パンチの独り言

(11月30日〜12月6日)
(潮目、脅し文句、持ち腐れ、真の悲鳴、学ぶのか、好きにせえ、裸の王様)



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12月6日(日)−裸の王様

 出ろ、出るな、と言われて、世の中の流れに、乗るしかない人々は、右往左往している。自主性が無く、他人と同じであることが、安心へと繋がる人間に、今の世は、何とも生き難い時代だ。全く正反対のことを、当然の如く掲げる、権力者達に、反発の声を、上げられず。
 何とかしてくれ、と言う代わりに、もう勝手にする、と言えばいいのに、何故、しないのか。不思議に思うのは、自分を持つからか。世の流れに合わせ、結果として、被害者となれば、満足できる。何の楽しみが、あるというのか。こちらは、この機会をと、せっせと出かけ、一時の賑わいが、遠ざかってしまった、観光地を、訪ね歩くが、現地の人々は、一様に、嘆き声を漏らす。客が訪れれば、商売を、止める訳には行かず、細々と、続けているが、巷に溢れる、恐怖感の伝播は、どんな場所にも、行き渡っている。他の土地、特に、喧伝される、都会からの人々は、まるで、伝染病に冒されたように見え、遠ざけたくもなるが、それが叶わぬ状況に、悩みが深まる。元々、不出来な素人芝居でしかない、この騒動に関して、誰も、それを指摘せず、一緒に踊り狂うのは、まるで、学習発表会で演じた、裸の王様のように、見えてくる。誰もが、子供の頃に、接した話は、同調圧力として、今、話題となる事象の、典型なのだが、今更、取り上げられるのは、何故なのか。明らかな事実誤認が、さも真実かの如く、毎日のように流され、それに従う形で、政策が実行され、それによって、大衆の殆どが、被害を受ける中、異論を出すことは、憚れると言われる。新しい言葉を、持ち出すまでもなく、裸の王様は、世界機関の中で、堂々と、自らの不明を、曝け出している。彼らの間違いを、論理的に糾弾し、馬鹿げた芝居を、止める為には、無垢な子供ではなく、知識豊かな大人が、声を上げねばならない。その店で、事実説明を、行っていたら、大きな声を、上げて欲しいと言われた。確かに、その通りだ。だから、ここだけでなく、実名でも、何度も、書き連ねているのだが。

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12月5日(土)−好きにせえ

 怖いからとか、危ないからとか、不安を口にする人が、居るのだが、果たして、何がどう、怖くて、危ないのか、殆どの人は、わかっていない。これは、当たり前のことで、煽る人々が、不正確な情報を、垂れ流し、多くの場合、更に手を加え、演出を施すからだ。
 情報に流される、大衆にとり、巷に流れる話の数々は、頼りとなるものだった。しかし、偽情報と、他人が流すものに、文句を付けつつ、自分では、作為に満ちた嘘を、垂れ流す、大統領が、君臨する国さえ、出てくる時代だ。それも、自由と権利の国と、歴史上も、現在も、世界が認める所さえ、そんな始末である。権力、体制でさえ、情報操作を、公然と行えば、情報伝達に、携わる組織も、ここぞとばかり、勝手なことを、行い続ける。何しろ、体制どころか、世界機関が、先頭を切って、不確かな情報を基に、人々の恐怖を煽り、金集めに精を出すのだ。初手を、誤ったことは、既に、何度も指摘され、件の局長は、否定することさえ止めて、無視を決め込む始末。その上、軌道修正どころか、更なる害悪さえ、撒き散らすが如くの、方策の数々により、状況は悪化し続ける。検査には、意味がなく、依然として、確かな治療方針も、示さぬままに、ワクチン騒動も、その効果の程ではなく、誰に配るかを、盛んに、取り上げている。ここでも、金次第であるのは、全くその通りで、人道という名の下に、無理難題を、金持ちの国に、押し付ける始末。もう、どうでもいいのではないか。人の命は、限りあるもの、それを、どう扱おうが、各自の自由だろう。怖いと思い、危ないと信じることで、騒動を、広げようとするのも、勝手なことだが、こちらの生活が、脅かされるのは、真っ平御免である。何を、どう信じようが、自分が、正しいと思ったことを、行うことが、妨げられるのは、迷惑千万なのだ。

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12月4日(金)−学ぶのか

 学ぶことの大切さは、改めて、論じるまでもないだろう。そう思ってきたが、この騒動の中で、その意義を、否定するような言動が、度々、発せられるのを見ると、こちらの誤解なのかも、と思えてきた。何が、違っていたのか、意見は様々で、異論も多くありそうだ。
 このことを、表す事柄の一つは、教育現場を、蔑ろにするような意見だろう。教育の本質が、どうあるべきか、を論じることなく、緊急事態との判断から、閉鎖を決定するなど、深慮に欠ける決断が、度々、出されたことに、一部の人々は、危機感を強めてきた。代替策として、間接的な接触を、唯一の手段とする方法が、世界各地で、実施されているが、その効果の程は、確かでないばかりか、結果を、検証しようにも、かなりの時間を要するだけに、検討の手段さえ、見つからないのだ。それを、いいことに、暴走を続ける現場では、様々な差別や、不十分な伝達が、目立ち始めているが、それとて、各自に、どんな影響を、及ぼすのかは、数世代を経ないと、見えてこない。一時の、誤った判断が、長期に渡り、影響を及ぼす可能性が、あるにも拘らず、作られた恐怖により、決断を急ぐのは、大きな過ちとなる。戦争をはじめとして、多くの人為的な災害が、如何に大きく、人々の心に、影響を及ぼしたのかは、これ程明らかなのに、懲りないのだ。ここでも、実は、学ぶことの大切さが、実感される。経験を基に、新たな知識を、身に付けることは、学校外での学習だろうが、人生において、不可欠なものとなる。今も、騒動の元凶を、排除する為の、唯一の手段として、ワクチンの開発に、期待が集まるが、この効果の程を、表す数値を、一体全体、どの位の人が、理解できるのか。薬の効果を、検討する中で、様々な統計が、施されているが、素人だけでなく、多くの専門家さえ、理解できないものとされる。今回のも、百分率で示される、数値は、多くの仮定の上で、導き出されたもので、何の確率か、すぐには理解できない。だったら、説明を要求し、理解を進める必要が、あるのではないか。

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12月3日(木)−真の悲鳴

 医療現場から、悲鳴が届く。と言っても、不埒な奴らが、好んで取り上げる、感情的なものではなく、極々、冷静な、現状把握に、基づくものだ。その原因は、医学界全体が、陥っている、被害者意識の蔓延で、その裏返しとして、恐怖を、せっせと煽る、愚かな判断だ。
 医師会の重鎮が、さも当然と、身勝手な都合を、社会に押し付ける行動は、まさに、金の亡者たる、劣悪さを、如実に表しているが、当人達は、一向に、気付く気配は無い。一方、医療現場の混乱は、患者を前にしたものに限らず、治療を含め、この騒動の原因に対する、方針を、全く決めようとしない、業界全体の、問題となっている。発症した患者に、どんな治療を、施していいのかは、明らかにならねば、対応のしようがないが、それ以外の人間を、感染者と称して、処する動きには、その先の方針が、全く無いらしく、対応は、専ら現場の判断、に任されている。その結果、恐怖を煽る一方で、何の解決策も、講じようとしない、組織全体の欠陥は、現場へと、歪みを、押し付けるのみとなる。検査だけが、注目されるが、医療従事者にとり、その先こそが、肝心となるが、始めと終わりにしか、目が向いていない現状は、最悪の事態を、招きかねない。検査と重症患者、その間にある人々に、目を向けぬまま、騒ぎ立てるのでは、事態の悪化は、止められそうにない。これ程、無能な人々が、人間の命を、預かっているのか、と思う度に、悍しく感じるが、末端の現場の人間は、そこに、別の圧力を、かけられているのだから、たまったものではない。唯一の救いとして、盛んに取り上げられる、ワクチンについても、効果の程は、確かではなく、不思議な数値だけが、独り歩きする。その上、接種に関しても、現状では、不確かなものへの、世界的な大規模実験、の感は否めず、そこでも、医療従事者は、実験動物の如く、駆り出されるだろう。悲劇が、起きないことを、祈るのみだ。

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12月2日(水)−持ち腐れ

 宝の持ち腐れ、と断じては、担当者達が、浮かばれぬ、とされそうだ。だが、あの程度の計算を、世界一の能力で、する必要があったのか、訝る向きも、多いと思う。以前から、激しい競争に、晒される世界は、話題に事欠かず、事情に疎い人々まで、首を突っ込んできた。
 先行機が、一位の座を、譲った時、関係者は、その地位を、取り戻そうと、躍起になっていた。今、野党にある政党の人々は、そこに、注ぎ込まれる予算に、いちゃもんをつけ、一位で無ければ、駄目なのか、と問うていたが、愚問の典型、と思った人も居ただろう。だが、その多くは、役人の応答に、何の知恵も感じられず、更に、落胆した。少しの知恵があれば、長距離走に喩えて、先頭でなければならない、という訳ではないが、先頭集団に、加わっていないと、大きな遅れを、取る可能性が高い、と答えただろう。その後、念願の一位復帰、となったのだが、計算機の性能が、最先端を、突き進むからこそ、何を、どう計算させるかが、肝心となる。騒動に乗じて、その性能を、発揮しようとの目論見が、あったことは、確かだろうが、それにしても、この程度のことを、達成できたと自慢しても、何にもならない。肝心なのは、病原体を運ぶ、飛沫の拡散だとしても、環境下では、それは、平面的に、広がるだけでなく、上下にも、広がっていく。その上、室内とは言え、空気は、複雑に流れ、それに乗る形で、広がることは、危険を増す方向だけでなく、減じる方向にも、影響を与える。報道される度に、落胆の度合いが、強まるのは、計算速度の高さを、活用するのではなく、単純な想定を、置くだけの仮想計算で、お茶を濁すような、ものばかりが並ぶからだ。何故、満員電車での感染爆発が、起きなかったのか。何故、居酒屋では起きるのに、映画館では起きないのか。様々な疑問に、計算で答えを出せねば、宝の持ち腐れであり、それは、あの愚かな政治家が発した、いちゃもんに、現場でさえ、反論できないことを、明らかにしてしまう。情けないことだ。

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12月1日(火)−脅し文句

 脅しの種は、選り取り見取りのようだ。詐欺の手口と同様に、飽きられたり、見破られたりしても、他の種から、新たな手口を、編み出せばいい。鼬ごっこも、全く同じで、次々と、繰り出される脅し文句に、何度も、恐怖を味わされ、その度に、不安に駆られる。
 これも、同じことだが、唯一の解決策は、無視するしかない。儲け話に、飛び付いた結果、騙されたという経験を、持つ人の多くは、別の、美味しそうな話に、飛び付くらしい。結局、話し方の上手下手より、聴く側の、思惑こそが、優先される。普通に聞けば、怪しさを、察することができても、欲に目が眩む人には、見え透いた罠にも、別の見方しか、できないらしい。同じと言えば、ここでも、同じことだろう。欲と不安の、違いはあっても、心に住み着く、邪な考えが、自らを苦しめる。だから、素直だからこそ、騙される、という考えには、明らかな誤解がある。鵜呑みにする、という行為は、素直だから、と思う人が、居るのだとしたら、それは、明らかな誤解なのだ。騙す側の、思う壺となる、こういう考えが、世に蔓延るのは、人間の心が、自身の都合により、変わることから、始まっている。騙された人々は、それを、正当化する為に、自らの欲を隠し、如何に容易く、騙されたかを、主張する。不安についても、同じことで、安心は、過信へと繋がり、被害を受ける、という強い思い込みが、その原因となっている。さらに、周囲と同じであれば、いいという考えも、加わることで、不安であるという安心を、手に入れているのだ。そんな愚民を、手玉に取るように、脅し続ける人々も、思惑で動いており、それによって、利益を得ようと、躍起になる。だが、先読みが、不十分な為に、今の脅しは、思い通りの展開にはならず、破綻が近付いている。半年も前から、同じことを、書き続けているが、一向に、破綻しない、と言われそうだが、そうならないのは、社会の問題なのだ。さっさと、彼らを見切らないと、駄目なのだ。

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11月30日(月)−潮目

 天井知らず、とも思える相場に、一部の人々は、危惧を抱いている。確かに、30年程前に、この国を襲った、株価暴落は、歴史に残るものとなり、多くの国々にとり、学ぶべき事例となった。直前まで、上昇相場を、疑うことなく、何の備えも無く、渦に巻き込まれた。
 それまでにも、同じような様相は、何度も、市場を襲ってきた。その度に、まさか、という声が漏れ、衝撃に、ぶちのめされた人々は、失意のどん底へと、突き落とされてきた。今回も、その例に漏れず、参加者達も、その理由が、思い当たらず、狐につままれたまま、資金を、注ぎ込み続けている。一説には、資金の流れに、大きな変化が起き、公定歩合が、負の値を、示すに至り、市場に余った金の、行き先を、失った為、とも言われる。このままでは、経済の仕組み自体が、崩壊するとの見解は、当然のものだが、それこそ、歴史上、初めての試みが、どう展開するかを、読み解くことは、容易ではない。一方、資金の流入だけでなく、将来への期待を、基本とする相場が、何を、期待するのかを、見抜くことも、同じく、容易ではない。世界が、混乱の極みにあり、将来への不安が、声高に伝えられる中、何の期待があるのか、訝る向きも多い。その中、騒動の原因を、一掃できる筈、との期待が、向けられるものが、期待通りの展開を、進められるかについても、期待が膨らむだけで、否定的な意見の多くは、排除されている。こんな中で、何が起きるのか。いつも通りの展開を、著す投資家も、現れているが、彼の読み通りに、事が運ぶかは、神のみぞ知る、なのかもしれない。というより、彼の読みとは、全く外れた形で、展開することも、あり得るのだ。それでも、上昇に関しては、いつかは、下げ相場が、始まるのだろう。但し、それが、暴落となるか、穏やかなものとなるか、これもまた、誰も知らないことだ。ただ、市場の過剰反応が、著しくなった時代、警戒を要するのは、確かだろう。

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