パンチの独り言

(11月9日〜11月15日)
(自由を、真の数値、愛憎の果て、検証を、強気と弱気、破滅への道、不信)



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11月15日(日)−不信

 科学不信が、表面化し始めたのは、何時のことか。多くの人は、あの発電方式が、起こした問題を、取り上げるだろうが、実際には、半世紀程前に、先進国で起きた、環境汚染こそが、その原点と思える。それまでは、一部地域に、限られていたが、世界各地で、起きたのだ。
 技術の進歩により、生活が豊かになったが、その一方で、その生産に、携わる地域では、規模が、急激に増した結果、汚染が、顕在化してきた。自然環境の、浄化作用を、上回る勢いで、汚染物質が、放出された結果、それが、環境の動植物だけでなく、住民にまで、悪影響を及ぼした。当時の状況は、教科書などで、学んだ人が、沢山居るけれど、問題の本質と、それを、改善に向けた、技術開発に関して、知る人は少ない。同じ科学が、悪者になったり、正義の味方になったり、理解し難いのだ。ただ、そこで、忘れてならないのは、科学は、問題が、表面化しないと、何もできないことだ。予測とか、予知とか、一部の科学は、まるで、それができるかの如く、喧伝することで、研究資金を、集めてきたが、その殆どは、提案通りには、事が進まず、頓挫する結果となった。その原因は、科学そのものに、あるのではなく、それに携わる人間の、能力不足にある。十分に、準備をして、資金を投入すれば、不可能も、可能となるとの期待は、裏切られてしまい、大衆の落胆は、大きなものとなった。それにより、科学不信を、強める原因となったのだ。技術革新により、恩恵を受けたことは、すっかり忘れ、悪いことだけを、覚える人々は、こんな具合に、不信を深めていたが、そこに、この国では、大震災が起き、人災との解釈から、科学への信頼は、更に、失われてきた。一方で、世界では、今まさに起きつつある、あの騒動が、科学不信を、深めそうだ。あれこれ、方策が、示されても、一向に、収束に向かわず、信頼は、失墜している。このままで、いい筈が無い。

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11月14日(土)−破滅への道

 今の騒動が、続けば続く程、ある存在への、印象は、悪くなるだろう。その理由は、これまで、何度も、書いてきた。本来、自分達の生活を、豊かにし、安全にしてくれる筈の、存在が、無力であるばかりか、自分達に、悪影響を及ぼし、日々の生活を、脅かすからだ。
 そんな存在が、身近にあるのかと、訝る人も、多いだろう。だが、これまでの人生で、その恩恵に、浴したことのない人は、居ない。身の回りの、多くの便利は、その発展により、人々の生活の中に、持ち込まれてきた。一方で、疫病の広がりは、嘗て、多くの人々を、恐怖の底に、突き落としてきたが、研究の進歩により、治療法も、予防法も、次々と、編み出されて、人々の生活は、安全になってきた。これらの基礎となるのは、科学という学問だ。広く捉えれば、学問全体をも、包み込むものだが、中でも、特に、科学技術とか、医学とかが、上に書いたことに、関係してくる。これまでは、全幅の信頼を置き、その発展に、期待を込めて、関心を向け、時に、税金が注ぎ込まれるのも、当然と受け止めていた。でも、今は、と思う人が、増えつつある。突然起きた騒ぎは、初めから、最悪の筋書きが、次々に、紹介され、それを伝える人々が、加担することで、展開は、悪化の一途を、辿っている。それを、更に悪くするのは、本来、予防や治療に、力を尽くす筈の、世界機関が、収束への方策を、編み出すどころか、悪くするだけの、情報を、垂れ流している。この事態に、似非も含め、専門家は、解決策どころか、対応策でさえ、まともに示せていない。科学の無力さを、掲げるような状況に、大衆が思うことは、唯一つ、役立たずどころ、邪魔なだけ、ということだ。排除すれば、自分の勝手が、できるとなれば、海の向こうの大統領と、同じ、ならず者行為が、できる。だったら、耳を貸さず、無視すればいい。この危機に、あの連中は、何ができるのか。何もできねば、破滅しかない。

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11月13日(金)−強気と弱気

 証券市場は、期待によって、動くと言われるが、今の上昇は、何を期待した、結果なのだろう。解説は、様々に行われ、場当たり的なものも、目立っている。元々、相場には、雄牛と熊が、いると言われ、強気と弱気が、入り混じったもの、とされている。
 嘗て、上下を繰り返す相場の中、常に、悲観的な見解を、述べている人物が、外資系証券に、属していた。何事にも、悲観的で、否定的な、意見を並べるので、あまり好まれておらず、何故、件の会社が、彼を重用するのか、不思議に思う人も、多かったようだ。その彼が、豹変したのは、例のショックに見舞われ、相場全体が、沈む一方だった時で、突然、楽観的で、肯定的な、意見を並べ立てた。もしかしたら、単に、臍曲がりなだけで、他の人の意見に、反対することを、旨としていたのかもしれない。それと似た人物が、最近、週の後半の、朝の経済番組に、登場している。司会者なのだが、彼女の言動は、常に、悲観的な姿勢で、感心しない。専門家として、意見を求められるなら、楽観、悲観を、表すのも、理解できるが、司会者は、あくまでも、中立の立場を、貫くべきで、その意味で、理解に苦しむ。今や、経済番組は、経済に限らず、それに影響する、様々な事柄に対し、意見を集める必要があり、その話題は、多種多様となる。その中で、毎週、悲観を示すのは、どうかと思う。特に、最近は、世界全体が、雲に覆われた雰囲気となり、好転の兆しも、見えていない。にも拘らず、上昇を続ける相場に、反論する姿に、首を傾げたくなる。事実は、事実として受け止め、その理由を、探るべきなのに、逆に、何かの間違いのように、扱うのだ。上昇は、死者数が、増えていない為、という見解に対して、ワクチンへの期待、という的外れな指摘を、返すようでは、ただのアホでしかない。主張に拘るのは、意見を求められる、専門家だけにしておけ。

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11月12日(木)−検証を

 今の状況は、飴と鞭、とは違うようだ。様々なばら撒きが、実施され、飴は、振り撒かれているが、日々、伝えられる数は、鞭とは、思えない。何しろ、無知な人々を、脅し続ける輩は、数の増加を、殊更に強調し、逼迫感を、訴えようとするが、人々の反応は、鈍い。
 それより、飴を拾おうと、躍起になる人の数が、増し続け、戦略そのものは、功を奏しつつある、と言えるだろう。一方で、脅し文句の方は、錆びつき始め、嘗てのような、恐怖感を、起こせなくなった。狼少年の物語ではないが、何度も、同じことを、繰り返せば、慣れてしまうものだ。それでも、ここまで、手を替え品を替え、様々な様相を、訴えることで、注目を、引こうとしてきたが、手詰まり感は、否めない。その中で、他の媒体を、批判することで、売り上げを、伸ばそうとする週刊誌に、興味深い、見出しがあった。これまでの報道で、伝えられた事実に、多くの欺瞞が、あることを訴え、情報操作への、批判を強める、内容だった。聞き飽きた話を、否定する動きで、手に取る人が、増えるのかもしれないが、これまでの行状からは、鵜呑みにできない、気配が漂う。ただ、発表される数字に、騙されるな、という提案は、傾聴の価値が、あるだろう。検査による、陽性者の数は、その増減が、検査総数に左右される。科学者でさえ、そのことに気付かず、騒ぐことには、呆れるしかないが、大衆でも、その位のことは、想像に難くない。だが、それさえ行わず、騒ぎを、大きくする報道に、不信感が募るのは、当然のことだ。一方で、疫学や公衆衛生では、数値調査は、当然の手法であり、それもせずに、愚論をひけらかす、自称専門家は、無価値でしかない。では、何処かで、それが、行われているか。先ほどの週刊誌の、見出しからは、そう思える。ということは、多くのマスゴミは、彼らを無視し、不都合な事実を、覆い隠しているのだ。海の向こうの、次期大統領も、広く情報を集め、検討してくれれば、と思う。

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11月11日(水)−愛憎の果て

 愛と憎しみ、愛憎の葛藤を、恰好の材料として、取り上げることで、自らの正当性を、主張する人々。彼らを眺め、海のこちら側で、何を思うだろう。不思議なのは、他の国のことなのに、まるで、我が事のように、一緒になって、騒いでいる人が、居ることだろう。
 確かに、好きとか嫌いとか、感情的な判断は、分断を進める。だが、その区別ではなく、双方の違いを、際立たせているのは、愛するという、好ましい行為と、憎しむという、好ましくない行為を、比較しようとする、悪意に満ちた、企てなのだ。それにより、一方を、正しいもの、もう一方を、間違ったものと、区別して、自らの正当性を、確実にしようとする。表面的には、そんな様相に思えるが、その裏では、愛を感じない人々を、排除しようとする、心持ちが、垣間見え、一方で、彼らが愛する存在を、4年間で、積もり積もった憎しみで、排除しようとする人々が、その一方で、団結を掲げ、対抗勢力をも、その輪に、導き入れようとする。裏と表、人々の心理は、複雑なものだが、真意を探ることは、ただ鵜呑みにせず、疑いを抱きつつ、裏に隠された意味を、読み取る必要がある。愚民政治では、これによく似た形で、働きかけが、行われる。一見、魅力的に感じられる、提案を掲げ、人々の興味を、惹こうとする。一つの提案が、導く結果に対して、明確に示すことは、行われるが、その一方で、そこから、更に先へ進むと、何が起きるのか、については触れない。ここに、注意を向けねば、真意を、探ることは、できそうにない。であれば、落ち着いて、その先を、考えてみればいい。ただ、それだけなのに、何故、しないのか。不思議としか、思えない。愛と憎しみ、その対照を、注意深く眺めれば、すぐに、何かが見えてくる。簡単に、見破れる嘘を、見抜くことこそ、日々の生活にとり、大切なのだから。

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11月10日(火)−真の数値

 数の増減に、一喜一憂する。何処にでも、ある話だが、今度のは、喜びはなく、憂いばかりだ。それも、強迫的な表現が、付け添えられ、その効果の程が、試され続けている。愚かな大衆を、騙し続けることは、いとも容易く、数字だけでなく、詐欺の常套句が、加えられる。
 この惨状より、ずっと以前から、良識者の多くは、数字を、吟味する力の、必要性を説いていた。しかし、大衆を操り、自らの利益を、追求しようとする人々にとり、そんな動きは、忌み嫌うべきもので、たとえ、取り上げたとしても、効果が薄く、無駄なもの、との扱いが、主だった。そこに、この騒動が起き、能力不足の人々は、一部の性悪の輩が、巻き起こした恐怖を、受け止めることが、できないままに、恐怖の底へと、突き落とされている。数字は、その姿になれば、大小の比較が、可能となるが、それが、導き出された経緯を、無視することが、できるという特徴も、持ち合わせている。これが、数字を操る人間にとり、好都合となり、世界機関をはじめとして、多くの政府や、報道機関が、盛んに、利用している。一方で、常識を、身に付けた人々は、そこに、埋め込まれた悪意を、様々な形で、暴露し続けるが、その真意を、理解する力が、大衆には、備わっておらず、混迷を、深めるばかりとなる。今更、対抗する為に、学ぶ程の余裕は、大衆には無く、右往左往する中で、脅し文句が、巷に溢れることとなり、心理的なだけでなく、肉体的にも、蝕まれつつある。特に、弱者の状況は、悲惨とも言え、早急な救済が、必要とされる。だが、ここでも、以前から、取り沙汰される、似非弱者ばかりに、目が注がれ、肝心な部分には、手が及ばぬようだ。海の向こうでは、冷静に、専門家の意見に、耳を傾ける、という大統領が、誕生しつつあるが、彼が、肝心な数字を、どう理解するかが、今後の展開に、大きく影響する。制限だけでは、自由を守れないことが、明らかなだけに、どう出るかが、非常に重要だ。

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11月9日(月)−自由を

 明らかに、個人の自由が、奪われるのに、何故、人権侵害、という声が、出てこないのか。これも、明らかなのは、社会秩序を、守る為に、必要とされる措置では、個人より、社会が、優先される、ということだ。だが、人命の尊重は、当然でも、この事態は、どうか。
 人命は、尊重されねばならないが、命は、いつか、尽きるもの、それもまた、当然の摂理だ。では、この騒動で、死んだ人々は、理不尽な出来事の、被害者なのだろうか。何の調査もなく、見込みだけで、方針が、決められたことに、不満を抱く人は、増え続けている。特に、終わりの見えない、措置の継続には、耐え切れない、と思う人々は、日々の生活さえ、危うくなりつつあり、感染症そのものより、そちらへの不安の方が、遥かに深刻で、強いものとなっている。それも、ごく普通の人々、所謂、庶民こそが、被害者となっており、自由を奪われ、精神的にも、肉体的にも、強い圧迫を、受けている。不安を煽ることしか、頭に無い人々は、何の検証も、何の反省も、全く無いままに、同じ言葉を、発し続ける。より悪質なのは、手を替え品を替え、次々と、新たな脅威を、引っ張り出し、その恐ろしさを、実しやかに、説き続ける輩だ。合併症の恐ろしさに、目を向けたこともあったが、ついこの間は、後遺症なるものに、注目していた。所詮、種が尽きることは無く、検証も反省も、する気のない人間には、嘘も真も、どうでもいいのだ。ただ、耳目を集め、人々を、恐怖に突き落とせれば、それだけで、満足なのだ。だが、疑うことを知らず、社会秩序を、守ろうとする、素直な人々ほど、奈落の底に、落とされつつある、という印象を、抱いている。かと言って、反論するのも、他人と異なる行動をすることも、控えようとすれば、自分の心が、傷ついたとしても、仕方ない、と諦める。自由とは、何なのか。考えるべき時が、来ているのだ。

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