パンチの独り言

(10月5日〜10月11日)
(差の根源、事実無根、合掌、未知と無知、世迷い言、学問の欠点、見直し)



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10月11日(日)−見直し

 作り出された大騒動で、世界的祭典が、延期された。しかし、この騒動が、空騒ぎでなく、真に危険なものを、避ける為に、必要なことなら、延期どころか、こんな催し自体が、行える状況に、落ち着く筈がなく、中止こそが、妥当との意見が、正しいものとなる。
 いや、感染を、未然に防げる、予防接種が、開発されれば、との声があるが、この病原体では、従来、そんなものが、できたことがなく、可能かどうかさえ、わからぬ状況では、期待するのも、どうかと思う。では、こんな催しどころか、世界を、行き来することが、できなくなるのか。原点に戻れば、騒動の元となった、馬鹿げた考えを、改めさせすれば、以前と同じように、人の往来は、可能となるだけで、騒ぐこと自体を、止めるだけで、何の問題も残らない。単に、他の疾病と同様に、感染時の備えを、しておけばいいのだ。でも、重症化の恐怖が、という考えも、これまで同様、肺炎への対症療法を、改善する努力を、続けれることが、唯一の手段であり、感染を防ぐことは、対効果を、今回の騒動から、導き出せば、無駄でしかない、という結論に達する。普段通りに、体調を整えることこそが、結果として、発症しないことに、繋がるのだ。そう考えれば、簡単なことだろう。この風潮で、世界的往来が、禁じられることで、様々な被害が、生じていると言われる。遥か昔のことだが、経済成長が、著しくなる頃には、国の成長にとって、外貨獲得こそが、早道と言われていた。今の状況は、全く異なるが、その一方で、経済も、人口も、成長が止まった中で、期待できるのは、外からのものだけ、とでも言うように、海外からの観光客を、誘致してきたが、この情勢では、何もできなくなった。確かに、危機の一つだろうが、逆に、考え方を、見直すいい機会、と見るべきではないか。

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10月10日(土)−学問の欠点

 騒動が、始まって以来、何度も、その学問分野の話を、書いてきた。疫学という分野は、集団の中で、ある病気が、どのように伝染し、蔓延していくかを、研究するもので、その知見を用いて、予防の手立てを、図るのが、主な役割、とされている。さて、今は、どうか。
 一方で、公衆衛生学、という分野も、この騒動の中、何度も、取り沙汰されており、門外漢にとり、その区別は、明確ではない。どちらも、医学の一分野なのだが、疫学が、専ら、疾病の蔓延を、医学的な手段で、防ごうとするのに対し、公衆衛生は、それに留まらず、政治的な手段も含め、あらゆる手段を用いて、予防を目指すもの、とされている。本来、流行感染症が、広がり始めた時、その状況を、まず把握してから、医学的な見地に基づき、その実態を、推測することが、最初に行われる。その上で、どんな手立てが、必要となるかを、決めていくのだが、その過程では、初めに、疫学的な調査があり、そこから、導かれた結論を元に、医学的な対策を講じる一方で、集団の行動を、制御する為に、政治的な対策が、講じられていく。本来、両輪が、働いてこそのものだが、今回の騒動の間違いは、ロクな調査も無しに、推測だけで、実態を見極めたこととし、それに基づき、医学と政治が、相互協力なしに、勝手な動きをしたことで、混乱を、極める結果を招いている。元凶は、発信源にあり、何度も繰り返されてきた、過剰反応が、今回は、以前にも増して、誇張されて、流布された。機関に属さぬ、研究者達も、加担する者あり、様子を伺う者ありで、歯止めになり得ず、ここに来て、批判の声が、出て来てはいるが、どうも、歯切れが悪い。理由の一つは、疫学、公衆衛生が、病気の蔓延にしか、目を向けず、その危険度自体を、把握しないからだ。多くの病気を、対象として見極め、判断することの大切さを、幾ら訴えても、肝心の感染症が、月並み以下のものでは、気にする必要はない。そこに目を向けないままでは、やはり、過ちを犯すだけなのだ。

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10月9日(金)−世迷い言

 故人の遺志に従って、設立されたものだが、それから、一世紀を超える歴史を経て、科学の分野では、最高の地位を、得ていると言われる。毎年の騒ぎで、その度に、辟易する人も、多いのだろうが、このご時世では、明るい報道を、望む人も、居たのではないか。
 その期待は、裏切られたようだが、まだ、残っているものが、あるとの声もある。ただ、残りのものは、科学とは無関係で、一つは、遺志に含まれていたとは言え、政治的なものに、過ぎないし、もう一つは、遺志とは、無関係なものだ。特に、前者は、選ばれる度に、物議を醸し出し、話題に事欠かないもので、海の向こうの、前の大統領も、受賞理由は、幻と化し、逆行する動きに、批判が高まったことは、記憶に新しい。今の人間も、一時、そんな噂が、飛び交ったが、その理由さえ、忘れ去られただろう。あの頃の、幸せそうな顔には、今の苦渋の兆しは、一切、見えていなかったが、責任転嫁を、常とする人間には、今後の展開が、どうあろうとも、自らの名誉は、揺るがないのだろう。その原因の一つ、と言われる大騒動も、今回の選考では、対象となり得る、との意見が、受賞者争いの、賭け事の中で、出されているらしく、驚いた人が、多いと思う。特に、独り言の意見は、彼らの罪を、糾弾することを、専らとしているから、そこから、「平和」に関することが、出てくる余地は、全く無いと思える。それを、引き合いに出す程、賭け事とは、本命だけでなく、大穴をも、宛てがう必要があり、その為と思えば、納得できるのかもしれない。しかし、意表を突くにしても、「平和」から、程遠い状況を、作り出した張本人を、選んだとしたら、それは、まるで、賞の名称をも、変えることに、繋がりかねない。つまり、平和賞ではなく、爆笑賞とか、紛争賞とか、下らない名称が、似合うものとなる。イグ、という言葉で、からかい半分に、与えられる賞でも、内容は、大真面目なのだ。本家本元が、愚か者を、称えたとしたら、おしまいだろう。

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10月8日(木)−未知と無知

 今回の、世界的な大騒動は、未知の病原体が、招いたもの、と考える人が、多いのだろう。だが、実際には、未知ではなく、無知こそが、最大の要因であり、それを、看破できない、見せかけの、専門集団による、情報の混乱が、その暴走を、助けたことにある。
 科学とは、本来、真理を追求するものだが、これに関わった人々は、それ以外の事柄に、目を奪われたというより、そちらを、優先させることで、自分達の利益を、追い求めたのだ。学問に関わる人間に、あるまじき行為は、厳しく糾弾されるべきであり、名誉を追い求め、利益を貪る、さもしい人間は、あらゆる権利を、奪われても、致し方ない、とまで言うべきだ。それ程に、多くの人々の、心を弄び、恐怖のどん底に、突き落とした罪は、大きく、重いのであり、組織の頂点に、君臨する資格は、全く無い。にも拘らず、依然として、自分達に都合のいい話だけを、意図的に拾い上げ、恐怖を煽ろうと、躍起になっている。断末魔の叫びにも、似たものと思え、世界の目は、殆ど向けられていない。一方、愚かで、無知な、自称、専門集団は、そろそろ、土俵際に、追い込まれつつあり、登場の機会は、激減している。加担することで、自らの名誉を、手に入れようと、躍起になっても、所詮、浅薄な内容に過ぎず、日替わりの如く、主張を変えたことは、無知を曝け出した、だけだったのだ。未知との遭遇において、最も重要となる、謙虚な姿勢と、慎重な対応は、彼らには、無縁なものであり、暴走は、当然の帰結だった。同じとは言わないが、国内で、話題となる専門集団も、利権と名誉が、露呈するものであり、これまでも、盛んに批判を受けていた。彼らに、学問の自由を、語る資格があるのか、怪しいところだが、今は、当事者よりも、野次馬達が、挙って、叫びたてているだけで、別の騒ぎの種を、手に入れただけのことだ。ここでも、別の、無知蒙昧が、騒ぎ立てている。

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10月7日(水)−合掌

 生き物の命は、儚いものだ。連日、報道される、世界中の死者数は、減る兆しを、見せないと言われるが、どうにも、怪しげな見せ方で、遠い存在だからか、そんな気は、湧いてこない。それより、家族の一員の、命の儚さの方が、遥かに、強い印象を与えている。
 愛玩動物は、可愛がる為の存在で、元気を失ったり、調子が悪くなると、途端に、興味を失う、とも言われる。そんな身勝手さこそ、人間の特徴の一つ、かもしれないが、これとて、人それぞれの反応、なのだろう。猫派の人間は、犬を毛嫌いするものだが、その典型とも言える、人間の一人として、数年前にやってきた、子猫は、気紛れさも含め、可愛い存在だった。突然、発症した病名は、急性心臓肥大症だそうで、検索してみると、猫には、多い病気とのこと。最近は、内飼いが増え、餌の改良に伴って、寿命が伸びた、と言われているが、先天症とも言われる病気では、亡くなることが、殆どとなる。たった5年の寿命を、全うした猫は、人間なら青年期に、入ったところだろうか。親族に、心臓病の多い家系では、よく似た症状も、見られたので、ひょっとすると、山を越えて、長生きする可能性も、と淡い期待を持ったが、残念ながら、発症から、6日で永眠した。一瞬、瞳孔が開くのを、見たときは、はっとしたものだが、そういう部分も、人間と似ている。同じ動物なのだから、当然のことなのだが、心臓病の症状も、その他のことも、類似が数多あり、驚かされる。ただ、命の儚さも、同じなのだ。その一方で、人間と違い、言葉での疎通は、できない。とは言え、何か通じるのでは、と思いつつ、毎晩、語りかけるのは、逃れようのない、性の一つかもしれない。彼女も、全力を尽くしたが、家族も、全力で応援した。そんなことを思いつつ、荼毘に付すつもりだ。合掌

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10月6日(火)−事実無根

 2ヶ月前に、読んだ本に、掲げた本の内容は、たとえ、事実であっても、人の意見を変えることは、できないというものだった。それも、大衆であれば、まだしも、高い知識を誇る、学者などの専門家であっても、持論を曲げさせることは、容易でない、というのだ。
 著者は、その理由を、脳の仕組みに、求めていたようだが、確かかどうかは、まだ不明らしい。というより、感情とか、心理とか、そんなものが、前面に出る事象については、これまでの、単純に、白黒をつける、研究手法では、解明できない、だろうと思う。それでも、研究者は、自分が立てた目標に向かい、突き進むしかないのだ。論文という形で、結実させることを、難しいと考えたからこそ、一般的な読み物として、その主張を展開する、戦略を選択したのかもしれない。それ程、不確かなことだが、表面的には、思い当たることが、数々あるのだ。今回の、海の向こうの大統領の、感染騒ぎも、その典型と思える、動きが起きている。支持者にとり、彼の行動は、全てが正しく、言動は、価値あるもの、と映る。その上、全てが、熟慮の上のことで、一つも間違いはない、と信じている。だから、今回の感染も、不用意なものではなく、計画されたものかの如く、受け取られるのだ。果ては、高齢であるにも関わらず、危険を犯してでも、国民に、安全性を、伝えようとする、意図の現れ、とまで言い始める。信じるということが、事実より、遥かに強力で、それを打破するのは、非常に困難なのだ。単なる思い付きや、身勝手な行動さえ、そう受け取れるのは、信じるからこそだが、他の人々には、どう映るのだろう。おそらく、茶番でしかなく、他人を巻き込んだ、自己中心的なもの、としか見えない。どちらが、正しいのか。行動様式としては、後者の判断が、正しいだろう。だが、感染症の危険度に関しては、論理もへったくれもなく、前者が正しいと思える。

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10月5日(月)−差の根源

 この騒動で、様々な所に、悪影響が、及んでいる。まだ、いつまで続くか、わからないままだから、大衆の心の、沈み具合も、推し量ることさえ、できない状態だろう。はじめは、簡単に片付くと、見込んだ人が、多かったのだが、その後の騒動は、止まる所を知らない。
 騒動の大部分は、過剰反応に、よるものだが、かと言って、日々増え続ける、死者の数には、どんな意味が、込められているのか。そこを、見極めることが、今、早速に重要な、事柄と思える。感染そのものを、制御することは、これまでの経験から、然程難しくない、と思われてきたが、現実には、考えが、甘かったようだ。所詮、人々の考えは、経験から来るもので、これまで、解析されたことのない、事象について、如何に、考えを巡らせても、仕組みはおろか、伝播の状況さえ、予測できない状況が、続いている。では、どんな手立てがあるのか。はじめに書いたように、死者数を、減らすことが第一であり、治療方針を、如何に定めていくか、そこに重点的に、働きかける必要がある。不思議なのは、世界各地で、死者の増加が、伝えられるのに、それが、一部の国に限られ、他国では、一見、平穏を、取り戻している、と見えることだ。もし、これが、国毎の事情の、違いによるものなら、それを加味して、解釈する必要が出てくる。特に、注目される国々は、貧富の差が、著しいと、以前から、話題となっていた所で、もし、それが、第一の要因であるなら、治療を受けられるかどうか、にこそ、注目すべき点が、出てくる。これについては、まだ、確証は得られず、不確定な推測に、過ぎないことだが、そうだとしても、治療の有無が、差となるのであれば、そういう機会を、得られるかどうかが、死と生を、隔てるものとなるのだ。これを、今、早速に解決することは、不可能だろうが、今後の改善は、図れる筈のものだ。

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