恣意的に、選んだものを、流すのだから、時に、偽情報、と揶揄されるのも、当然のことだ。だが、流す側からすれば、画面に登場する、人物は、実在の者であり、本人が、答える言葉には、何の脚色も無い、となる。だから、事実なのだ、とする主張は、危険なものだ。
その理由は、説明するまでも、無いだろう。たった一人の、言葉を、殊更に、取り上げる姿勢では、その他大勢の、様子を、知ることは、できないからだ。だとしたら、どうすれば、いいのか。簡単なのは、調査を行い、全体の状況を、掴むことだと言われる。ただ、こちらも、質問項目の、設け方によって、恣意的なものは、簡単に、拾い出せる。誘導尋問の如く、答えを、ある方向に、導く設問は、容易に作り出せるからだ。これらの事象が、度々生じることで、信頼を失った業界は、混乱を、来している。かと思ったが、現実には、懲りることなく、同じことを、繰り返し流しながら、恐怖を、煽ることを、盛んに、行い続けている。個人発信の媒体では、それに対して、反対や批判の声が、盛んに、上がっているが、大衆、はっきり言えば、愚民達は、洗脳されていることに、気付くことなく、恐怖に振り回され、不安や心配に、苛まれている。ただ、この様相も、怪しげなもので、責任転嫁の声や、無謀な言動を、続ける人々が、巷に溢れているし、個人発信でも、嘘や欺瞞が、垂れ流されており、それが、発端となって、別の恐怖が、流布されている。その中で、良識のある人々は、相変わらず、地道な活動を、続けているのだが、それも、そろそろ、息切れが、目立ち始めたようだ。一部の人からの、応援の声が、届いたとしても、国全体、世界全体に、変化が生じる気配もなく、別の見方からすれば、破滅の道を、歩み続けている。このままでは、いけない、と思っても、近くに居る人さえ、洗脳を解くことが、できないままでは、どうにもならない。無力感に、包まれる中、再び、力を貯めて、挑むには、何から始めるべきなのか。
無理に訳せば、大衆媒体、となるのだろうか。個別ではなく、全体を見渡す、情報の伝達者として、長く、世界に、行き渡ってきた。だが、その地位は、凋落の一途を、辿っている。個別の情報を、送信する仕組みが、整えられることで、存在意義が、薄れているのだ。
その没落の勢いを、更に増したのは、フェイクニュース、偽情報と、盛んに、揶揄し続けた、あの人物の、同じ媒体を使った、発言だろう。当人の反論も、根拠の無いことばかりで、通常の感覚では、同じ穴の狢、としか思えないが、熱狂的な支持者には、神か教祖の言葉、と見えたらしい。信頼を、失うきっかけは、情報伝達に、物語性を、持ち込んだことだ。理解し易くする為に、物語は、効果的な手段だが、それが、先行したことで、作り話が、撒き散らされてしまった。事実より、話題性を、優先する姿勢は、事実で無くとも、興味を引けば、ということを、繰り返し、偽情報を、平気で、ばら撒いてきた。事実は、確認を必要とするが、続報が、もたらされると、そこに、数々の矛盾が、表面化し、何処かに、嘘があることが、露呈する。今の騒動も、潜伏期の長さが、時により、変わることから、確定していないことが、明らかとなったが、専門家でさえ、確証無しに、断言するから、始末に負えない。政府の委員も、不確実な話を、引き合いに出して、警告を、続けるのでは、誰を、信じればいいか、大衆には、判断がつかない。報道だけでなく、専門性にまで、物語の悪影響が、及ぶに至って、社会全体に、不信感が、満ち溢れているが、一方で、個別の発信源は、元々、注目を浴びたいだけの、不埒な輩が、手にすることで、嘘ばかりが、洪水のように、押し寄せている。この時代には、検証は、権威ある組織に、任されることなく、個人が、それぞれに、行うしか無いだろう。何を、どうすれば、いいのか。判らないのなら、便利な道具は、覗かない方が、いいだろう。
不安や心配に、苛まれて、心に余裕が無い。だから、差別や虐待も、止むを得ない、とでも言うのか。この馬鹿騒ぎの中、人の本性を、知る機会が、増えたようだ。軽率な発言で、他人を傷付けるのは、平時でも、屡々見られたが、今のは、正義を被った、悪意が溢れている。
こういう連中にとって、後押しとなるのは、政治家の発言だろう。件の首長は、宣言を獲得して、暫し、休憩に入ったようだが、すぐに、暴言の数々が、浴びせられるだろう。彼女の発言は、海の向こうの大統領の、小型版の如く、大した影響も、及ぼさないが、それでも、愚かな民衆には、後押しとして、受け入れられる。その点は、海の向こうとこちらで、何も変わらず、愚民政治が、蔓延していることが、わかってくる。では、国政はどうか。交代時には、例に漏れず、高い支持を、誇ったが、今や、凋落の勢いが、増すばかりとなり、閣僚達の言動には、焦りが滲み出ている。宣言時に、宰相が行った会見では、様々な注意点が、言及されたが、その中の一つが、報道陣の攻撃目標として、槍玉に上がった。外出自粛を、促す説明の中で、午後8時以降のものを、特に強調したが、それが、言葉尻を捉える輩には、格好の標的となり、昼間の外出が、増えたとの指摘へと、繋がったのだ。慌てて、担当大臣が、補足したのは、当然と見る向きもあるが、内容は、物議を醸し出すものとなった。曰く、「昼食、ランチはみんなと一緒に食べてもリスクが低いということではありませんので、昼間もできる限り不要不急の外出自粛をお願いしたい」、とのことだが、これを受けて、仕事先で、昼食を摂りに、外出した人に、冷たい視線を送り、批判的な言葉を、浴びせる人が出る。無垢な人々は、言葉を、真に受けて、正義を翳したのだろうが、愚の骨頂だろう。仕事が、要であり、急であるから、職場に出ているし、そこでの食事は、不可欠となる。健康を保つ為に、食事を重視するのは、当然のことで、怪しげな弁当では、失うものが多いのだ。
日々、伝えられる数字に、憂鬱な気持ちに、なっている人が、多いだろう。だが、その一方で、別の数字が、人々に、満足感を、もたらしていることに、多くの人は、気付いていない。経済停滞が、盛んに、伝えられる中、何故、株式相場は、活況を、呈しているのか。
業績に、反応する形で、株価は、上下するもの、という解釈が、一般的だが、今の状況は、理由もなく、動いている、と思えてくる。確かに、資産運用では、殖やす為の方策を、様々に、講じる必要があり、分散投資は、その一つと言われる。本来ならば、株式だけでなく、為替や債券に、投資することで、突然の下落などの、危機への対応が、可能となる、と言われる。だが、現状では、どの国の経済も、厳しい状況にあり、手当ての一つとして、利子を下げる政策が、実行されている。時に、負の値を、示すことで、投資が、損失に繋がるなど、運用する側には、回避すべき状況にある。その結果が、債券市場に、反映されたからか、多くの資金が、株式市場に、流れ込むこととなった。それが、買いを産み、それに応じて、株価が、上昇している。それに加え、市場の仕組みの一つが、その上昇に、拍車をかけた、との解釈がある。市場に関わる上で、収益を確保する為には、現物の株式の、売買だけに限っていては、不十分との考えから、現物ではなく、仮想のものを、売買する仕組みが、市場には、存在している。空売りという言葉を、聞いたことのある人が、多いと思うが、現物を持たずに、売りを仕掛けることで、相場が、下落した時に、儲けを上げるものだ。その残額が、積み上がった上に、相場の上昇が、止まらなくなり、空売りをした人々は、買い戻す必要が、出てきた。結果は、更なる上昇を、招くこととなった、と言われる。では、今後は、どうなるのか。空買いという反対の行為が、増えることは、逆の効果を招く。さて、それまでに、実体経済は、どちらに向くのか。
皆も、理解していることだが、我々は、感情の動物である。心の動きに、様々に、左右され、時に、手に余り、時に、後押しされ、人生を、歩み続ける。だが、それだけか。殆どの人は、否と答える。感情に、左右されても、結局、それを退けて、冷静な判断を、下すのだ。
そんなことを、思い描きながら、海の向こうの様子を、眺めていると、人間の劣った部分が、押し出されている、と思えてくる。感情に押し流され、怒りに駆られて、無理を、押し通そうとする。ただ、当事者達は、感情と同時に、正義を信じることで、世界中から、暴動と断じられた、行動を起こしたのだろう。だが、一方的な正義は、所詮、成立しないものだ。そこに、冷静な判断が、欠けているからこそ、こんな結果を、導いてしまったのだろう。この原因を、憎しみとする意見が、一部の人々から、出されているが、本質を、見誤っていると思う。憎しみを、導き出したものこそ、元凶なのだから。それは、判断力と呼ばれる、全ての人間が、持ち合わせるものだ。それを、失ったまま、あるいは、減退させたまま、行動に移すことが、促されたからこそ、極端な結果が、産み出された。それを、先導したのは、大統領でもある。彼は、あくまでも、自分の利害のみで、発言も、行動も、行ってきた。だが、支持者の多くは、彼自身ではなく、自分達の為に、行っている、と信じたのだ。その結果、熱狂的な支持が、強まり続け、冷静な判断なしに、彼の言葉を、鵜呑みにすることとなった。これは、愛でも憎悪でもなく、単純に、信じることなのだ。全てが、そうだとは言わないが、盲信は、危険を伴う。これは、歴史的にも、宗教の世界で、何度も、起きてきたことであり、判断力を失った、集団が、引き起こしたことに、被害が、広がったことも、数多ある。それこそが、世界から、批判が集中した理由であり、その代償は、彼自身が、支払う必要があるのだろう。
世界各国の政府は、この災禍に対して、様々に動いている。危機を管理し、対策を講じるが、期待した効果は、上がっていない。一方、危機を回避することで、まるで、責任を回避するが如くの、政府も、散見されるようだ。特に、この国は、その典型と、国民は思っている。
だが、どの国を眺めても、どこも同じ状況に、あるように見えるのは、何故だろうか。数の増減だけを、見てみると、その傾向には、類似点が、多く見つかる。しかし、数の大きさそのものには、大きな違いがあり、世界が、目を奪われている、検査による数値は、一体全体、何を示すものか、訝る向きも多い。更に、この問題を、深刻化しているのは、死者数の違いで、各国の政策とは、全く異なる所で、何かが起きている、と思わされる。特に、国民の信頼を、失いつつある、この国の状況は、多くの批判が、浴びせられる中、漸増の傾向は、殆ど変わらず、他国からは、羨望と疑惑の、入り混じった視線が、集まっているようだ。以前から、何度も、書き綴っているように、死者数に関しては、歴史上の、流行感染症の被害と比べ、大差無いか、あるいは、遥かに小さな値しか、示しておらず、特に、この国では、同様の感染症による、例年の死者数と比べても、遥かに小さい数値を、示す状況に対して、理由を、探る必要がある。緊急事態、という考えから、その遑が無い、とする意見もあるが、現実には、そんな解析の必要さえ、感じられぬ程に、被害は、小さいままなのだ。直近の数値でさえ、半月に千人という、死者数に、注目を集めようと、報道は躍起となっているが、実際、肺炎による例年の死者は、半月で五千人に及ぶ。余地などと、不謹慎な表現は、憚られるが、所詮、その程度のものだ。騒動が、始まって以来、一年近くが経過しても、全体の様相を、眺める気配さえ、起きてこない。危機への対応において、重要な要素の一つが、欠ける中では、精一杯だろうか。にしても、元凶である世界機関を、徹底糾弾する必要は、強まり続ける。
首都の首長に、品格の欠片も、感じられないのは、当然のことだ。遊興業を、目の敵にし、接客業を、吊し上げ、果ては、都民を罵るとなれば、何様、と思うのも、当然のことだ。証拠も上げず、批判を続ける、海の向こうの大統領と、同類の、人間の面を被る、化け物だろう。
彼女が、槍玉に上げた、接客業は、一部の事柄を、誇大広告並みに、膨張させることで、悪の巣窟の如く、扱われたし、遊興業に至っては、遂に、確たる証拠が、出せぬままに、黙りを決め込む、こととなった。無責任の塊が、大きな顔で、人前に出るのは、恥知らずの典型、に違いない。先日も、著名な運動選手の、言葉を引いて、無理難題を、押し付けたとの、報道があったが、その内容は、想像を絶するものだ。作り出された、騒動のせいで、延期を余儀なくされた、世界大会に、目標を定めて、努力を重ねているのに、騒音を、出すしか能のない人から、中止との、身勝手な意見を、押し付けられたことに対し、意を決して、できない理由を探すより、できる方法を探して欲しい、と反論したのを、ある放送で、改めて取り上げられたことに、反応したのだろうが、主催都市の首長が、その大会への意見を、今回の宣言の、意味付けに使うとは、見識の無さどころか、人間性そのものを、疑う声も上がっている。大会の開催について、賛否両論が、上がっているが、競技者の問題であり、観衆の問題では無い。その意味で、あの選手の発言は、評価すべきだが、その一方で、彼らの活躍が、人々に勇気を与える、という部分に関しては、どうだろうか。今でも、多くの大会が、無観客や、少なくして、開催されており、支障なく済んでいる。その意味で、どちらの選択も、あり得るし、もし入れるのなら、事前移動の上、安全確保して、実施するのも、一つだろう。観光停滞の中では、宿泊施設の協力も、得られ易い筈だ。それもそうだが、それより、騒動を、止めることが、先なのだが。