パンチの独り言

(2月8日〜2月14日)
(妄信、誰の思惑、見える、居眠り、擬体験、総意、科学の敵)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



2月14日(日)−科学の敵

 人道的な立場から、とは言え、弱者保護を、殊更に強調する、風潮に関して、何度も、触れてきた。それは、弱者を、保護する為と称して、その実、全く別の目的を、達成する動きが、そこに潜むからで、関わる人間の、非人道的な思惑を、隠す為の、手立てに過ぎないからだ。
 この風潮が、強まる中で、別の副作用が、起きているのも、警告を、出すべきと、思う理由だ。それは、弱者の主張を、鵜呑みにする傾向が、強まることで、非論理的な主張や、非科学的な論理が、罷り通り始め、社会全体に、無意味で、無駄なことが、氾濫することで、人々の生活が、実は、脅かされ始めていることに、懸念を抱くからだ。中でも、科学への信頼が、大きく損なわれ、まるで、人類の敵かの如く、糾弾する人々が、その狂気にも関わらず、引き合いに出され、尊重される空気が、漂っていることは、人々を、窮地に陥らせる、誤った動きと、見做される。彼らの多くには、話が通じず、自らの主張を、押し通す為に、被害を、誇張することで、反論を、押し潰そうとする、目論見が、露骨に現れており、議論の余地が無いばかりか、その時間を取ること自体を、無駄と片付けるべき、存在でしかない。非科学的な主張では、断定的な言い回しが、多用されており、これに対して、冷静な姿勢で、科学的に否定しても、所詮、それらは、可能性の問題でしかなく、非論理的な断定を、排除できる筈が無い。この状況では、狂気の一種を、否定することが、唯一の手立てとなるが、今の社会は、それを、忌み嫌うばかりか、まるで、正当な主張のように、扱ってしまう。これに、拍車を掛けるのが、自己満足の表れとしての、SNSの発言の数々で、これらは、狂気でしかないものを、真っ当に扱わせようとする。科学が、丁寧に対応する必要は、全く無いのだが、社会の暴走は、それでは、止められず、その責任を、科学に負わせる動きは、強まっているから、やはり相手にせねばならぬ。

* * * * * * * *

2月13日(土)−総意

 先週書いたことは、看過できなかったらしい。世の中、多様性などと、勝手なことを、抜かす輩が、矢鱈に、多くなっているが、その殆どは、自らの主張ばかりで、他の考えを、受け容れる気は、毛頭無い。乱立すれば、多彩なものとなる、と信じているとは、情けない。
 前にも、何度も、繰り返し書いたように、多様性にとって、最も重要なのは、寛容性だろう。区別でなく、差別となるのは、他者を受け容れず、他の考えを、排除するからだ。たとえ、乱立させたとしても、そこに、排除の考えが、居座れば、多様性とはならず、単一だけが、残る。そのことに、気付かぬままに、旗揚げしても、所詮、何の役にも立たず、無駄なものが、山と積み上げられる。これ程に、単純なことも、無いと思うのだが、世の中には、そんなことさえ、気付けぬ無知蒙昧が、偉そうな顔をして、闊歩しているのだ。確かに、軽率な発言は、許されるべきではない。だが、彼の主張にも、一理はある。与するつもりは、毛頭無いが、目立とうとするばかりで、不毛な議論を、長引かせる人間は、男女を問わず、居るものだ。一方で、権力者に対して、服従を誓い、ただ、参加するだけの人間も、無数に居る。たとえ、世紀の催しが、参加することに、意義のあるものだとしても、それを、企画運営する側が、頭数だけで、何の役にも立たないのなら、無駄の一言で、済んでしまう。ただ、この国では、こんなことが、数え切れぬ程、起きてきた。それでも、数少ない例外を、除けば、大過なく、終わるどころか、世界の注目を、浴びたことが、何度もある。それが、どんな形で、実現されてきたか、今、あの人物を、排除することに、躍起になった人々は、どれ位、熟知しているのか。一時の怒りと、無理解とにより、総意を装い、別の見方からすれば、横車を押した人々は、この催しの成功を、目指しているとは、言い難い。単に、反対を唱えることが、正義だと、信じ込んでいるだけだ。

* * * * * * * *

2月12日(金)−擬体験

 成功体験。世間では、大切なこと、良いこと、と扱われるが、どうも、怪しげな気がする。確かに、立身出世には、成功が付き物だが、ここで言う成功は、どんなものか。それを、確かめてはどうか。体験させようと、準備万端、整えておけば、それでいいとは。
 そんな舞台を整えて、成功させねば、体験できぬから、というのでは、何が何やら、さっぱり判らぬ。そんな茶番が、各地で催され、将来ある若者が、成功を手にする。いや、これでは、何もできぬのでは、と思うのは、余りに穿った見方か。だが、成功の喜びは、努力の末に、手にした時こそ、感じられる。成功者の多くは、そんなことを、呟いている。いとも容易く、手に入った成功に、若者が、喜んだかどうかは、ここで、論じられることなく、単なる体験として、次の段階へ、進ませるのだ。さて、こんなことで、本当の意味が、出てくるのか、と思う訳だ。一方で、こんな成功体験には、別の悪い意味が、ありそうにも思う。成功を、手に入れることに、躍起になるのでは、成功の質や意味は、出てこない。こんなことを、感じるのは、世論を盛り上げ、それにより、ある意味の成功を、成し遂げることに、加わる人が、増えているからだ。SNSでは、誰かの意見が、取り上げられ、多くの賛同を得ることがあり、それが、一種の成功のように、扱われる。誰かを、排除することにも、そんな動きが、影響を与えるが、そこでの成功は、正の効果より、負の影響を、及ぼすものとなる。元々、人の評価は、長所より、短所へと、目が向き易い。それを、排除への動きに、繋ごうとすれば、欠点を並べれば、簡単に行える。だから、排除を、繰り返すことは、簡単なのだ。これを、成功体験と結び付ければ、それこそ、負の影響を、何度も繰り返せば、次々と、手に入れられることになる。どうも、そんな気配が、漂うのだが、どうだろうか。

* * * * * * * *

2月11日(木)−居眠り

 文化の違いには、様々なものがある。特に、歴史的な違いは、その地域が、育んだものとして、重視されるし、大切なものとして、保たれるべき、と考えられている。だが、必ずしも、良いことばかりとは、限らない。外国人が、感じる異様さには、そんなものがある。
 初めて、この国を、訪れた人の多くが、驚く光景は、乗り物の中に、あると言われる。今は、ぎゅう詰めの、満員電車に、乗ることも無いが、その詰め具合に、驚く一方で、然程混んでいない、電車の座席で、眠り込む人の姿に、更に驚いた、と答える外国人が、多いと言われる。なんと、無防備なこと、との驚きらしいが、それにもまして、職場の会議で、舟を漕ぐ姿に、更なる驚きを、見せるらしい。大切な議論の場を、何と心得るのか。などと、堅苦しくは、決して、考えないだろうが、それにしても、何かを、決めようとして、話し合いが、持たれる中で、何故、参加もせずに、黙りこくるだけでなく、居眠りまでも、するのかについて、不思議で、仕方がないのだ。だったら、はじめから、会議に出る必要は、無いとなる。合理的に、考える人程、そう思うらしく、不思議の一つとして、紹介されることが多い。だが、この国の会議では、別の要因が、働いている、とも言われる。合理性で、考えれば、その不合理に、気付くことだが、何を、どう、議論するのか、何も判らぬままに、長々と、会議が続く。議題は、確かに、掲げられており、その内容が、話し合われる。なのに、周到に準備された、提案が、出される訳でもなく、それに対しても、的確な意見が、出される訳でもない。不明確な提案に対し、賛否両論どころか、どちらに与するのか、あやふやな意見が、一つ二つ出てくる。これでは、参加しようがしまいが、何の違いもない、と思えてくる。その結果、集中力が、失われて、居眠るのだ。会議の進行が、不徹底であることが、この国の問題なのだ。

* * * * * * * *

2月10日(水)−見える

 赤鉛筆を手に、作業をする姿は、嘗て、文字を扱う職場で、当たり前のものだった。だが、今はどうか。印刷現場が、全く違うものとなり、赤鉛筆の役目は、終わったと言われる。だが、印字の間違いでなくとも、変換や言葉遣いの誤りを、正す作業は、続いている。
 こんな話題に、触れるのは、最近の文字に、多くの誤りが、見られるからだ。書籍の誤植は、以前よりも、目立つように、思えるが、それより、深刻に思えるのは、言葉の誤り、特に、音声として、流れてくるものに、目立つ杜撰さだ。文字という意味では、話すことに関しても、元々、原稿がある筈で、読み間違いなどを除けば、ほぼ全てが、原稿作成で、犯した間違いが、音声として、流される。ここでも、点検をする人が、必ず居る筈だが、彼らの能力が、低下しているようだ。同じことは、書籍の編集作業でも、起きており、手書き原稿や音声の、文字起こしに、間違いは、付き物だから、点検が必要となる。昔は、校正に当たる人材が、文字を扱う職場には、必ず居たものだが、今は、専門職として、存在する場は、珍しくなっている。同僚や先輩が、業務の一環として、行っているが、何かが足らないからこそ、数々の間違いが、表面化しているのだろう。専門家を、抱えることの難しさは、業務の効率化や、人員削減により、強くなるばかりで、結果として、相互支援しか、道が無くなったのだろう。止むを得ない、とも思えるが、それで増えた間違いは、誰の責任になるのか。専門家がいた時代でさえ、その能力には、明らかな差があった。何処に、違いがあるのか、明確な答えは無いが、高い能力を示す人には、間違いが見える、と言われた。時に、精読せずとも、誤植が呼ぶから、見えると。最近は、入力時に、様々に指摘されるが、能力は、高くない。人工知能に、との声もあるが、所詮、効率を上げるだけで、表現できない能力は、真似できないのだ。

* * * * * * * *

2月9日(火)−誰の思惑

 歴史は、繰り返す。全く同じことが、起きる訳ではないが、同じような展開が、起きることを、指している。人間が、関わるものでは、その心理が、強く反映することで、次々と起きることが、同じ道筋に、乗ってしまう。良いも悪いも、心理と絡み、似てくるのだ。
 だとすれば、先の展開を、読むことが、可能となる。これが、歴史に学ぶ、と言われる所以で、経済の世界では、それにより、利益を得よう、とする動きが出る。であれば、誰もが、儲けられる筈だが、そうならないのは、何故だろう。よく似ているが、実は、細かな点で違っていたり、途中までは、そっくりそのままなのに、ある時点を境に、全く異なる展開となる。これらのことが、成功と失敗を、分けることとなる。単に、真似をすれば、それでいい、とはいかないのだ。とは言え、やはり、同じようなことが、起きるから、危機を回避するのにも、使えそうな話だ。逆の見方では、失敗を、繰り返さずに、安全策を、講じるのにも、同じ手法が使われる。成功が、手に入れば、それはそれで、いいことには、違いないが、成功でなくとも、失敗を犯さねば、それでも十分となる。他国との戦いで、敗れた歴史は、始まりから、終わりまで、数々の過ちを、犯したことが、度々、指摘される。その一つが、情報統制であり、国を挙げて、偽の情報を、流すことで、誤った道を辿った、と言われる。それに、加担したのが、報道機関であり、彼らは、その過ちへの反省から、戒めを発してきた。嘗てより、情報が、遥かに重要と、考えられる時代に、政府の暴走を、止める役割を負うべく、強く意識しているようだが、どうだろうか。一党支配により、権力の集中が起き、暴走の懸念が、高まっている、と伝えられるが、様子が、違うように思える。政府が、一枚岩に、思えぬ中で、報道による情報統制は、失敗の歴史と、類似した状況を、示し続けている。要請ではなく、恰も、忖度による、情報操作には、あの失敗が、重なる。

* * * * * * * *

2月8日(月)−妄信

 今、世界で通用する科学は、その根源が、宗教にある、と言われる。絶対神の存在を、仮定する中で、生まれた学問は、絶対的な存在を、仮定することで、通用するもの、となるからだ。そんな筈は無い、事実があり、それを見つけることで、学問が、発展してきた。
 と信じるのは、人それぞれの、勝手なのだが、学問が、拠り所とするのは、まさに、絶対的な存在、という仮定であり、そこに、並列するものがあれば、あらゆる事柄に、複数の可能性が、生じてくるから、何も、断定的なことは、言えなくなる。真理とか、事実とか、喩え、それらを、示したとしても、他の可能性を、排除できなくなり、何も、決められない。そんな立場に、立ったのでは、何事も、成立しなくなるからこそ、一つの事実、という仮定を置き、全ての事柄を、精査してきた訳だ。それにより、学問と共に、技術も発展し、人々の生活が、豊かになってきた。その多くは、経験に基づくものであり、それらを並べて、比較することで、仮説を検討し、結論を導いてきた。成功例は、数多あるが、かと言って、全てが、解き明かされた訳でもなく、通用しないことも、数多く残っている。不思議のまま、残ったものから、人々は、何を、導き出してきたのか。そこには、再び、宗教が、登場するようだ。科学では、理解不能なもの、解明できぬことに、何かしらの、意味を見つけて、そこから、次の道筋を、つけていくもの、それが、宗教なのかも知れない。だからと言って、宗教に、縋るかどうかは、人それぞれの問題であり、科学で、解決の糸口を、見つけようとする動きは、常に、あるに違いない。科学と宗教が、その始まりとは別に、全く異なる方に、向かっているように見えるのは、今の時代の特徴、かも知れない。だが、一方的な信頼が、妄信へと繋がり、暴走に結び付くのは、科学も、宗教も、同じ立場にある、と言えそうだ。

(since 2002/4/3)