パンチの独り言

(9月21日〜9月27日)
(やめた、大外れ、異言語、正気の沙汰、既視感、欲の皮、大事)



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9月27日(日)−大事

 正しいことを、正しく伝える。いつの時代も、これが、難しい。発信後の伝播は、大きく異なっていても、その流れに、載せられる情報は、殆どが、塵同然のもので、鵜呑みにしたものから、作為的な嘘まで、確かめてみれば、すぐに判るものから、手の込んだものまで。
 何故、嘘ばかりが、氾濫して、正しいことは、ごく僅かなのか。正しいことは、たった一つなのに、嘘は、山のように、あるからだ。という考えは、確かに、的を射ている。だが、正しいことより、間違ったことの方が、時には、嘘の方が、人々の関心を、集めるのか。その答えは、そこからは、導き出せない。人を惹きつけるのは、その魅力から、だとしたら、そこには、人の気を惹く、何かがあるに違いない。嘘や間違いの方が、面白いから、興味深いから、と答える人の多くは、そこに仕組まれた、罠に気付くことなく、表面的なものに、目が向く。所謂、論理性についても、目を向けず、矛盾があろうとも、意に介さない。面白さだけに、目を奪われるのだ。それが、楽しく生きる為に、必要ならば、それは、仕方ない。騙されたことが、原因となり、命を失ったとしても、楽しんだのだから、と諦めて貰おう。しかし、そんな気も無しに、ただ、騙される人の方が、遥かに多く居るに違いない。だとしたら、騙されぬよう、自分を磨くしかない。一方で、正しいことを、正しく伝える人にとり、いつの時代も、困難が立ちはだかる。それは、相手が、困惑の表情を示し、迷惑な態度を取ることだ。正しいことを、伝える為に、必要な要素の一つに、事柄を、一つずつ、筋道を立てて、説明する必要が出てくる。ここで、相手が、表情を曇らせる。面倒を、背負わされる、そんな雰囲気が、漂うのだ。確かに、嘘の大部分は、直感で理解できる。一方で、正しいことは、その判断に、時間を要する。だからと言って、困惑も、迷惑も、いい筈がない。押し付けでも、広げねばならぬ。

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9月26日(土)−欲の皮

 はじめは、純粋に、科学的な議論だった。しかし、それが、いつの間にか、政治に利用され、人気取りに走る人々は、事実を、捻じ曲げてでも、自分達の主張を、押し通そうとする。科学の世界での、議論であれば、それが続くだけだが、政治では、民が巻き込まれる。
 今回の話も、冷静に眺めると、多くの矛盾が、見え始めている。便利な社会にとって、その源となるのは、何だろうか。多くの人々が、技術革新、と答えるだろう。確かに、新技術が、出て来なければ、便利さは、大きくならない。古い技術は、どんなに工夫しても、新技術の革新性に、敵う筈がないのだ。だが、それより、重要なものが、あるとしたら、どうだろうか。新しい乗り物が、登場した時、大変革があった、と言われるのは、その点にある。動物などの力を借り、人間だけでは、不可能だった性能を、手に入れた時も、大きな変化だったが、それが、機械に替わられると、爆発的な性能向上が、手に入った。それと同時に、必要となったものは、機械を動かす為のもの、つまり、燃料のことだ。最初の頃は、効率が悪いものだったが、それが、徐々に、高効率のものへと、転換されることで、移動速度も、急激に増していった。その便利さは、失いたくないが、その悪影響が、地球全体に及ぶ、という学説から、排除の動きが起き、極みの一種が、禁止という宣言へと、繋がった。だが、あの地域は、その転換に、不可欠となる電気の、供給が、覚束ないと言われる。理由の一つは、別の要素である、発電燃料の問題で、第三の燃料と呼ばれたものを、排除することが、同じく、政策として、決められてきたからだ。個々には、正しいように見えても、成立し得ないことを、描くのは、政では、よくあることだが、早晩、破綻を来す。環境破壊を、常として、発展した国で、正反対の考えが、台頭することで、何が起きているのか。混乱が極まり、破綻が見え始めた。その中で、便利だけは、失いたくないらしい。どうなることか。

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9月25日(金)−既視感

 激震が走った、と伝えられた。何事か、と思う人も、居たに違いない。車は、燃料で動く物、と思っていた人にとって、確かに、驚きだったのかも知れない。しかし、今や、電気で動くのも、あると考える人も、居るのではないか。その中で、禁止と言われても。
 この掛け声は、海の向こうの国の、一つの州から、発せられた。報道は、蜂の巣を、突いたかの如く、騒ぎ立てたが、多くの人々は、我関せず、の反応だったのではないか。製造業に、携わる人にとって、技術革新は、常に不可欠なものだが、その先回りを、した上での約束を、強要されては、堪ったものではない。それが、報道の騒ぎの、真意なのだろうが、はじめに書いたように、今の状況では、激震とはならない、と思える。彼らの能力が、明らかに不足しているのは、この所の、感染症騒ぎで、露呈しているが、ここでも、騒ぐばかりで、何の判断もできずに、いることこそ、大問題であると思う。嘗て、この手の話を、聞いたことがある、と思って、少し調べてみると、丁度30年前に、同じ州が、とんでもない政策を、発表していた。ZEVと呼ばれるものは、世界でも有数の自動車社会を、燃料依存から、再生可能なものへと、転換する方針を、示したものだったが、当時、電気自動車は、影も形もなく、大手企業が、開発に手をつけていたが、実用化は、遥か先と見做されていた。その中で、方針のみが、示されたことで、大きな市場を、失うまいとして、躍起となったが、中で、画期的な技術革新と、呼ばれたのは、合いの子の登場だ。奇策とも言われたが、その後の大流行は、先見の明が、あった言える。その後、本格的な開発が、進んだことで、電気のみの車も、市場に登場した。まだ、強い制限がある中では、全面的な信頼、とは行かぬが、嘗てとは、大きく異なる状況で、この決断を、どう受け取るべきか。当時と今と、全く変わらないのは、政治的な訴えであり、耳目を集める為、だけということだ。これによる利益は、想像上のものに過ぎず、不利益は、見せないようにしている。相も変わらず、疑わしいのだ。

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9月24日(木)−正気の沙汰

 何事も、悲観的に考える人が、悲嘆に暮れて、ふと漏らすのは、誰にも、必要とされていない、という感覚だ。要不要に関して、様々な考えがあるが、他人に、必要とされるとは、どんな状況なのか。考えてみると、これという形は、無いように思える。何気無いものかも。
 そんなことで、思い悩むのは、実は、馬鹿げたことかもしれない。自信が持てず、目標を失い、彷徨い歩くうちに、そんな思いが、過ってしまう。だが、何を、どうしようが、自分という存在は、そこにあるのだ。必要か、不要かは、問題ではなく、単に、存在がある。それによって、何かが起きると、人によっては、必要だったのか、と呟くことになる。突然、こんなことを、書き始めたのは、逆の見方が、頭に浮かんだからだ。つまり、必要の無い人間は、ひょっとすると、本当に居るのではないか。自信の大きさとは無関係に、他人に、認められたい、とか、見て欲しい、とか、そんなことばかり、思い描く人間が居る。自分では、存在価値は、見出だせず、その一方で、他人の注目を、浴びたいと願う、そんな輩のことだ。彼らの多くは、人並みに、物事を修めることも、何かを達成することも、できずに居る。その一方で、自分の能力は、過大評価しており、こんな筈では、と思うらしい。時には、その段階にも、達しておらず、単に、成長過程で、自分の能力を、評価して欲しいばかりに、犯罪に、手を染めるのだ。社会を混乱に巻き込み、多くの人々が、迷惑を被る。そんなことで、自己満足を、得る人間に、存在価値が、あるのだろうか。また、社会は、こんな人間を、必要とするのか。愚か者達は、匿名性を頼りに、次々と、予告や脅迫を、ネット上に掲げている。しかし、今の技術では、そんな保証は、全く無く、一網打尽も、可能だろう。何故、と考えるより、いっそのこと、抹殺してしまえば、と思ったりするのだ。だが、少し考えれば、今の世界の混乱を、招いているのも、よく似た人間の、妄言によるものだ。狂気は、何処にもある。それを、押さえ込む、正気こそが、今必要なものだ。

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9月23日(水)−異言語

 技術の発達を、疑う訳ではないが、現実を、眺めてみると、まだ初歩的段階で、期待が大き過ぎる、と思えることも多い。ただ、日進月歩の状況では、そんな日々は、あっという間に、過去のこととなり、技術の高さに、圧倒されることが多い。急速化が、著しいのだ。
 最近の話題は、人工知能の発達で、まるで、万能の如く、扱われることが多い。しかし、得意な分野は、別として、依然として、不確定な方が、遥かに、多数あることに、気付くべきだろう。ただ、これまでの流れから、想像すれば、こんな状況は、あっという間に、過去のこととなる。そんな変化に、何度も、苦汁を舐めてきた人は、数え切れぬ程居て、職を失ったり、閑職に、追われたりしてきた。次は、と戦々恐々となっても、仕方のないことで、起きた変化に、どう応じるかこそが、肝心となる。先日、世界機関の代表が、謝罪しない限り、この混乱を、解決することは、できないだろう、という趣旨で、疑似記者会見を、記してみたが、これについては、本来であれば、万国共通語で、書くべきものだろう。そこで、久しぶりに、自動翻訳を、使ってみた。人間が、行うのと違い、機械は、あっという間に、仕事を終える。が、しかし、以前だったら、意味不明な文章が、並んでいたものだが、今回は、ざっと読んでも、それほどの違和感を、抱かずに済んだ。一部、人称の問題や、言語による表現の違いが、目に付いたが、それ以外には、無難な翻訳だった。早速、囀りの方に、転記したが、眺めてみると、より長い物語に、なっていたようだ。言語の違いは、言葉の違いとなり、文章の長さも、異なってくる。多分、逐次翻訳ではなく、意訳をすれば、同程度の長さのものに、なっていたのだろう。それにしても、母語とする人々に、通じるものかは、こちらには、想像がつかぬ。しばらく待てば、反応が出てくるか。にしても、進歩は、著しいものだ。

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9月22日(火)−大外れ

 教育における、対価の対象とは、何だろうか。公的教育が、脆弱なものと、なっているとの批判が、国内外で、起こっている、と言われるが、十分な体制が、整えられており、そこに、不足は見つからない。にも拘らず、脆弱との批判は、何故、起きるのだろうか。
 簡単には、学力不足、という問題だろう。だが、これとて、どんな比較で、決められたものか、怪しげな気がする。世界共通の、統一試験によって、判断している、と言われているが、言語の違いが、歴然とある中で、同じ問題でも、表現の仕方が、異なってくるのは、当然のことだ。その上に、文化的な差異が、加わることで、平等性、公平性は、損なわれる。そんな基準を、頼りとして、教育水準を、論じることに、誰も異論を挟まないのか。国民性からか、批判されることで、逆の意味の安心を、得る心理がある、と言われるが、それを基本として、その先の議論が、出てくるのでは、あまりに、いい加減な話にしか、ならないだろう。一方、高等教育となると、更に、話は複雑となる。一定の指標が、ある訳でもなく、一定の到達点が、存在する訳でもない。その中で、どこに、目標を置くのか、大きな問題となる。これが、対価の対象となれば、もっと真剣に、議論すべき問題だが、出費のことしか、頭に浮かばない人々には、実は、どうでもいいこと、なのではないか。高等教育は、社会の要請から、整えられた側面が、今は、大きくなっている。つまり、大卒資格を、要求する側と、それを、頼りとする側が、居るからこそのものなのだ。だとしたら、対象は、卒業自体であり、勉学という、本来の目的は、失われたと言うべきだ。だが、世の中には、そんな情勢でも、意欲を持つ人々がおり、彼らにとって、大学の存在は、その欲求を満たす為のもの、となるのだ。但し、ここに、一つの大きな違いがある。大学での勉学は、それまでの受け身のものではなく、能動的で、積極的なもの、という点だ。これは、対価と見合うものではなく、別物と見るべきだろう。今の騒ぎは、この点で、的を大きく外している。

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9月21日(月)−やめた

 お前の書いたことは、間違っていた、との声が、聞こえてきそうだ。世界でも、厳しい制限が、緩和され、季節も手伝って、人々の往来が、激しくなったことが、伝えられる中、予想通りか、予定通りか、陽性者の数が、急増して、次の波が、襲っている、と伝えられる。
 その中で、準備された舞台に、人々は、続々と集まり、その上で、演技に興じる。現実世界では、長期の休み中に、無理矢理、閉じ込められた反動が、連休という機会に、一気に、噴出したと言われる。だが、実際には、ほんの一握りの、人々にしか、そんなことは、起きておらず、多くは、依然として、恐怖に縛られ、動きが取れずにいる。しかし、騒ぎを大きくしたい連中は、この時ばかりと、大袈裟に取り上げ、現場での喧騒を、過剰表現し続ける。これも、予想通りであり、予定通りであることだが、彼らは、自分達の過ちが、露見することを恐れ、何としてでも、筋書き通りの展開が、起きるように、仕立て上げている。歴史的には、こんな愚行は、愚かさの極みとして、語り継がれるだろうが、当人達は、そんな後々のことに、思いを、馳せることさえなく、今の地位や力を、失わないように、と腐心する。この騒動が、どう展開するかは、ほぼ明らかだろう。そして、再び、恐怖のどん底に、突き落とされるとしたら、何の為の騒ぎなのか、さっぱり、わからなくなる。そこまでは、読み切れる人が、沢山居るに違いない。しかし、それが、繰り返し起きたとしたら、どんなことになるのか、理解できる人は、殆ど居ないだろう。その代わりに、騒ぎの浮き沈みに、一喜一憂を、繰り返すだけのことだ。では、パンチの書いたことは、間違っていたのか。依然として、こちらの見方は、大きく外れてはいない。このまま、下らない騒ぎが、続くだけのことで、その波の繰り返しが、人々の心の疲弊を、積み重ねるだけだ。これを、打ち破る手は、やはり、あれしかない。

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