パンチの独り言

(12月7日〜12月13日)
(騒ぎ過ぎ、撤回を、学問崩壊、品が無い、崩壊、代わり映え、つまらぬ)



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12月13日(日)−つまらぬ

 寝床で読む本は、面白いと、すぐに読み終わるが、そうでないと、いつまでも、眠気を誘うものとなる。今回のものも、前回同様、何ともつまらぬ内容に、終わりが見えていなかった。そこで、鉄道旅に、出かけるのを幸い、やっとのことで、読み終えることができた。
 前回のは、著名なコピーライターが、設立した企業に、関する話題だったが、根性を排除しようとする、実は、別の形の根性論の如く、気の持ちようを、押し付ける内容に、一向に、進まぬ難物、と化しており、前回、出かけた時に、片付けた。今回のものは、著名投資家に、話を聞いたもので、本の作り方としては、同じだろう。だが、話の主の問題だけでなく、聞き手やまとめ役の問題が、そこに、暗い影を落とす。特に、こちらは、年寄りの話だけに、好き放題に、語らせて仕舞えば、散漫な内容となるのは、当然のことだ。相場の世界では、全体として見れば、資産運用の結果として、増やすことができる、と言われている。しかし、人間の欲深さは、止まる所を知らないから、もっと、と願う心は、天井知らずの相場を、思い描き、それが、現実となることを、信じ込んでしまう。結果として、暴落に巻き込まれ、なけなしの金を、失ってしまう。その常を、乗り越えてきた投資家にとり、悲観的な筋書きは、当然のものであり、相場の仕組みを、熟知した人間は、それを逆手に取り、空売りという手段で、何度も、莫大な儲けを、手にしてきた。その信念から、今回の高騰も、所詮、金融政策の過ちで、早晩、嘗て無い程の、暴落へと、転じると説いている。彼の考えとは、異なる編集姿勢か、そこに、今回の世界的騒動が、加わることで、更に、悲惨な結果を、招くとの予言を、この機会に、とでも考えたのか、半年以上前に、出版されたものは、目論見通りには、事が進まず、残念な結果となった。それでも、投資家の見立ては、外れないだろう。ただ、この人物の考え方には、与しない。

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12月12日(土)−代わり映え

 非常時に、人間の行動は、異常を示すことが多い。冷静になれば、それに気付ける筈が、切羽詰まっていると、判断能力さえ、失われてしまう。それにより、自らの命を、危険に晒すのは、自業自得だが、時に、周囲への悪影響を、及ぼすだけの異常となると、迷惑千万だ。
 この騒動も、規制が強まり、人々が、戸惑い始めた頃、正義と称して、異常行動を、示す人が多く出た。自粛警察、などと揶揄されたが、もう忘れただろうか。正義感からでは、と思う人も居ただろうが、実際には、自己中心的な考えが、表面化しただけの、身勝手な行動でしかない。まあ、二大都市の首長が、挙って騒いだ、遊興業への自粛要請も、今となっては、笑い事ではない、明らかな、営業妨害でしかなかったが、支持者の中には、加担した者も、多かっただろう。この国の人々の、異常さの現れ、と見る向きもあろうが、現実には、世界各地で、様々な異常が、起こり続けている。騒動自体が、作り出されたものだけに、そこから生じる、異常さについては、作られたものに、なるのは止むを得ない。戒厳令の如く、外出禁止を、厳しく定めるなど、様々な制限が、世界各地で、敷かれているが、一方で、その効果の程を、検証する動きは、殆ど起きておらず、何度、空振りを続けたら、気が済むのだろう。別の方策を、講じ始めた国に関して、その後の経過が、伝えられることは、殆ど無く、こちらも、効果の程が、明らかとはならない。だが、数字を眺めれば、少しは、理解が進むのではないか。現状では、都市封鎖を、選択した国と、集団免疫を、選んだ国で、数字には大差無く、どちらも、効果を上げていないことが、理解できる。となれば、何もせずとも、何の変化も起きない、ということになる。騒ぎたい連中には、不都合な結果であり、結局、この感染症が、既知のものと、変わらぬことが、わかってくる。それは、死亡率においても、同じことだ。阿呆らしや。

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12月11日(金)−崩壊

 日々、書き連ねているので、内容は、どうしても、浅いままに終わる。かと言って、連日、読み進める形では、読む側に、不満が残るだろう。そのせいもあり、余韻を残す形で、書くことが多いので、よくわからない、との声が出てくる。でも、この形で、進めたい。
 数だけを掲げ、さも大事の如く、騒ぎ立てている状況を、批判した所だが、その数字自体も、無意味なもの、と断じるべき、と思っている。その端緒となるのは、世界的に公表される、数字の推移である。先日、久しぶりに、JHUのサイトを、調べてみた。当然ながら、世界各国で、数字は確実に増加するが、割合を、計算すると、別の状況が見えてくる。恐怖を、世界中に広げた、張本人とも言える国では、急速に増加する死者数が、注目されていた。驚くべきは、陽性者当たりの死亡率で、当時、14%を超えており、それが、恐怖を煽る材料、となっていた。今、その数字は、どうなったか。3.5%にまで落ち、他国との差は、殆ど無くなった。4ヶ月程で、4分の1になったのだ。では、その理由は何だろう。好意的に見れば、医療体制の整備が、進むことで、効果を上げたとなるが、実態は、全く異なるだろう。嘗ての陽性者は、症状を示す患者を、検査した結果であったのに対し、今は、症状の無い者を、検査した結果なのだ。別の見方をすれば、今、世界を恐怖に陥れる、陽性者の多数は、死の危険を、伴わない状況にある、ということになる。これは、今の世界で行われる、対策の本質が、明らかに間違いであることを、示している。大きな数字を、示すことで、保健当局は、正当性を主張するが、その正体は、幻でしかなく、誰かが描いた、想像図でしかない。そのことに、気付いた人々が、小さな騒ぎを、起こし続けているが、大勢に変化はなく、暴走が、続けられる。自己矛盾にさえ、気付けぬ人々が、過ちを、認めることは、決してなく、君臨し続けるのか。それとも、自己崩壊は、近いのか。

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12月10日(木)−品が無い

 馬鹿とか、阿呆とか、下品な表現を、連呼しているが、それくらい、空騒ぎが過ぎるのだ。実態を、正確に捉えようとせず、過剰反応ばかりを、流布することで、自らの過ちを、消し去ろうとする。何処も彼処も、そんな輩が、大きな顔をして、嘘八百を、撒き散らしている。
 先日、ある地方都市に関する、衝撃的な数字が、公共放送の地方局から、発せられた。人口当たりの感染者数が、全国一となった、と言う。そこに住む人々にとり、意外としか思えぬ報道は、それを流した張本人達には、いつも通りの、恐怖を煽る材料と思えただろうが、住民には、別の効果を与えたようだ。身近な状況を、比較対象として示したことで、実態が、より正確に、伝わったからだ。これが、全国一ならば、何処も彼処も、大したことはない、という実態だ。改めて、最新の数字を見ると、この国では、昨日時点で、累計、169,480人の感染者、正しくは検査陽性者が、居たとのことで、人口当たりで言えば、約0.13%となり、およそ800人に一人となる。成る程、身近な友人に、一人も居ないのは、だからだ、と思う人が多いだろう。そんな実態を、正確に伝えるより、医療崩壊とか、病状の深刻さとか、別の話題で、恐怖を煽るのだ。これを、馬鹿とか、阿呆とか、表現することは、間違いだろうか。世界各地の、深刻な状況を、伝える内容も、作為に満ちた、取捨選択の結果であり、不都合な事実は、一切伝えようとしない。日々の数字に、悲鳴を上げ続ける、首長達は、必死の形相で、緊急事態を伝えるが、数値的には、上に書いた程度のものを、大仰に掲げるだけで、冷静な分析は、殆どしようともしない。保健当局が、折角作り上げた、効果的な数字も、冷静に眺めれば、大したことなく、陽性の意味をも、眺めてみれば、空騒ぎとしかならない。画面や紙面を、賑わす似非専門家達も、愚かでしかないが、それより、保健政策を、決める立場にある人間が、国内だけでなく、世界中で、間違いを繰り返しており、下品な表現が、お似合いとしか思えないのだ。

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12月9日(水)−学問崩壊

 専門家の為体は、悲惨なものであり、何度も、強く、批判してきた。だが、それだけではなく、巷に溢れる、科学者達の発言も、意味不明だったり、明らかな誤解に基づく、嘘としか、言い様のないものが、目立っている。科学への信頼が、揺らいでおり、まさに、危機的だ。
 科学的な事柄だから、科学者の関わりが、重要となるのは、当然のことだが、現実には、公の場で、発言できる立場に、ある人々からの、誤謬の数々は、理系に限らず、文系の学者からのものも、洪水の如く、押し寄せている。例の如く、無理解に基づく、杜撰なものが、多く見られるが、学問に携わる人間として、品格を、打ち捨てるような、行為と見るべきだろう。同じことが、一昔前に、起きていたことに、気付く人は、どれ位居るのか。あの時も、原子力発電や、放射性物質に対する、無理解が、社会に蔓延し、その中で、知識人と呼ばれる人々が、誤った情報や、誤解に基づく意見を、盛んに、撒き散らしていた。当時も、学問の危機が、取り沙汰されていたが、それより、世間が、好んで使った、「村」、という表現が、注目を浴び、まさに、村八分そのものの、排除行為が、行われていた。この行為の背景には、マスゴミと揶揄される、情報操作に、躍起となる勢力が、反体制の立場を、誇示しようとする、目論見があったが、今回の騒動も、同じことが、起きている。毎度お馴染み、とも言える状況だが、時流に乗ろうとする、似非学者達が、登場することで、学問そのものへの、信頼は、毎回、地に堕ちる結果、となってしまう。良識ある、本物の学者達は、冷静に、誤りを正し、過ちを批判することで、学問そのものを含め、自らの活動を、支えようとするが、多勢に無勢は、否めない。ただ、今回も、前回も、気になったのは、非専門の学者達が、不明を晒す姿で、特に、物理学に、目立つ印象がある。一方で、哲学者は、意外な程、慎重に思える。分野による違い、ではないと思うが。

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12月8日(火)−撤回を

 諸悪の根源は、専門家達の、戦略の過ちである。何度書いても、世界中が、馬鹿騒ぎに巻き込まれ、事態の収集は、図れそうにない。それは、専門家の指針が、はじめから、間違っていただけでなく、その修正に、必要となる筈の、情報収集を、怠っていることにある。
 それも、意識的に、無視することで、自らの過ちを、認めさせないのだ。この責任は、非常に重く、従来から、不要論が、取り沙汰されてきた、世界機関の、存続さえ、危ぶまれる事態に、陥るだろう。本来、貧富に関係なく、世界の保健体制を、整える為に、設置されたものだが、近年は、それに必要となる、資金の獲得を、第一の目的とし、肝心の体制の整備は、疎かになっている。そこでは、知識の集積より、筋書きの作成が、優先されており、予定通りの展開を、導くことで、資金の流入を、目指している。手段を選ばぬ手法に、強い批判が、浴びせられてきたが、懲りない連中は、たとえ、人の入れ替えが、あったとしても、何の変化も起きず、同じ戦略を取る。今回の騒動は、その典型とも言え、不出来な作品に、手を入れることなく、世界中に、押し付けてきた結果が、今、現れている。陽性者の探索に、精を出しても、問題解決は図れず、単に、検査関係企業を、太らせるだけだし、ワクチンに関しても、当初から、抗体獲得が、感染防止に役立たない、という主張が、あったにも関わらず、静観を続ける姿勢は、単に、思考停止に、陥っただけと見える。統計を、主な手段とする、学問分野において、情報収集は、何よりも優先されるべき、手立てとなるが、その結果が、一向に、発表されないのは、大きな傷を、隠そうとする姿勢の、表れと見える。科学に基づく、論理的な思考からは、あの機関の方針と、それに依存する、世界各国の政策は、どれもこれも、死に体にしか見えず、件の感染症より、遥かに深刻な病状にある。寛解には、根源から改める必要がある。どうするのか。

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12月7日(月)−騒ぎ過ぎ

 この空騒ぎに、怒りさえ覚える。恐怖を煽るだけで、解決への道筋を、見つけようともせず、それは、現状の把握という点でも、明らかに、満足できない。不平不満を、書き記すだけでは、多くの人々の同意は、得られないから、何処に、問題があるのか、示してみよう。
 第一の問題は、感染症の診断、に関することだ。本来なら、発症することで、医師の診断を仰ぎ、検査によって、確定されるものだが、現状は、自覚症状を問わず、全ての人間を、検査対象として、病原体の有無を、調べている。これでは、発病とは、認定できないが、危険性を、強調することで、意義あるものとする。ここには、仮定に基づく、推測があり、未知の病原体への、対策として、世界機関をはじめとする、専門家の認識がある。当初の戦略として、止むを得ない、との解釈は可能だが、その後、何ヶ月を経過してもなお、再検討の気配さえ見えず、未確定のまま、放置している。第二は、医療現場の問題だ。当初、多数の死者を、出した国々では、感染の拡大を、防ぐ為の方策が、見つからないまま、恐怖だけが、広がり続けた。当時、強大な感染力に、注目が集まり、従事者達の悲鳴を、届けることで、作為的な喧伝が、行われていた。だが、その後の展開からは、感染力ではなく、発症率にこそ、問題があることが、明らかになりつつあり、その視点から、状況把握をする必要が、出てきた。にも拘らず、専門家達は、その検証をしないまま、医療現場への圧力を、高めつつある。逼迫との判断は、感染拡大を、防ぐ為の、唯一の手段としての、隔離戦略から、出てきたものであり、発症の兆しや、発症後の、重症化の兆しを、どう見極めるかに、目を向けようとしないまま、危機を拡大させようとする、愚策の典型に見える。目論見通りに、感染の拡大を、伝えていると、関係者は、信じているようだが、あくまでも、病原体の存在を、確認しただけに過ぎず、発症についての判断を、下そうともせず、一方で、死者数の報道も、他の死因との比較を、しようともせず、騒ぐだけだ。これは、空騒ぎと呼ぶべきだ。

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