パンチの独り言

(2月1日〜2月7日)
(お任せ、チキン、刷新、無視しよう、些事大事、違いを産む、目眩し)



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2月7日(日)−目眩し

 愚かさばかりが、際立っているが、当人達は、一向に、気付く気配が無い。だからこそ、愚かなのだが、何とかに、付ける薬は無い、と言われるのも、当然のことだ。だが、そこに、専門家が加わり、政治家が口出しすると、まるで、それが、重要なことに、見せられる。
 だから、一番残念なことは、愚かな世論に、手を貸す、政治家や専門家が、居ることだ。議論を、正しい方向に、導くべき者どもが、挙って、下らない議論に、加わることで、肝心なことを、大衆の目から、見えぬものにする。こんな愚行が、度々起きるのに、手を拱いているのは、明らかな過ちだ。特に、呼ばれなかった、政治家や専門家が、異論を唱えることで、軌道修正をすることは、誰もが、発信できる時代に、簡単にできることだからだ。数多ある間違いの中で、最近、呆れたのは、ワクチン接種に、関する話題だ。この国では、以前から、ワクチンの副反応に、異常な程の興味を、示す人々が居る。生後間も無く、服用したもので、救われた命や、障害を被らずに済んだ子供に、目を向けることなく、また、多くの伝染病への、対策として、講じられたものを、理解することなく、ただ、若い女性達への、接種において、起きた副反応を、殊更に取り上げる。接種後に、生じた症状に、偽りは無いが、その原因は、特定されておらず、さも、全てに起きるが如くの、伝え方には、悪意しか、感じられない。そんな風潮に、今回の騒動は、唯一の救いとして、切り札が、登場したかの如くの、伝え方が、されている。だが、反対する世論への、働きかけとして、使われた報道手法は、明らかに、誤っている。まだ、効能さえも、確認されぬ中、副反応に、目を向けさせるのは、世論誘導でしかなく、問題の核心を、覆い隠すものとなる。ワクチンが、切り札になるかは、予防効果を、示してこそだ。特に、今回の騒動の主には、変異が付き物、と言われるだけに、様々な問題が、残っている。だからこそ、接種せぬつもり、と公言する立場からは、的外れな議論は、無駄の一言でしかない。

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2月6日(土)−違いを産む

 海の向こうでは、新大統領が、就任して、前任者の失政を、厳しく批判する。その彼に、敗れた女性候補者は、頭上に、被さるガラスを、見えない障害として、喩えていた。彼女が、それを、意識したのは、およそ半世紀前。嘗て、あの国では、解放運動が、盛んだった。
 家に、縛られた存在の、女性解放運動は、女性達が、声を上げることで、始まった。参政権を、獲得する運動は、更に昔に、行われ、権利を獲得した。その成功例に倣い、解放運動も、その勢いを、増していったが、その後の情勢は、微妙な所にある。こちらでも、飛び火した活動は、様々に展開したが、今も、共同参画という括りで、社会活動が、行われているのは、不十分な状況が、実感されるからだろう。更に、複雑な状況が、顕在化することで、多様性は、高まり続け、解決すべき課題は、山積みになるだけでなく、次々に、新たな山が、生じている。他人との違いを、受け入れることは、容易くはなく、区別が、差別に結びつくことは、度々起こる。解決への道筋は、遠くて長いものに、思えてくるが、あるとしたら、唯一の手立ては、おそらく、寛容なのだろう。運動の中では、主張ばかりに、注目が集まるが、それは、社会の欠陥を、指摘することばかりで、解決の糸口が、見つからない。だが、他人の考えを、認めることに、目を向ければ、状況は一変する。多様性を、強調する人々の多くが、それに気付かず、ただ、考えの違いを、主張し続ける。これでは、何の解決も、得られない。先日も、要職にある人物が、差別発言をした、と伝えられたが、所詮、老人の戯言であり、耳を貸す意味は無い。総攻撃の如く、批判が続くが、不毛でしかない。それに乗じて、辞退するなど、下らないことだ。何故、こんな反応しか、示せないのか。それこそが、差別の源、寛容の欠如でしかない。許せぬなら、無視すればいい。それが出来ぬから、差別の心が、芽生えるのだ。

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2月5日(金)−些事大事

 医者の世話に、なりたくない。と考える人は、多いのだろうか。なるべく、健康で、元気に、毎日を暮らし、老後も、穏やかに、暮らしたい、と思う人は多い。だが、世間では、生活習慣病として、様々な値から、外れた人々を、予備軍として、厳しく指摘する。
 放っておいてくれ、と願う人も多いが、毎年のように、指摘されることに、疲れた結果は、安易な方に、流れるものだ。健康的な数値を、取り戻そうとする人も、居るには違いないが、日々、我慢を続け、努力を続ける代わりに、薬に頼れば、指摘が、収まるのだ。医者に、世話になるより、処方だけでも、して欲しい、となる訳だ。これと、同じではないが、逆に、医者好きの人が、居るのも事実だ。大したこともないのに、医者に診て貰い、安心を、手に入れる。だけならまだしも、時に、注射や、特別な薬を、要求する人も、多いと言われる。医療費の問題、として捉えられるが、そうではなく、何故、ある特別な医療行為を、要求するのか、という点に、大きな問題がある。特に、老人医療に関して、強い批判が、あったのだが、今回の騒動で、同じ問題を、正反対の捉え方で、紹介していた。医療逼迫が、深刻であることを、強く訴える為に、軽症者の診療は、敢えて行わず、待機させるが、時に、重症化することもあり、手遅れを、大問題と指摘する。その上、待たされる患者は、診療を、希望している、との報道は、上に書いた、患者の要求と、似た部分があると思える。弱者保護の観点から、こういう指摘が、繰り返されるが、全体として、どういう体制を、敷くべきかという見方が、明らかに欠けている。そのことに、気付かないのか、それとも、単に、頭が悪いだけなのか、定かではないが、困っている人を、救うことばかりに、目を奪われ、全体を見ようとしない。こういう風潮が、今の混乱を、招いていることを、もっと厳しく指摘すべきだ。そんな些事に、目を向ける必要は無い。

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2月4日(木)−無視しよう

 様々に、情報が操作され、何が現実か、見抜かれぬように、しているが、一年も経てば、肝心なことは、誰もが、知る所となる。中でも、世界各地で、露呈したことは、政治の無力さだろう。人間の無力さを、死者が増える度に、掲げる妄言も、聞き飽きている。
 混乱の中、人々の生活は、多大な影響を受け、被害が、大きくなり続けている。その殆どは、政治が決めたことで、害を被る一方で、何らかの施しが、為されている。しかし、困窮化する速度が、緩やかになったとしても、肝心の感染症は、何の変化も起こせず、増減を繰り返し、恐怖を煽る為に、使い始めた、陽性者の数も、死者の数も、決して減ることはない。更に、拡大が続けば、母数が増し、どちらの数も、増加速度が、増すこととなる。全体の増減が、繰り返すから、一部の専門家が、自らの不明と共に、屈辱的な発言として、残ってしまった、倍々になるような、急激な増加は、起きなかったが、それでも、増加傾向には、大きな変化は無い。但し、死者数に関しては、悲惨な数字が、提示されたとしても、人間は、いつかは死ぬ存在であることに、変わりは無く、その数値の意味は、曲解されているのだ。そんな動きの中、政治家達は、活発に動き、せっせと、新たな政策を、大衆に押し付けてきた。総括が、必要と、以前書いたが、細かな分析が、必要とならない位、悲惨な結果が、積み重なる。何をしようが、何を叫ぼうが、大差無い結果が、出ていることは、ほぼ明らかで、感染症を前に、政治は、無力でしかないのだ。一人ひとりは、愚かな政治家が、何をどう説明しようが、日々の生活を、注意深く、送るしかない。それ以外の選択肢は、何処にも、存在しておらず、時に、神頼みも、必要となる。一方で、盛んに喧伝される、専門家達の助言は、山と積まれた、塵でしか無く、無益なばかりか、時に、害でしかない。例外は、治療にあたる医療関係者か。まあ、世話にならぬよう、注意せねば。

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2月3日(水)−刷新

 数字の動きに、一喜一憂する。世界各地で、同じことが、行われているが、どうにも、その実態は、怪しげなのだ。この騒動では、当初から、操られた数字が、巷に溢れ、不確かなものに、振り回されることが、続いている。世界機関が、情報操作を、行ったように。
 感染爆発を、想定する中で、過大評価が、際立つのは、当然のことだろう。何しろ、数字の大きさを、強く訴える為に、仮想計算の結果を、殊更に、大きく伝えたり、計算に使う係数を、大きめに、設定することが、安易に行われる。そこから、導き出される結果は、想定通りの、大きな数字となり、担当者は、満足げに、報告することとなる。だが、増加傾向は、保てたとしても、大き過ぎる係数は、過大評価へと繋がり、乖離は、大きくなり続ける。当初の計算が、如何に、的外れだったかは、今後、厳しく検討せねばならないが、当局は、そんなことさえ、目を瞑ろうとする。見て見ぬふりは、緊急事態には、通用するかもしれないが、一旦落ち着けば、早晩、格好の標的となる。その頃には、関係者達は、逃げ出すこととなり、批判も、相手が見付からず、空振りになることが、十分に予想される。本来なら、責任追及の為に、それらの地位に、留まらせる必要が、あるのだが、実際には、そこまでの失敗を、埋め合わせる為に、新たな人員を、導入する必要があり、結果的に、過ちを犯した、当事者達に、逃亡の機会を、与えることとなる。そんなことに、精を出すより、騒動を収束させ、正常な状態を、取り戻すことこそが、最優先となる。では、責任を問わずとも、いいのだろうか。そんな訳が無い。これを、断行するのであれば、世界機関を、一旦廃止にしたり、その母体である、連合機関をも、解体したり、さもなければ、一新する必要が、あるだろう。途上国を、救う為とか、そこに暮らす、不幸な人々を、救う為とか、そんな目的で、せっせと、金集めに精を出す。そんな連中は、要するに、無用の長物なのだ。

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2月2日(火)−チキン

 相場の世界には、ブルとベアが居る、と言われる。牡牛と熊は、それぞれ、強気と弱気を、指すと言われるが、今は、弱気から、強気に転じたものが、人為的操作により、不安定となっている。一方、世界情勢は、恐怖に包まれ、チキンレースにも似た、決断が目立つ。
 チキンとは、まさに、鶏のことであり、恐れを抱く時に、鳥肌が立つ、ということから、臆病者を、表すのだそうだ。それが、並走する車の競争で、恐怖に駆られて、逃げ出すのを、表すものとして、使われたと言われる。では、今回の馬鹿騒ぎで、世界が、恐怖に包まれる中、各国の指導者は、どう動いているのか。政が、出来ることは、確かに、限られており、都市封鎖と、金のばら撒き、くらいしか無い。だから、恐怖を煽る、世界機関の暴挙に、反対を唱えるより、従順に従った上で、袋小路へと、誘うような政策を、取らざるを得なかった。しかし、その後の推移を、冷静に眺めれば、当初の脅しは、的外れであり、過剰反応が、恐怖の材料を、作り出したに、過ぎないことが、明らかとなる。だが、薄々気付いたとしても、臆病者には、他の選択肢は、見えないのか、手を出せないのか、何れにしても、チキンレースが、続いている。その中で、自らの不明を隠し、強気のふりをする、政治家達が、更なる暴挙を、編み出し、押し付けてくる。これは、国内の首都で、あの首長が、行っていることだが、その一方で、宰相は、就任当時の勢いを、明らかに失い、支持率の低下と共に、言動にも、陰りが見える。就任前までの、強気の会見姿勢が、失われたことに、首を傾げる人が、居るのだろうが、理由は、ごく単純なものだ。責任の重さが、態度の急変に、繋がっただけなのだ。最終責任と、そうでないものには、大きな違いがある。とは言え、これもまた、チキン、臆病者だからこそ、のことだろう。はじめから、結論ありで、筋書き通りの展開を、歩みたがる。末期症状なのだ。

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2月1日(月)−お任せ

 半世紀前、とは言わぬまでも、暫く前の、相場の世界を、思い浮かべることは、難しいようだ。場立ち、と呼ばれた光景も、偶に、映し出される映像でしか、眺めたことの無い人が、かなり多く、あの熱気を、覚えている人は、少なくなるばかりだ。今は、どうか。
 端末を前に、日々の動向を、思い描いて、取引を、入力する。日々の取引で、生活を、成り立たせる人は、朝から夕方まで、端末に張り付き、一喜一憂を、繰り返すと言われる。場立ちが、常だった時代には、投資家達は、黒電話を手にして、証券会社に、発注していたから、思い付いてから、市場に、注文が届くまで、一体、どの位の時間を、要したのか、一瞬で、事が済むのと、比べようも無い。だが、どちらの場合も、投資家が、自分の意思で、注文を決めることに、変わりは無い。しかし、嘗ても、顧客獲得に、躍起となった、証券社員は、資産を、預けてくれれば、損はさせない、とばかりに、勧誘を続けていた。但し、これは、法律に反する行為で、注文を受けて、売買をすることが、絶対条件とされていた。例外は、投資信託と呼ばれる、信託を受けて、適宜、売買を繰り返し、そこから、得た利益を、投資家に、戻すという仕組みだろう。何故、こんな話を、持ち出したのか、不思議に思う人が、居るだろうが、それは、最近の広告で、ある仕組みを使えば、情報を基に、資産運用を、自動的に行うことが、出来ることを、聞いたからだ。世界でも、同じ方式が、行われており、その成果と同様に、資産運用において、利益を確実に出来る、との主張は、何処か、怪しげに映った。それより何より、この方式は、証券社員が、顧客の了承なしに、売買を行うという、法律で禁止されたものと、何処が違うのだろうか。事前了承を、得たから、というのでは、違反行為であることに、変わりは無いが、一々、確認を取るような、仕組みとは思えない。だとすれば、何処に、抜け道があるのか。本当に、大丈夫なのか。

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