様々な制限が、多くの国で、かけられている。死への恐怖は、人々の口を塞ぎ、反対の声は、封じ込められるが、何度も繰り返され、効果が、疑われるに従い、大衆の反発は、強まっている。規制とは、本来、目的を果たす為のもので、それが、達成されてこそ、のものだ。
だが、現状は、惨憺たるものだろう。掛け声を、上げるだけで、検証を、行う素振りさえ、見せない機関の、無責任ぶりは、呆れを、通り越してしまい、誰も、見向きも、しなくなったが、各国に、金をせびる姿は、人道とか、倫理とか、ああいう組織が、本来、基本とする筈の事柄を、投げ捨てたとしか、見えていない。しかし、情けないと、彼らを蔑むだけでは、現状の打破は、達成できない。庶民達が、自ら、乗り出すしか、解決の糸口は、見つからないだろう。では、何から、始めればいいのか。まず、やるべきことは、自分のことは、自分で責任を持つ、という基本だ。当たり前のことを、できなくなった、愚民達は、国や組織に、責任を要求するが、構成員の一人として、自らの責任を、顧みることがない。それをせずに、社会の秩序を、求めることは、あまりに身勝手であり、無軌道ぶりが、目立っているのだ。責任を、負うべき人は、確かに居るが、彼らを、追及するだけで、自らの行為を、省みない人々に、何の権利があると言うのか。更に、自分の命を、大切に考えるなら、その為に、必要なことは何か、考えるべきだろう。自分で、できることさえ、やらないままに、他人に、責任を、押し付けるのは、人間のやることではない。世界全体に、こんな空気が、漂っているのは、そろそろ、末世を、想像されるが、このままでは、滅亡が、起きるだろう。人道とか、倫理とか、道徳とか、口ばかりで、何もしない人間に、生きる価値は、無いということだ。反論したいのなら、大いにして欲しい。その代わり、責任を、果たしてからにせよ。
絶対に、ばれない嘘、なんて、ある筈がない。と思うのは、自然だろう。その場凌ぎの、嘘を吐き、巧く切り抜けたとしても、後々、嘘だったことが、発覚するのを、見たことも、関わったことも、多くの人は、経験している。子供には、だから、止めておけ、と言うのだ。
だが、嘘が、中々、ばれないことがある。それが、嘘かどうかを、確かめようとする人が、誰も居なければ、何も起きないからだ。これについて、何か、思い当たることは、ないだろうか。私達は、単純に、巻き込まれているだけで、嘘に、加担している訳ではない。だが、嘗て無い、大規模な嘘が、世界中に、満ち溢れている、としたら、どうだろう。日々、流される情報に、落ち込む人は、多いだろう。悪化の一途を、辿っていると、伝えられる状況は、数字を、示すことで、確実なものと、受け取られている。だが、騒ぎの反面、身の回りの状況に、大きな変化は無く、対岸の火事、何処か、別の場所の騒動、と映っている。ただ、敏感な人は、繰り返される警告に、心穏やかに過ごせず、あれこれ、体の不調を、感じているだろう。でも、報道の如くには、体調の悪化は、起きない。だから、心理的に、また、精神的に、不安定な状態に、陥るものの、結局は、何事もなく、日々の生活を続ける。だったら、あんな叫びは、無視すればいい、と思っても、そうはいかない。何しろ、増え続ける数字を、突きつけられ、まるで、自白を強要されるが如く、迫られるからだ。ここで、別の考えを、採り入れてみよう。それは、数字自体を、疑ってみることだ。感染者、と伝えられるのは、あくまでも、検査で、病原体の存在を、確認したものであり、病気であることの、確認はされていない。つまり、発症者ではないのだ。従来は、感染者と言えば、発症者のことで、治療を必要とする人間だった。だが、ここでは、大部分が、自覚症状だけでなく、発熱などの症状さえ、示していない。更に、彼らが、感染を広げるかも、確かめられていない。だとしたら、今の状況は、本当なのか。実しやかな、嘘に過ぎないのでは、ないか。ばれないのは、誰も、確かめようとしない、からではないか。
この騒動に関して、世間は、大盛り上がりとなり、大衆の心配は、極みつつあるが、現時点での疑問を、書き記しておこうと思う。本来なら、多くの専門家が、真剣に、動向を分析し、それを、報告することこそが、第一なのだが、画面に登場する人物達に、その気は無いようだ。
公開された数値を、正しく分析すれば、全ての疑問が、消えるのかと言えば、そうではない。公開されたものは、ほんの一部に、限られるばかりか、本来、専門家達が、調査に乗り出せば、あらゆる方向からの、分析を行う為の、収集が行われるが、その連中が、怠慢を続け、騒動を、大きくする為に、脅し続けるだけで、冷静な分析を、する気にならないからだ。この状況では、公開されたものにしか、頼ることはできず、不十分な解析は、根本問題として、残り続ける。疑問は、今の対策は、十分なものか、更には、有効なものか、という点にある。北欧の国は、他国と異なり、独自の対策を、続けている。その中で、マスク着用は、義務付けられず、街の光景は、他国の都市とは、全く異なる様相を、呈している。だが、本来目指した、集団免疫の兆候は、殆ど見られず、対策の効果を、疑う意見もある。だが、この指摘も、的外れなのかもしれない。つまり、感染源への抵抗性を、表す免疫という状態と、今の検査で、確認される、陽性という状態が、違うものかが、確かめられていないのだ。抵抗性を示しても、病原体を保持する場合は、以前取り上げた、麻疹やヘルペスで、確かめられている。それでも、体内では、時に、不都合が起き、難聴や疱疹を生じる。この騒動の、最も大きな疑問は、検査手法の信頼性であり、当初から、疑問を示す人が、沢山居たのに、未だに、調査を行わない専門家には、価値が認められない。感染の仕組みも、発症の仕組みも、部分的に、紹介されるが、根本は、依然として、明らかとはならない。その中で、騒動は、大きくされるばかりで、収束させる動きは、一向に、起きてこない。この為体は、やはり、世界機関や専門家の責任、でしかない。
詐欺事件は、殆どが、自作自演である。ただ、最近は、登場人物が、増えてきて、その中の誰かが、作ったものでも、演ずるのは、別の人間、ということが増えた。蜥蜴の尻尾、と呼ばれる方が、遥かに多くなり、ほんの一握りが、中心に居るのだ。黒幕は、また別に、だが。
何処に、余っているのか、庶民には、理解できないが、兎も角、動く金額は、年々、増していた。最近は、使い古された手法では、稼げなくなり、新手が、次々に登場するが、画期的とは、ならないようだ。所詮、人間の知恵とは、その程度のもので、皆を、騙すことは、不可能なのだ。でも、今、世界が巻き込まれる、あの騒動は、どうだろうか。当初から、執拗に指摘してきたが、公的な機関が、主体となって、演じられている、この騒動は、まさに、自作自演と思える。恐怖を煽る為の、材料は、幾らでも、転がっており、聞き飽きたり、嘘がばれると、別の話題を、引っ張り出す。そこにこそ、専門家の本領が、発揮されており、あることないこと、というより、殆どあり得ぬことまで、厚顔無恥に、次々と紹介して、恐怖感の維持に、躍起となる。規模の拡大は、筋書き通りにはならず、矮小化され始めると、再び、無根拠の見通しを、掲げてくる。脅しには、根拠や証拠は、無用のもので、単に、強い印象を、引き出せばいいだけだ。元々、同じ機関の人間が、検証にも、関わるのだから、好き放題は、当たり前だ。この混乱下では、第三者が、検証に乗り出すのも、難しいようで、暴走は止められない。だが、詐欺師の手口には、何の違いもなく、驚かず、怖がりさえしなければ、簡単に、見破れるものだ。筋書きの書き換えも、読み返せば、すぐにできる。そこが、舞台で演じられる、芝居との違いだろう。一方、この騒動の黒幕は、誰なのか、知る術は無い。そこは、はじめに紹介した詐欺と、よく似ている。ただ、何方も、関わらぬことが、大事ということだ。
折角の提言も、皆の目に、触れねば意味が無い。そう思うのなら、こんな所に、書く意味は、全く無いだろう。だが、一方で、SNSに、書き続けたとしても、同じことなのだ。元々、名の知られた人間にとり、ああいう場所は、書き殴るにしても、耳目を、集められる。
一方で、価値のある提言が、そんな中で、誰にも知れず、埋もれていく。この差別を、どうしたら、と思ったとしても、壁を越えることは、かなり難しい。結果として、書き続け、いつか、日の目を見る、と信じることしか、結局、できないのだ。誰もが、自分の意見を、社会に伝えることが、できる時代と言われても、所詮、このような状況であり、愚かな意見や、乱暴なものでさえ、人の目に触れる機会を、得る場に出られる人からは、いとも容易く、巷に撒き散らされる。その矛盾を、突いたとしても、何にもならないから、放置しておく。その中で、今の混乱に関して、また、異常を感じたので、書き記しておく。それは、陽性者の数を、深刻に捉え、その増加に、不安が広がるが、一体全体、この数字の意味は、何なのか。問い直す必要が、あるように感じるのだ。同類の感染症として、流行性感冒や、一般的な風邪があり、それらについて、従来も、ある数を超すと、組織の閉鎖など、局所的な措置を、施すことで、更なる拡大を、防ぐことは行われていた。では、その数と、今、問題とされる数には、どんな違いが、あるのだろう。確かめていないが、各地域での、設定数は、その地域にある、学校数より、遥かに小さく、学級閉鎖と比べると、更に、その差は広がる。ということは、異常に小さな設定数で、騒いでいる訳で、そこに合理性は、全く感じられない。特に、死者数が、漸増する中で、騒ぎの意味は、大きく失われており、この措置の意味は、完全に失われた。また、世界で見ても、同じことが言える。死者数は、確実に増えるが、その歩みは、遅々たるもので、無視できないが、騒ぐ程でも無い。もっと、冷静に構えねば、首を絞めることになる。
ここでは、毎日、思いつきを、書き綴っている。しかし、大衆向けに、開かれた場所と違い、訪問する人の数は、少ない。本来、皆の注目を浴びたい、と思う人にとり、こんな場所は、好ましくなく、多くの人々が、意欲を失ってきた。では、彼らは、何処に居るのか。
それが、一般には、SNSと呼ばれる、社会的な繋がりを、形成する場所だろう。多くの種類のものが、既に、存在しており、海の向こうの大統領が、盛んに使う、囀りと呼ばれるものから、匿名性を少なくし、現実社会での結びつきを、反映したものや、画像による情報交換を、主体とすることで、芸能人が、盛んに、集まる場所もある。更に、繋がりそのものを、目的として、群を作る感覚のものも、人気があるようだ。そこでも、仲間内、という感覚を、重視することで、意見交換の機会を、得ようとするものから、見ず知らずの人間との、交換を、好む人々の集まりもあり、それぞれに、好みで、使い分けられている。だが、情報交換の道具として、多くの人の信頼を、得てきたものが、嘘や偽情報が、氾濫することで、警戒を、強める動きも、盛んに起きている。以前から、その問題を、指摘してきたが、これらの存在には、長短が入り混じり、使い方次第で、何とでも、なり得る部分がある。ただ、使いようとは、使う側の問題であり、被害を受ける人の多くは、誤った使い方を、しているのだろう。これは、情報を、鵜呑みにするか、確認するか、の違いでもあり、件の大統領が、証拠もなく、思いつきで、嘘を並べる姿から、簡単に、見極められそうに、思えるのだが、支持者にとっては、別の感情が、先に来るらしい。それと同じで、自分の欲しい情報を、拾い集め、それらに、惑わされるのは、まさに、自業自得であり、馬鹿げた行為、と呼ぶしかないのだ。今、制限が、かけられようとしている、と伝えられるが、これは、詐欺行為に対する、規制と同様で、所詮、鼬ごっこでしかない。各自で、判断するしか、ないのだ。吟味力を、磨くべきだ。
では、科学への不信を、招いたのは、何か。そんな疑問を、考えてみたい。多くの人々が、科学者の発言に、耳を傾けるのは、当然のことだろう。特に、何かしら、悪い事が起きた時、その問題の解説と、それへの対処法、更には、解決に向けての、手立てについて。
だが、歴史を振り返ると、問題が起きた時、科学者達が、誤った情報を、流したという事実がある。例えば、公害の例として、今も度々、取り沙汰される、有機水銀による、住民の被害について、医師からの告発が、あった後も、元凶となった、工場の関与を、否定し続けたのは、企業だけでなく、科学者だった。彼らは、何を根拠に、その断定を、行ったのか。今となっては、確認する手立てもない。同様に、「沈黙の春」の著者は、環境汚染への、科学者の関与を、徹底的に、批判していた。その一方で、別の科学者達が、問題の本質を、捉えることで、解決への道筋を、立てたことも、忘れてはならない。大震災後の、事故の問題についても、様々な科学者が、それぞれに、異なる意見を、提示することで、混乱が起きてしまった。これは、今も続いており、一般大衆を相手に、恐怖を煽り、被害者とされる人々に、寄り添う姿勢を、とる科学者と、冷静に、状況を分析し、問題解決への、手立てを提案すると共に、皆の協力が、必要との意見を、掲げる科学者に、大きく分かれていた。学問的には、前者は、明らかな過ちを、犯し続けているが、人々にとっては、味方と見做せることが、全てとなっている。では、今回の騒動については、どうか。明らかなのは、著名な科学者達が、軽率な発言を繰り返し、混乱を、増長させたことで、専門分野で、成果を上げたとしても、専門外への無理解が、露呈したことだ。折角の活動も、本人の意思とは裏腹に、混乱を招き、ついには、発言を、止めてしまった。これらをまとめると、結果的には、科学への不信を、招いたのは、それに携わる人々自身であり、無知は無知として、未知は未知として、認めることの大切さを、忘れてしまい、拘りにしがみつき、過ちを犯しただけだった。