パンチの独り言

(11月23日〜11月29日)
(異端、無根拠、赤恥、邪魔者、算術か、金集め、焚書)



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11月29日(日)−焚書

 無力感を、抱いている人は、多いだろう。大きな脅威に対して?、とんでもない、何が起きているのか、依然として、明らかにされず、ただ、闇雲に、混乱の極みに、突き進む社会に対して、である。強い違和感を、抱いたとしても、声も上げられず、流れに、従うしかない。
 だが、脅威として、掲げられたものは、殆どの人々にとり、身近に感じられず、対岸の火事どころか、どこか、遠くの方で、起きていること、でしかない。この状況で、日々流される情報は、さも、大ごとのように、騒ぎを伝えるが、それ以外に、近づく気配は、見えてこない。なのに、日々の生活は、窮屈にされるばかりで、心理的にも、肉体的にも、限界が、近づきつつある。脅威は、その実体が見えず、近づく気配も、感じられないが、自分の中の限界が、近づいてくるのは、凄まじい矛盾、と思えるものだ。何故、と思っても、脅しという形で、浴びせられるものに、抗うこともできず、ただ、従うしかない。それでも、国内の状況は、日々伝えられる、世界の状況と比べれば、驚く程、安穏なもの、と思える。だから、混乱の最中の国々の、様々な規制が、大衆に加える圧迫は、簡単には、理解できない。それも、心理や肉体どころか、法律という、有無も言わさぬ圧力として、加えられるものは、逆らえば、罰せられる訳で、見えない脅威への、対策として講じられただけに、実感が伴わず、遵守の理由さえも、見えてこない。まるで、小説の世界、とも思えるが、それこそ、事実は、小説より奇なりで、誰も、創作しなかった物語が、まさに、世界で、演じられつつある。嘗て、悪影響を及ぼすとして、排斥運動が、行われたものに、焚書、と呼ばれるものが、あったとされる。悪書の扱いで、焚いて、処分すべきもの、という意味だが、今、巷に流布される、物語は、まさに、その一つとして、後世、語られそうだ。ただ、この話は、あくまでも、出版物ではなく、保健機関から、流されたものだ。

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11月28日(土)−金集め

 意思疎通には、言語理解が、必須となる。だが、他言語を、理解しようとすると、そこに、高い壁を、感じるのではないか。辞書を、繙いてみると、一つの言葉に、多くの意味が、当てはめられている。こちらと、あちらで、言葉のもつ意味が、違っているのだ。
 これは、単純に、文化の違い、から来ている。そこには、歴史背景も含まれ、様々な要素が、入り混じって、異なる結果に、繋がった訳だ。言葉同様に、文化には、国や地域で、大きな違いがある。意思疎通だけでなく、相互理解を、目指そうとすると、再び、高い壁を意識させられる。ただ、そこでは、理解より、尊重が、優先されるべきで、理解できずに、排斥しては、何にもならない。今も、様々な形で、他文化を、否定する動きが、起こされているが、その多くは、正当化を伴う。例えば、環境破壊の一つとして、生物保護が、謳われているが、鯨に関するものは、まさに、他国の文化を、否定するものとなっている。だが、嘗て、盛んに、捕鯨を行った国と違い、こちらは、食文化と、結びついている。あちらは、油を得る為だけに、行っていたらしいが、こちらは、食べるだけでなく、生き物全体を、様々な材料として、使っていた。代替品が、出てきたことで、不要となった物を、保護の対象とするのは、身勝手なだけで、依然として、食卓を飾る習慣が、残る国からは、理解不能と映り、理不尽としか思えない。「勿体無い」という言葉も、一時の人気が、衰えてしまったが、資源が、限られる中で、循環を主体とした、考え方で、繁栄を築いてきた国には、当然の考えが、破壊を主体として、繁栄してきた国々が、反省もせずに、持続可能を糧に、更なる発展を、目指す動きを、掲げることに、強い違和感を抱かされる。だが、こちらでも、愚かな人々が、時流に乗ろうと、盛んに訴えている。これもまた、金集めに、躍起になる、世界機関の目論見で、所詮、上辺だけのものだ。掛け声は、金儲けの為で、解決する気は、微塵も無いだろう。

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11月27日(金)−算術か

 騒ぎに乗じて、盛んに、恐怖を煽っているが、一部の愚か者を除けば、多くは、冷静に、状況を、見極めようとしている。だから、医療現場の逼迫を、伝える報道にも、許容数の、3割や半分程度に、収まっている状況に、何を騒ぐのか、と首を傾げるだけだろう。
 それでもなお、恐怖を撒き散らそうと、収容数が、限界に達した病院を、せっせと取り上げる姿勢に、呆れるばかり、となっていた。そんな状況に、悲鳴に近い叫びを上げる、医師達は、遂に、事実と言われるものを、発表した。驚愕の事実とは、逼迫の実情を、表すものだが、従来から、許容数として、公表されたものが、事実と異なる、という話である。そこでは、数に入れられたものの多くが、要員を準備したり、設備を用意する必要があり、実際には、収容不能である、としていた。だから、現場の逼迫度は、公表された数字とは、全く異なるもので、ほぼ8割方が、埋まっているということだ。この話が事実なら、驚くべきことだが、それより何より、これはまさに、詐欺そのものである。できもしないことを、できると喧伝するのは、今のワクチン開発の状況でも、当てはまりそうだが、それはまだ、期待できる、という意味で、詐欺とはならない。だが、こちらの話は、嘘でしかなく、詐欺と断言できる。嘘も方便、と思う人も居るだろうが、よく考えて欲しい。重症患者を、引き受けることが、できるかどうかは、今回の感染症において、最後の砦となるもので、専ら話題となる、陽性者の数とは、比べ物にならぬ程、重要なものだ。だからこそ、各地で、どの程度の数が、存在するかが公表され、それを指標に、様々な方策が、講じられる。その一方で、提供する側には、補助金などが、配られているだろう。だとしたら、有ると届けて、補助金を受けてきた病院で、実態が異なるなら、嘘だけでなく、詐欺行為そのものとなる。仁術ならぬ、算術とは、恐れ入る。

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11月26日(木)−邪魔者

 人間は、恥を、恐れるものと思ってきたが、どうも、そうではないらしい。一部の、傍若無人な人間が、掛け捨てなどと、宣うのは、単なる、恥知らずに過ぎないが、要職にある人間が、自分の発言をはじめとして、言動の数々が、天に唾する如く、自らに返るとは、思いもしない。
 この騒動が、何時迄続くのか、誰にも判らないが、何時迄続けるのかは、あの人々は、知っているのだろうか。自分で、始めたことを、自分で、終わらせるのは、恥に関すること同様に、子供の頃から、散々、言われてきた。いい大人が、それを、守れず、放置したままや、悪化させるなど、好き放題にした挙句、逃げ去るのを見て、次代を担う若者や、まだ、右も左も分からない、子供達は、何を思うのか。選挙で敗れ、去るべき時が、迫ってもなお、自らの敗北を、認めようともしない大統領は、まさに、論外となるが、こちらの国の、首長達も、大差ないように思える。背後に控える、専門家達への、信頼から、彼らの言動が、決まる訳ではなく、単に、自分らの思いつきを、正当化する為だけに、連中を使うだけだ。連中とて、金や名誉を、手に入れようと、躍起になる中、好機を逃すまいと、実しやかな根拠を、並べ立てる。感情に、訴える言葉は、彼らの、最も得意とする所だが、それは、大衆、その多くは、愚民だが、彼ら自身が、それを好むからに、過ぎない。冷静に、状況を把握し、数字を、眺めるだけで、嘘の殆どは、容易く見破れる。だからこそ、確固たる根拠より、感情を揺るがす、言葉の数々を、並べ立てているのだ。特に、今の状況は、世界各地で、大混乱を来たし、解決の糸口さえ、見出せない。だからこそ、沈着冷静な、判断をする為の、状況の把握と分析が、必要となるのに、興奮状態の人々は、暴れ回るだけだ。狂騒曲に合わせて、踊り狂い、死を迎えたいのなら、勝手にやればいい。こちらは、自身の人生を、如何に楽しむかが、肝心なのだ。邪魔は要らぬ。

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11月25日(水)−赤恥

 恥の上塗り、とでも、言いたくなるが、この警告が、届くことは、決してないようだ。こちらでも、また、SNSの囀りでも、何度も、書き連ねているが、何処からも、反応は無く、だからこそ、反論も出てこない。これでは、人々に、考えるきっかけを、与えることも無い。
 誰もが、自身の意見を、発表する機会を、得ることができる。などと、盛んに喧伝されるが、機会を得るのは、実は、嘘ばかりであり、まともな意見は、人々の関心を、呼ばないのだ。何故か。簡単には、感情に、訴えないからだ。特に、大衆は、昔から、不安を優先し、それを招く意見を、好むと言われる。何故、わざわざ、自分を、窮地に追い込むのか、と疑問に思う人は、彼らの心理を、理解できない。不安を、盛んに口にする人は、実は、窮地には、近づいてもいない。その代わり、そのようなふりを、することで、安心を、手に入れているのだ。この矛盾は、身勝手な心理を、持ち合わせた人間にしか、生じないから、まともな論理を、繰り出すことで、問題を解決しようとする人間には、全く理解できないもの、と映る。今の状況は、まさに、その最中であり、様々な心理戦が、世界各地で、行われている。冷静な分析や、確かな解析は、見向きもされず、感情的な言動に、皆の耳目が、集まるのだ。不確定なことが、不安を招くと同時に、安心を与える。矛盾が、矛盾を呼び、混乱が、極まる。この状況で、人々は、何がしたいのか、見えなくなる。今の状態は、まるで、こんな具合なのだ。ただ、この騒ぎも、起こした人間達が、姿を消し始めると、収まるに違いない。それが、何時になるのか、誰にも分からない。だが、騒ぎ自体が、悪質なもので、科学的な根拠どころか、あらゆる言動に、根拠が無い状態で、長く続けることは、難しい。何かが、発覚する度に、それを否定し、恥の上塗りを、重ね続ける。ただ、騒ぎに乗じて、金を、掠め取った人間だけが、ほくそ笑むのだろう。

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11月24日(火)−無根拠

 現場の混乱は、想像を、絶するものだろう。だが、だからと言って、何を言っても、構わないとはいかない。医療従事者が、様々な場面で、悲鳴に近いものを、上げているが、その中には、筋違いのものや、根拠のないものが、多くなっている。混乱が進む程に、である。
 これまでも、専門家と称して、その代表者の如く、振る舞う人間が、画面に登場してきた。彼らの殆どは、何の証拠も示さずに、好き勝手な意見を、発してきた。窮地に陥った人間は、真実を語るとは、誰が、言い出したことか、これ程の大嘘は、ないだろう。困っている人は、救うべきとの考えは、人道的なもの、とされるが、これもまた、如何わしい意見だ。弱者保護が、上手く進まない原因の多くは、こんな背景にある。つまり、困っているふりさえすれば、どんな無理も、通るという考えが、そこにあるからだ。医師の代表者たる人間達も、この機に乗じて、無理矢理、主張を通そうとする。政府が、旅行を促進する策を、講じたことが、大事を起こした、とするのだ。そこには、二つの事象の重なりが、あるとのことだが、相関というものは、思いつきで、成立するものではない。更に、数の増加を、根拠とするが、率は、殆ど変化なく、根拠自体が、怪しげと映る。ただ、この率という数値は、首都しか、公表しておらず、他府県は、明示していない。だが、監督官庁の数字から、計算すれば、簡単に導けるから、こちらも、造作なく、示せるだろう。にも拘らず、思い付きに拘る、愚か者は、自己主張を、続けている。科学への不信が、今回の騒動で、深まることは、明らかだろうが、それを承知で、妄言を、吐き続けるのは、専門家としても、職業人としても、更には、人間として、失格と断ぜられる。この事態を、招いたのは、今回の騒動に関わる、全ての人間であり、医療だけでなく、政治家や科学者の関与が、考えられる。良識さえあれば、無根拠に、決め付けることの危険は、分かって当然だ。

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11月23日(月)−異端

 自分のことは、自分で責任を持つ。当たり前のことで、子供の頃から、教えられてきた。と思ってきたが、今の世の中は、どうも、様子が違う。他人の責任には、厳しい目を、向けるのに、いざ、自分のこととなると、態度が、一変する。責任転嫁に、走るのだ。
 何故、と思うのは、そういう感覚が、無いからだろう。この態度を、示す人々は、殆どが、それが当然、と思っている。他人のことも、自分のことも、責任は、そっちということらしい。では、自身のことについて、どんな考えで、決めているのか。何処かで、聞いたことのある話、となるのだが、皆がどうするか、で決めるとのことだ。そうすれば、自分は、決めることに、関わっていない、という気に、なれるらしい。これを読んで、そんな馬鹿な、と思う人には、決して理解できぬ。逆に、成る程、と思う人は、それが当然となる。言われた通りに、素直にする、という子供時代、何の違和感も、抱かずに育ち、そこから、更に、大人になっても、同じことを、続けてきた。自我の芽生えは、無かったのだろうか。そんな疑問さえ、浮かぶけれど、彼らにとって、他人の意見に従う、世の中の、常に習う、というのが、自我だというのだろう。災害などで、他人と同じ行動を、選ぶことで、助かった人も居れば、違う行動を、選ぶことで、助かった人も居る。だが、皆がすることと、同じことをする人に、違うことは、できる筈もないが、自分で判断する人には、どちらもできるのだ。選択の範囲が、広がることに、気付かないのだろうか。それとも、違う、と見られることに、抵抗を感じるのか。横並びを、当然と考える人にとり、人と違うことは、受け入れられないのだろう。昔、皆で渡れば、と揶揄されたのは、そんな行動を、批判する考えからだろう。だが、今は、そんな異論を、唱えることさえ、憚られるのかも。面倒なことだ。

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