パンチの独り言

(1月4日〜1月10日)
(ぶれない、矛盾だらけ、虚勢、大根役者、発言自由、潔癖症、カルト)



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1月10日(日)−カルト

 元は、崇拝という意味だったそうだが、その対象への、狂信的な行動が、常軌を逸することとなり、反社会的なもの、となるに至り、排除された歴史がある。この国でも、毒ガスによる大量殺人で、人々の心に、暗い影を落とした、教団は、その一つに数えられる。
 先日、民主主義の象徴に、暴徒が、雪崩れ込む映像を、まるで、独裁者が君臨する、途上国の光景と、見紛うた人も、沢山居ただろう。世界中に、流れた暴力的な姿に、厳しい批判が、押し寄せたのは、自由と民主主義が、破壊されかねぬ、危機を、表すものとなった。ここでも、何度も、批判を浴びせた、海の向こうの大統領は、舞台を去ることを、あくまで、拒否し続けるばかりか、法治国家にあるまじき、不正の数々を、その理由として、挙げていたが、確たる証拠を、示すことなく、まるで、独裁国家に君臨する、人物の如く、我が物顔で、主張を繰り返していた。現状への、不満を募らせる、人々の中には、彼に、一縷の望みを掛け、救いを求めて、狂信的と思える程の、支援を示してきたが、それが、暴発した結果として、世界に、国の恥を晒すこととなった。謀略と、指摘する声も、一方であり、この国でも、一部の人々が、海の向こうに、盲信的な支援を、送り続けている。信じるものは、救われるとは、宗教の手立てだが、混乱の時代だからこそ、闇雲に信じるのではなく、確かな理解を保ち、論理的に考えることが、重要となる。その中で、狂信的な集団が、起こした暴挙は、はじめに取り上げた、反社会勢力を、彷彿とさせるものとなり、自由を妨げる、最悪の事態を、想起させることとなった。当然の成り行きとして、その首謀者を、排除する動きが、急激に強まっているが、結末は如何に、だ。権利の保障は、あらゆる人間に、平等に、あるものだが、唯一の例外は、こういった集団と、それを率いた人間となる。まるで、カルト集団と見える、あの人々は、権利さえ、失いかねない。

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1月9日(土)−潔癖症

 これも、ご都合主義の現れ、ではないか。潔癖症とは、病的な綺麗好きだが、この国の人間に、それに当てはまる人が、多いと話題になった。花粉症は、その裏返し、とまで指摘する、寄生虫博士の意見が、一時は、賛同を得ていたが、今は、どうなのだろうか。
 嗽、手洗いの励行が、感染を防ぐ、との主張が、この騒動が、始まった頃から、異常な程強まり、消毒液が、薬局から、姿を消すと、遂には、余剰の酒から、蒸留して作られ、酒税免除対象とされると、流用が話題となった。いずれにしても、心掛けさえしておけば、安心という話が、実しやかに語られ、医療関係者が、お墨付きを出すと、それが、当然のように、扱われている。だが、以前から、また、今でも、そんなに、神経質に、心掛けぬ人間にとり、頼りは、嗽、手洗い、消毒ではなく、生まれながらに、身に付けている、免疫力なのだ。心掛けは、確かに、確率を下げる効果が、あるのだろうが、所詮、ゼロにはできない。何しろ、手洗いの仕方で、紹介されていた方法は、余りにも煩雑で、時間の掛かるものだった。何年も前に、歯槽膿漏が、深刻な問題として、取り上げられた時、防止策として、紹介されたのは、食後の歯磨きを、30分程度、入念に行う、というものだった。当時も、今も、そんなことは、無駄だと思っている。確かに、それで、防げれば、御の字、と思う人も居るだろうが、毎日、二時間近くも、それに費やす意味は、こちらには、感じられない。もし、他の国と比べた、死亡率の低さが、この清潔好きにある、と結論付けられたら、面白いとは思うが、そんなことは、起きそうに無い。一方で、嗽、手洗いの励行が、万全な備え、とは言えぬ、という指摘が、今後、出てくるとも限らぬ。とは言え、清潔を、害悪の如く、扱った人々は、姿を消すか、黙りを決め込む。ここでも、ご都合次第の空気が、満ちている。

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1月8日(金)−発言自由

 この馬鹿騒ぎの最中、人間のご都合主義を、改めて、意識させられることとなった。論理を、尊重することで、一貫性のある考えを、築き上げ、それを頼りに、人生を歩む。そんな綺麗事は、簡単に捨て去られ、場当たり的な対応が、さも当然の如く、選び出される。
 それを、情けない、と切り捨てるのは、容易いことだが、何も変わらず、何も変えられない。ならば、声を上げるしか、無いのだろう。偶々、こんな時代になり、取るに足らない人間でも、世間に向けて、発言する機会が、得られている。だが、残念なことに、機会を捉え、発言する人間には、身勝手な考えに満ち、好き勝手に振る舞う人が、多過ぎるのだ。昨年末から、自分の考えが、少しでも多くの人に、届くように、との思いから、あるSNSの中で、他人の発言に対する意見として、自分の考えを、引用する形で、掲げることを、繰り返したら、幾つかの反応が、起こり始めた。同意者を、得ることは、誰にとっても、喜ばしいことだが、彼らの発言や引用を、眺めてみると、安易には、喜べないことに、気付かされる。こちらは、匿名性を、利用したものであり、同意者を含め、偶々、こちらの意見を、眺めた人の多くは、その発言者の正体を、知る由も無い。一方で、別のSNSの場で、実名で、書き記しているものには、同業者を含め、同意が得られぬことが、多い。反対の声を、上げるまでには、至らずとも、賛同が、得られないのは、幾つかの理由が、ありそうだ。お互いに、実名で、発言する中では、彼らにも、自分の立場、というものがあるだろう。となれば、この騒動の最中、社会的な面も含め、不穏当な発言は、避けたいと願う。だから、こちらが、確かな根拠と論理に基づき、現状を、強く批判する意見を、掲げたとしても、同調を、表明することは、難しいのだろう。たとえ、その考えが、正しいと感じても、それを、表明することは、憚られる。変な時代だ。

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1月7日(木)−大根役者

 三文芝居は、何時はねるのか。小さな声が、世界に届くことは、ありそうにない。だが、何度でも、訴えていきたい。この悪質な芝居を、演劇の役割分担で、表現してみよう。劇は、原作者がおり、脚本家が加わり、時には、演出家が居て、舞台では、役者が演じる。
 まず、原作者と脚本家は、例の世界機関の、中枢に居座る人々だ。感染症の恐怖を、毎度、煽る芝居を、作り出したのは、組織に属する、専門家集団であり、それを率いるのが、事務局長だろう。これまでの歴史に、倣った形で、創作したものは、過激な数字を、提示することで、初演を、迎えることとなった。演出家は、複数居ても良い。隣の大国は、騒ぎを大きくする為に、様々な効果を、演出していた。一方で、死の恐怖の演出は、欧州の国々に、任されたようだ。世界の状況を、眺めてみれば、どちらも、一定の効果を、達成できたと言える。検査を、徹底することで、制圧が、可能となるとの幻想は、第一演出家の、作り上げたもので、世界に蔓延した結果、想定外の興行成績を、手にすることとなった。第二演出家は、医療体制の不備を、露呈することで、膨大な死者を、出すこととなり、脚本通りの恐怖拡大を、達成させた。では、役者はどうか。こちらは、三文芝居らしく、大根役者が、勢揃いで、台本通りに、演じたつもりが、失敗の数々で、芝居を、台無しにしている。劇場が、世界各地に、散らばっていることが、その原因の一つだろう。原作に無い展開や、台本に無い台詞が、次々と飛び出し、想定した通りの制圧は、遠ざかるばかりだ。ただ、原作も脚本も、実際には、穴だらけのもので、芝居が、始まってから、急に、書き換えられる。前言撤回は、日常茶飯事、所詮、田舎芝居なのだ。で、役者は、誰が演じているのか。そりゃ、世界各地の政治家達だ。何時はねるとも知れぬ、この芝居、誰が、幕を引くのか。

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1月6日(水)−虚勢

 声の大小は、自信の大きさに、よると言われる。自信があれば、大きな声で、話せるのに、それが無い時には、囁くような、小さな声になる。誰にも、あることで、小学校の発表会で、舞台の上で、滔滔と、台詞を話す子と、下を向き、ボソボソと、呟く子が、居たものだ。
 その後、成長しても、その状況は変わらず、大学でも、人前で話すことを、忌み嫌う学生は、沢山居た。当然、職に就いても、変化は起こらず、自信の有無が、声の大きさに、繋がることを、見破られないように、気を遣った経験は、誰にもあるだろう。しかし、その辺りから、少しずつ変化が起きる。見抜かれぬように、自信の無い時程、大きな声で、話すようになるのだ。これについても、思い当たる人が、居るだろう。自身のことでなく、他人のことで、そう思ったことも、多い筈だ。大きな声で、自信たっぷりに、意見発表する同僚に、自信の大きさを、感じたと話したら、全く逆の状況だった、と打ち明けられ、驚いたことが、あるのではないか。人間は、成長と共に、様々な能力を、身に付ける。その中には、悪知恵と言われる、他人を騙す知恵も、含まれるのだ。子供の頃は、素直と言われたのに、ひねてきたと言われる所以だ。この所、騒動は、更なる極みを、臨むようになり、政は、我が意を得たり、とばかりに、無理難題を、並べ立てる。しかし、実際には、何の証拠も無く、また、以前行った施策も、検証を行わぬままに、同じこと、実際には、同じ過ちを、断行しようとしている。根拠薄弱だから、足元は、ぐらついている。だが、そんなことを、悟られぬように、相手の目を見つめ、顔を上げて、大きな声で、決断した事柄を、自信たっぷりに、訴えているのだ。本来なら、取材者が、厳しく指摘し、理由や証拠を、要求すべきだが、こちらも、何の根拠も、持ち合わせておらず、頼りにならない。こんなお芝居は、御免被る。

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1月5日(火)−矛盾だらけ

 ああ言えばこう言う、でもあるまいが、脆弱というより、破綻した論理で、物事を進めよう、とする風潮が、世界各地で、蔓延している。少し注意するだけで、その姿は、簡単に、見破れるが、この様子からは、簡単なことさえ、できない人が、矢鱈に居ることが、判る。
 感染症の馬鹿騒ぎで、何度も触れているが、他の事柄でも、同じ轍を踏む人の、多いことに驚く。何故、一部の人間は、自分の言葉の意味を、理解しないのか。ただ、好き勝手に、話している姿は、まるで、酒に酔った人の如く、自分の言葉に、酔い痴れている。それも、意味を為さない言葉を、発しているのに、気付かずに、満足げに語るのだから、始末に負えない。首都の首長は、この国の代表格だが、海の向こうの大統領は、更に上手だろう。だが、支援者達は、彼らの言葉に、同じ酒を飲んだように、酔っている。好悪という、心理要素が、知性を、抑え込むからか、はたまた、元々、発言者と共に、知性の欠片も、持ち合わせていないのか。でも、冷静な判断こそが、彼らの欺瞞を、破壊するのだ。今回、その例として、紹介するのは、電気自動車のことだ。まるで、清潔な環境の決め手、のように扱われ、各国が挙って、導入を宣言するが、大きな障壁には、目もくれていない。報道も、同じ路線に乗り、切り札として、利点ばかりを、紹介するが、かの首長の地元で、大震災後に、襲われた停電を、忘れたのか。その対策として、燃料と電池を、併用する車を、停電時の電源として、利用する話を、紹介する一方で、電力源が、失われたら、無用の長物と化するものを、切り札とするのは、何事だろう。こういう、簡単に見抜ける矛盾を、さも、大事の如く、紹介するのは、彼らの知識が、不十分なだけでなく、論理の破綻に、気付けぬ判断力の、不足が、露呈している。そんな輩の、戯言に、付き合う必要は、全く無い。本来なら、政に対して、苦言を呈する、良識が必要だが、それさえ、持ち合わせぬ愚か者だ。

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1月4日(月)−ぶれない

 囀りは、元々、仕事の中で、不穏当な発言を、見つける為に、始めたものだ。仕組みの変更が、度々あり、その中で、口座を持たねば、検索も、覚束なくなり、登録すれば、できるとのことで、始めた。そちらの作業は、依然として、続いているが、最近は、発言もある。
 こちらについては、ある物書きが、今回の騒動の、的外れを、指摘するのを、偶々、見つけた所から、始まった。報道機関が、本質を、見抜けないばかりか、嘘八百を、垂れ流すことと、それに乗じて、愚かな発言を、続ける塵のような発言者を、厳しく糾弾する発言は、その内容だけでなく、対応の仕方も、成る程と思えるものだった。それを、信頼おける数値で、支援しようと、数週間おきに、幾つかの国の状況を、報告し始めたが、当人の発言程には、耳目を、集められていない。元々、小説の書き方を、説いていた人が、偶々、矛盾を指摘したのと違い、こちらは、それ以前に、誰からも、注目されていなかったのだから、当然の結果だろう。だが、こういう場所を、情報収集の手掛かりとして、利用する人間には、大いに、役立つものとなるのが、明らかなのだから、もう少し、目を向けても、いいのではないか。その後、海の向こうで、事業を起こした人に、同調したこともあるが、こちらは、政治的な匂いが、強くなるに従い、距離を置いている。人それぞれに、異なる主張が、あるのは、良いことで、それ自体を、否定するつもりは、毛頭ない。しかし、好悪を、前面に押し出し、それに基づく判断が、優先されるようになると、人間は、視野が狭くなり、判断力も、鈍ってくる。あくまで、確かな数値と、そこから生まれる、論理を展開し、判断を下すというやり方を、続けないと、過ちを犯してしまう。こちらの発言にも、都合に応じて、賛否を選ぶ人は、信頼に値せず、偽物でしかない。他人の意見に、左右される人々に、誰かを、批判する資格は、やはり無いのだ。

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