パンチの独り言

(3月22日〜3月28日)
(独立しない、番頭さん、巡り巡る、気付き、信頼を保つ、張本人、無責任)



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3月28日(日)−無責任

 一つの節目を、迎えようとしている。これまで、思う所を、綴ってきたが、匿名を、貫いてきた。ここでも、何度も、強調したが、匿名性と責任の関係は、世間が思う程、単純ではない。無責任な発言を、したいから、名を隠すのは、卑怯でしかなく、人間性をも否定する。
 誰もが、好きに発言できる。そんな場が、提供されたのは、今のような仕組みが、立ち上がる、ずっと前のことだ。印刷物しか、流通しない時代には、自分で作った、所謂ビラを、配ることで、世間に働きかける人が、ほんの一握り、居たことには居た。しかし、殆ど全てが、自己満足でしかなく、社会には、何の影響も、及ぼさなかった。そこに、情報流通の仕組みが、一変することで、市井の人々が、思う所を、書き込む場所が、次々と、登場し始めた。掲示板しかり、チャットしかり、そして、ブログと呼ばれるものが、登場するに至り、提供された場所に、意見を掲げる人が、急増し始め、それに対する、同意や反論を、書き込む場所が、提供されると、議論が沸騰することも、起き始めた。それはそれで、言いたいことがある人には、十分なものだったが、徐々に、面倒な仕組みを、単純化しようとする動きが、起き始めると、それまで、躊躇していた人までも、加わることになり、日々綴られる文章は、巷に溢れ、混乱が生じる一方で、玉石混淆の状況が、強まってきた。当然、愉快犯の偽情報や、手の込んだ嘘までもが、拡散することになり、情報の質が、論じられ始めた。一方で、公共的な情報への信頼が、薄れ始めており、正確さや迅速さにおいて、劣ることが、目立っている。そんな変遷の中、独り言は、一人の考えを、表明する場だが、それと共に、社会に訴えたいことを、伝えている。匿名は、責任逃れではなく、名前や地位により、先入観を抱かせるのを、避ける為だけで、発言の真偽や責任においては、重く受け止めている。節目を越えれば、社会的責任の一つは、確実に、無くなるのだが、ここの匿名性は、維持していく。

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3月27日(土)−張本人

 この国では、初等教育で、好き嫌いが、決まることから、理科離れ、と呼ばれるが、科学への信頼が、失われており、昨日の話題と同様に、深刻な問題となっている。同じ結果に、繋がったことが、注目されるが、実際には、原因も、よく似ており、大きな問題となる。
 では、原因は何か。理科離れのきっかけを、子供達に、尋ねてみると、つまらない、の一言が返ってくる。学ぶことが、満足の対象となり、そこに、大きな要因として、面白さが、台頭してくると、覚えるだけの科目と違い、少し考えなければ、理解できない科目を、敬遠する子供が、増えてきたのだ。単純作業である、記憶することは、面倒に思えても、繰り返せば、成果が得られるが、考えることは、面倒なだけでなく、到達点が、見えないことが多い。その為、少し繰り返しても、解ったかどうかの確認が、できない為に、成果を実感できず、それが重なると、面白さが失われ、つまらなさだけが、残ってくる。科目の問題、でもあるのだが、そこに介在するのが、教える人間の問題だろう。面白さを、伝えることが、できない人間が、現場を占めており、理解より、暗記を勧め、歪みを大きくする。科学でも、同じことが、起きている。教わる訳ではないが、解説により、理解を促される。だが、巷の話題について、専門家と称する人間が、明らかな間違いや、極論を展開し、一時の人気は、高まるだろうが、早晩、馬脚を現し、信頼を失う。だが、人間への信頼で、終わる訳ではなく、彼らが用いた、科学への信頼が、失われることになる。これが、度々繰り返されると、社会全体に、科学そのものへの不信感が、広がることとなり、正しい解説さえ、信じられぬと言われる。彼らは、正誤ではなく、快不快を、判断基準として、小難しい説明は、嫌悪の対象として、無視する。これでは、正しい判断は、覚束なくなるが、当人達は、気にする素振りも見せない。単に、科学が、信頼を失うだけなのだ。

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3月26日(金)−信頼を保つ

 科学への信頼が、失われつつあり、一部の人々が、危機感を、訴えている。だが、彼らの多くが、拠り所とすべき、科学自体を、冒涜するような、言動を繰り返しており、自業自得の感は、否めない。何故、自作自演のような、三文芝居が、演じられるのか。考えてみる。
 最も大きな要因は、科学そのものの問題ではなく、世相、社会の問題だろう。弱者保護について、何度も指摘したが、多様性の維持を、謳いながら、一方で、差別の問題を、殊更に取り上げるのは、思惑に満ちた、欺瞞的行為なのだ。その中で、理解し合うことが、絶対条件のように、扱われるが、実際には、同じ人々が、既存の差を、拡大化するような、手立てを講じている。ここでも、自作自演と思える芝居が、演じられているのだ。その中で、理解と共に、重視されるのは、労りとか、労いという、相手を思う心の、表出なのだ。思いやり、という言葉も、屡々持ち出され、心理的な関わりが、最優先される、風潮にある。これと、科学的な考え方に、どんな関係があるのか。簡単に言えば、科学とは、事実を並べ、そこから導き出される、解釈を、論じるものだ。そこには、人間的な、心の問題が、入り込む余地はなく、時に、冷淡な言葉が、並ぶことになる。これを、そのまま、実行すれば、人で無しと指差され、集中砲火を、浴びることになる。事実に基づき、正しいことを、行なっていても、所詮、人々の心は、それを受け容れず、厳しい反撃に、晒されることとなる。時に、社会的な地位さえも、奪われてしまい、肝心の、科学の営みを、続けることさえ、叶わぬこととなる。これでは、元も子も無くなるから、当然、大衆受けする解釈を、施すことで、場を和らげる。だが、それが、非科学となれば、一時的な信頼を得ても、早晩、失墜することなり、ひいては、科学への信頼を、失わせることになる。愚かな情報伝達と、貧しい心の集まりである社会が、作り上げた怪物に、潰されないように、しなければならない。

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3月25日(木)−気付き

 忖度、という言葉は、死語だったのではないか。その復権に、強い後押しをしたのは、公文書の改竄を、組織を挙げて、行なった役所だろうが、その同類が、今度は、別の騒ぎを、起こしている。法案の作成で、多くの誤りが、指摘され、別の文書作成能力が、疑われている。
 事実と異なる記述を、施したのは、改竄と呼ばれ、意図的な行為として、厳しく断ぜられたが、肝心の処罰は、雲散霧消したように見える。私的な文書でさえ、偽造すれば、詐欺などの罪に、問われるのに、公的なもので、誰も処罰を受けないのは、社会秩序から、想像を絶する。では、今回のものは、どうなのだろう。間違いそのものは、ほんの数例が、紹介されただけで、それらが、意図的かそうでないかの、判断はつかない。認識不足、無知、不注意、などなど、様々な原因が、考えられるが、意図的でなければ、単純に、能力不足でしかない。そちらに、落着させるかは、おそらく、誰も気に留めず、単に、言いがかりをつけて、審議を、先延ばさせるのが、唯一の目的だろうから、それはそれで、構わないのだろう。ただ、今回の騒動を、別の角度から見ると、社会全体に、蝕まれていることに、目を向ける必要を、痛感させられる。それは、文書の誤りが、多発している現象だ。日々、目を通す文書には、新聞、雑誌の他、職場内のものもあり、それらに、最近特に、誤りが目立つことだ。これらの殆どは、作成者だけでなく、他人の点検も、行われた筈で、それでもなお、誤りが残ることに、疑問が残る。何故、見過ごすのか、不思議に思うが、それこそが、能力の欠如なのだ。嘗てであれば、誤植とされた、書籍の誤りも、驚く程多くある。活字を拾う作業が、必須だった時代と違い、今は、原稿そのままに、刷り上げられる。となれば、誤りは、原稿そのものにあり、作成者と校正者に、責任がある。見つけられないのは、能力の問題であるが、昔と変わったのは何処か、知る必要がある。

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3月24日(水)−巡り巡る

 当初、脅しの為だったろうが、感染症の恐怖を、過大に膨らませ、世界の人々を、奈落の底へと、落としていった。感染拡大を、押さえ込むことが、唯一の方法と、陽性者を、炙り出すことで、隔離を基本とする、戦略を講じたのも、台本通りの展開を、謀ったからだ。
 しかし、悪質な台本では、世界的な大芝居も、台無しとなる。封じ込めは、何の効力も、発揮せず、政に携わる人々は、焦燥感や無力感を、強める結果しか、得られなかったが、発信源の人々は、相も変わらず、後付けの見解を、撒き散らすばかりで、何の解決策も、出せないままに、自ら作り出した、悲惨な状況は、想定外の展開を、続けていた。その中で、始めの頃、全面否定していた筈の、ワクチンに、今度は、過剰な期待を、かけ始めた。本来、風邪の一種に過ぎず、従来通りの対応で、十分なものを、大袈裟に騒ぎ立て、世界中を巻き込んで、凶悪な敵としたことで、衛生上の問題だけでなく、経済にまで、大きな影響を、及ぼしてきたが、ここに来て、別の思惑が、表面化していると思える。一つは、陽性者炙り出しに、必須な道具となった、PCR検査がある。依然として、日々、数多くの検査が、実施されており、そこに注ぎ込まれる、資金は、検査に関わる企業へと、ジャブジャブと流れ込む。もう一つは、期待のワクチンを、製造する企業の数々に、各国から、大量の注文が入り、ここでも、多額の資金が、流れ込んでいる。これら二つは、私企業の収益であり、各国からの資金で、賄われている、世界機関へと、流れるものではない。だが、少し考えればわかるように、貧しい国にも、この災厄は、及ぶこととなっており、資金が無い中、見捨てられる運命、と見ることもできる。そこに、救世主として、世界機関が、手を差し伸べる。検査もワクチンも、無償提供という形で行えば、救われることとなる。世界機関が、手を貸した企業が、無償協力するのは、資金提供と同じなのだ。

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3月23日(火)−番頭さん

 今では、落語の世界の話、でしかないが、嘗て、大店には、番頭と呼ばれる、経営の二番手が、君臨していた。主人は、確かに、組織の頂点に、座っているが、何処も、経営の実権は、番頭が握っていた、と言われる。今は、そんな立場は、何処にも無いが、似た立場はある。
 どの組織にも、頂点ではなく、その下で、主人を支えつつ、活躍する人々が、居るものだ。彼らは、最終責任を、負うことは無いが、時に、実権を握っている。そんな人材を、抱える組織は、経営においても、運営においても、好成績を挙げ、番頭さんの存在は、重要なものとなる。だが、彼らの多くは、二番手でこそ、活躍する人間で、頂点に立った途端、動きが、ぎこちなくなり、組織は、衰退へと向かう。今の政府は、嘗ての二番手が、宰相となり、当初の人気が、凋落しているが、世界情勢の影響も、あるとは言え、本人の言動が、最終責任を果たすもの、であることの影響が、大きいと思う。同じ現象が、感染症騒ぎの、対応に邁進する組織でも、起きているようだ。嘗て、二番手であり、最終責任が、無いにも関わらず、殆ど毎回、会見に登場していた人物は、その功績からだろう、今回は、頂点に立ったのだが、言動に、変化があったように見える。積極的な対策を、丁寧に説明する姿に、好意を抱き、期待していたからこそ、今回の登用となったが、現状は、消極的な発言が、相次ぐ中、否定的で悲観的な見通しを、繰り返すばかりで、落胆の声が、高まっている。経験と見識に、高い評価があり、今度の作られた災厄においても、筋書き通りに、事を運べる、と期待されたが、想定外に長引き、様々な綻びが、露呈する中では、彼の統率力も、功を奏していない。更に、悪くしたのは、責任を重くしたことで、その重圧は、保守的な姿勢に、現れている。同じことは、宰相にも、当てはまる。代弁者と見做された時と違い、最終責任は、彼の上に、重く覆い被さっている。

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3月22日(月)−独立しない

 小さな国が、独立に向けて、努力をするのも、ある国が、政府の転覆を狙って、軍部が反乱を起こすのも、日々、報道されるが、その殆どに、実感が湧かない。平和ボケ、などと揶揄され、報道に携わる人々から、厳しく批判されるが、所詮、対岸の火事、時に、彼方の話だ。
 しかし、隣国の混乱は、それらに比べて、より近い存在、と見る人が多い。ただ、現政府への批判は、厳しくなるばかりで、不可思議極まりない、一国二制度然り、自治区然り、内政干渉を、振り翳したとしても、人間の権利として、どう考えるかに、変化は生じない。中でも、理解不能でしかないのは、嘗て、この国が、占領していた島のことだ。丁度、半世紀前までは、戦後の情勢から、そこに存在する政府が、国を代表していたが、世界の多くの国が、新しい主義の政府と、国交を回復したことで、代表の地位が、移されることになった。そこまでは、手続きとして、理解できない訳では、無かったのだが、その後の経過は、容易に理解できるものでは、無かった。少なくとも、新しい主義の軍に、戦いで敗れ、嘗て、この国が占領していた島に、政府組織ごと、移ったことで、内戦で敗れた政府が、依然として、世界的には、国としての地位を、保証されていたことは、国としての認定より、政府としての認定を、優先させた結果として、理解したつもりだが、そこに、新たな政府への認定が、決まった途端に、国としての地位を失い、地域として、扱われることに、なった点には、大いなる疑問が残る。何故、独立しなかったのか、という点だ。国際的な相互関係の結果、とするにしても、その後も、事ある毎に、注文や圧力を、及ぼす存在に、服従にも似た態度を、続ける理由が、浮かばない。ここに来て、圧力は更に強まり、強硬手段に、出かねない状況となると、その疑問は、急激に膨張する。海の向こうの大国が、口出しするのも、内政干渉ではなく、権利の問題なのだ。だとしたら、あの地域を、一つの国として、認めるべきではないか。他国から、返還された地域とは、事情が違い過ぎる。

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