パンチの独り言

(11月2日〜11月8日)
(矜持、荒廃、議論放棄、独善主義、恥知らず、分断、復活)



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11月8日(日)−復活

 幕が、下りるのも、間もなくだろう。ただ、以前にも、政党による、立場の違いが、あるものの、同じことが、起きつつあった。その結果、諦めずに、判断を仰いだ人物は、表舞台から、姿を消してしまった。本来なら、環境問題の高まりで、注目を、浴びている筈が。
 前回の選挙で、前評判に反して、破れ去った女性候補は、いち早く、敗北を認め、潔さを示した。それでも、不可解な経過に、沈黙は守られず、発言や、著書によって、不満を噴出させた。確かに、報道の問題が、あったのだろうが、大衆は、潔さを好むだけに、その後の人々の関心は、一気に薄れたようだ。民主主義の大切さは、自由を謳歌する大衆にとり、非常に大きく、だからこそ、その結果の尊重は、守られるべきものだ。決定すれば、たとえ、反対票を入れたにしても、従う必要がある。自己主張は、不可欠だが、それとこれとは、別問題なのだ。海の向こうでは、終息を迎える、現政権が、民主主義の危機を、招いたと考える人が、多いだろうが、現実には、今、世界中で、危機が起きている。感染症の収束を、目的とした規制は、社会秩序を、保つ為に、不可欠との判断から、各国政府が、断行したものだ。だが、それは、人々の自由を、奪う結果となり、民主主義の考えに、反するものと映る。それぞれの政権は、選挙で、選ばれたものだから、民主主義の結果、に違いないが、こういう判断では、その手続きを、取ることなく、決定される。それでも、自分達が、選んだ人々の判断であり、これも、民主主義に違いない。だが、それで、自由が奪われ、権利さえ、剥奪されそうになると、人々の考えは、一変する。衆愚政治の、成れの果て、でしかないもので、自業自得の結果に過ぎないが、それを、受け入れることが、できないのも、衆愚の典型だろう。国民投票を、行うことで、決定したことに、今だに、揉め事が続くのも、同様だろう。今回の結果が、真の民主主義の回復に、向かわせることを、願う人は多い。

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11月7日(土)−分断

 昔、作家の曲に、男と女の間にある、河を歌ったものがあった。そこに、漕ぎ出す舟の話だが、越えられぬ喩え、だった。一方、70を超えても、元気に歌い続ける、フォーク歌手の初期に、親子間の、考えの違いを、訴える曲があった。文字通り、断絶を、歌っていた。
 あって、当たり前のもの、を表現するのは、越えられぬものが、遠い存在が、互いに、歩み寄ることの、大切さと難しさを、訴えよう、としたからだろう。だが、今、海の向こうで、問題視されるのは、全く別の問題だ。人種の違いも、貧富の差も、努力すれば、越えられる、とされて来た、自由の国において、その差を、明確にして、互いに、受け入れることなく、啀み合う状況を、意図的に作り出し、思うがままに、操ろうとする人間が、大統領となり、好き勝手に振る舞い、自らの考えを、実現しようと、し続けて来た。その結果、元々、ある筈のない溝が、顕在化され、それを埋めるどころか、更に、広げる動きを、拡大しようと、呟き、囀り続けている。自由主義は、確かに、人々それぞれの、自由を、保障するものだが、一方で、集団の単位として、秩序を保つ為には、法律に基づく、民主主義が、不可欠となる。あの人物のやり方は、私企業の経営者が、思うがままに、社員を操る、独裁的なものであり、賛同する人間以外は、排除するという、極端でしかない。ただ、それが、通用しないのは、国の制度や仕組みが、企業のそれとは、全く異なるものだからだ。ただ、気に入らなければ、排除し続けた、彼の側近の人々は、傘下を外されれば、暴露を続け、違法紛いの行為さえ、書き連ねている。彼が、今の地位に、しがみ付くのは、おそらく、暴挙の数々が、暴露されることで、次に、やって来る、処罰を、恐れているからだろう。隣国の大統領のように、毎回、起きる話とは違い、海の向こうでは、明らかになったように、そんな犯罪は、起こせない。それでもなお、不正はあっただろう。となれば、その展開は、ほぼ確実だ。

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11月6日(金)−恥知らず

 いくら、接戦になったと言え、この混乱は、どうしたものか。多数決こそが、決定の為の、唯一の手立て、の筈なのに、いくら、複雑な仕組みだとしても、こんなゴタゴタは、想像がつかない。その上、主義主張こそが、最優先とされる、自由の国では、強行も、一つの策だ。
 だとしても、負けた州では、不正が行われた、との主張に対し、多くの人々は、まるで、何処かの小国の、選挙のようだ、と思ったのではないか。発展途上の国では、制度の整備が、不十分なだけでなく、管理の体制も、整えられず、時に、国際機関による、監視支援が、行われることがある。それに対し、先進国では、一部の国を除き、あらゆる体制が、整えられており、混乱を、未然に防いでいる。だが、海の向こうの大国は、まるで、発展途上の如く、未熟な考えと、分断という対立意識が、著しく高まり、自ら、混乱を招いている。自由を、履き違えた主張も、次々に、掲げられ、それを、国の指導者が、自ら、率いるという事態が、正当化へと、動かしている。異常事態でしかなく、まさに、狂気の沙汰と思えるが、前回同様、愚かさと、狂気じみた熱狂から、異常な盛り上がりを、見せている。今後は、司法の判断が、下されることとなろうが、それとて、真の民主主義ではなく、どちらの勢力に、与するかが、優先事項となり得て、正当な判断、とならないのかもしれない。社会の秩序が、法の下に、保たれることが、自由主義においては、肝心要となるが、これさえも、蔑ろにしかねない、異常心理の集団が、台頭した結果が、この混乱を、招いている。だとしたら、それが属する勢力の、全体としての判断こそが、重要となるだろう。今も、ある意味、沈黙を守っている、あの愚か者を担ぐ、政党の判断は、何時下されるのか。また、その結果は、どのように、現れるのか。今後の展開を、見守るしかない。がしかし、この混乱は、大国にとり、恥辱の極み、でしかない。

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11月5日(木)−独善主義

 民主主義、と言えば、この国、と言われた、海の向こうの国が、混乱を、極めている、と伝えられる。多くの人々が、合意の上で、何事も、決めていく、という手法は、人々の意向を、反映させる為に、有効な方法と言われるが、現実には、かなり、違っているようだ。
 人々の合意を、図る手法として、最も優れたものは、全員投票だろう。だが、こちらでも、先日、ある地域で、行われた住民投票のように、全員を、目指したとしても、そこには至らず、なお、僅差での決定、となれば、そこに、大きな問題が、残ってしまう。まして、間接投票と呼ばれる、仕組みが、用いられる、海の向こうの選挙では、地域毎に、集計した結果を、元にして、そこに割り当てられた数が、全て、一方に与えられると、僅差の違いが、大きな違いへと、結びついてしまう。その結果、見かけの違いよりも、大きな差が、生じる場合もあり、これまでも、不可思議な結果が、導かれてきた。前回も、総得票数と比べ、当落を決める獲得数は、正反対の結果となり、仕組み自体の欠陥を、指摘する声があった。制度が、決められた中で、行われるものだから、たとえ、欠陥があったとしても、不当な結果、とすることは、間違っていると思うが、結果次第で、主張を変える人々は、何処にも居るものだ。それにしても、毎回、こんなことを、繰り返すのでは、大国と雖も、安定が、傾く可能性さえ、出て来かねない。ただ、民主主義を、どうこう言うより、今の状況は、自らの利益ばかりを、優先させようとする、独善主義が、それを、蝕むことこそを、問題視すべきだろう。特に、あれ程愚かで、無知な人間が、任期を全うできたことが、様々な仕組みで、独善が、通せなかったことに、よるものと考えれば、その重要性を、再認識せねばならない。だが、ここに来て、その仕組みを、悪用しようと、独善が、動いていることに、注意すべきだ。あの人物は、私利私欲の為には、何でもするのだ。

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11月4日(水)−議論放棄

 偽善、という言葉が、世界を、駆け巡っている。正しいか、正しくないか、善悪を、判断する代わりに、別の指標を、掲げるのだ。この一言で、あらゆる行為を、否定することができる。だから、対抗する人々を、批判するのに、手軽で、便利な言葉、となっている。
 だが、表面的なものでなく、行為を行う人々の、内面を捉えたものに、確かさは、一つも無い。だからこそ、徹底的に批判できるし、信じるかどうかだけで、主張が、罷り通ることとなる。競合状態にある中では、善悪に関係なく、相手の行為を、否定することができ、自らの優位を、保てそうに思える。でも、そこには、確固たる根拠は、一欠片も無く、いい加減な主張も、簡単に、掲げることができる。これでは、論理的な議論が、できる筈も無く、確かな結論が、導き出せる筈が無い。にも拘らず、世界中で、こんなことが、罷り通るのは、何故だろうか。おそらく、難しいことを、考えたくない人々にとり、断定的な主張は、確実なものと映り、以前から、信頼を置いてきた人の、発言ともなれば、鵜呑みにすることも、抵抗なくできる。それどころか、断定する根拠は、必ずある筈、という妄信が、手伝って、信頼が、更に強まり、状況は、悪化し続ける。これでは、何事も、解決に向かわず、混迷を、極めるばかりとなる。何故、こんなことが、起き続けているのか。そこには、論理性を軽視し、議論を無視する、多くの人々の傾向、という問題がある。今に、始まったことではないが、どういう訳か、信じるか、信じないか、という、人に対する印象を、優先させる心理が、世界中で、多くの人々を、蝕んできたことが、あるのだろう。この問題を、解決する手段は、議論、論理、というものを、重視する心を、育てることにあるが、果たして、それが、可能となるだろうか。これ程までに、多くの人々が、考えることを、放棄する社会で、どうすればいいのか、真剣に、考えねばならない。

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11月3日(火)−荒廃

 その日だから、と言って、取り上げる訳ではない。この日でなくとも、人々にとって、日々の生活とは、直接には、関係ないものにも、目を向けるべきと、これまで、散々取り上げてきたのに、何故、下らない騒ぎで、次々に、中止にされるのか、不思議に思える。
 何が大切か、そこに優先順位があるのか、疑問は、様々に浮かぶが、従順な人々は、何処かから、圧力を受ける度に、自分達の望みを、押し殺すことになる。所詮、生活に、必要不可欠ではなく、生きる為に、必須のものでもない。だから、この緊急時には、誰もが、我慢を続け、やりたいことや、見たいことを、奪われたとしても、文句も言わずに、従えばいい、とでも思っているのか。だが、不可欠でないことは、確かだろうが、それがあることで、人々の生活が、豊かになり、人々の心に、余裕が生まれる、とされたことを、いとも簡単に、投げ出して、いいのだろうか。人々の心が、荒び始め、互いに、被害を受けたと、訴え始めたら、どうなるのか。文化に、そんな扱いを、すること自体、猛反対を、受けそうな気もするが、今の状況は、それよりも、更に、歪んだものとなっている。豊かとか、余裕とか、そんなものは、緊急時には、不要なものと思うのは、どこか、間違っているように思う。こんな時だからこそ、互いを気遣い、助け合うことが、必要となる。だからこそ、恐怖を煽ったり、危機を膨らませたり、下らないことを、繰り返すばかりではなく、落ち着いて、様々なことを、見回す必要がある。その為には、余裕や豊かさが、必要となる、という筈だった。それを投げ出し、一体全体、何方に向かうのか、本人達にも、わかっていない。そろそろ、限界に来ているが、それでもなお、同じことを、繰り返そうとする。もう、相手にせずとも、いいのだろう。ただ、愚かな人間にとり、そんな異端は、許せないとなる。そこに、荒んだ心が、加わると、何が起きるのか。想像せずとも、分かることだ。

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11月2日(月)−矜恃

 個人の権限で、恥を晒すのは、勝手なことと思う。画面や紙面を、賑やかし、専門家と呼ばれつつ、非常識な見解を、躊躇うことなく、披瀝するのは、業績が伴わず、名声を手に入れられなかった、物足りない人間にとり、世間の注目を、浴びる為の、唯一残った方法なのだ。
 だが、専門家と信じ、発言に耳を傾ける、無垢な庶民達は、彼らの嘘に、振り回され続けた。いい迷惑、と片付けるには、あまりにも、悪影響の範囲も程度も、酷すぎるものだ。それでも、あの業界が、無能者達を、権威の如く、紹介さえしなければ、その他大勢と、同じに扱われ、騙されることも、起きなかった。元凶は、そこにある、と批判しても、無垢なだけでなく、自分で、調べようとか、学ぼうとか、する気の無い、無知な人々には、何もできないに違いない。最悪とも思える状況が、好転する兆しは見えず、世界に垂れ込める、暗雲は、世界機関どころか、学界全体を、覆い尽くしている。その中で、冬の到来に、警告を出し始めた、専門家の発言には、呆れるのを通り越し、諦めの境地が、芽生え始めている。同じ、ウイルス感染症に、分類される感冒の一種だが、誰もが、知るように、別種の病原体に、よるものである。だから、今季は、同時流行の可能性が、あると訴えたのは、感染症学会の長たる人物で、現場の混乱を、予想していた。だが、彼の論理には、破綻しか見られず、防ぐ為の方策は、一つも示されず、無責任の極み、と映っていた。世界機関の暴走を、止めることこそ、彼らに課された役割だが、それもできず、ただ、慌てふためくだけの、無能ぶりには、科学者の影さえ、認められない。この為体を、招いたのは、あの団体を、構成する人々であり、その責任は重大だ。更に、今話題とされる、その種の人々の集まりも、同じ穴の狢、とされ兼ねない。どう処すかは、自分達の能力だけでなく、矜持次第ということだ。

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