パンチの独り言

(2020年12月28日〜2021年1月3日)
(勝手気儘、お気楽に、元に戻す、火付け、自然体、気付き、個人主義)



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1月3日(日)−個人主義

 人権の尊重は、どんな観点から、行われているのか。表向きは、貧富の差無く、国の違いに依らず、個人の権利が、保障される、というものなのだが、掲げられたものと違い、何も保障されず、不安な状況が、解消されていない、ように映る。何が、違うのだろう。
 人権という話題の中で、よく取り沙汰されるのは、平等という意識だろう。だが、貧富の差だけで無く、能力や地位の差は、歴然としており、それらを、一切合切、消し去ることは、不可能に思える。一部の人間を除けば、あらゆる点から、平等であることを、望む人は居ない。それより、能力や地位に応じて、報酬が決まり、機会が均等でありさえすれば、人権が、尊重されている、と考える人が多い。ところが、平等という話が、引き合いに出される度に、別の形の不平等が、起こされてしまい、結局は、どちらの問題も、解決されぬままになる。これこそが、最大の問題であり、平等が、誤った使われ方をされ、ある程度の均衡さえ、失われてしまう。この手の問題に、関わる人々の多くは、人道的な立場を、掲げているようだが、その実、自分達の利益を、優先することで、末端の人間達は、害を被ることとなる。これでは、人権を保つことに、繋がる筈もなく、関われば関わる程、酷い目に、遭わされることとなる。その上、最近の騒動で、個人の権利さえ、奪われており、状況は、更に悪化する。その際に、よく使われるのが、個人主義の否定だが、これに関する議論は、誤った先入観に基づくもので、問題解決へとは、繋がりそうにない。個人主義とは、個人の権利を、保障するものだが、人権同様、一部の施政者が、誤った意味を、押し付けており、その結果、誤解だけが広がっている。身勝手な連中を、個人主義者と呼ぶのは、連中の得意技だが、明らかな間違いだ。個人の権利を守る為に、必要な考えには、個人の責任で、何事をも行うことが、含まれており、その尊重は、行動規範を含め、あらゆることへと、結び付く。今の混乱を、解消する為に、重要な要素となると思うが、どうだろうか。

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1月2日(土)−気付き

「対策が、違うんじゃないか」、という現場の声を、紹介していたが、その後の反応は、まるで、方向違いでしかない。紹介した局も、ただ、流しただけのようで、的外れの批判を、強めるだけだし、大衆も、大外れの批判に、終始する始末、世も末、と見るべきだろうか。
 独り言では、言い足りないと思い、年末に、次のような書き込みを、してみたが、支援者が、ほぼゼロの状態では、誰の注目も、浴びないのが当然か。それは、こんな一連の書き込みだった。耳目を、集めるような発言は、これまでに、何度も、繰り返してきたが、発言を支援する、人の数は、一向に増えず、残念な状況が、続いている。その中で、ここまでの総括を、並べてみたものだが、空に発したものと、なったようだ。現場では、はじめに取り上げたような、考えが、漂い始めているが、その声は、肝心な所へも、大衆の手元へも、中々、届かない状況は、以前と変わりない。その上、偶々、興味を惹いたのか、取り上げられても、無能な大衆には、正しく響くことは、決して起こらない。愚民政治を、批判する人でさえ、その本質を、的確に、指摘することはなく、マスゴミ同様に、権力批判を、繰り返すだけだ。何が、どう違うのか。はじめの発言者も、その中では、首を傾げるだけで、的を射抜いてはおらず、ある意味、残念な結果となっている。ここでも、取材者が、的確な質問を、投げ掛けておれば、一段上の、情報発信が、成立しただろうが、その期待は、無駄なものだろう。今の現実が、こんな状況にあることは、正しい情報分析と論理展開を、行い続ける人間には、受け入れ難いもの、としか映らない。だが、どうすれば、打開できるのか。それについては、一つしか、答えは見出せない。発信源が、過ちに気付くのを、待つしかないのだ。

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2021年1月1日(金)−自然体

 人類史上、嘗て無い程、最悪の感染症爆発が、引き起こされ、人々の命や生活が、危機に晒されている。だが、これは、人間の驕りが、引き起こしたものであり、英知を集めれば、脅威に対抗でき、抑え込むことが、できるとする、重大な見込み違いの、表れでしかない。
 科学の進歩を信じ、その力に頼ることは、現代社会において、当然のものと、思われている。しかし、未だに、多くのことが、明らかではなく、解かれるべき不思議は、数え切れぬ程に、あるとも言われ、その見方からすれば、今、進行中の騒動は、誰か、不遜な人間が、描いた筋書きに、沿ったものでしかなく、制圧どころか、対抗でさえ、覚束ない状況にある。半世紀以上前に、無敵を誇ると、驕り高ぶった国は、その後の敗北から、焦土と化した母国を、驚異の経済発展により、先進国へと、返り咲いたが、停滞から転落へと、再び、山積する問題に、苦しむ時代が、始まっている。その中で、忘れてはならないのは、最近の二度の転落は、どちらも、驕りが招いたものであり、成長過程では、希望と謙虚が、重要な役割を、果たしていたことだ。何より、自然の脅威に、晒され続ける国土では、度々起こる、災害の数々に、何度も、無力さを実感し、その中で、復興を目指し、努力を重ねてきた。今、引き起こされているのは、自然ではなく、人為的なものが、多くを占めるが、にしても、それへの対応を、対抗と制圧ではなく、自然の成り行きに、任せるという考えが、重要となる。躍起になり、慌てふためく中で、人類にとって、不可欠なものが、蔑ろにされており、その代償は、将来を担う世代に、押し付けられる。この国では、大木が風に耐えるように、ではなく、竹が風を受け流すように、生きることの大切さが、世代を超えて、受け継がれてきたが、今こそ、それを、思い出すべき時だろう。目の前の問題に、目を奪われ、大切なものを、見失うことは、大きな代償を伴う。育児も教育も、棚上げせずに、取り組み続けねばならず、普段の生活も、同様に続ける必要がある。自然体こそ、この国のやり方なのだ。

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2020年12月31日(木)−火付け

 激動の年、最後の日だが、同じようなことを、書くしかない。不確かな情報を、垂れ流し、撒き散らす連中に、反吐が出るのだが、信用を無くしたことに、気付かぬのは、傲慢さの現れだろう。だからこそ、露骨なマッチポンプを、相も変わらず、流し続けるのだ。
 今回のものも、何時もと変わらず、底の知れたもので、浅はかさの現れだ。国中が、休みに入るだけでなく、皆に、巣篭もりを、強制する中では、他人との連絡が、希薄になるから、相談も、儘ならぬ状態となる。だが、そんな時にも、体調不良は、起きる訳で、救いを求めたくなることも、あるだろう。その為に、公に、相談を受ける場が、提供されており、それに関する広報が、盛んに行われている。その機関が、自ら行うものだけでなく、報道機関が、盛んに推奨しているが、その目的は、何だろうか。そんな穿った見方を、したくなるのも、信用できないからだろう。事が起きる前に、盛んに喧伝するのは、是非、使って欲しい、と思うから、と素直に受け取るより、もし、それを利用する人の数が、この休みの最中に、爆発的に増えたら、相談を受け付けられず、機能しなくなる、と期待しているのでは、という疑いを、向けたくなるのだ。これは、実態として、確認することは、難しい。相談電話が、繋がるかどうかは、掛けてみないと分からず、その苦情が、どういう形で、表面化するかが、肝心となる。今の状況だと、誰かが、SNSで訴えることから、始まりそうだ。となれば、連鎖反応は、簡単に起きるだろう。それも、愉快犯の如く、用も無いのに、電話する人間が、増えるばかりで、肝心の相談が、通じなくなる。まさか、そこまで、読んだ上でのこととは、思わないが、ありそうに、思えないだろうか。それこそが、目的だとしたら、何ともはやである。平穏な日が、続けばいいが。

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12月30日(水)−元に戻す

 あの政治家の死は、恐怖を煽る為の、格好の材料となった。突然、訪れる死に対し、誰もが、恐怖を抱くことが、確実だからだ。しかし、別の見方をすると、そんな恐怖に対し、何時、何処で、が分からねば、備えも、策も、無いとなる。お手上げ、なのではないか。
 それにしては、世間は、まるで他人事のように、放置している。こんなことが、起きたとしても、稀なことで、自分には、降り掛からぬと、思っているようだ。議員仲間が、恐怖に慄くことなく、平然と、感染症の恐怖を、伝える姿が、映ったことも、現実味を、薄めることに、繋がったらしい。その上、直接の死因は、感染症などと、非医学的な見解を、まるで、検死結果のように、発表したことも、信頼を、失わせる結果となった。まるで、舞台で演じられる、演劇のような、演出効果を、狙ったものだが、所詮、大根役者には、荷が重すぎたらしい。自らの力を、過信した上での、会見については、賛否両論の様相だが、冷静に眺めれば、劣悪な内容と思える。例の如く、余りに多くの要素が、関わっており、その一方で、僅かな情報を、さも大事の如く、膨らませていては、真の原因を、捉えることが、難しくなる。論理の重要性を、盛んに説いてきたからこそ、この杜撰な芝居の展開には、批判の価値さえ、見つからない。今回の騒動で、馬脚を現したのは、政治家と医療関係者だろう。騒ぎを、大きくするだけで、何の方策も、見つけられず、治療の方針さえ、見つけられない。その一方で、隔離の問題を、見誤っており、更には、都市封鎖などの方策も、無駄ばかりが、目立ってくる始末、どうしたものか。年は、もう直ぐに、改まるが、新たな展開は、期待できそうにない。全世界に、飛び交っている、批判の嵐も、何の効果も、上げられずにいる。この先、何が起きるのか。個人の判断を、尊重する時代に、戻るしかないだろう。それで、落ち着きたいものだ。

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12月29日(火)−お気楽に

 例年なら、そろそろ、十大ニュースなるものが、巷を、騒がせるが、これだけ、大きな騒動が、世界中を、覆い尽くせば、10にする必要も無い。例え、数え上げたとしても、全てが繋がり、独占してしまうに違いない。まあ、それ位、人々の心を、侵し続けているのだ。
 それにしても、この騒動は、何なのか。自然災害の如く、自然の脅威を、痛感させるものだろうか。それとも、人為的な災害の如く、人々の欲望の果ての、悲惨な状況を、窺い知るものだろうか。感覚は、人それぞれだが、ここの書き手としては、明らかな人災であり、自然の脅威とは、似ても似つかぬものとしか、思えない。だとしたら、解決の道は、簡単に見つかる。それを引き起こした人間を、糾弾しさえすれば、いいのだから。だが、単に、罵ったとしても、何も変わらない。国中が、諦めの境地にあり、強い閉塞感に満たされる中、八方塞がりの状況で、何をどうすればいいのか。この際、下らない連中の、警告や忠告には、耳を貸さず、自分なりの注意で、生活を続ければいいだろう。警告や忠告は、いかにも、それらしい形を、しているが、実際には、できる筈もなく、その上、効果の程は、不確かなままで、無駄どころか、無益なものでしかない。だったら、余計な気を使わず、これまで、日々の生活を、守ってきたやり方を、続ければいいだけだ。それだったら、誰でも、いつでも、できることに違いない。心配や不安は、最近の流行であり、それを、口にすることで、同情をかったり、安心を手に入れたり、してきたのだが、この事態では、それも、できないこととなる。だったら、さっさと諦め、自分なりの生活を、送るだけで十分だろう。こんな調子で、ここ数日を、暮らしてみては、如何だろう。大した違いも、ないかも知れないが、知らぬふりだけで、少しは気楽になれる、のではないか。

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12月28日(月)−勝手気儘

 この頁を、読んだ筈も無いが、陽性率を、脅し文句に、取り上げていた。これまで、低い率に、留まっていたのが、ここ二ヶ月程、急激に、高くなっている、というのが、専門家の助言、だったのだろうか。まさか、マスゴミの筋書き通りに、話している訳でもあるまい。
 昨日、示した通りの、百分率を、恐怖の種として、紹介していたが、陽性者数の増加と、率の増加が、一致しないことに、目を向ける気は、無かったらしい。きちんと、解説されても、騒ぎ回り、慌てふためく愚民達は、理解しようと、する筈もないのだが、百に一つも、気付かれては、元も子も無くなる、とでも懸念したのか、いつも通り、数字が大きくなることだけを、強調することで、煽れるという結論を、出したのだろう。しかし、この手の数字の動向は、母数となる数値や、別の変数の動きにより、逆効果を、招きかねないから、注意を要する。だが、鶏同様、三歩も歩けば、忘れる程に、愚かな人々には、これで、十分なのだろう。それも、大衆だけでなく、政の中枢に、居座る人々まで、同じなのだから、赤子の手を捻るより、遥かに、簡単なことだ。それも、赤子なら、泣き喚くのに、この人々は、青ざめるだけで、作られた嘘を、撒き散らす助けとさえなる。いつまで、これが続くのか。これまでの予想は、尽く外れ、面目無い状況だが、今度も、当たりそうに無い。あらゆることが、悪い方向に、進み続ければ、普通の感覚なら、引き返すことを、余儀なくされる筈だが、自ら描いた台本通りに、突き進む人々に、そんな心変わりが、起きる筈も無い。だからこそ、自明とも思える、過ちの数々を、見えぬふりを続け、外野からの、指摘の数々にも、無視を決めたままで居る。このまま、暴走が続けば、多くの人々の生活は、破壊されてしまうが、そういう弱者に、目を向ける気配はない。同じ弱者でも、利用価値のある人だけ、相手にすればいいのだ。何と、身勝手なことか。

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