パンチの独り言

(2月22日〜2月28日)
(根拠薄弱、同じ人?、見ぬふり、足るを知る、奇々怪々、違い、論外)



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2月28日(日)−論外

 何故、何度も、強調するのか。それは、混迷の時代を、生き抜く為に、必要なものだからだ。論理の重要性に、多くの人々は、気付かず、浅薄な偽りに、容易く騙される。嘘に嘘を重ね、自己矛盾に陥る作り話に、心を揺り動かされ、不安に苛まれる。馬鹿げている。
 だが、その話に、乗せられた人々は、さも、それが真実の如く、嘘八百を、撒き散らす。その広がりが、多勢に無勢の状況を、作り出して仕舞えば、嘘が実に、なり兼ねない。特に、近年は、災害や災厄が、広がる中で、報道機関は、嘘に基づき、不安を煽るのに専心し、片棒を担ぐ専門家達は、根拠の無い話に、お墨付きを、与えている。悪質な人間は、意図的に、騒動を、大きくさせ、そうでない人間も、真面目に、加担しているのだ。その中で、不安をかき消す為には、論理を組み立て、妄言の数々を、否定することが、必須となる。だからこそ、大衆さえも、愚民と言われぬよう、自分なりの、論理力を、養う必要がある。一方、専門家は、論理を身につけ、それを武器に、自らの研究を、進めている、と言われる。だが、彼らの論理は、実は、その多くが、慎重に組み立てられたものではなく、単なる思い付きを、拡張したものに過ぎない。大震災の後、予知できなかった人々は、反省よりも、論理のすり替えの如く、新たな予知に、専念し始めたが、その内容は、杜撰なものであり、単なる煽動でしかない。予知を、研究として、専門家を集結して、始めた頃の中心人物は、それが可能という、信念を抱き、突き進んだとされるが、当時、反対した人の中には、海を渡り、別の拠点を作り、災害時の対策を、講じる必要性を説いた。その後、警戒地域でない場所に、大震災が起き、また、警戒下でさえ、予知できなかったことは、彼らを、厳しく糾弾したが、懲りないからか、再び、予知に専念し、意味不明の確率を、掲げながら、活動を続ける。彼らに、確実な論理はなく、根拠も脆弱で、確かなのは、現象が、いつかは起きることだけだ。彼らに学ばず、自分なりの論理を、築こう。

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2月27日(土)−違い

 多様性、という言葉に、込められた意味は、何だろう。多くの人は、人それぞれの違いを、理解することとし、その上で、互いを尊重するもの、としている。これ自体には、何の間違いも、無いのだが、一部の人々は、更なる一歩を、踏み出そう、としているようだ。
 違いを理解し、尊重する上で、何が、必要となるのか。実は、違いを理解する、という表現には、二つの異なる意味が、込められている。違いの存在を、認めるという意味と、違いの中身を、理解するという意味で、後者においては、違いの原因や、結果などを含め、理解した上で、分かり合うということが、目標となっている。一見、妥当なことに、思えるかもしれないが、実は、ここに、大問題が、横たわっている。違いの存在や、原因、結果を、並べるだけなら、比較するだけで、何の問題も、生じないが、果たして、互いに分かり合えるのか、となると、問題が起きてくる。特に、分かることが、条件の一つとして、掲げられると、途端に、人々の意欲は、萎えてくるのだ。何が、起きているかを、理解したとしても、何故、そうなるのかが、分からないことは、沢山ある。それでも、違いがある、として、納得するだけで、よければ、誰でも、できそうなものだが、その上に、その原因だけでなく、結果を含め、分かり合うとなると、寛容を超えて、更に、一歩踏み出す必要が、出てくるだろう。それを、強要されては、敵わないという人も、出てくるだろう。多様性の問題が、論じられる中、この違いに気付かず、議論のすれ違いが、起きることが、多いように思う。分かり合える人間は、多様性に関して、理解があるのに、存在を認めても、分かり合えなければ、理解が無いかの如く、扱われるからだ。そんな違いが、あるのか、と思う人には、実感できないだろうが、この違いを、殊更に取り上げ、批判されると、初めて気付かされる。だが、その批判の姿勢は、根本が、間違っているのだ。

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2月26日(金)−奇々怪々

 緊急だろうが、無かろうが、重苦しい空気に、押し込まれて、時には、新鮮な空気を、吸いたくなる。遠出は、無用とのことで、近場の公園に、出かける人も、多いだろう。だが、その光景に、驚かされる。園内の各所に、張り紙があり、マスク着用を、要請するのだ。
 確かに、園内を歩く人々は、一部の子供を除き、ほぼ全てが、マスクを着けている。だが、これまでの説明との、余りの違いに、驚くのだ。三密、という流行り言葉で、表されたように、これまで、専門家達は、盛んに、注意を促してきた。しかし、一向に、減らない陽性者の数に、次々と、新手を繰り出し、非論理的、非科学的な取り組みが、さも有効の如く、掲げられる。その中で、ここまで悪質な、要請も無い、と思えるものまで、巷に溢れているのだ。首長への、ゴマスリとさえ、思える行状は、まさに、忖度の典型、とも思えるが、過剰反応、としか思えぬ。長く続く、抑圧的な状況に、人々の感覚が、狂い始めているのは、こういう所からも、理解できるが、だとしても、余りの愚かさに、呆れてしまった。ただ、よく似たことは、多くの施設で、行われている。着用を、要請する張り紙が、入り口に、貼られており、内部では、全員が、その姿で行き交う。効果の程は、怪しいばかりで、皆が従うのは、まるで礼儀作法の一つ、とさえ思える。まあ、作法などは、根拠無しに、押し付けられるのが、常だから、そう考えれば、これもその一つ、と思えてくる。普段なら、苦笑しつつも、従うのだろうが、ここまで、馬鹿げた状況では、無視したくなる。園内の施設に、入った時に、検温や署名を、要求されて、反発を感じるのは、そんな心情から、来るものだろう。アリバイ作りの如く、不十分な情報を、収集する姿勢に、無意味を、感じるのは、これら全ての事柄が、非常識極まり、論理の欠片も、科学的な検証も、無いままに、暴走を続けているからだ。

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2月25日(木)−足るを知る

 隣国で、騒動が起きてから、一年余りを、経過したが、収束の兆しは、見えてこない。愚民政治では、大衆に寄り添うことが、最重要と、見做されるが、政治家達は、共に悲鳴を上げれば、とでも思うのか、無為無策の反復で、別の意味の、恐怖政治となっている。
 初期段階から、指摘し続けているが、作られた騒動に、相乗りする形で、世界機関と、各国の政府は、迷走を、続けている。見込み違いを、認めない点も、同様であり、不明を詫びることも、恥を晒すことも、どちらもできないのは、無責任の現れだろう。現時点での、彼らの唯一の期待は、ワクチンだろうが、それとて、どれ程のものか、実態が見えぬままに、暗中模索の如くの、情勢では、何ともはや、といった具合だ。それにしても、医学とは、これ程に、怪しげなものだったのか。たとえ、当初の判断を、誤ったとしても、その後の展開を、眺めていれば、気付けることは、多々あった筈だ。にも拘らず、恐怖に駆られ、逃げ惑う群衆の如く、立ち止まることなく、闇雲に、走り続けている。元凶を、見極めることなく、流行病から、逃げ惑うのは、無知な人間なら、いざ知らず、専門知識を、身に付けた人間まで、一緒に、走っているのでは、どうにもならない。というより、今回の騒動では、後ろも見ずに、先頭を、爆走する集団が、専門家と呼ばれる連中だから、手に負えない。これまで、学問を修めれば、有用な知識を、身に付けることができ、自分にとっても、他人にとっても、役に立つ人間と、なることができる、と言われてきたが、この様子からは、ただ、愚かな人間を、育てる為に、社会は、多くの資金と、膨大な時間を、費やしてきたとしか、思えないのだ。今からでも、遅くはない。目の前で、起きていることを、冷静に、客観的に、見極めることを、始めようではないか。無知で無恥な人々は、放置しておけばいい。

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2月24日(水)−見ぬふり

 先週も、書いたことだが、言論界に、危機が迫っている。この騒動は、確かに、崩壊の速度を、高めた効果を、持っているが、それ以前に、その勢いを、増したのが、海の向こうの前大統領だ。彼の言論は、思いつき、刹那、暴論、誤解、様々な要素が、満載だった。
 その元凶となったのは、SNSだろう。本来、公式な発言を、報道官を通して、行うことが、常とされたが、選挙戦での勝利の、要因の一つとなった、勝手気儘な発言の場に、味を占め、就任後も、非公式な発言を、繰り返してきた。人間の活動は、昼間が主体となり、夜、特に寝入り端は、全く異なる形態を、示すと言われる。ネットが、整備された頃から、夜中の発信は、要注意と指摘され、要職にある人間程、朝型になるべき、との助言があったが、まさに、これと似た症状が、彼の発言にも、現れていた。自己中心的で、猜疑的な考えを、表に出した発言は、断定的なもので、賛否が分かれた。多くの常識人は、余りの暴言に、眉を顰め、苦言を呈したが、圧迫に苦しむ人の一部には、溜飲を下げるものと映り、支持者を増やす、要因となった。ところが、断定的な意見への、賛否両論には、副作用があることが、徐々に明らかとなる。本来、意見に対する賛否では、議論が交わされ、そこから、結論を導くのだが、極論では、議論が成立せず、結論は、勿論のこと、妥協案さえ、導けない状況に、陥るのだ。その結果が、世界に蔓延する、分断の状況であり、あらゆる場で、啀み合いが、目立つこととなった。このきっかけは、確かに、あの人物の暴言にあるが、その背景には、勝手な発言を、許す場の存在と、知識も経験も無いままに、勝手気儘な発言を、する人間を、評価する社会の、非常識にある。その意味では、前者より、後者の方が、深刻な状況であり、寛容が、必ずしも、好結果を招くとは、限らないことを、示しているのだ。

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2月23日(火)−同じ人?

 老いさらばえた姿を、他人に晒すことを、忌み嫌うのは、まだ、その齢に、達していないからか。何故、人は、歳を重ねることを、嫌うのか、定かではない。しかし、社会では、老害などと、揶揄されることばかりで、年の功を、評価することが、少ないから、致し方ないか。
 だが、生きとし生けるものが、老いて死ぬことは、摂理であり、誰もが、受け入れざるを得ないことだ。ただ、この考え方では、命を、自ら絶った人間は、別の見方を、されることがあり、時に、英雄の如く、扱われることさえある。その突然の死から、半世紀を経て、一部には、神格化さえ、されていると伝えられる、人物に関する、評論を、読んでみた。ある日、学校から帰ると、画面に、その姿が映され、何処かの建物の上で、演説していたが、その内容は、聞こえていなかったのか、全く覚えていない。翌週の週刊誌に、結末の写真が、掲載されていたが、意図的に、白黒で印刷されたものでは、詳細を、知ることは、できなかった。評論の著者は、ほぼ同年齢であり、同じような画面を、見つめていたのだろうが、その時の印象は、明らかに、異なるものだったろう。全く違った印象と、その後の経過が、あの文章を、書かせたのだろうが、どうにも、解せない読後感が、残った。確かに、一部には、強い印象が残り、それが、半世紀を経ても、人々の思いとして、出てくることは、命を絶つことによる、影響だったろうが、果たして、どれ程の人が、そんな影響を、受けたのか。同じ経験を、受けた人間として、不思議に思う。それより、何の経験もない人間が、こういう評論から、どんな影響を受けるのか、そちらの方が、気になるのだ。体験せずに、何かを学ぶ時、全く別の印象だけを、強く受けることがある。当時の、混迷が、若者達の心を、占めていたことも、全く違う形で、伝えられるが、作り物の世界に、憧れる人々に、影響を及ぼす。どんな思惑が、あるのか、知らないが。

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2月22日(月)−根拠薄弱

 恐怖を、煽っていた時に、使われた言説の多くは、科学とは、かけ離れたものだった。検証は、今後の動きを、待たなければならないが、科学的な根拠も無く、ただの推測に基づく、考えを、殊更に取り上げ、混乱の度合いを、高めていたことは、今すぐにでも、解ることだ。
 例えば、無症状の陽性者が、感染を広げる、という説明は、首長などの政治家のみならず、専門家として、国の委員会の長を、務める人間までもが、盛んに、施しており、無垢の人々に、自責の念を、抱かせた。現状を、眺める限り、この考え方が、必ずしも、的を射ておらず、風説に過ぎないことが、見えてくる。ここでも、当初から、何度も触れてきたように、現状の検査が、必ずしも、学説上の感染者と、一致しない人間を、見つけ出しており、それ自体が、全世界の混乱を、高めていることは、明らかだろう。専門家達は、この手法が、抑え込みにとり、重要な手立てとなる、と説明してきたが、ここでも、科学的な根拠は、薄弱でしかなく、これまでの経過でも、何の役にも、立たないばかりか、混乱を、招いただけとなった。そこに、今回の、宣言解除に関する、議論が登場してきた。解除見送りの、決定要素として、減少の鈍化を、政府を始め、自治体、報道機関までもが、盛んに持ち出すが、その実態を、分析する気配は、全く見えてこない。現状は、上昇傾向が、明らかとなる前の、水準より、少し低い所にあり、当時、宣言発令を、思い留まったことと、矛盾してくる。それへの言い訳として、鈍化という言葉が、登場した訳だ。だが、検査の意味を、誤解する人々に、この状況を、正しく理解することは、不可能だろう。特に、科学的な解析を、行わずに、判断を下すという、大きな過ちを、何度も繰り返すことに、信頼は、大きく損なわれている。これでは、彼らの大目標である、恐怖を煽ることも、実現できそうに無い。一年もの長きに渡り、不便を強いられた大衆には、下らない言説が、届く筈も無い。

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