パンチの独り言

(10月26日〜11月1日)
(露見、駄作、愚者、塵拾い、思い出、自由に、迫る危機)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



11月1日(日)−迫る危機

 ここで、何度、取り上げても、何も、変わることがない。理詰めで、追い込もうが、主張の問題点を、指摘しようが、変わらないのは、前から、強調するように、騒動の源流が、いつまでも、誤った情報を、流し続ける限り、どうにもならぬことだ。だが、何故なのだろう。
 庶民にとって、上から、決めつけられ、押し付けられることに、抗う手立ては、見つからない。単に、科学を、理解できないからでも、論理を、見破れない訳ではなく、権力が、強制力を、発揮している為だ。それらを、押し退ける為に、様々に、情報を、掻き集めて、反論を掲げても、法の下に、定められた規則は、排除することが、できない。それを、知っているからこそ、暴挙が、罷り通る訳だが、このままでいいのか。本来、こんな暴挙を、妨げる筈の仕組みが、社会には、備わっているのだが、どうも、機能していないとしか、思えない。何が、問題なのかは、当事者でなければ、知り得ない所だが、余所者でも、問題の主が、誰なのかは、解っている。感染症の問題を、理解する為の、武器となるのは、一つには、感染の仕組みそのものを、研究する分野で、現在も、研究が進められつつあるが、どうにも、頼りにならない状態に、あるように見える。肝心なことは、一つとして、明らかにならず、防御の方法さえ、示せぬ状況に、今後、更に厳しい事態と、なりそうだ。もう一つは、疫学や公衆衛生と呼ばれる、現状を把握し、そこから、問題点を、炙り出し、社会的な対策を、講じる支援をする、という学問だが、数字だけが、公表される中、何の解析結果も、出てこないのは、まさに、学問の危機を、表しているように思える。騒動の源が、どちらの分野にも、圧力をかけることが、できる状態にあるのは、明らかだとしても、研究の世界は、諸説紛々、それぞれに、主張が戦わされるのが、当然の筈だ。それさえ、起きないことこそ、学問全体の危機を、表しているのかもしれない。

* * * * * * * *

10月31日(土)−自由に

 死への恐怖を、煽ることは、本来、国を率いる人間が、行うことではない。では、何故、今、多くの国や地域で、そんな愚策が、講じられているのか。安全、安心を、求める大衆に、応える術を、持たぬ人間が、できることは、無理強いを押し付け、閉じ込めるしか、無いのだ。
 普通の考えなら、現状を眺めれば、騒動前と、何も、変わっていないことに、気付くことができる。死への恐怖は、誰もが、常に抱くものであり、逃れ得ぬ事柄の、一つであることは、何も変わっていないのだ。だが、大統領や宰相の多くは、何とかの一つ覚えの如く、同じことを繰り返す。前回の検証が、不十分なままで、同じことを、繰り返すのは、まさに、愚の骨頂であり、愚民政治の頂点に、立つ人間でさえ、通用しそうにない。なのに、一つ覚えを、繰り返し、その返礼として、ばら撒きを、続けている。だが、それとて、財源に、目を向ければ、将来、何が起きるのか、誰の目にも、明らかだろう。一方で、この国でも、ばら撒きが、実施されており、現場の混乱は、日々の話題と、なりつつある。特に、人の往来を、制限したことへの、反省からか、旅行の補助が、盛んとなっている。しかし、運用方法も、実施方法も、準備不足が、次々に、露呈しており、現場任せの体質は、ここでも、元凶となっている。制限を、押し付けられた人間には、それを、外すだけで、十分な筈が、実は、金を与える一方で、制限は緩めず、何とも、不安定な心理を、強めている。この理由は、明らかなのだが、誰も、触れないのは、何故だろう。何しろ、騒動の原因を、作り出した世界機関は、相も変わらず、嘘や偽の情報を、流し続け、恐怖を煽り続けている。彼らが、過ちを、認めない限り、政治家も、民衆も、自分達が、正しいと思うことさえ、口に出せない状況を、脱することは、できそうにない。好き勝手に、できないことは、人々の心を、蝕み続ける。

* * * * * * * *

10月30日(金)−思い出

 思い出話に、花を咲かせるのは、旧知の人々が、集まった場で、屡々、起きることだ。それぞれに、印象に、残った事柄を、紹介し合うと、意外に、重なることなく、種種雑多なことが、思い起こされる。それにより、忘却の彼方に、追いやられたことを、思い出すことも。
 そんな花盛りの中、記憶違いに、気付かされることも、多いようだ。どちらの間違いか、必ずしも、こちらの過ちと、限った訳ではなく、時に、相手の過ちを、指摘することもある。だが、やはり、優先すべきは、当事者の記憶だろう。同窓会では、同級生達の間で、先生の話題が、出ることが多いが、その中には、生徒なりの解釈が、優先され、肝心の先生の思いは、殆ど、無視される。この機会に、生徒からではなく、先生からの見方を、聞き出したい、と思う人も居るだろうが、昔の生徒の年齢が、嘗ての親の年齢を、上回る程になると、先生は、既に、鬼籍に入られて、そこに居ないことも、多くなる。あの時、聞いておけば、良かった、との声が、聞こえてくるが、たとえ、それをしたとしても、同じ言葉が、届く訳ではなく、また、記憶の問題となる。先生とて、多くの生徒の相手を、何年も、続けていると、印象の強弱から、記憶が、怪しくなるだろうから、所詮、同じことなのだろうが、やはり、本人の話が、一番、信頼が置けるだろう。その意味で、自叙伝は、重要な役割を、果たすことになる。疑い深い人は、そんな自慢話は、信用が置けない、と思うかもしれないが、だとしても、他人が書いたものよりは、ずっとましだろう。ただ、生前に、それができずとも、日記やメモが、残っていれば、役立つだろう。余程、意識的に、記したものでなければ、当時の気持ちが現れ、最も信頼できるものとなる。とは言え、それが、世に出る頃には、また、誰かの思いが、反映されて、そっくりそのまま、とはいかないものだ。やはり、生きている間に、何か、残してくれないと。

* * * * * * * *

10月29日(木)−塵拾い

 株取引を、始めた頃、掲示板で、議論したことがあった。相手は、長く行ってきたらしく、まるで、自分が、相場を動かしているような、気分だったようだ。その人物が、強調したのは、情報の重要性で、手に入れる為の、手立てを持つかが、収益を、決めるとしていた。
 となれば、誰もが、触れることのできる、情報には、価値が無い、となる。独自の情報源を、手に入れるか、あるいは、大量の情報を、掻き集めて、分析するか、どちらかしかない。その人物は、前者のようで、投資先の選定は、非公表の情報を、頼りに、決めているようだった。その時だけの、遣り取りだったから、どうなったかは、知る由もない。一方で、当時から、情報社会という言葉が、巷を歩き始め、一般社会でも、情報の流通に、力を入れる動きが、始まっていた。その後、掛け声は、時に、高まっていたが、どうも、世界的には、取り残されている、との評価が、この国に、与えられているようだ。多くのものが、電子化される時代に、依然として、電話回線を通じて、手書きの書類が、往復するのは、何とも効率の悪い、状況に違いなく、情報を活用する、水準にあるとは、とても言えそうにない。この騒動でも、度々、問題視され、一部では、批判も出ているが、収集に当たる組織は、混乱の極みに、陥っているとされる。にも拘らず、情報重視の考えは、ただ集めることだけに、目が向くらしく、取捨選択を、事前に行わずに、集められた情報は、まさに、玉石混交となる。塵に埋もれた所から、有用なものを、拾い上げるのは、量が増える程に、難しさを増す。だからこそ、肝心なものだけを、収集するように、しなければならないのに、それをせずに、無作為に集める。愚の骨頂であり、大いなる無駄でしかない。それでも、半年近くを経て、やっと気付いたのか、集め方が変わったらしく、陽性者のみの情報を、集めることになった。それまでは、全ての検査の報告を、していたというから、驚くしかない。

* * * * * * * *

10月28日(水)−愚者

 今の騒動が、政治の具とされるのは、力を、見せつけられる、からなのだろう。国民を、制限の枠に、閉じ込め、少しでも、はみ出そうとすれば、罰を与えることができる。普段なら、強い反発で、弱腰にしかなれない政府も、 死の恐怖を、掲げさえすれば、断行できる。
 だが、彼らが、頼みとする数字は、見せかけのものに過ぎず、頼りとする、世界機関も、無能ぶりが、露呈され続けている。科学の力、とは何かを、改めて、考えさせられる程、無知蒙昧の、空騒ぎには、呆れるばかりだが、騒ぐことに、躍起になる人は、政治でも、科学でも、根拠なしに、不確実なことを、さも、必然の如く、言い触らしている。本来なら、科学に携わる人間は、確実な証拠を、見つける為に、努力をするが、この中では、騒ぐことが、目的となり、そこでは、思い付きや、想像ばかりが、優先され、時に、明らかな嘘でさえ、便利に使われる。あらゆることに、金銭が絡み、世界機関も、掻き集めることを、最優先とし、その為なら、恐怖を煽り、嘘を並べることさえ、厭わない姿勢が、現れている。日常に、戻らねばならない、庶民達にとり、この混乱は、ただの迷惑であり、許されるのなら、以前同様の、生活を送りたい。だが、周囲の目は、厳しさを増し、政が、それに加担することで、社会的な制裁が、振り下ろされる。自らの首を、絞めることにしか、ならない展開だが、死への恐怖は、先のことを、見通そうとする動きを、封じているのだ。しかし、実数は、期待通りには、増え続けず、現場の混乱も、今や、脅しの道具にしか、使えぬ程に、収まりつつある。将来への不安を、解消する為に、重要な因子である、教育現場も、この国では、平常を取り戻しつつある。まだ、邪魔をしたい人は、一杯いるだろうが、もう、いい加減にしたら、どうか。ただの風邪なら、発症者が増えれば、学級閉鎖などの措置で、対応する。これまでのやり方で、十分に対抗できるのに、何を、騒ぎたいのか。本当に、愚かなことだ。

* * * * * * * *

10月27日(火)−駄作

 アルファベットで、表現するのが、当たり前になっているが、敢えて、翻訳すれば、空想科学小説とか、科学小説と、なると言われている。現実には、あり得ない話を、物語にするのだが、昔、書かれたものの中には、今や、現実となったものも、少なくないようだ。
 技術の進歩が、空想や夢だったものを、現実化する話は、ある意味、興味深い。漫画の世界でも、ロボットに関する話は、数え切れない程あるが、巨匠の作品として、我々の世代に、大きな影響を、及ぼした作品の、主人公は、まだ現れていない。一つには、人間と同じ大きさで、遥かに優れた機能を、備える為に、基本的な技術が、不足していることが、挙げられるだろう。もう一つは、発表当時、明るい未来を、築くとされた、新技術の、その後の変遷が、関係するのだろう。小型化が、可能だったかは兎も角、社会全体に、忌避する傾向は、開発の道筋を、断ってしまった。一方、人類の敵を、主題とした作品も、数え切れない程、発表されているが、病原体という括りで、恐怖の対象を、扱ったものの中には、絶滅の危機から、脱する姿を、捉えたものが多い。空想とは言え、絶滅という結末は、受け入れ難いもの、だからだろう。他方、現実の世界も、まるで、小説の中のような、展開が続いているが、こちらは、不出来な作品で、不人気となりそうだ。今、騒いでいる人々にとり、その数字の動向は、目が離せぬもの、と映っているようだが、実際には、小事を大事と見做し、過剰反応を、引き起こしただけで、馬鹿げた騒ぎ、と片付けるべきものだ。騒動の主は、歴史上の感染爆発を、上回るものと、愚かに騒ぎ立てるが、異なる数字を、見比べることは、欺瞞でしかない。歴史では、発症者と死者を、記録として、扱うのに対し、今回のものは、死者は兎も角、感染者と称して、検査で明らかとなった人の数を、提示している。これは、発症者とは、全く異なり、過剰反応の火種として、便利に使われている。中身の無い、見せかけだけのものを、怪物に仕上げた連中は、まさに、三流小説の著者でしかない。

* * * * * * * *

10月26日(月)−露見

 国の頂点に、詐欺師が立つことに、違和感は無いのか。公約を掲げ、地位を手に入れた途端に、約束を、反故にするのは、政治家の常だから、何の違和感も、抱かれないのだろう。だが、政策における、約束どころか、日常の会話にさえ、嘘ばかりが、溢れているのだ。
 信頼を、糧とする筈が、日頃から、嘘ばかりで、何故、と思うのは、支持者の心情を、理解できないからだ。だが、自分の建物の、高さを偽った過去も、つい先日の、討論会での言動も、呆れるよりも、そこに潜む、思惑にこそ、詐欺師としての本領が、現れている。2週間後に、迫っている選挙に、優勢を手に入れようと、3週間後の話を、引き合いに出す。ワクチンについての、話なのだが、現状では、作製不可能の、噂さえ飛び交う中で、こんな空手形が、通用する筈も無い。だが、本人は、そんなことは、百も承知で、だからこそ、選挙後の日付を、示しているのだ。投票前に、嘘が露呈すれば、誰も、嘘吐きには、票を入れる筈が無い。だが、その思惑を、誰も指摘せず、そのまま、流してしまう。ここに、現代社会が、抱える問題が、見えてくる。同じような状況は、社会全体に、満ち溢れており、真実を、追い求める筈の、学問の世界でさえ、侵されている。ウイルス感染症が、話題に上る度に、顔を出す、最高学府の頂点に、君臨する組織の、研究者は、今回も、懲りもせずに、報道への売り込みに、精を出しているが、まともな研究が、時間も経費も、嵩むからか、手っ取り早い、話題提供に、重心を移している。猫が、媒介となるという、とんでも科学に始まり、最近は、人形を使った、人と人の間の、感染防止への、マスクの効用という、一見、まともな研究だが、これも、肝心の感染機構が、不明なままでは、役立たずでしかない。この人物は、鳥を感染源とする、話題の際にも、何度も、怪しげな話題を、投げることで、研究費の獲得に、躍起となったが、今回も、同じことだろう。貪欲さは、学問追求ではなく、金稼ぎにしか、向いていない、あの大統領と、同じだ。

(since 2002/4/3)