パンチの独り言

(2月15日〜2月21日)
(支離滅裂、三文芝居、実直に、地獄に仏、理屈抜き、想定外、増減)



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2月21日(日)−増減

 株式相場は、活況を、呈している、と言われる。30年ぶりの高値に、歓迎の声は、小さなままで、実感が、伴わずとの声が、盛んに取り上げられる。だが、あの時は、給与が上がっても、それ以上に、物価が上がることで、多くのものが、高嶺の花だった。当てにならぬ。
 だが、その後の急落に関しては、何度も、取り上げられたから、実感があるかの如く、感じられる。こちらも、所詮、他人事に過ぎず、大した被害を、受けなくとも、社会の暗さが、反映されるのだ。その時、ある証券会社が、潰れてしまった。社長の記者会見が、何度も、話題となったから、多くの人が、知る所だが、倒産の要因に関して、詳しく知る人は、少ないだろう。あの時、紙切れとなったのが、株券だったが、所詮、投資金が、失われただけで、負債とはならなかった。だが、相場の仕組みでは、仮想取引とも思える、空売買があったから、持ち金の取引ではなく、そちらに手を出した人々は、まさに、借金に塗れることとなった。海の向こうでも、最近、話題になった取引だが、評判が悪いものだ。ただ、経済においては、このように、正の数値だけでなく、負の数値が、出てくるのが、常となる。しかし、現実の数値は、その多くが、正の数字しか、示さないものだ。物の数、人の数、増減を扱えば、正負を、論じられるが、数そのものに、負は存在しない。ゼロの発見、などと言われるのも、その実感が、浮かばなかったから、とされる。今、馬鹿騒ぎの状況は、何時、宣言解除を、行うかにある、と言われる。だが、その要因として、減少の勢いが、重要とされ、不思議な論理が、振り回されている。元々、ある数値を、基準として、宣言が、行われた筈が、解除では、別要因を、持ち出すのだ。それも、時に、比率ではなく、絶対数を、取り上げては、的外れでしかない。喩え、比率としても、その妥当性が、疑われる。変動が、常の事象では、増えれば減り、減れば増えるのが、当然のことだ。なのに、それを恐れ、決断しない。小心者の言い訳に、呆れるより、諦めが極まる。

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2月20日(土)−想定外

 愚かとしか思えない、掛け声ばかりの、政治家の発言に、宰相だろうが、首長だろうが、罵声を、浴びせたくなるのは、十分に、理解できる。だからと言って、国の方針にまで、一方的な批判を、することには、賛同できない。無知蒙昧と、一括りにしては、駄目だろう。
 騒動が、起き始めた頃、増加の勢いが、高まらないことに、批判を、常とする人々は、他国からの批判と称して、検査の少なさや、都市封鎖の回避に、罵声を、浴びせ続けた。陽性者数の急増に、恐怖に陥る国から、届けられる情報は、悲惨なものばかりだったが、桁外れの少なさに、例の如く、作為や思惑を、指摘していたものだ。だが、その方針には、ある計画が図られ、検査数の抑制が、意図されたもの、と伝えられた。現実には、想定外の要素が、加わった結果だったろうが、その核心が、明らかとなるのは、かなり先のことだ。何にしても、少数に留めることで、医療体制の崩壊を、防ぐ目的は、当初、果たせていたとされる。ところが、その後は、海外とは異なる、別の要因が、露呈することで、崩壊間近との報道が、繰り返された。これを、国の方針の誤り、と断じていたが、それは、的外れだろう。時間稼ぎの方針は、別の要素の助けもあり、功を奏したとされるが、肝心の現場は、その間の整備を、怠った挙句、悲鳴を上げて、国の責任を問うた。しかし、責任は、あくまでも、現場にあり、それを果たすことなく、責任転嫁をする態度に、別の批判が、向けられている。現場の悲惨さを、いくら伝えようとも、整備の遅れは、人為的なものであり、逃れようがない。もし、国の責任を、問うのならば、感染症の重篤さを、誤認したことにこそ、目を向けるべきで、その鑑識眼を、持たない専門家は、やはり、不明を恥ずべきだ。作られた騒動として、はじめから、糾弾する立場からは、既に、幕は下ろされ、平穏に戻っている筈で、いつまで、馬鹿騒ぎを続けるのか、愚かとしか思えない。

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2月19日(金)−理屈抜き

 論理的に、物事を考える。簡単に思えるが、実は難しい、と言われることが多い。何故か。理屈で、勝負することは、時に、理屈を捏ねる、と言われ、屁理屈などと、揶揄されることも多い。単純な理屈さえ、通じない相手には、忌み嫌われるだけでなく、邪魔されることも。
 通じなければ、通じるまで、説得を試みる。こんな経験を、した人が多いだろうが、結果は、どうだったろう。納得させた、という結果が、得られれば、満足できるが、おそらく、大部分は、煙たがられたり、非論理的な反論を、浴びせられたり、散々だったのではないか。論理を、理解できる人間にとり、できない人間を、理解することは、できない。だから、辛抱強く、説得を試みる。だが、成果が、得られない。何故か。理屈を、受け付けない人間に、説得は、効力を持たないからだ。徒労に終わるくらいなら、端から、何もしない方が、得策だろう。説得は、ただ、敵を作るだけなのだ。では、何故、そんな人々が、いとも容易く、騙されるのか。ここにも、不思議の数々が、ありそうだ。彼らの多くは、理屈ではなく、言葉に、騙されている。甘言に、乗せられる人も、多いだろうが、必ずしも、そうでは無い。では、どんな言葉だろう。理屈では、正確な表現を、積み重ねることが、第一と言われる。しかし、その積み重ねが、却って、混乱を招き、興味を失う人が多い。一方で、言葉で、人々の関心を、惹く人の場合は、どうか。分かり易い言葉を、一つ二つ、使うだけで、相手に、判断を、任せることが多い。単純な表現で、理解しやすいが、その一方で、人それぞれに、異なる意味に、受け取ることがある。その中に、騙される人が、出てくるのだ。詐欺に遭う人の多くは、こういう遣り取りの中で、ある意味、選ばれし者達となる。一つひとつの言葉に、どう反応したかで、騙す側は、選別を繰り返す。最後まで、残った人々が、被害に遭う訳だ。そこには、論理は無い。だから、騙される。

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2月18日(木)−地獄に仏

 海の向こうの、政権交代は、様々な面で、注目を浴びた。国内の分断を、どう修復するのかも、確かに、重要な問題に、違いないが、所詮、海の向こうの話だ。こちらに、何かが、飛んでくる訳ではない。だが、ある世界機関に対する、支援の有無は、影響大だろう。
 前政権は、何事も、自分の思い通りを、目指した人間が、率いることで、ある環境問題から、手を引くなど、暴挙としか、思えない決定を、下していた。その一つとして、世界的な医療整備に、携わるとされる、機関に対しても、その動きへの不信感から、援助を、断ち切るとの決定を、下した。莫大な予算の削減を、余儀無くされる、厳しい措置に、世界に向けて、窮状を訴える声明を、出す一方で、感染症対策には、愚策の山を、築き続ける姿に、常識的には、暴挙への賛同が、起きる程だった。しかし、そこに届いた、政権交代の朗報は、世界機関にとり、まさに、地獄に仏、だったのだろう。ただ、新指導者は、科学に基づく判断を、強調していたから、こちらとしては、単なる支援復活とは、ならないかも、との淡い期待を、抱いていた。確かに、発生源となった国への、調査に対する、不満の表明は、機関の能力欠如を、指摘したものだったが、どちらにしても、強制力がなく、無意味とも思える話だ。その中で、新政権が、支援を行うことを、発表したことは、悪評が強まり続ける、機関にとり、まさに、朗報となったのだろう。しかし、こちらの期待は、裏切られた訳で、莫大な支援を、回復した機関が、自らの失態を、認めることも、状況の精査を、やり直すことも、起きないことが、予想される。将来の変更を、含めた上で、との話が、あったようだが、支援復活には、前提条件は、示さなかった。ということは、現状を、認めたこととなり、愚かな機関を、全面的に、支援することを、強調したこととなる。この機会に、検証をする選択肢も、あっただろうに、拙速な判断となりそうだ。

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2月17日(水)−実直に

 人々の注目を、集めるような事柄が、巷に流れると、途端に、俄専門家が、登場してくる。その多くは、知識を、ひけらかすように、振る舞っているが、その実、内容が伴わず、少し突っ込めば、馬脚を現すこととなる。用語を、並べても、その意味を、理解していない。
 注目を、浴びたいとの願いが、そういう形で、叶うのだろうが、その後、失態を繰り返せば、恥をかくだけのことだ。だが、それでも、羨望の眼差しを、向けられれば、満足できるし、一時の恥は、忘れれば済むのだ。その上、この手の輩でも、猛者とも思える人物は、何度、恥をかかされても、次々に、新たな俄知識を、手に入れて、ひけらかす。一度味わった快感は、それ程に、強く印象に残り、もう一度、と願う訳だ。画面に、登場する専門家にも、そんな連中が居て、暫く居座った後、姿を、消してしまう。取り上げる側に、飽きられたのか、あるいは、筋書きから、外れてしまったのか。何れにしても、次の機会を、狙うだけのことで、何の反省も無く、懲りてもいない。以前なら、その場限りの嘘が、通用していたが、今は、そうはいかない。何しろ、殆どの人が、手にした端末で、検証を繰り返すのだ。すぐに、嘘が暴かれ、間違いが、指摘される。偽物は、そんなことが、繰り返されて、消去される訳だ。だが、一方で、本物でさえ、この憂き目に、遭うことがある。言葉遣いの誤りや、受け応えの不手際を、指摘されることで、信用を失い、追放される。結局、生き残るのは、恥知らずの、偽物ばかりで、筋書き通りの展開が、繰り返される。困った状況と思うが、さて、どうしたらいいものか。この場で、毎日、書き綴っているが、その内容に関しては、自分なりの責任で、保証するしかない。それに、同調する人も、反対する人も、しっかり読んで、自分なりの意見を、持って欲しい。

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2月16日(火)−三文芝居

 人は、将来を、見ようとする時、楽観的な見方を、し勝ちと言われる。良い結果を、予想することで、意欲が高まり、やる気が出るから、と言われるが、どうだろうか。こんな所から、筋書きは、安心を保証するもので、不安要素は、一掃される。思い通りには、ならないが。
 一方で、全く別の観点から、綴られた筋書きがある。不安を、煽ることを、主目的として、情報操作を、繰り返す機関は、まさに、その典型と思える。記憶を、新たにする為、と称して、盛んに、災害が起きた日を、喧伝するのは、彼らの得意とする所だが、まさか、節目の年に、揺れが戻るとは、予想もしなかったろう。その意味では、筋書きは、大きく逸脱したが、その程度のことで、黙る連中ではない。更なる不安要素を、突きつけることで、住民の不安を、煽ろうとする筋書きを、新たに認めた。今回も、各地で、地盤の脆弱さが、露呈する災害が、直後に起きたが、それを、きっかけとして、更なる災害が、生じる可能性を、強調し始めた。渡りに船、とも思える、天候の急変が、予想されたことから、それを持ち込み、大災害が、起きるかの如くの、報道を流したのだ。大雨が、実際に降った地域の、データを紹介し、その後に、震災地の光景を、流していく。実際には、異なる地域の状況が、さも繋がっているかのように、編集することで、被害が、必ず起きるかの如く、伝えていたが、前者と後者には、何の関連もなく、後者の雨量は、一切取り上げない。都合の良いデータを、引き合いに出すことで、科学的な装飾を、施した後に、無関係な事象に、転じていく。何度も使われ、不正確さも、何度も指摘されても、懲りない連中は、同じ手法で、脅しをかけている。こんな筋書きが、事ある毎に、作り出されるが、杜撰さについては、何の変化もない。時と場合に応じて、組み合わせを変えれば、何度でも、同じ物語を、綴ることができる。安物の芝居は、その場だけの、即興劇に過ぎない。

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2月15日(月)−支離滅裂

 恐怖に、勝るものは無い。どんなに、冷静な判断を、し続けても、恐怖が、ある水準を超えると、途端に、冷静さが失われ、異常な判断や行動を、起こしてしまう。恐怖は、想像の産物に、違いないが、それが、痛みを伴うもの、究極的には、死に繋がるものなら、尚更だ。
 拷問が、強く禁じられるのは、恐怖を煽り、冷静さを失わせ、偽証さえ導く、という観点からだ。これが、今、日常的に、行われている、としたら、どう感じるか。既に、日常化して、実感が、失われつつあるが、政治家も、報道機関も、せっせと、恐怖を拡大させ、撒き散らしている。受け手が、徐々に、慣れてしまい、反応が鈍ると、その勢いは、衰えるどころか、更に強まり、情報操作に留まらず、嘘でさえ、憚らなくなる。政策を、決める側が、冷静さを失うと、支離滅裂な言動が、増えてくるが、それまでの論理さえ、否定するまでとなると、まさに、末期症状と思える。三密は、今回の騒動の、鍵となる言葉だが、それさえも、投げ捨てて、暴言が並ぶと、二進も三進も行かず、焦りが極まった状況が、想起される。人々が、規制にも関わらず、移動を繰り返す中、役所の焦りは、その言葉遣いにも、現れてくる。一見、妥当な要請と、思える文言が、公園などの、野外活動の場に、張り出されると、人々は、それに従うが、それは、論理を逸脱し、冷静な判断を、失った結果であり、こういう事態において、最も重要となるものを、投げ捨てることに、なりかねない。これに、気付かぬ風潮こそが、最も警戒すべき事柄で、崩壊へと向かう、兆候の一つであることを、強調せねばならない。だが、情報に携わる人々は、既に、冷静さを失い、正常な判断能力を、失ってしまった。こうなると、大衆の一人ひとりが、自ら、判断を下し、正誤を分けることが、必要となる。さて、ここの読者は、その能力を、維持しているだろうか。

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