パンチの独り言

(3月15日〜3月21日)
(末期症状、年限あり、癒着か、甚振られる、どっち、投了か、分別)



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3月21日(日)−分別

 二十年に近く、匿名で、書き綴ってきて、改めて、考えることは、世の中が、愚かな考えに、満たされている、ということだろう。自分の考えを持つどころか、他人の考えに、振り回され、心を乱され、思い悩む人々の姿は、哀れとしか、言いようが無い。何故、なのか。
 それより、更に危ういと映るのは、自分の心の乱れ、に留まらず、他人へと、その考えを広げ、社会全体に、精神の病を、広げる人々だろう。中には、悪意に満ちて、ただ、自分の楽しみとして、人々の混乱を、愉快に思う人も居て、屑とか、塵とか、呼ばれたとしても、罪の意識さえなく、生甲斐にまで、なることまである。悪人の典型だが、それが、見えぬ所に、潜むことで、さも善人のように、暮らしているらしい。彼らの悪意を、暴くことが、こういう場の、役目の一つと思い、指摘し続けてきたが、効果は、全くと言っていい程、無いのだ。騙され、踊らされる人は、不安を、掻き立てられる話に、強い引力を感じ、自分から近づいて行く。その過ちを、指摘する声には、耳を傾けず、自ら、渦に巻き込まれるのだ。そうでなくとも、多くの人々が、誤った情報に、振り回されている。異なる考えが、ぶつかる中では、何方が正しいかも、判断がつかないことが、多々あるのだが、多くが巻き込まれるのは、明らかに間違った情報であり、それを、見極めることが、できないことに、最大の問題がある。少し考えれば、論理の破綻や、まやかしの数々を、見破れると思うが、惑わされる人々は、その力を、持ち合わせていない。それなら、身近な人に、意見を仰げば、いいと思うが、それさえせずに、勝手な方に、歩み出してしまう。彼らが、受けてきた教育に、問題があるとの指摘もあるが、果たして、そうだろうか。こういう人々は、ある意味、生まれながらに、そういう性質を、持ってしまったのでは、と思う。でなければ、これ程に、愚かな考えに、社会全体が、縛られることは無い。

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3月20日(土)−投了か

 もう、手の施しようが無い。一年余り前、騒動が、始まった頃から、強い疑いを、向けてきたが、ここに来ても尚、その気持ちに、変わりは無い。しかし、大衆の心は、荒びきってしまい、嘗ての明るさを、取り戻すこと無く、諦めの表情を、見せながら、日々の暮らしを、送る。
 だが、その中で、一つ覚えの制限を、何度も何度も、繰り返す、無能な政は、依然として、自分達の力を、過信したままで、これこそが、唯一の解決法であり、市民に強いることこそが、重要との思い込みに、囚われている。一方で、科学の力は、的外れな方に、向かうばかりで、光明は、見えてこない。感染症への、唯一の手立てとして、大きな期待で、迎えられた、ワクチンは、開発者の売り文句が、そのまま、鵜呑みにされ、接種数は、急増しているが、その効果の程が、伝えられることは、殆ど無い。この感染症が、始まった頃から、ずっと同じ状態が、続くのは、状況解析に向けられる、力の弱さで、本来なら、様々に、分析されるべき、データの収集は、一向に、進む気配が見えず、出鱈目に、仮想計算や、集計のみが、行われるだけで、全体像が、見えてくる気配は、全く無い。その中で、接種後の状況は、単に、副反応のみに、目が奪われるばかりで、肝心の、効果の程度に関して、綿密な調査が、進められているとは、とても思えない。このままでは、科学への不信が、強まるだけで、人々は、戸惑うばかりとなる。感染症そのものへの、理解を、進めようともせず、単に、恐怖を、蔓延させることに、心が、奪われた人々は、この時とばかり、あり得ないことまで、盛り込んで、大衆の心を、傷付け続ける。悪いことを、並べても、何の意味も、持たないことは、承知しているが、目の前の現実が、そんな状態なのだ。良識のある人々は、何処に消えたのか。はたまた、どのように、消されたのか。これ程の情報社会において、何故、まともな言葉に、接することができないのか。

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3月19日(金)−どっち

 確率を、どう認識するのかは、人それぞれだ。ある事象の起きる確率が、示された時に、それに、当てはまると考える人と、そうでない人は、物の考え方に、依存するからだ。その事象が、悪いことであれば、悲観的に、当てはまると考え、良いことなら、当てはまらないとなる。
 だが、確率は、あくまでも、どの程度、起こり易いか、を示すものであり、悲観か楽観かにも、良いことか悪いことかにも、無関係なものだ。それが、心理的な要因で、印象が、左右されるとなれば、科学も何も、あり得なくなる。一方、確率の問題には、もう一つの問題がある。それは、たとえ、確率が示されても、自分は、何方になるのか、を気にする人が、多いことだ。例えば、0.5%の確率で、と示された事象は、1万人に50人が、当てはまることになる。自分が、その50人に、入るか否かが、罹患や重症化の問題では、非常に重要と、受け取られる。そこで、医者や専門家に、それを問い質すが、期待したような、確かな答えは、返ってこない。これは、当然のことで、確率事象では、母集団に対して、該当の有無を、調べただけであり、個人を、特定するものでは、ないからなのだ。現場で、苛立ちを覚え、食い下がるのも、その事象が、命の長さや、生活の安定に、響くものであれば、当然のこと、と受け取られる。しかし、たとえ、人々が、強く望んだとしても、確率は、あくまでも、誰かの話であり、当人の話とはならない。今、遺伝子診断により、個人の特性を、炙り出して、それを、遺伝子を原因とする病気や、薬の量の判断に、用いる話が、取り沙汰される。ただ、これもまた、所詮、確率の話でしかない。将来、何が起きるのかを、考える上では、数値の大小があれど、可能性を論じるしかない。一方で、個人の経験は、常に、自身の話で留まる。薬の効果も、治療の成果も、個人だけに適用される。花粉症に、市販の風邪薬を、服用するのも、一個人に通用するだけで、万人に、当てはまる訳ではない。

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3月18日(木)−甚振られる

 筋書きに、怒りを覚える人が、多いと思う。と言っても、これが、作られた騒動である、とする考えには、賛同は、得られ難い。いかに、悪質な物語でも、それが、故意に作られ、世界中の人々を、巻き込んだとするのは、あまりに酷い、と思うからだろう。だが、本当か。
 何度も、書き続けているから、ここを読む人は、違和感を、抱かないだろうが、世間では、そこまでのことは、あり得ない、と信じる人が、殆どのようだ。毎日のように、流される、被害の数々は、作られたのでは無く、事実なのだから、それが、創作劇の中の出来事、とは思えないからだ。しかし、何を取り上げ、何を無視するかは、情報を、扱う人々の思うがままであり、それが、大衆に、どのような影響を、与えるかという観点で、取捨選択を、した結果であることに、疑問の余地は無い。なのに、そこまで酷いことは、などと思い込み、騙され続けるのは、どうだろうか。それも、日々の生活まで、脅かされて、不安を、抱かされ続けているのなら、少しは、考えを変えてみては、どうかと思う。筋書き通りの展開では、その解釈まで、台本に書かれており、その通りに説明される。だが、その多くは、別の見方をすれば、全く異なる様相が、見えてくる訳で、一面を、捉えただけのものに、過ぎないのだ。であれば、解釈も、並立させながら、紹介したら、どうかと思うが、筋書きは、それを許す筈も無い。報道に関わる人々が、何処から、仕入れたのか、知る由も無いが、彼らは、格好の台本を、配布されたからこそ、その筋に、乗った話を、挙って取り上げる。論理の破綻が、明白になっても、それを無視して、演じ続ければ、賛同が、得られるという目論見は、世界で、成し遂げられつつある。綻びが、目立ち始めたら、急遽、別の都合のいい解釈を、施せば、何とかなるのだ。だが、虐げられた、人々の心は、修復不能な所まで、痛め付けられている。忘却のみが、救いとなるのか。

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3月17日(水)−癒着か

 実態を眺めて、判断を下す。ごく当たり前のことが、できないのは、大問題だ。だが、今、巷に溢れるのは、不確実な事柄を、さも、当然の如く、触れ回る人々で、その根拠を、確かめることなく、逃げ惑う人々だ。話題の中心には、絵に描いた餅が、鎮座している。
 冷静に、実態を確かめることも、相手の言葉を、読み解くことも、一切せずに、鵜呑みにする。そこには、論理は無く、直感のみが、居座る。その時、好悪が先行し、判断を、誤らせる。だから、愚民は、いけない、と断じるが、論理を振りかざす人々も、笑っては居られない。何しろ、出鱈目な情報を、度々流す人々を、無視する癖は、好悪の一種、と言えるからだ。先入観と呼ばれるものも、屡々、話題に上るが、こういう場面では、冷静に構える人にも、そんなものが、邪魔をする。唯一の手立てとして、世界中の人々の、期待を集めるのが、ワクチンと呼ばれる薬だが、今、多くの問題が、生じていると伝えられる。たとえ、確率が小さくとも、母数が増せば、目に見えるようになる。話題を、掻き集める人々には、格好の材料となり、そこから、騒ぎが拡大すれば、各国のような、拒絶反応が、起きることもある。そこでは、冷静な分析が、必要となるが、生産国や世界機関の反論は、一瞬、怪しげなものと映る。ここでも、様々な先入観が、入り乱れており、誰が、正しいのか、伝えられるものからでは、判断がつきかねる。会見内容を、読み解いてみると、それぞれに、確固たる証拠を、示しているようだが、今一つ、はっきりとしない。企業との結びつきを、疑う声は、大きいままだが、癒着を疑う意見が、背景にあるだろう。嘗て、環境汚染を訴えた人は、企業と研究者の癒着を、問題とした。当時も今も、事情は同じとばかり、疑惑が強まるが、果たしてどうだろう。筋書きを、作った世界機関にとり、解決への糸口として、種々のワクチンの登場は、歓迎するものと映る。だとしたら、自らの不明を詫びず、幕引きする為には、この役柄は、不可欠なものとなる。金なのか、筋書きなのか、どちらにしても、悪役だ。

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3月16日(火)−年限あり

 ある女優が、8年かけて、大学を卒業した、との報道があった。多忙を極める、職業に就きながら、努力した結果、との内容だったが、それと共に、触れたのは、最後の年、という点だ。この国の大学には、就学年限が、あるからで、その最終年に、やっと終えたと。
 この話題の前半に、驚いた人は、多いだろうが、後半はどうか。大学に、留まることができる、年数が、決められていることに対し、疑問を抱く人は、殆ど居ないのではないか。普通は、4年で、卒業できるもの、と決まっているが、その一方で、多種多様な事情により、順調な進級ができず、同級生に比べて、長い期間を、要することがある。だが、事情がどうあれ、卒業に要する期間が、決められている。背景は不明だが、多くの大学が、それを、8年と決めており、休学などの、特殊事情が、無い限り、自動的に、退学措置が取られる。そのことを、捉えて、今回の報道が、なされた訳だが、何故、8年なのか、という疑問に触れることはない。4年の倍、として決められたようだが、在学中の書類の保存が、おそらく、考えられる、一番の理由だろう。だが、電子化された時代に、これは、妥当だろうか。国の役所が、次々に、電子化した書類を、廃棄するのだから、同じでいい、という考えもあろうが、彼らの勝手な都合と違い、こちらは、勉学意欲を、満たす為の場での話だ。各自の事情で、要する期間が、変わることもある。特に、最近、話題にされる、多様性の観点から、こんな制度は、差別的と見做されかねない。更に、経費負担の問題が、取り沙汰される中、半年あたりの授業料を、徴収する仕組みも、実態にそぐわぬ、と思える。講義を受け、合格すれば、単位を得て、その総計から、卒業資格を得る、という仕組みからは、授業料も、講義数、正確には単位数あたりに、課せられるべきで、合理的と言える。今の4年間の授業料を、卒業必要単位数で、割ることで、導かれる料金が、それに当たる訳だ。これなら、資金不足になっても、暫く働き、復帰するなどの手立てを、講じることもできる。他国にもある話だ。

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3月15日(月)−末期症状

 この国の政治は、末期に、及んでいるように見える。本来、今回のような、災厄に、襲われた時、政にできることは、少なく、最悪の事態を、招いたとしても、所詮、運命と見做され、少しでも、好転すれば、手柄とされる。だが、今の状況は、袋小路に、入っている。
 何故、大衆から、見放されるかの如く、窮地に、陥っているのか。一つは、筋書き通りに、事が運ばず、政治家達の言葉に、何の期待も、抱けないばかりか、嘘や欺瞞が、満ち溢れている、と感じられるからだ。更に、事態を悪化させるのは、思い通りに、展開しない状況に、焦りを露わにし、強権政治を、持ち出したことにある。何の根拠もなく、思いつきを、繰り出しても、平時であれば、看過されるが、災厄を、相手にする中では、それを、逃れる為に、科学的な根拠を、示すことが必要で、その上に、対策が講じられている、と大衆に、納得させる必要が、出てくる。本来、これ程の騒ぎに、する必要のない災厄を、町を挙げて、都市を挙げて、国を挙げて、過剰なまでの悲劇として、演じた結果、引っ込みが付かず、解決の糸口さえ、示せずに、大衆の不満を、鬱積させてしまった。これは、国どころか、世界中が、巻き込まれる、大創作劇であり、絵空事に過ぎぬものに、過剰反応を、催させたことが、まさに、災厄となっただけで、政への期待は、別の形のものにしか、起きてこない。それは、経済への対応であり、日々の生活を、支えてくれる、というものだが、現実には、不満ばかりが、噴出することとなった。手詰まりの状況では、国だけでなく、都道府県市町村の自治体においても、顕著となり、ばら撒きの効果は、長期化により、希釈されている。そこに来るのは、国と自治体の経営破綻であり、経済回復と共に、税収増加が、回避への必須条件となる。これらの状況が、末期と見える、理由なのだが、渦中の人々に、打開策は、あるのだろうか。それとも、幕引きの場面なのか。

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