パンチの独り言

(3月1日〜3月7日)
(信頼、裁断、無資格、見えぬ、分岐点、実感、風物詩)



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3月7日(日)−風物詩

 季節の移り変わりは、この国の特徴の一つだ。それを、楽しむことが、大衆にとって、当たり前となっており、心の豊かさを、育む為の、一つとなっている。正の要素だけでなく、自然災害は、負の要素だが、今は、人為的な抑圧が、人々の上に、覆い被さっている。
 その中に、閉じ込められても、従順に、暮らすことが、務めのように、受け止める人も、居るのだろうが、無理なら、辞めておけばいい。季節の風物詩は、人々の心の暗雲とは、無関係に、次々と、訪れてくるが、躍起になる輩は、ここぞとばかり、力を込めて、警告を流す。実体のない恐怖を、煽り続ける中、姿の見えぬ怪物を、次々繰り出し、呆れるしかない。その中で、春の風物詩の一つ、いかなごのくぎ煮の、季節がやってきた。ここでも、別の形の、人間の影響が、及んでいる、と伝えられる。漁業では、資源の枯渇が、様々な形で、伝えられるが、この魚も、急激な減少から、昨年は、解禁直後に、終わってしまった。くぎ煮は、海に面した、この地域の郷土料理で、庶民が、加わることで、伝統が、保たれてきた。その伝統が、このままでは、途絶えてしまう、との危機感が、地域に溢れている。人為的要因も、従来の汚染ではなく、水質改善が、逆効果を招いた、とも言われ、汚す一方だった、人間の関与が、全く別の形で、自然界に、及んでいるかも、という可能性は、環境問題が、単純でないことを、考えさせるものだ。一方的な考えで、ある方向に、突き進むことは、時に、大きな成果を、上げるけれども、過ぎたるは、及ばざるが如し、という事態を、招くことも、あるのだろう。事を、進める上で、選択と集中は、確かに、成果を上げてきたが、全体を、俯瞰すること無しに、一つ覚えを、続けることは、逆効果を招き、別の破壊を、起こしかねない。人の知恵は、確かにあるが、狭い視野では、役立たずとなる。風物詩を、楽しむ為に、何が必要か、考えてみよう。

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3月6日(土)−実感

 もう、限界を、超えてしまった。人が、生きる中では、この辺りが、と思う所が、あるのだろう。それを、克服する為に、人は、それぞれ、努力を、積み重ねる。超えられても、超えられなくても、満足することが、できたなら、それでいい。限界とは、そんなものだ。
 だが、この限界は、人が、目指そうとして、自分で設定したものではなく、他人から、押し付けられたもので、我慢の限界、とでも呼ぶべきものだ。恐怖を、植え付けられ、逃げることも、できないままに、次々と、課題が、突き付けられる。あれも、これもと、やるべきことは、山のように、積み上げられるが、一向に、減る気配がなく、我慢に、我慢を、重ねてきた。ところが、その中で、様々な説明が、施されてきて、全てに納得できる訳でもないが、何となく、受け入れてきたのだが、ここに来て、それらの多くに、破綻が生じている。目標値を、示したのに、それに、到達した途端に、別の言葉が、作り出される。発言者本人が、気付いているかは、知る由もない。何故なら、その情報を、手に入れた当人達が、疑問を、呈することなく、鵜呑みにしているからだ。どちらも、気付いていないのだとしたら、それは、無知でしかないし、気付いた上で、互いに、核心に触れぬように、しているのだとしたら、それは、卑怯としか思えぬ。何故、こんなことを、繰り返すのか。いつまで、こんなに馬鹿げた騒動が、続けられるのか。人の命、と連呼する度に、何処の誰の、と思う人は、増え続けている。増え続けている、という報道も、身近な存在に、誰も居ない状態が、続く中では、実感は湧かない。それでも、命の大切さを、強調し続けるのに、まるで、何処か遠くの国の、出来事のように、感じるのは、当然のことだ。実感が湧かない、という表現は、報道が、屡々用いる、決まり文句の一つだが、今、掲げられる問題に、そんな印象を持つ人は、多いのだ。

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3月5日(金)−分岐点

 連合からの離脱を、決めた国が、紆余曲折の末、愈々、困難な道を、歩み出した。制度変更が、数々あり、それぞれの行く末が、見えない中、不安が広がる、と伝えられる。そこに、更なる課題が、突き付けられた。世界的な騒動は、彼の国でも、多くの被害者を、出している。
 対策として、都市封鎖が、断行された結果、経済停滞が、深刻化しているが、それより、国の財政自体が、瀕死の重傷を、負っている、と言われる。財政にあたる、大臣の発言は、未来への負債は、許されない、と伝えられるが、その中で、回復が、著しくなりつつある企業から、税収を確保する、という決定がなされた。夕刊の一面で、取り上げられる程、経済報道にとり、重要な情報だが、既に、海の向こうでも、同じ決定が、新大統領によってなされ、今後、多くの国が、舵を切ると予想される。ここで、何度も、取り上げているように、法人税の扱いで、これまで、大きな過ちが、繰り返されてきた。減税が、企業誘致を、促進することで、税収が、全体として、確保されるという策は、多くの国が、挙って採ってきたが、現実には、率の大小を、比べるだけでは、小国の勝利が、保証されるだけで、経済大国にとり、敗着となりつつあった。方針転換に、目を向けるのは、経済界の一大事だからだが、実際には、従来、想定された展開が、必ずしも、的中しておらず、国の財政を、考える上では、ここで論じたような、正反対の方策が、的を射る可能性も、大いにある。その中で、感染症という、全く別の、外的要因によるとは言え、圧迫された財政を、立て直す為の、苦肉の策として、法人税の増税が、発表されたのは、一国の事情に留まらず、他国への波及が、予想される。特に、本来、離脱による損失を、抑える為には、減税しかない、と言われた所に、この発表は、全く異なる筋書きを、今後、辿らねばならないことを、表している。だとしても、本質的な議論に、この変化は、一石を投じる。

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3月4日(木)−見えぬ

 騙される人は、被害者、と見做されることが、多いのだが、時に、加害者に、変貌することがある。騙されるくらいなら、騙した方が、と考えるのは、余りに身勝手だが、その実、損を取り戻そうと、躍起になる人も、多いようだ。何方にしても、要らぬものだ。
 この、騙す、騙されるにも、科学が、関わる。効力を、科学的な調査により、確かめたが如く、主張をするが、実際には、実験なしの、感想だけ、だったりする。それが、医療に関わると、法律違反で、罰せられるが、ぎりぎり、犯罪に、ならない程度、とされることも、多いようだ。ただ、現実には、証拠が残らぬよう、口頭で伝えたり、小さな文字で、印刷しておくなど、予防措置を、講じている。金銭取引では、非科学的なことが、様々に起き、事件として、伝えられるから、犯罪行為として、認識され、問題視されるが、最近は、SNSの普及で、日常的に、こういう事件に、関わることが、増えている。その中で、科学を持ち出し、自らの主張を、正当化する人々が、屡々見受けられるが、その内容は、とても、科学的と、言えないものが、多いのだ。彼らの特徴として、事柄の検証に、科学を、用いるのではなく、自らの主張を、正当化する為の、科学の乱用がある。怪しげな商品を、売りつける為の、方便としての科学と、同じことを、行っているが、詐欺師と違い、信じる所を、押し付けているだけに、厄介だ。この場合、反論にも、科学が必須となるが、まるで、学問上の学説と、同じように、平行線を辿るのだ。自分の信じることに、沿った形の科学は、掘り出そうと思えば、幾らでも、見つけられる。その妥当性が、かなり低いものでも、発表されたものとなれば、絶対的なものとなる。正反対の結論を、誰かが、出したとしても、それは、無視すればいい、となる。この手の人々を、説得することは、殆ど不可能だ。実害が、及ばぬ限り、距離を置いた方がいい。

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3月3日(水)−無資格

 科学は、難しくて分からない、と思う人が、居る一方で、科学を、鵜呑みにする人も、多いようだ。時に、似非科学に、騙されるのは、被害者の多くが、理解できないのに、信じ込む、という習性を、持つからだろう。信じる、という意味では、信仰に似たもの、と言える。
 宗教と科学の関係は、一部の人が、信じるように、水と油の関係ではない。ある存在を、信じるという観点からは、よく似たもの、と言えるのだ。事実を、見つけ出し、それを、積み上げて、理論を、構築するのも、そこに、あるべき存在を、信じてのこと、という見方もある。ところが、はじめは、その通りだとしても、次々に、発見された事実は、宗教において、信じ込まされたものとは、かけ離れたものとなり、徐々に、距離が、置かれるようになった。しかし、現状でも、科学に携わる人々の多くは、何かを信じて、探究活動を、続けており、その過程では、信仰に似た行動様式が、主体となる。このように、信じることで、進められた科学には、何を信じるかで、全く異なる解釈が、施せる場合が、多くなる。同じ結果を、使ったとしても、正反対の結論を、導くことができるし、結果そのものの解釈も、考え方次第で、どうにでもなるのだ。だからこそ、科学の世界では、客観性が、必要不可欠とされる。誰の目にも、同じ結論となり、多様な見方でも、認められることが、その確かさに、必要となる。逆に言えば、科学的な結果を、引き合いに出して、誤った解釈を、主張することも、可能となる。そこに、詐欺に似た、悪質な行為が、横行することとなる。特に、SNSでは、そういう囀りが、頻繁に発せられ、多くの賛同を、得ている。だが、どちらの人間も、科学を、理解していないことは、明らかなのだ。持論に、都合のいいものを、選び出し、曲解を施す。科学から、最も離れた行為を、平気でする人間に、科学を、語る資格はない。

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3月2日(火)−裁断

 政治家の傲慢が、目立ち始めていないか。手の施しようが無く、次々と、繰り出す政策も、役立たずなばかりか、混乱の原因である、感染症の制圧には、程遠い状況が、露呈する中、無策、無能が、厳しく指摘されていた。それが、減少へと転じ、落ち着き始めた途端に。
 まるで、自らの力で、この事態を、成したとばかり、自慢げな様子が、窺え始めた。発言の端々に、そういう態度が、現れているが、口先では、再びの増加を、懸念する言葉を、発している。減れば増える、という常識から、そんな言葉に、誰も、耳を傾けず、状況を、静観しているが、首長や宰相が、発言する度に、警戒を強めよう、とする態度でなく、状況判断は、自分が行う、という姿勢が、見えてくるのだ。無能ぶりが、目立つ中では、叫びに似た声を、上げるだけで、要職にある人間の、あるべき姿勢を、示すことさえ、できていなかったが、数が減りさえすれば、安堵に包まれ、あるべき姿を、取り戻すどころか、傲慢な態度を、見せるようになった。これは、本来、判断を下す、能力も知識も、持ち合わせぬ人間が、さも、その権利を有するように、なったことを、示しているように思う。人の上に立つ人間には、二つの異なる資質が、必要と言われる。統率力は、当然、必要なものとされ、混乱の中でも、素早く正確な判断を、下す力が、必要となる。だが、如何に正確であっても、突っ走るだけでは、誰も付いてこない。そこには、強引にでも、引っ張る力とともに、人々の状況を、掴み取る、謙虚さが、必要となるのだ。一見、正反対に思えるものを、使い分ける能力が、要求される訳で、どちらも、指導者に、必要とされる。だが、今、身の回りに居る、その立場の人達には、どちらの能力も、備わっていないように、見えてくる。愚民政治では、寄り添うこと、近づくことこそが、第一となり、それが、人気を保つ、秘訣と言われるからだ。では、この傲慢さは、庶民に、どう映るのか。

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3月1日(月)−信頼

 大震災は、予知に拘り、可能であるとした、この国の科学に対する、信頼を、失墜させる、きっかけとなった。起きる筈が無い、とされた地域での、甚大な被害は、地域を限定する、取り組みの問題に、注目を集め、頻発地域の被害は、正確さも、規模予測も、無駄と思わせた。
 あの分野の研究者が、その後、躍起となって、名誉挽回とばかり、盛んに、喧伝する内容は、一見して、科学的とは思えず、博打打ちを、想起させるものだった。震災後の、科学離れに、強く影響したのは、発電所事故と、その後の説明だろう。事故自体も、決して起こらない、という政治的な断定に、手を貸していた、科学者の見識を、疑わせるものだったが、事故への恐怖に、不安に苛まれる大衆への、説明の杜撰さが、拍車をかけるものとなった。これらの事柄には、全て、共通点がある。それは、科学の営みが、全て、可能性に基づくものであり、確率としては、0にも1にも、ならないもの、という点だ。その中で、どの位の可能性が、あるのかを、指し示すことが、科学の役割なのに、確率が、0であるとする断定や、1であるとする断定が、頻繁に行われていたことが、信頼を失わせる、最も大きな要因となった。一方で、本質的には同じだが、別の形で現れたのが、可能性を併立させた上で、施す説明だろう。そこでは、確率の大小を、示すことで、何が、より確実に、起きるのかを、明らかにしようとする、科学の基本が、行われていた。だが、それは、大衆にとり、耳慣れぬことであり、全体の確率ではなく、自分にとっての結果を、知りたい人々には、不満を、残すものになった。ここでは、科学の本質を、伝えることの難しさが、表面化していたが、その妨げとなったのは、報道と政治だろう。大衆に寄り添う動きは、不安を煽り、無確実な事柄への、断定を、繰り返してきた。その結果、知識を得ることより、甘い言葉に群がる、集団心理が、強まったのだ。

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