パンチの独り言

(12月21日〜12月27日)
(出任せ、怠慢、同じ道、風物詩、不穏当発言、お手上げ、踊らされる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月27日(日)−踊らされる

 連日、書き綴っていれば、どんな人間なのか、と訝る人も居るだろう。何しろ、世界が、恐怖のどん底に、突き落とされる中で、大丈夫、平気、どうということない、などと、連呼しているのだ。物事を、理解できない、愚か者だ、と思う人が居ても、何の不思議も無い。
 だが、これは、頑固爺いの戯言、ではない。科学的な知見に、論理的な推論を、積み重ねた上での、結論なのだ。自分の考えしか、受け容れずに、頑なに、信じたことだけを、主張する愚か者と、同じにして欲しくない。では、彼らと同様に、自分だけは、大丈夫と思うのか。それは、明らかに違う。感染症は、注意していても、冒されることはある。常に、体調の変化に、気を配り、無理をせず、健康的な生活を、送ることを心掛けるのだ。科学的な理解は、無謀な賭けを、許すことはなく、誰にも、同等の確率で、物事を起こす。それを、理解せずに、身勝手な言動を、繰り返すのは、愚の骨頂であり、一部の馬鹿者だけでなく、国や世界を、導いている、指導者にも、当て嵌まる話だ。今も、数の増加だけを、伝える人々は、恐怖という道具を、振り翳す、狂人でしかなく、科学的な解釈を、蔑ろにして、耳を塞いでいる。誰もが、触れることができる、日々の数値も、冷静に眺めれば、実情が、明確に見えてくる。例えば、この国の首都は、事例数も多く、解析の対象として、適したものの一つだが、そこにも、今の、数の馬鹿騒ぎを、見極める為の道具が、納められている。その頁には、多くのデータが、表示されているが、始めには、日々の陽性者数が、表示されている。最新の値は、949であり、ひと月程前は、500強の値を、示していた。倍近くに、増えたこと、と報じられるが、一方で、検査数当たりの率は、ずっと下の陽性率として、示されており、最新は8.2%、ひと月前は6%強である。数字の比較から、何が見えるか。検査を母数とすると、その数が増えれば、自ずと陽性者数が増える、ということだ。冷静に、見なければいけない。

* * * * * * * *

12月26日(土)−お手上げ

 不都合な真実、などと揶揄され続けても、世界の指導者達は、検証と総括を、行う気配を見せない。自らの愚行が、露呈することを、恐れている、と見ることもできるが、実際には、そんなことさえ、考えていないだろう。単に、何をしたらいいのか、判らないのだ。
 となれば、世界は、破滅へと、ひた走るしかないのか。政の愚かさは、何度、切り札を出しても、決着がつかぬ、現状を眺めれば、すぐに分かるが、その源となるのが、疫学や公衆衛生学の、大本山として、君臨し続ける、世界機関にあり、彼らの愚かさも、露呈し続けている。こんな状況では、好転の兆しが、見える筈もない。と諦める人も、多いだろうが、そこに、新たな情報が、もたらされた。屑でしかない連中には、新たな恐怖の種、としか映っていないが、それを、全く別のもの、とする見方がある。今更の如く、変化するのは当然、との解説を、あの機関さえ、施しているが、だとしたら、それは、感染と予防の、鼬ごっこを、想起させる。唯一の救いとして、世界中が注目するものが、無力化するかも知れず、煽る連中には、新たな武器として、映ったろうが、実際には、こんなことを、繰り返しても、犠牲者は、単純に増え続ける。規制を、強めたとしても、勢いが、一時、衰えるだけで、解けば、元の木阿弥となり、落胆の声が、広がるだけで、根本解決は、陽炎のように消える。そこに、救いの神の如く、完成したとされた、薬剤が、どんな効果を、示したとしても、相手が、変わり身早く、姿を変えては、どうにもならぬ。元々、ウイルスを、病原体とする感染症では、この反復が、当然の展開なのだ。一気に、抑え込めると、見誤った結果、悲惨な展開が、世界に広がったが、ここで、当初の標的以外に、目を向ける必要が出たとすれば、何をしようとも、無駄の一言となる。だとしたら、もう、対策は諦め、一人ひとりに、任せるしかない。

* * * * * * * *

12月25日(金)−不穏当発言

 囀りを、はじめとする、皆に開かれた発言の場は、一国の大統領から、何処の馬の骨か、分からぬ庶民まで、誰もが、自由に発言できる。その自由を、便利と思うからか、犯罪そのものの、不穏当な発言から、事実に基づき、論理に沿った、真っ当な発言まで、転がっている。
 自由を、謳歌できるのは、民主主義、自由主義の世界の、特権だろう。今でも、厳しい制限で、縛りつける国は、この時代には、数える程となったが、依然として、世界一位を誇る人口の、隣国では、厳しい監視と措置が、実施されている。まだ、自由経済が、導入する以前は、隣人や家族からさえ、監視されていたが、今は、機械と一部の人間が、それに代わった。自由社会でも、目に余る暴言や嘘が、満ち溢れる事態に、仕組み自体が、制限に乗り出す、という噂は、何度も流れたが、今度は、どうだろうか。何しろ、国の頂点に、君臨する人間が、事実と異なり、憶測にしか基づかない、書き込みを繰り返し、仕組みへの批判が、強まり続けているから、当然の成り行きだ。最近は、独り言だけでなく、時に、囀りにも、書き込んでいるが、妥当な意見への、賛同を示すものだけでなく、時に、厳しい意見を、書き込む。この世界の、最大の問題は、大統領に限らず、多くの人々が、誤解と無理解に基づき、誤った意見を、平気で書き込むことで、反論に対して、無視することが、横行していることだ。無知な人間に、投げる言葉が、見つからない、と思う人も居るが、ここはまず、正しいことを書き込み、それへの理解を、促すことが、大切だろう。それでも、思い込みだけで、安心を手にする人間は、何も学ぼうとせず、持論を展開することで、満足するだけだ。これは、退任が近い、あの大統領と同じだ。権力の有無が、問題の有無と、結び付くだろうが、無力だからと言って、何をしてもいい訳ではない。人間としての権利は、同等に、保障されているのだから。

* * * * * * * *

12月24日(木)−風物詩

 数々の風物詩が、失われつつある。それも、時代の変遷により、新しいものに、置き換わったからではなく、馬鹿げたものとしか、映らない、今の騒動による、圧力の結果である。年の瀬には、新しい年を、迎える為の準備、と称して、人々は、普段とは違うものを、買いに行く。
 各地にある、市場や商店街は、この時期、賑わいを見せる。しかし、脅迫にも似た、脅しの数々や、感染防止と称する、自粛の数々で、例年のような気分は、吹き飛んでしまったのか、人出は、極端に少なくなり、閑散とした光景が、映し出される。脅しの主達は、これを眺めて、悦に入っているのか、はたまた、我が意を得たり、とでも思うのか。これ自体が、感染予防に、役立つことは、殆ど無いにも関わらず、無策の人間には、良い兆候と映るのだろう。だが、これ程に、馬鹿げたことも、無いと思う。これまで同様、ウイルスを、病原体とする感染症は、確かに、人と人の接触が、その広がりを、導くのだが、その実態は、誰にも分かっていない。どの程度の接触が、原因となるかは、実は、人それぞれに異なり、同じ部屋で、学んでいても、感染する生徒と、そうではない人が居るのは、これまでの経験からも、明らかなのだ。これは、実験的にも、明らかとなっているが、その違いの原因が、不明なので、手が出せないままなのだ。その中で、乏しい知識を、さも重大なことのように、見せることで、専門家達は、勝手な論理を、展開して、その適用法として、下らない方策が、無知な政治家達から、振り撒かれる。こんなことで、季節の節目に、様々に行われてきた、行事が、消し去られるのは、明らかな間違いだ。神仏にしか、縋れなかった時代には、祈ることこそ、唯一の道だったが、今は、不確かな科学に、縋ることで、愚行を繰り返す。もう、いい加減に、無力であることを表明し、人それぞれに、大切な習慣を、取り戻すべきだ。

* * * * * * * *

12月23日(水)−同じ道

 騒動が起こされたことで、良かったことは、あるのだろうか。日々の暮らしで、困り果てる人々には、何も、思い付かないだろう。だが、統計の結果は、明らかに示している。そんなものが、あるのか。困り果てても、明日こそは、と思う人には、思いもよらない話だ。
 騒動が、盛り上がり始めた時、この国は、木の芽時を、迎えていた。例年なら、居場所が変わり、新たな環境への、適応が、迫られる季節だ。それに加え、気候の変化が、気持ちの変化へと繋がり、不安定に陥る人が、数多く現れる。二つの圧力により、八方塞がりとなると、人によっては、逃げ道を、見つけられずに、自らを、追い詰めることとなる。最も悲惨な結果は、自らの命を断つ、ことだろう。死んだ人に、掛ける言葉は無く、残された家族は、途方に暮れる。だが、周囲を含め、状況としても、袋小路に、追い込まれた末、のことなのだ。この事情に、通じる人は、まさに、経験したものでしか、分からぬ状況を、飲み込める。では、何故、今回の騒動で、それが、激減したのだろう。季節の変わり目は、自然の営みだから、変化が起きる筈もない。だとしたら、騒動によって、各人に降りかかった、人為的な変化を、原因とするしかない。思い起こせば、環境の変化は、確かに、今回も、起きていたが、対人関係という観点から、一部の圧力が、減じられたことが、見えてくる。環境の変化からは、相手をするべき人間が、変わることや、やるべきことが、変わることが、想像できる。ここに、理由を求める声が、大きくなり、そういう分析が、なされている。だが、もし、これが、当たっているとしたら、その後の経過で、何が起きるか。これもまた、予想通りと言うべきか、そんな現象が、現れているらしい。例年に無い傾向が、現れた結果、ある意味の、落ち着きを取り戻し、普通に戻った後、別の圧力が、加えられた結果、同じ道を歩む人が、増えたとされる。さて、どうしたものか。

* * * * * * * *

12月22日(火)−怠慢

 検証も、それに基づく総括も、行われないまま、暴走を続ける世界。何処に向かうかは、誰にも、分からない。大規模な検証は、それなりの組織にしか、できないものだ。だが、簡易的な検証は、庶民一人ひとりでも、行うことができる。ここでも、試してみたい。
 ここまで、世界各地で、行われたことで、無駄、無益だったものは、何だろうか。何度も書いたが、最大のものは、検査体制だろう。発生源と言われる、隣国で、封じ込めと称して、実施されたのは、あの国の独断ではなく、例の世界機関との連携、だったと言われる。それまで、感染症の対策は、発症者を対象として、行われるのが、常だった。しかし、科学技術の発展は、存在そのものを、見つける方法を、編み出したと言われる。だが、それにより、保有者の状態を、無視した上での、判断が下され、病気の認識そのものが、大きく変化した。発病という観点からは、その発生率は、常に、人口全体を、分母とするが、検査による発生率は、常に、検査数を分母とし、その増減が、発生数の増減と、結び付く。故に、確率を、指標とせねばならないのに、現状は、数を追いかけ続ける。その馬鹿らしさに、目を向ける人が、少ないことは、非常識の現れだ。もう一つは、これも、世界機関の判断が、始まりだが、感染症対策としての、隔離体制の整備だ。死への恐怖を、演出することで、過大評価した上で、徹底したように、眺められるが、現実には、不徹底なまま、検証無く、混乱を招くだけで、現場は、惨憺たる状況に、陥っている。隔離の要不要については、専門的な検証が、必要となるが、これまでの、感染拡大の推移からは、一部の伝染病のような、隔離は無用との判断が、下されるべきだ。これもまた、初期判断の過ちと、それを放置する怠慢が、諸悪の根源、となっている。これら二つだけでも、反省の対象だが、糾弾されるべきは、検証を怠り続ける、人間の怠慢だろう。誰の責任か、明らかだ。

* * * * * * * *

12月21日(月)−出任せ

 攻撃が、最大の防御であるのは、運動競技で、よく聞かれるが、実は、全てに通じるとは、限らない。得点機会の多い競技では、通用すると言われるが、少ない競技では、防御に徹する方が、良い結果を産む、と言われる。では、日常ではどうか。巷に溢れる、批判の数々だ。
 これを、地で行くのは、政の世界だろう。権力の大きさを、逆手に取るのは、彼らの得意技で、今回も、検証のないまま、増加傾向が、如実となった時点で、国の政策への批判を、殊更に取り上げ、自らの責任を、逃れようとする動きが、各地の首長から、起きていた。無責任な言動は、それまでにも、度々発しており、現状認識も、事実の理解も、薄弱なまま、嘘八百を、発する姿は、選んだ人間の責任を、痛感させるものとなる。筈なのだが、同類の選挙民は、何の責任も感じず、金のばら撒きに、一喜一憂するだけで、国全体が、いや、世界全体が、愚かな闇に、突き進んでいる。不確かな、検査だけを、唯一の手法として、全ての判断が、下されることに、何度も、異論を唱えてきたが、依然として、何の検証も、行われぬままに、騒ぎは、拡大し続ける。件の首長は、流行語の流布への、寄与の大きさを、自慢したようだが、言葉の真の意味を、捉えないことで、話題を集めた愚かさは、厳しく断じられるべきだ。3密とは、3つの密が、重なることが、感染を引き起こす、として唱えられたもので、あの首長が、声高に訴えた、それぞれを避ける話とは、全く異なる。一方、愚かな彼女に、限った話ではないが、クラスターという言葉も、本来の意味とは、異なる使い方を、している。感染集団を、表すものと、考えるのは、不十分な理解であり、病院や施設での感染を、そう呼ぶのは、明らかな誤解なのだ。特に、疫学では、感染拡大の見地で、用いており、閉鎖環境での現象には、適用しない。閉鎖では、広がらないことが、明らかだからだ。これまでに、各自治体が指定した所が、どうなったか、確かめたらどうか。

(since 2002/4/3)