パンチの独り言

(1月25日〜1月31日)
(何を学ぶ、好都合、情報源、偽者達、自分でする、大切なこと、見較べる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



1月31日(日)−見較べる

 馬鹿と鋏は使いよう、とは、本来、人間の能力を、如何に使いこなすか、という意味で、使われた言葉だが、どうしても、鋏の使い方、という方を、引き合いに出してしまう。この状況は、実は、豚に真珠とか、猫に小判といった言葉で、表すべきものかも知れない。
 手にした端末から、世界の情報に、接することが、できる時代に、誰もが、飛びついた結果、何が起きたか。正しい情報が、隅々にまで、行き渡る、ということは起こらず、その代わり、嘘や偽物ばかりが、世に溢れ、人々が、次々に、それに飛び付き、被害を広げている。悪意から、嘘を撒き散らし、捏造を繰り返す人間が、罪深いのは、当然のことだが、それに振り回される、人々に、罪が無い訳ではない。情報の正誤や、真贋を、見破る能力も無く、手にした端末から、発信を繰り返す人間には、犯罪への加担、という罪が、あるからだ。判断力の無さ、吟味力の欠乏、様々に、問題を指摘することも、出来るのだが、では、この手の人々が、同じ過ちを繰り返すのに、罰すればいいのか、そうでもないだろう。情報の選別について、世間では、方法論が、殆ど紹介されない。もしかしたら、正誤の判断を、する力さえあれば、問題ないとでも、考えているのかも知れないが、実際には、そんな力を、身に付ける方法は、膨大な知識を、身に付ける以外に、無いのだ。だとしたら、もっと簡単な手立ては、無いのだろうか。あるとすれば、情報収集法に、あるのではないか。正誤の判断を、下す為の手立てとして、様々な情報を集め、それらを並べて、見較べる。その程度なら、誰もが、端末に向かって、出来そうに思う。では、どう集めるか。そこにこそ、肝がある。多くの人々の、情報収集は、検索に頼るが、その手法に、使いようが、必要なのだ。思いついた言葉で、検索したら、嘘の情報が、表示された、という話が、よくあるが、それは、検索の常であり、耳目を集めたものが、初めに表示されるからだ。だとしたら、別の言葉も交え、様々に、検索を繰り返せば、まるで違う結果が、得られるのだ。簡単だ。

* * * * * * * *

1月30日(土)−大切なこと

 恐怖に、苛まれて、誤った決断を、下す。この国では、歴史上、何度も起きたこととして、言い伝えられるが、常に、冷静な判断を下す、と伝えられる、欧米では、起き得ないことされてきた。だが、今この時、それが、嘘であることが、明確になりつつある。
 膨大な数の、死者が、毎日のように、伝えられる中、都市封鎖は、より強まり、影響は、教育現場に、及んでいる。最新の設備を、活用すれば、代替策は、十分に、講じられる、と伝えられるが、現場というより、個々の子供達には、様々な悪影響が、及んでいる。人と人との接触、それも、同世代の子供同士、大人と子供の間、この二つの重要な要素は、学校という存在において、欠くことのできないもの、とされてきた。確かに、教科書にある内容を、伝達するだけなら、手にした端末を、眺めるだけで、多くの子供達にも、可能となるだろう。だが、それだけが、教え育むことの、一大事ではない。社会性を、身に付ける為には、人と人の接触を、媒体とする必要があり、それが、子供同士や、大人との関係において、重要な機会を、与えることとなる。その大切な事柄を、恐怖、それも、実体の無い恐怖を、理由として、放棄することには、大人達の無責任が、満ち溢れている。命より大切なものは、存在しないという意見には、何の誤りも無いが、命の危険に、晒されていない中で、このような決断が、下されるのは、やはり、無責任と言うべきだろう。確かに、数字は、日々、増え続けている。だが、それは、死という、誰もが逃れられぬ、運命の出来事の、一場面に過ぎず、同じように、日々、起きていることを、特別な視点で、捉えたものに、過ぎないのだ。この視点を、選ぶ限り、誰もが、死の恐怖に、苛まれるだろう。しかし、不可避の出来事と、見てしまえば、当然のこととして、片付けられる。視点の違いを、議論する意味は、あり得ず、自明な道理を、見誤ってはならない。

* * * * * * * *

1月29日(金)−自分でする

 嘗て、帝国と呼ばれた国が、戦争で、勝利を得たのは、政治家の功績、と伝えられる。前任者の、弱腰外交が、枢軸国の台頭を招き、本土への爆撃が、激しくなる中、その政治家は、強気外交へと、舵を切り、同盟国の支援を得て、最終的な勝利を、手に入れた。
 彼の功績は、今でも、語り継がれている。特に、時の女王が、今も、その地位にあり、事ある毎に、あの時代の記憶が、呼び覚まされるからだ。確かに、人間と人間の戦いにおいて、政治家の役割は、非常に大きく、勝敗を分ける。だが、今回の騒動では、戦いの相手が違い、人間の心理や言動を、相手にするのとは、勝手が違う。解決への糸口が、見出せぬ中、彼の国の首相は、自らが、発症する事態となり、一時、危機的な状況に、あると伝えられた。その後の回復から、執務に戻り、今もまだ、政治的手腕を、奮おうと、演説調の発言を、続けているが、芳しい結果は、手にしていない。その中、唯一の頼みとして、ワクチンが、市場に出回り、早速、優先的な接種が、始まったが、すぐには、状況改善は、起きない。となれば、使い古した政策を、継続するしか、手立ては無く、徒労を、覚悟の上で、抑圧的な空気に、覆われている。進捗状況に、僅かな違いがあるものの、世界各国が、同じ状況に陥り、政治家達の、過ちの数々が、厳しい批判を、浴びている。この国とて、他国と比べれば、被害の大きさは、誤差程度にしか、及んでなくとも、様々に講じられた、政策の数々は、殆ど役に立たず、無能呼ばわりされている。これは、専門家にも、当てはまり、数の増減に、新たな策を、講じる気配は、全く無く、言い古された言葉を、繰り返すのみで、役立たずぶりが、際立ち続ける。所詮、作られた騒動でしかなく、騒ぎが続くだけだが、病原体を相手に、人間の知恵は、歯が立たず、無力感が、強まるようだが、その見方を、変えてしまえば、解決するのだ。発症したら、医学に頼らねばならないが、感染予防は、自分でできる、健康を保つことだ。

* * * * * * * *

1月28日(木)−偽者達

 一時期、「トンデモ」、と呼ばれるものに、警鐘が、鳴らされたことを、覚えているだろうか。トンデモ科学、と呼ばれ、別称として、疑似科学や似非科学などと、批判されたものに、多くの人々が、引き寄せられ、手にした端末から、垂れ流しの、片棒を担いでいた。
 はじめは、嘘八百でも、無価値なものとして、無視を、決め込んでいた、科学者達も、余りの惨状に、重い腰を上げ、明らかな間違いと嘘を、一つひとつ、指摘することで、大衆の目を、覚まさせようと、してきた。だが、その始末が、つかない内に、今回の騒動が、あろうことか、科学に携わる人間達が、中心となって、引き起こされた。世界機関の責任と、無知蒙昧ぶりに、何度も、強い批判を、書き綴ってきたが、こんな所の発信に、目を向ける人は、数える程しか居ない。それでは、恐怖を煽り、不安を催させ、ありもしない安心を、提供し続ける、偽物や嘘に、対抗することは、殆ど不可能だ。だが、だからと言って、沈黙を、続けることは、人間として、恥ずかしいことだ。だからこそ、これからも、何度も、書き続けるだろう。今も、多くの人々が、俄専門家を、自認しつつ、世間の問題を、論じている。例えば、陽性か否かの、検査の方法について、増幅数の問題を、指摘することで、体制批判を、続けているが、検査の実施そのものが、無駄であり、無意味であることに、気付けぬ人間に、体制を、批判する資格は、無い。せっせと、無実の人間に、罪を被せることが、どれ程、無意味で無駄かを、指摘してこそ、今の情勢を、正しく批判できる。人の欠点を、指摘して、それで満足な人間に、本質が、見抜ける筈は無い。科学という道具を、正しく使えず、「トンデモ」、と同じようなことを、繰り返す人間が、巷に溢れているのは、今の情報社会の、特徴の一つだ。ただ、これは、素人に限ったことでなく、専門家然として、画面や誌面を賑わす、医療関係者にも、当てはまる。また、あの機関に属する、科学者の言動にも。

* * * * * * * *

1月27日(水)−情報源

 情報の信頼度が、改めて、取り上げられたのは、分断と呼ばれる、不穏な動きが、強まり続けているからだ。意見の相違は、複数の人が、集まれば、当然起きることで、それ自体に、悪い点は無い。経験の異なる、人間同士が、話し合えば、そこに、違いが、現れる。
 そんな当たり前のことを、今更、取り上げるのは、何故なのか。分断を、解消しようとするなら、信頼度という指標は、不適切でしかなく、仲間以外は、信じないとか、嫌いな人間の話は、信じられないとか、そんなことが、並ぶだけだからだ。にも拘らず、改めて、取り上げたのは、中心となる組織が、自身の評価を、懸念したからだろう。だが、その心配は、無意味としか、思えない。何故なら、その事態を、招いたのは、自分達自身であり、それを、心配するなら、正しい情報を、正確に伝えれば、いいだけのことだ。その姿勢を、変えることなく、何を、伝えれば、好ましく思われるか、などと考えても、無駄でしかない。大衆を、対象とした、情報伝達の仕組みは、人が集まれば、不可欠なものとなり、その信頼度は、社会が、健全に動く為に、重要な指標となる。だが、情報伝達に、関わる人間の数が、異常な程に、増えた結果、巷に溢れる情報は、正誤入り混じり、思惑が鏤められたものとなる。だからこそ、信頼度が、と思う人々は、本質を、見抜けていない。何故なら、加担する人間達は、信頼されることを、目指しておらず、ただ、他人を惑わし、騙すことしか、考えていないからだ。では、情報を、受け取る人間は、何を、基準とすべきか。意見の相違は、たとえ、同じ数値でも、生じるもので、それを、受け取るだけでは、振り回されてしまう。それなら、他人の意見に、耳を傾けず、彼らが、頼りにした、数値そのものを、眺めてはどうか。それも、加工されたものではなく、元の数値、一つの視点でなく、多様な視点によるものに、当たることこそ、大切だろう。その手の情報も、同様に、氾濫しているのだから。

* * * * * * * *

1月26日(火)−好都合

 現場は、確かに、混乱の極み、なのだろう。しかし、それを、支援する筈の体制は、整えられぬままに、放置されている。何が、どう間違ったのか、理解に苦しむが、断片的に、伝えられる情報からは、幾つかの問題が、見えてくるが、不確かなもの、ばかりのようだ。
 何故、そんなことが、起き続けるのか、外からは、理解不能としか、思えないが、渦中の人々は、何を、どう考えているのか。外からでは、確かなことは、見えてこないが、それでも、彼らが、頼りにしたものを、眺めてみると、何となく、気付ける所が、出てきそうだ。情報の信頼度、という指標は、同じように、不確かなものだが、それでも、大衆が、何に振り回され、何を見限ったかが、見えてくるものだ。その結果は、日々、不確かな情報を、垂れ流し続ける、塵のような存在を、槍玉に上げていたが、ある意味、当然のものだった。一方で、様々な方策を、講じている存在にも、同様に、厳しい目が向けられた。では、彼らが、頼りにする情報源は、何なのか。そこに、問題の本質が、ありそうだ。何故なら、大衆は、誰かが、出した意見を、情報源とするだけで、日々、発表される数値を、追い続けようとしないからだ。意見は、本来、それらの数値を基に、誰かが、考え出したものだが、現状の、間違った意見は、数値も見ずに、勝手なものを、放り投げたものに、過ぎないのだ。本来、その正誤さえも、数値を頼りに、判断できるのに、それもせずに、好ましいと思う意見を、鵜呑みにして、反対意見を、排除し続ける。これでは、正しい判断など、できる筈も無い。だが、不安を、解消する為と称して、好みの意見を、拾い上げることに、終始してきた愚民にとり、今の状況は、ある意味、都合の良いものとなっている。ただ、多くの人々にとり、そんなことで、窮地に追い込まれることは、起きないからこそ、他人事として、簡単に、片付けられるのだ。

* * * * * * * *

1月25日(月)−何を学ぶ

 懲りない連中が、同じ過ちを、繰り返している。世界全体に、広がる恐怖に、そんなことを、考える人が、多いのだろう。その一方で、歴史に学ぶ、ということを、強調する人も、数え切れぬ程に、増え続けている。歴史は、繰り返す、と言われるからだが、どうだろう。
 死への恐怖が、広がり続けていた頃、嘗ての疫病との比較が、盛んに、行われていた。一つは、黒死病として、恐れられた、細菌による伝染病だが、今回の騒動とは、病原体の違いから、あまり注目されず、著名作家の作品が、話題となっても、そこから、学べることは、少ないようだ。ただ、例外的なことは、疫学や公衆衛生学が、役立つ可能性を、示したことであり、今回も、その観点からの解析が、行われている。ただ、同じ過ちを、繰り返したくないのか、あるいは、最先端に、引き寄せられるからか、仮想計算を、主体とする解析に、拘る研究者に、振り回された結果、解析自体の信頼性を、失ってしまったようだ。もう一つの疫病は、百年程前に、世界各地に蔓延した、ウイルス性の疾患で、流行性感冒の一つ、通称、スペイン風邪、と呼ばれるものだ。こちらは、今回と、類似した病原体によるもので、多くの類似点が、指摘されている。当然、歴史に学ぶことに、注目が集まり、それに関する論説も、数多登場しているが、少し読むと、学ぶことの難しさが、見えてくる。失敗を、繰り返さない為に、歴史上の出来事とは、異なる選択を、行うことが、当然の策として、紹介されている。特に、原因を、様々な観点から、探った上で、それとは別の方策を、講じることが、学ぶこととして、紹介されるのだが、過ちとして、挙げられたことを、避けることが、必ずしも、正しいことに、繋がらないことも、今後、歴史上の出来事として、記録されるだろう。今回の騒動でも、集団免疫を、目指す動きに対して、賛否が、分かれていたが、結果は、大差無いように、見えてきた。これでは、まるで、歴史に学ぶべき対象を、見誤っただけではないか。感染拡大を、抑制するより、発症後の治療に、精を出すべき、と。

(since 2002/4/3)