パンチの独り言

(3月8日〜3月14日)
(機が熟す、極悪人、数字を読む、愚愚る、忘れる、無駄の一言、絵空事)



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3月14日(日)−絵空事

 騒動の発生源が、全ての根源である、とする意見を、度々耳にする。あの国が、新たな病原体を、作り出して、世界に、ばら撒いた、というのだ。それも、人種により、病状の重さが、変わるように仕組み、その結果、西洋各地で、甚大な被害が、広がった、と言う。
 まるで、科学小説を、地で行くような、筋書きで、信じ込んだからこそ、その話をする人々は、あの国を、糾弾している。これまでにも、自国中心の考えを、押し通してきた上に、この所、一国二制度の根幹を、揺るがすような、決定を、次々に、打ち出すことで、関係地域に、深刻な問題を、生じている、と伝えられる。国内でも、自治区と呼ばれる地域で、自治が保証されていた筈が、中央政府の弾圧が、厳しくなったことが、盛んに伝えられ、独裁制度の構築が、進むにつれて、他国への影響力も、増し続けている。大国からすれば、大きな脅威となり、前任者は、一国の判断のみで、対抗していたが、多くの国との軋みを、生じていた。一方、新大統領は、同盟国との協力関係で、対抗しようとする動きを、選択することで、四面楚歌を、狙っているようだ。そんな不穏の中、謀略を、疑う声が、高まるのは、当然のことだ。確かに、国ごとの被害の大きさを、比べるだけで、顕著な違いが、実感できるから、それが、策略に基づくもの、と言いたくなるのは、理解できる。それに、遺伝子組み換えの技術が、発達した現代では、思い通りの操作が、できるものと、信じたくなるのも、理解できる。だが、今回の騒動で、世界の科学者達が、何の答えも、導き出せない現状を、眺める限り、この物語が、所詮、創作に過ぎないことが、解るのだ。学者の中には、自らの不明や、力不足を、棚にあげて、解明すべき責任を、誰かに押し付けようと、こんな絵空事を、持ち出した輩が、居るかもしれない。それに、まんまと乗せられ、SNSで、盛んに取り上げるのは、無垢な人々だ。少し考えてみては、どうか。

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3月13日(土)−無駄の一言

 物事には、減り張りが、大切と言われる。今、世の中が、巻き込まれている、作られた騒動も、本来なら、このことを、重視せねばならないが、想像の世界に、築かれたものだけに、愚かな人々の、暴走が、止まる気配が、見えてこない。となれば、大衆にできるのは。
 単純なことだ。自分で考え、自分で、責任を持てば、いいだけのこと。ただ、それだけであれば、誰でも、何でも、できそうに思うのは、こちらだけ、なのかもしれない。多くの人々は、周囲の目を、気にするばかりで、周囲へ、疑いの目を、向けている。それで、気が済む人は、いいのかもしれぬが、多くは、それにより、心を、擦り減らし、度が過ぎれば、精神を、病むことになる。だったら、さっさと諦め、知らぬふりを、決め込めばいい、と思うのは、やはり、こちらだけか。普通と、自分のことを、思う人々は、殆どが、混乱の渦に、巻き込まれてしまい、気を病んでいる。そんな心配を、していたら、いつの間にか、皆が、違う方を、向き始めた。あまりに、長く続く混乱で、その上、終わりが、見えてこないことに、業を煮やして、我慢の限界を、越えてしまったのか。遂に、好き勝手に、振る舞い始めた。と言っても、まだ、周囲の目を、憚る部分は、残り続け、公の場では、口を塞ぎ、手を翳す。儀礼的に、それさえ行えば、あとは、どこを、出歩こうが、どこで、何をしようが、勝手なものという訳だ。何しろ、喧伝されても、身の回りには、何の変化もなく、盛んに、警告を出す、馬鹿な首長共も、何の根拠も、何の証拠も、見せぬままでは、種が尽きたが如く、無意味な言葉を、並べるだけで、大衆に、響く言葉の一つさえ、出せない始末だ。ただ、儀式のように、行うことも、無駄と断じられ、大衆は、そっぽを向いた。さて、次に、起きるのは、何か。この国だけでなく、世界各地で、そろそろ、そんな様子が、伺える中、どんな騒動が、起きるのか。

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3月12日(金)−忘れる

 その日が迫る度に、話題にするのは、何故か。不思議に思うのは、彼らが、標的とする人々と、同じ輩だからか。覚えている、忘れない、などと連呼させ、果ては、続いているとの、やんごとなき言葉が、宣われ、一大行事が、滞りなく、済まされた。どうしてだ。
 人の記憶は、あてにならないもの。だからこそ、機会ある度に、詳細を見せつけ、これでもかと、記憶の強化を、図る。だが、こんなことが、何度も、そして、それぞれの出来事毎に、繰り返し、行われるのは、何度繰り返そうが、人々の記憶が、どんどん薄れていくからだ。だからこそ、地道な活動を、続ける必要がある。というのは、当事者の弁だが、本当だろうか。人間の記憶が、徐々に、薄れていくのは、当然のことだ。容量が、限られる中で、仕舞い込める出来事は、限られた数しか無い。そこに、日々、新しいことが、飛び込んでくれば、古いことは、順不同で、あやふやになり、消え去っていく。その時には、強烈な印象を、残したものでさえ、詳細は失われ、時に、消去されてしまう。一方で、別の解釈が、上書きされれば、曖昧な記憶が、全く異なるものへと、変貌してしまう。だからこそ、正しい記録を、事ある毎に、流すことで、正しい記憶を、取り戻させたい。そう願うからか、はたまた、全く異なる思惑からか、何度も、繰り返される。そこに、やんごとなき言葉が、もたらされれば、更に、強い印象を、与えられる。とでも思ったのか、それとも。にしても、この筋書きは、解せないものに、思える。更に、加担したのか、本心からなのか、あの言葉は、何を意図したものか。首を傾げてしまう。いずれにしても、不確かな記憶でも、有事に、判断を下せれば、それで十分ではないか。正確に覚えていても、判断を誤れば、何の役にも立たず、却って、害を及ぼし、被害に遭うのだ。無駄かどうかは、確かかどうかとは、違う話なのだ。覚えていないことを、責めるのも、無駄だ。

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3月11日(木)−愚愚る

 命を、失うことへの不安は、誰にもあるものだ。だが、どの命も、いずれ絶える。そこに、人間の欲が、関わってくる。いずれ絶えるにしても、何とか、生き長らえたい。死の苦しみを、避けたい。できれば、死にたくない、となる。欲望は、限りないもの、なのだろう。
 この考えが、一個人のものであれば、仕方ないとなるだろう。だが、社会全体が、そんな思いに囚われ、誤った判断を、下すことになったら、どうだろうか。これが、今、進行中の状況だ。兎にも角にも、死を避ける為に、万難を排する。では、肝心の難とは、何のことか。現状を、眺めてみると、大真面目に、議論をした結果、と言われるものが、浅慮の果てに過ぎず、その浅はかさに、気付かれぬよう、弁を弄するのみだ。一度目の宣言では、対象が、全体に広げられ、大衆の不安が、広がり続ける中、責任者の一人の説明が、気を楽にさせた、と伝えられたが、同じ人物が、今回は、狭い地域を、対象とする中、科学的な根拠もなしに、無責任な発言を、続けている。前回も、いざ、宣言を発しようとした時、このまま、引っ込みが、つかなくなる、との懸念を、抱いた人は、多かったと思う。決断を、苦手というより、不能な人間達が、中枢に、居座る国で、他国に並んで、制限をかけることが、できたとしても、止める決断は、できないとの予想は、あの時は、あっさり、裏切られた。しかし、深刻さが、増したと信じた人間が、今回の宣言を、発するように、促した時には、止める術さえも、失ってしまった。愚昧と言えば、まさにその通りだが、退くことさえ、できぬのでは、愚の骨頂としか、言いようが無い。確かに、無能な人間に、決断は、できぬ相談だ。更に、詭弁を弄するしか、できぬ人間は、害悪でしかない。ただ、彼らを、外したとしても、所詮、別の愚者が、登場するだけだ。衆愚政治の災厄は、こんな形で、現れてくる。大衆が、賢くならねば、解決は見つからぬ。

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3月10日(水)−数字を読む

 科学に、携わる人々にとり、今回の騒動は、どう映るのか。医療関係者や、感染症学者の中で、専門家と称して、画面や紙面を、賑わす人々は、恐怖の数々や、将来への不安を、盛んに喧伝するが、彼らだけが、科学に携わる訳では無い。その他大勢の、科学者は、どうか。
 彼らの殆どは、日々、業務を続ける中、データと呼ばれるものと、取り組んでいる。その多くは、数値であり、その大小や、変動の推移を、独自の感覚で、掴んでみたり、統計手法と呼ばれる、解析方法を、適用することで、傾向を炙り出し、問題点を、引き出したり、解決法を、模索する。では、この騒動では、何をしているのか。騒ぎを、大きくすることに、躍起になる、世界の国々や、報道機関にとり、誰を、どのように、選び出すかは、彼らが書いた、筋書き次第のようだ。昨日、書いたように、世界機関は、無根拠に、病原体の危険性を、過大評価し、恐怖を、ばら撒くのに、全力を上げてきた。国の政府が、代表機関の方針に、従わざるを得ないのは、当然のことかもしれないが、本来、批判の立場を、貫くべき報道が、伴走するように、同じ方角に、向かったことは、無見識と、断じるしかない。学者でなくとも、ここに、何度も書いたように、肺炎や、それに類する病気で、亡くなる人々は、この国で、毎年12万人程、世界では、300万人程、とのデータがある。騒動開始から、1年を過ぎた今、この災厄で、亡くなった人は、国内で8000人余り、世界で260万人余りだ。世界で見れば、少しは、影響を受けた、と見ることが、できるだろうが、国内は、騒動が、まさに空騒ぎを、絵にしたように思える。1年経っても、肺炎死者の1ヶ月にも、及ばない状況に、当事者達の馬鹿騒ぎは、まさに、空虚としか見えない。また、世界でも、数年経てば、死因の統計が、進むだろうから、如何に、過剰なものだったかが、断定されるだろう。と、独り言で、書けることが、何故、著名な科学者達に、できないのだろう。

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3月9日(火)−極悪人

 責任を問う声が、上がっている。厳しい制限から、鬱積がたまり、不満を、ぶちまけるのに、誰の責任か、と言いたくなる、のだとされる。だが、責任の話は、作られた騒動が、盛り上がり始めた過程でも、盛んに、持ち出されていた。世界と異なる方策への、批判として。
 その頃、気付いたのは、囀りの中で、この国のやり方に、間違いがある、と指摘する人々の、過ちを、次々に、指摘する人が、書いたものだ。元々、ネット上に、掲げられる小説の世界に、関与する人で、広告などにも、関わる経験から、事実を、正しく見抜くことの、大切さを、様々な場面を捉えて、伝えてきたらしいが、この騒動でも、それを、実践していた。印象的だったのは、指摘の正しさだけでなく、一つ覚えの如く、請け売りを書き綴る、その世界の、塵のような存在からの、反論への対応で、愚かな繰り返しに、取り合わぬ態度にあった。他人の意見を、受け入れることなく、罵倒を繰り返す人間に、説得は無駄、とばかりに、反論の誤りを、一度断じたら、後は無視、というやり方は、この世界での、生き方の一つ、と思えたのだ。さて、責任は、当時も今も、自分の近くの人間に、押し付けるもの、と相場が決まっている。今も、盛んに、標的とするのは、首長であり、国の委員長であり、宰相である。他の国も、同じことで、政治に染まる人は、支持政党を、持ち上げ、敵対勢力には、徹底的に、反論する。しかし、どれもこれも、データを正しく読み、科学的に解釈することなく、ただ、盲信だけで、敵味方の区別を、優先させるだけのこと、無意味なのは、書くまでも無い。その中で、責任を問うても、無駄だろう。まともな策さえ、講じられぬ輩に、責任とは、噴飯物だ。では、今の騒動の責任は、誰にあるのか。それは、騒動を作った、張本人達、はじめから決まっているのだ。世界保健機関に巣食う、悪人共だ。

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3月8日(月)−機が熟す

 当初から、期待などは、微塵も無かったろう。病原体の恐怖が、過剰なまでに、広がる中で、世界各地で、戸惑う人々は、それぞれの国が、決めることに、従うしか、方法は無かった。国により、対処は、様々だったが、何処も、圧力を伴う制限で、押し潰されていた。
 期待は無くとも、好転するかも、という思いが無ければ、誰もが、無軌道な行動を、取っていただろう。その後の展開から、大部分の人々が、不安を抱きつつも、従わざるを得ない、という状況に、追い込まれていたことが、わかる。だが、状況が、変わりつつあるのは、何も、当時、何の見通しも、何の確証も、無いままに、思いつく限りの制限を、国民の押し付けた、政府のおかげでは、決してない。単純に、伝染病の広がりが、ある水準を超え、増加の速度が、緩んだだけのことだ。死者数は、未だに、増加している、と伝えられるが、対症療法は、それなりの成果を、上げ続けている。一方で、特効薬への期待も、薄れ続けているし、予防への対策も、冴えない状況でしかない。政に、携わる人々は、効果の程を、訴えようと、躍起になるが、現実の数字には、彼らの言葉を、後押しするものは、見当たらない。その中で、依然として、迷走を続ける、各国政府も、この国の自治体の首長も、対策の重要性を、相変わらずの調子で、口先だけの言葉で、説いているのだが、もう、大衆の心は、遠ざかってしまい、何も、届かなくなってしまった。特に、この国の状況は、西洋各国とは、大きく異なり、この地域の他国と、同じような所にある。その為、危機感は、薄れてしまった。対策への、住民の協力が、得られようが、得られまいが、結果として、大した違いが無い、という事態に、首長達の叫び声は、宙に舞っている。自粛とは、所詮、この程度のものだが、それでも、成果が上がったように、見えたのも事実だ。一体全体、この騒動の本質は、何処にあるのか。そろそろ、見るべき時が来た。

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