それぞれの問題点を、指摘してきたが、今回のものは、世界機関が、先導して進められ、恐怖を煽りつつ、協力を仰ぐという、まるで、マッチポンプのような、図式の中で、推し進められている。人の命を、大切に思うことは、人道という考えでは、最も重要なものの一つで、そこには、貧富の差は無く、誰もが、同じ権利を持つもの、という理念がある。だが、無い袖は振れぬ、という状況では、先立つものを、集めることこそが、最優先課題となる。そこで、日々訴え続けるが、その効果は、殆ど上がっていない。そこで、次々に編み出された方策の一つが、病気の原因を、捉える形での運動だろう。中でも、伝染病は、誰もが、同じ危険に遭遇し、衛生上の問題を除けば、同様の恐怖に、襲われるものとなる。これまでにも、新型の一言を、付け加えながら、未知への恐怖を、煽ってきた組織は、今回も同様の運動を、展開している。彼らの目的は、誰もが、同じ形の健康を、手に入れられる世界であり、その為に必要な、金集めに躍起となる。その結果、今の世界は、誤った理解と、作られた恐怖が、蔓延しており、誰もが、窮屈な思いに、押し潰されつつある。これこそ、非人道的な暴挙なのだ。

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9月18日(金)−落伍者

 一笑に付すしかないが、馬鹿げたことも、緊急事態の一言で、簡単に押し付けられる。中でも、新しい生活様式、などという言葉が、巷にばら撒かれ、実体が見えぬままに、受け入れざるを得ない、事態に追い込まれた人々は、戸惑うばかりで、立ち尽くしているようだ。
 この新しさには、実は、目新しさは、微塵も無く、馬鹿げさばかりが、目立っていた。これが、一笑、つまり、笑うしかない、と思った理由だが、多くの人々は、大真面目に、実践への準備を、整えようとしていた。後々には、反省も込めて、苦笑いとなるだろうが、今は、そんな態度を示すと、不真面目の一言で、厳しく批判されかねない。まあ、馬鹿げていようが、原因と結果を、専門家と称する、俄者達が、得得と説明すると、如何にも重要なことのように、見えてくるから、不思議だ。ただ、冷静を保っている人間には、愚かさのみが、見えているので、何の意味も無い。それにしても、新しいことに、抵抗を覚える人が、大部分なのではないか。今回の役立たずは、別にしても、これまでも、多くの新技術に、悩まされた人は、沢山居ただろう。この騒動の中でも、接触を嫌うことから、遠隔が、鍵言葉となり、それに向けて、様々に新しい技術が、紹介されている。例えば、遠隔操作において、通信技術を駆使し、あらゆることが、可能となりつつあり、その導入の度に、戸惑う人々が、出てくる。例えば、遠隔講義と呼ばれる、新しい授業形式にも、新たな道具が導入され、その使い方に、戸惑うだけでなく、思考停止に陥る人も、出ている。だが、これらは、それなりに役立つものであり、使いこなすことが、現場に居る人間の、務めとなる。そこで、乗り遅れれば、落伍者の烙印を、押されてしまうのだ。上に立つ人間の多くは、この憂き目に遭い、窓際へと、送り込まれる。変革は、ある世代への不利益となり、若返りが図られる。と思うのは、浅はかであり、この変革は、あらゆる世代に、平等に働く。落ちこぼれは、どこにも居るのだ。

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9月17日(木)−愚の骨頂

 作られた危機の中、愚かな考えが、数え切れぬ程、溢れ出している。災害の最中、様々な噂が、飛び交い、大部分が、根も葉もない、下らないものなのに、人々は、思い悩むが、それと似たことが、作られた危機でも、起きている。どちらも、無価値で、害悪そのものだ。
 中でも、論理を展開し、妥当と思わせる、目論見が含まれ、多くの人々が、最も容易く、騙される主張こそ、有害の、最たるものとなる。今回の事象では、多くの人々が、自粛という名の下に、様々な不自由を、強いられており、その中には、金を払い、何かを手に入れる、そういった行為に対し、以前とは、全く異なる方式が、採り入れられることで、まるで、何かが、手に入らなくなった、と誤解されるものがある。教育の重要性については、ここでも、何度も取り上げ、巷の考え方が、いかに、間違ったものかを、論じてきた。この危機でも、教育を受ける世代が、最大の被害者となり、大人達の、身勝手な考えを、押し付けられ、強い不自由に、閉じ込められたことを、取り上げてきた。だが、流石の勝手ぶりも、限界を感じ、反省したからか、幼子の世代から、順々に、日常を、取り戻してきた。その中で、依然として、放置されているのが、高等教育を、受けている世代なのだ。彼らへの同情は、捻じ曲がった形で、表面化し、それを受けて、意を強くした若者達が、声を上げている、と盛んに伝えている。だが、元々、それまでの、一律で、受動的な学習と、異なる学習が、必要とされており、この危機の中でも、自己研鑽を、積むことに関して、困難はない、とまで言われており、その点への、不平不満は、的外れでしかない。更に、ここでの遣り取りでは、最終的に、資格を得ることこそが、第一となっており、たとえ、方式が激変しても、最終結果には、何の変化も、起きていないことに、一切、触れようともしない。対価、という観点では、何の変化もなく、従来通りの資格を、得られるのに、何故、それに必要な金額を、変更する必要があるのか。愚か者の、愚論に過ぎない。

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9月16日(水)−矛盾発見

 誰だって、命は惜しい。昔から、権力を手にすると、次は、永遠の命を、と望む人が、居たという。しかし、誰も、逃れられない運命は、死ぬという結末だ。どんなに、金を積み、知恵を集めても、逃れられず、受け入れるしかない。唯一の平等、なんだろうか。
 確かに、結末は、逃れることができない。しかし、そうなら、次は、先延ばしを、と望むのだろう。こちらは、平等とは言えず、人それぞれに、恵まれているかどうかで、結果は、違ってくる。但し、全ての場合に、とはいかず、襲われた病によっては、手を尽くしても、大した違いを、作れない場合も多い。そんなことを、思い出したのも、今回の騒動からだ。重症化した時の、唯一の手立ては、血液中に、酸素を送る装置に、繋ぐしか無い、と伝えられた時、大変な事態なのだ、と思った人は、多かったろうが、その矛盾に、気付いた人は、殆ど居なかったろう。独り言を、書いていても、すぐには、気付かなかったが、徐々に、情報が集まる中で、ふと思い付いた。例の感染症が、重症化すると、生きる為に不可欠な、酸素を、身体に取り入れる器官が、機能不全に陥る。そこで、あの装置が、登場するわけだが、別の原因で、同じ症状に陥り、亡くなる人の数が、この国で、毎年12万人居ることが、役所のデータで、明らかとなると、これまで、彼らの殆どに、そのような治療が、行われたのか、という疑問が、浮かんできたのだ。確かに、治療費の問題もあり、装置の数の問題もあり、なのだろうが、だとしたら、今回は、何故、適用されたのか。全国で、使える装置の数は、多くなく、医療崩壊の要因として、紹介されるが、だとしても、何故、これまでは、使われず、今回は、なのか。目の前の患者を、助けられずに、悲しみの淵に落ちた、と話す医療関係者を、取り上げた人々も、同じことが、日常的に、起きてきたことに、目を向けることは無い。こんな矛盾は、他にも数多あるだろう。ただ、目を向けないだけだ。

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9月15日(火)−次は誰

 感染症の恐怖なのか、はたまた、恐怖の感染症なのか。まるで、流行本の題名に、迷っているようだが、実際には、大きな違いがある。どちらに、重心を置くかで、印象が、大きく違うからだ。では、今回の騒ぎは、どちらになるのか。これも、立場によるだろう。
 いずれにしても、作られたものだが、歴史上の大災厄では、どうだったのか。局所的には、確かに、作られたものだった、に違いない。人々が、恐怖に戦き、あれやこれやと、噂に上る。だが、根拠薄弱の噂は、一時的に、急速に広がるものの、後に続く事実がなければ、早晩、忘れ去られる。これまでの事例では、殆ど全てのものが、こういう経過を辿り、伝染の勢いが、衰えるに従い、人々の興味が、薄れると共に、忘れ去られていった。それでも、病気自体が、勢いを無くすまでは、何度も、思い出さされ、その度に、恐怖を感じさせられた。とはいえ、こんなことは、長く続かず、数年のうちには、終息を迎えることとなる。今回も、同じ経過を辿る筈、と語る人々が居るが、彼らの多くは、騒動を、大きくすることに、力を注いできた。自作自演の騒動に、関わった人間の一人が、まさに、結末までも、書いてしまう姿勢に、反吐が出るが、その先頭に立つのは、例の世界機関であり、その頂点に立つ、あの人物なのだ。しかし、勝手に、筋書きを、書き換えるのは、いい加減に、やめておいたらどうだ。これまでの、歴史上の災厄に関しては、その恐怖を、広げる人々が、居たとしても、散発的なものに過ぎず、上にも書いたが、無根拠のものだった。今回は、権威ある組織が、全精力を投じて、確固たる根拠を添えて、恐怖を喧伝し、感染症の伝染より、遥かに強力な、伝播力を発揮したのだ。それにより、恐怖の底に、突き落とされた人々は、簡単には、這い上がれないだろう。その中で、依然として、支配を続けようとする。今度は、彼らを、突き落とす番だ。

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9月14日(月)−自分の為

 個人の範疇では、あれこれ悩まずに、気楽に過ごせばいい、と思う。他人への配慮や、気遣いに関して、強く要求する声が、この機に乗じて、高まってきたが、何の根拠もなく、他人に、自分勝手な考えを、押し付けるだけで、何の意味も為さない。戯言に、過ぎない。
 個人としては、まず、自身を第一にし、それが、悪影響を及ぼさぬ限り、許されるもの、と考えるのが、妥当だろう。だが、悪影響とあるように、時に、様々な歪みを、集団の中に広げる動きが、強まることも多い。今回の騒動でも、個人を抹殺し、集団を優先させる、不穏な動きに対して、過剰な反応を示し、無軌道な行動を、示す人々が居る。自分は、そうではない、と思う人が、大部分だろうが、実際には、反発が過ぎて、全体の均衡を、失わせる動きも、強まっている。海の向こうのように、激しい運動が、強まる中では、ある意味、止むを得ないとも、言えるのだが、それにしても、過激な行動は、避けるべき時だろう。特に、厳しい規制を、かける為に、用いられた、心理的な圧迫は、多くの人の心に、大きな傷を、与えている。その中で、傷に触れたり、時に、弄り回すような、言動を示せば、逆撫となる場合も、多くなるのだ。たとえ、本人が、正論を述べているつもりでも、それが、秩序を乱すこととなれば、全体の均衡は、崩れてしまう。精神的なものを、殊更に、強調する気は無いが、今時は、こんなことが、反撃の口火となり、批判の矢が、飛んでくることとなる。正しいことを、論じているのに、何故、攻撃を、受けるのか、理解できないだろうが、今の社会では、ごく当然のことと、受け止められる。自らを含め、社会全体の危機を、回避する為の手立てとして、何もしないことが、優先されているが、実際には、大きな間違いを、犯しているのだ。危機を、管理する為には、単に、逃げたり、避けたりするのではなく、入念な準備の上で、何かをすることこそが、大切なのだと思う。これも、気楽にやればいい。

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