パンチの独り言

(10月19日〜10月25日)
(狭量、科学不信、自分の番、専門馬鹿、成れの果て、愚かさ、ごみ捨て)



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10月25日(日)−ごみ捨て

 目に見えぬ、放射線の扱いは、難しいとされる。それでも、病気になれば、その一種による、診断が必要となるし、その他の場面でも、対象を、壊さぬままに、中身を点検するのに、使われる。便利で、有用なものの、一方で、恐怖の対象となり、忌み嫌われることとなる。
 近代的な生活にとり、不可欠な要素として、電力があることを、否定する人は、居ないだろう。無駄と断じられる、ことも度々あるが、それでも、必要だからこそ、その供給源にも、目が向けられる。しかし、はじめに書いた、見えないものを、利用した仕組みでは、全てを使い切る、方法もあるようだが、結局、一部を残して、廃棄する必要のある、塵が出てくる。役立たずのものに、世界では、地中深くに、埋める方法が、採用されており、北欧の国では、既に、運用を開始した所や、建設を始めた所もある。人口密度が、低い地域を持つ国では、そんなことも、可能となるが、そうでない場所では、選定自体が、揉めることも多く、いつまでも、一時保管が、続いている。基本的には、危ないものを、集積させて、管理する、という考えに、基づく方法だが、何度も書くように、放射線の性質を、正しく理解したものとは、とても思えない。濃縮されなければ、この星で、危険な場所はなく、数値の高い地域にも、人々や、その他の生き物が、住み着いている。しかし、ある数値を越せば、危険性が高まり、処分にも、特殊な仕組みが、必要となる。だが、一旦集めたものを、再び、拡散することに、どんな危険があると、思うのだろうか。連鎖反応で、作り出されたものは、確かに、以前より、高い数値を、示す可能性もあるが、それでも、希釈し、拡散することを、排除する程とは、思えない。所詮、素人考えだが、とは言え、専門家達の、考えの巡らせ方には、いつも、別の問題が出てくる。この例でも、どうすべきかを、再考する時が、来ているように思う。

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10月24日(土)−愚かさ

 これ程、下らない言葉も無い、と思うのは、風評被害だ。こんなことを、書くと、強い反発を、抱く人も多い。だが、根も葉も無いことで、被害を受ける、という事象を、表した言葉には、無意味、という印象しか、浮かばない。無根拠なら、無視すれば、いいのだ。
 なのに、被害を受けた人々は、必死で、窮状を訴える。弱者保護の、誤った解釈が、ここでも適用され、救いの手を、差し伸べようとするが、実体の無いものに、手立ては無い。唯一、できることは、皆が、馬鹿げたことを、無視するだけだ。それだけで!、全てが解決する。南の観光地の、首長の言動には、無能ぶりが、発揮されており、根拠無く、正反対の主張を、並べ立てる。だが、被害者を自認する、愚者には、明白な違いさえ、見えないらしい。これでは、風評が、起きるのも、当然だ。一方、何度も取り上げた、原発の処理水についても、風評という、実体の無いものを、引き合いに出して、海洋放出に、反対の声を、上げる人々が居る。ここでも、被害者が、最強の存在と、扱われるが、無根拠であるばかりか、非科学的な事柄まで、引き合いに出して、暴言を、撒き散らしている。これこそが、風評の源であり、罪の意識なく、行うことこそ、最悪の災厄、と思える。それに加担する、政治家達には、例の如く、理解力も、思考力も、微塵も感じられず、妄言しか、発せられない。放射能は、集めることにこそ、危険性がある。発電所や処分場が、危険となるのは、それが、最大の要因だ。鉱脈から、掘り出し、濃縮することで、核分裂の能力を、獲得する訳だが、逆に言えば、拡散させれば、失われる。これと同じことが、全ての放射性物質に、当てはまる。だからこそ、この星の生命は、何億年も、生き長らえてきた。その事実を、理解せず、ただ、一時の恐怖を、前に出すのは、無知蒙昧の典型だ。風評は、その裏返しでしかない。

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10月23日(金)−成れの果て

 学者の役割に、注目が集まっている、とも言われるが、果たして、そうだろうか。今、巷で話題となるのは、何をするのか、ではなく、どんな権利があるのか、なのではないか。本来、あの集まりは、何かを行う為に、設けられた筈だが、実は、既得権益の組織、ではないか。
 となれば、議論に加わっても、彼らの利害に、関わるだけであり、民衆にとっては、何の得にもならない。所詮、象牙の塔の中の、争いに過ぎず、社会にとって、無関係なのだ。では、改めて、学者の役割は、何だと思うのか。多くの人々は、学問の発展、技術の進歩、ひいては、人類の幸福へと繋がる、道を拓くもの、と答えるのではないか。だが、それらを、目的とすることに、学者自身は、強い反発を示す。つまり、目標に向かって、邁進することは、学問をする人間にとり、恥ずべきことの一つ、という気持ちがあるのだ。世の中では、まるで、賞の獲得に向け、日々、努力するかの如く、扱われることに、嫌悪さえ示す。だが、ここでも、以前取り上げたように、多くの学者は、社会への貢献を、第一と考え、日々努力している。ただ、方法も結果も、間違っており、害悪とさえ思える。老害、などと揶揄したのも、その一つで、本来なら、社会的な媒体を使って、発言するのが筋だが、今や、個人的な媒体で、好き勝手に、放言する学者が、増え続けている。それも、主張を優先し、論理を二の次とする、学者にあるまじき言動が、目立つのだ。科学的な知見を、俯瞰的に捉え、そこから、妥当な結論を、導くという、彼らが頼みとした手法も、誰の点検も受けず、好きなことが言える場では、消え失せており、非論理的、非科学的な論調を、強い調子で保っている。仲間内での、盛り上がりは、まるで若者のように、起きているが、それでも、良識のある仲間からは、批判的な意見が、寄せられる。でも、無視すればいい、というSNSの世界では、揺らぐことも、修正も、無用のものだ。

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10月22日(木)−専門馬鹿

 学者の集まりに、関する話題が、耳目を集めている。しかし、論点は、不明確であり、報道に、携わる人々の、無能ぶりから、問題のすり替えや、批判だけの議論など、いつもながらの、下らなさに、辟易とする。それにしても、学者とは、そんなに、有能なのか。
 昔は、学者といえば、専門とすること以外には、無頓着であるばかりか、理解力さえ、持ち合わせていない、と揶揄されていた。それが、いつの間にか、国の政策に、関与したり、物事の判断に、口を出すようになり、専門外にさえ、見識を持つかの如く、扱われるようになった。これ自体、決して、悪いことではない。興味あることに、深い理解を示せるのなら、他のことにも、その能力が、活かせる筈だからだ。だったら、何故、昔の学者は、それができなかったのか。この疑問に答えるより、今の学者達が、本当に、多くのことを、理解できるのか、を論じた方が、いいようだ。大衆にとり、理解に苦しむことを、平易に説明する、専門家が、最近は、画面を賑わしている。彼らの多くは、学者を自認するが、どうも、はじめに、取り上げた集まりとは、無縁の人々のようだ。その上、専門的な事柄についても、誤解に基づく説明や、思い違いが、屡々起きており、能力自体を、疑う声がある。これらの似非学者は、話にならないが、一方で、本物の学者達も、分野外のことに、口を出せる程の、見識は、持ち合わせていないようだ。あの団体も、分野の利害が、複雑に交錯し、時に、一部の利益のみを、求める決定が、なされてきたと言われる。だからこそ、俎上にのぼった、とする意見もあるが、そんなことは、どうでもいい。分野外どころか、専門でさえ、怪しげな言動が、目立つ学者達が、好き勝手に振る舞う場は、本当に必要なのか。一方で、今回の騒動で、明らかになったように、数字の分析さえ、覚束無い人々が、大きな顔をするのが、学者の世界だとしたら、やはり、そこに閉じ込めておいた方が、いいのではないか。

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10月21日(水)−自分の番

 良識ある人々は、姿を、消したのだろうか。衆人環視の中で、相手を、罵る人物は、その国、頂点に立っている。次も、選ばれようと、躍起になるのは、人として、当然のことかと思うが、だからと言って、許されぬ言動が、続いている。前回の、勝利の鍵、だったとしても。
 大人は、本来、次の時代を担う世代の、手本となるべき、と言われて、育った人々にとり、画面に現れる、醜態は、何を伝えるのか。海の向こうでは、一部かもしれないが、自分が、良いと思えば、何をしても、構わないという考えが、広がっている、と言われる。何しろ、国を率いる人物が、その典型を、示しているのだ。独裁的な振る舞いは、将来への不安を、煽る形で、始まったものの、全体としての、抑制能力の為か、大事に至らずに、任期の終わりが、見えてきた。但し、人気の終わりも、見えており、下馬評は、前回にも増して、劣勢の度合いが、強まっている。それでも、夢よ再び、とばかりに、同じ手を使い始め、罵り、叫び、嘘を並べ立て、ついには、収監してしまえと、権力者の弁とは、思えぬものまで、飛び出す始末。前回との違いに、本人が、気付いているとは、とても思えぬが、前回は、権力を握らぬ、一候補者であったのに対し、今回は、任期中であるから、権力者である。つまり、権力を、行使しようと思えば、できる立場にあるのだ。これも、但しだが、全体としての、抑制能力から、それが、実現しないことは、4年の間に、学んできたのだろう。如何に、無能で、頑なな人物でも、できないことが、あることくらいは、理解したのだ。だとしても、独り言の囀りと、同じには、いく筈がない。だとしたら、何を目的に、と思う人が、居るかもしれない。これは、彼の発言を、思い出せば、すぐに、想像がつくだろう。退任後の検証への、不安の裏返し、と思えば、納得がいく。収監されるのは、自分と思うからこそ、あの発言が、出てくるのだ。

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10月20日(火)−科学不信

 嘗て、流行り病の被害が、広がる中、人々は、神や仏に、祈りを捧げていた。疫病退散、の幟を掲げ、不安を吹き飛ばそうと、祭りを催し、神頼みをしたものだ。原因が、明らかでなく、不安だけが、募る中で、できることは少なく、精一杯の祈りを、捧げたのだ。
 その中で、いつの間にか、病の広がりは、収束を見せ、以前の生活を、取り戻してきた。病気の被害は、様々な要因で、異なっており、黒死病と呼ばれた、流行り病についても、西洋と東洋で、全く違っていた。生活習慣の違いは、要因の一つで、死者の弔いも、違いを招いた要因、と言われている。その後、医学の発達で、病気の原因が、明らかにされ、伝染病への対策が、様々に講じられている。だが、依然として、その被害は、起きている。伝染性でなくとも、細菌を原因とする、下痢は、世界では、幼児の死亡原因の、一位にあり、衛生状態の、重要性が、訴えられている。科学の進歩は、確かに、多くの病気を、克服してきた。しかし、全てではなく、依然として、不可能なものは、数多くある。今の感染症も、その一つ、と思う人と、いや、ワクチン が、できれば、と思う人が、居るようだが、果たしてどうか。一方、隣国では、制圧を宣言し、経済の回復も、伝えられており、方法さえ、誤らねば、可能との声もある。だが、この状況には、不明な点が数多あり、国の怪しさもあり、不信感は、拭い切れない。現状では、検査体制の変化や、総数の変動が、表に出ておらず、隣国の例も、その表れと見える。要するに、今の状況では、神頼みと、大差ないことであり、疫病退散と、科学的な知見に、差があるとは思えない。科学頼みの世界機関も、あやふやな発表ばかりで、何も、確実なことを、伝えられない。この状況を、もっと厳しく指摘し、彼らの欺瞞を、暴くべきだろう。何しろ、創作でしかない、死に至る、流行り病の宣言に、耳を貸す必要は、一切無いのだから。

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10月19日(月)−狭量

 衆愚政治が、世界中に、満ちている。その中で、民衆に寄り添う政策を、掲げるのは、当然のことだが、これによって、情勢が、大きく変わった業界が、あることに、気付いているだろうか。権力に、与せず、専ら、批判をすることで、存在意義を、誇示していた組織だ。
 権力が、民衆の気を、引くことに、腐心する中で、それを、批判することは、権力のみならず、大衆を、敵に回すことに、なり兼ねないのは、如何に、無能な人々でも、すぐに、気が付いたのだろう。本来なら、民衆の要求が、如何に、誤った方に、向いているかを、指摘することで、修正を施す役割が、任される筈だが、昨日の話題でも、明らかになったように、そんな気配も見せず、当然のように、扱ってしまう。この為体が、衆愚政治を、野放しにすることは、明らかだろう。ただ、彼らの無能ぶりは、それに留まらず、これも、本来なら、不可欠な能力である、大所高所からの視点、俯瞰的な見方を、失ったことが、最大の問題だろう。この騒動の最中、公共放送は、視点を違いを、際立たせようと、国内に留まる外国人に、焦点を当てた、報道を、繰り返している。今、宰相が訪問中の、国からの人々は、一部の富裕層を除けば、今でも、貧しい環境にあり、一攫千金を、夢見てやってきた、労働者は、職を失い、海外渡航制限で、帰国も儘ならぬ状況に、追い込まれていた。彼らを救う為に、ある寺院が、食住を提供し、その後、貸切便が準備され、無事の帰国を迎えたことを、報道していた。だが、一方で、同じ放送局が、同じ国からの留学生が、収入を失い、学費を納められず、退学となった話を、流していた時には、帰国の目処が、つかないとの結論を、示していた。異なる状況とはいえ、同じ国からの人々の困窮を、伝えていれば、帰国を、目的とすることに、何方も、違いはない。だとしたら、一方の情報を、共有することは、彼らにできることだ。にも拘らず、二つを、異なる話題として、片付けることに、人道的見地は、全く無い。話題を作ることに、目を奪われ、人としての判断を、捨ててしまったのか。

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