パンチの独り言

(3月29日〜4月4日)
(読み返し、不確かさ、今度の二番手、土俵に上がる、國破、ただの風邪、日常)



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4月4日(日)−日常

 風邪気味、などと言いつつ、働き続けた人々にとり、今回の騒動は、どう映るのか。死に至る病だから、風邪と、馬鹿にしては、いけないとばかり、用心を繰り返し、不安に駆られ、仕事に励むのか。在宅勤務など、働く仕組みも、変わったのだが、どうにも、変な気がする。
 当初は、三密という表現で、制限をかける行為が、限定されていた。その後の推移から、この戦略が、無意味だった、と糾弾する声が、高まったが、元々、それまでの、僅かな状況把握から、導き出された答えに過ぎず、何故、予想通りに、感染が広がらなかったのか、という、自らの疑問を、解く為の、解釈に過ぎなかったのだ。だが、情報不足は、否めないものの、少なくとも、状況の説明には、十分な内容だったことは、認めるべきだろう。それと共に、検査数を抑え、混乱を回避することで、体制整備までの、時間を稼ぐという戦略も、ある意味では、功を奏していた。想定外は、医療業界からの、支援が得られず、見せかけの数字を、提示することで、整備を逃れた、現場の問題から、来たと言えるだろう。確かに、医師会と呼ばれる、利益団体の横暴さが、諸悪の根源であるのだが、その一方で、行政の責任を、問う声が、上がらないのは、何故だろうか。世界機関の指針によるとは言え、感染症の指定の括りが、間違っているとの指摘は、当初から、盛んに出されている。だが、行政は、その見直しを、検討することなく、拡大抑制を、第一とする政策を、乱発するのみで、期待外れを続けるばかりだ。風邪を、拗らせた患者を、治療する体制を、整える為に、実は、指定制度が、障壁となっていることに、行政は、いち早く気付くべきだ。それを、怠ったことが、全ての根源となり、現場の混乱を、強めることに、繋がっている。死者数の動向からも、騒ぎ過ぎを、猛省した上で、確かな対応を、取り戻すことが、今、最も必要なのだ。日常を、取り戻す為に。

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4月3日(土)−ただの風邪

 ただの風邪の一種、とでも書けば、狂気の沙汰、と思われるかも。特に、世界の趨勢が、死の病であるという、世界機関の指針に、従うことに、躍起になる中、戯言、妄言、暴言としか、受け取られないだろう。だが、一部には、確かに、全く異なる意見が、あるのだ。
 死の病との根拠は、幾つも、示されている。と、誰もが、思い込まされているが、これは、事実ではない。例えば、風邪が原因で、死に至ることもある病には、肺炎があるが、前に書いた通り、この国では、例年12万人程の、死者が出ている。実際には、肺炎そのものは、9万人程だが、近年、誤嚥性肺炎と括られる死者が、3万人を上回っている。これに対して、今の騒動による死者は、昨日の時点で、国内が、9千人を上回ったところだ。如何に、少ないかを、実感して欲しい。だが、世界では、3百万人に迫っており、一大事とされるが、こちらも、世界の肺炎死者が、年間同程度であることから、騒ぎ過ぎの感は、否めない。ただ、一部で指摘される、流行性感冒の死者との比較は、年間3千人程となり、的外れと言うべきだ。にしても、何故、これ程に、騒ぐのだろうか。それは、何度も書いたように、陽性者を、せっせと数え、過大な数字を、脅しに使っているからだ。特に、無症状と呼ばれる、陽性者について、基礎的解析が、殆ど進まず、誤解に基づく、下らない警告が、流布されていて、心理的な圧迫が、急速に、強まっている。風邪本来の、診断法に、立ち戻り、自覚症状を示し、発症した患者のみに、治療を施せば、この混乱は、直ちに収まるだろう。更に、死の恐怖を、取り除く為に、重症化した患者に、手厚い治療を、施す仕組みを、きちんと整備すれば、多くの課題が、取り除ける。ただ、肝心なことは、本来、死の病として、恐れられてきた、肺炎そのものは、依然として、死に至る病であり、息の根を止められる、という意味で、逃れ得ないもの、と受け取るべき、ということだ。

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4月2日(金)−國破

 当初から、強い疑惑の念が、一部の人々に、抱かれているが、依然として、その答えが、示される気配は、全く見えない。まるで、既成事実のように、誤った対策や、誤った用語が、正当化され続け、それに対して、疑惑も、強まるばかりだが、当事者達は、意に介さぬようだ。
 騒動の始まりから、先入観もあり、診断の手法について、不信感が広がった。しかし、世界機関の、強い後押しもあり、いつの間にやら、基準となる診断法として、世界中に広がった。本来、この手の病気では、検査ではなく、臨床的な判断で、診断が下されるが、徹底するとして、最先端の診断が、導入されたのだ。そこでは、検査での反応が、有るか無いかが、判断基準となるから、陽性か陰性かが、結果となるが、この国では、これを感染と見做すことに、いつの間にか、されてしまった。症状の有無が、感染の判断基準なのに、それを無視したことから、無症状の感染者、という矛盾に満ちた用語が、流布されるばかりか、専門家の一部が、彼らを、感染源と呼んだことから、問題は、拗れるばかりとなった。恐怖に冒された専門家が、発した言葉は、煽動者達の、格好の道具とされ、発言者本人も含め、愚かな政治家も加わり、馬鹿騒ぎは、急速に拡大した。同じことが、世界各地で、広がっており、今の生活を、脅かすばかりか、将来をも、脅かすこととなる。子供達にとり、目の前で展開される、恐怖劇は、どう映っているのか。逃れようと、躍起になる人々は、気にする余裕さえ、失っているが、子供を、教え育むことを、疎かにしては、破滅となりかねない。にも拘らず、検査結果を全てとし、教育現場の閉鎖も、止む無しとする動きが、広がる国では、未来を担う人材の、機会を奪っているという。本来なら、発症した子の数が、増えた時のみ、閉鎖するのが、感染を広げるという根拠なく、こんな暴挙に出るのでは、国の未来も、無くなりかねない。亡国の輩だ。

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4月1日(木)−土俵に上がる

 ひとつ覚え、という意味では、どっちもどっちだと思う。愚かな拘りに、縛られた人々が、自らの主張を、何度も繰り返す。議論の余地は無く、互いに、罵り合っているようにさえ、見えてくる。何故、こんなことが、起きていて、何故、それが、改善される気配さえ、見えぬのか。
 最大の要因は、命に関わること、という大前提だろう。誰でも、命は惜しいもので、それが、奪われるとされると、何としてでも、回避しよう、と躍起になる。それが、次々に、厳しい制限を、繰り出して、大衆の混乱を、招いている原因、となっている。だが、肝心の対策は、浅慮に基づくもので、役に立たないばかりか、悪影響のみが、堆く積まれている。にも拘らず、懲りない人々は、更なる締め付けを、大衆に強いており、命という切り札が、何度も、突き付けられている。だが、解決への道筋は、全く見えて来ず、心の乱れは、強まるばかりだ。一方、この騒動を、人為的なものと、断じる人々は、権力を振り翳す人々を、厳しく糾弾し、その過ちを、一つひとつ指摘してきた。ただ、彼らの根拠にも、確かなものはなく、無駄な制限を、繰り返す動きを、完全に封じ込める、力を持ち合わせていない。両極端な勢力が、互いを、罵り合うことは、時に、見られるけれど、互いに、相手の主張に、耳を傾け、より良い結論を、導く気配は、一切見えていない。何故、こんな状況が、続くのか。誰もが、不思議に思うが、解決への糸口を、見出そうとする気は、無いようだ。一方的な批判は、歩み寄りを妨げ、本質的な理解へも、近付くことができない。少し離れて、眺めてみると、制限をかける人々は、何の勝算も無く、堂々巡りを、繰り返すだけで、出口を見つけられず、作られた騒ぎ、と指摘する人々は、全ての制限を、外すことを主張するが、医療体制の整備への、配慮に欠けており、放置だけでは、解決を導けない。互いの欠点を、補い合うことこそ、今、最も重要なことだ。

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3月31日(水)−今度の二番手

 大昔、日出処の天子と、挨拶状を認め、日没する処とされた、国の帝を、激怒させた、と言われるが、この国の半世紀前の、高度成長期には、世界一位になると、論じた本が、出ていた。だが、そこまでの成長過程で、猿真似と、揶揄されたことを、覚えている人は、少ない。
 成長の初期に、外貨を、稼ぐ為と、輸出に、精を出していたが、肝心の製品は、先進国で生産されたものの、類似品でしかなく、安かろう悪かろう、と言われていた。だが、その過程を経て、独自の開発理念を、築き上げたことで、技術的に、先頭を走る水準に、押し上げたことが、一位と称される、状況を、作り上げた。今も、技術水準では、先頭集団に、含まれているが、経済水準では、嘗ての栄光は、錆び付いてしまった。だからこそ、日没する処と、当時呼んだ国が、大きな政変から、新たな制度を、築き上げることで、経済力を回復し、技術力をも、先頭に立つ程の、水準に、のし上がってきたことに、危機感を抱くどころか、敗北を、認めたかのように、思い込まされているのは、如何なものか。こちらの成長と、同じ経過を辿り、猿真似ばかりと、揶揄された時代を経て、先頭集団に、加わったとされるが、今では、それをも乗り越え、最先端に、到達したとさえ、言われている。その証左として、最新技術の粋を集めた、数々の製品が、紹介されたが、その映像を見て、呆れたことがある。犬のようなロボット、と言えば、誰もが、その姿を思い浮かべるだろう。足の関節が、方向違いに、取り付けられた、との第一印象は、これも、誰もが抱いたろうが、あの国の最先端、として紹介された、ロボットが、それと酷似していたことは、驚きより、呆れの方が、適切な印象だった。同じことが、空飛ぶタクシーとして、紹介されたものにも、当て嵌まる。これら全てが、所詮、類似品に過ぎず、二番手以下であることを、如実に示している。違いは、運用の壁となる、法整備にあり、国を挙げての導入が、可能なだけなのだ。あの新幹線の紛い物を、埋めて隠蔽したのと、同じことが、起きそうに思える。

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3月30日(火)−不確かさ

 論理を、少し磨けば、批判することは、簡単である。誰でも、少し考えれば、相手の意見の綻びは、一瞬で、見抜ける。日々、それを繰り返し、思考力を、鍛えて欲しい。ただ、相手の欠点は、すぐに、見破れるが、さて、自分のこととなると、どうも上手くない。
 それは、専門家とて、同じことだ。原子力発電所が、安全ではなく、とても危険なものであることが、明らかとなった今、安全神話は、雲散霧消し、それに代わる、厳密な仕組みが、必要とされた。その任にあたる、最初の長として、科学的な根拠を、並べることで、運転再開を、許可するか否かを、決定してきた人物が、行政の過ちを、指摘していた。3つの要素を、挙げていたが、一つは、避難の基準に関するもので、最終責任者を、定めていないことを、欠陥と指摘していた。次に、食品安全性の基準に関して、世界基準と比して、極端に低いものを、当時の大臣の指示に従い、設定した委員会の、不見識を、糾弾していた。最後には、汚染地域の除染によって、集められた土壌の処分が、非現実的な計画に、基づくことに、異論を唱え、地域での処分が、唯一の解決策と、主張していた。彼の発言は、基本的に、科学的な見地に基づく判断、によるものとして、非科学的な判断が、多くの妨げを、招いていることを、断じていたが、では、彼が絡んだ、発電所の判断は、どうだったろう。当初は、発電所の設備に関する基準が、まさに、科学的に分析され、判断され始めたが、そこに、自然災害の要素が、加えられると、様相は、一変した。何時起きるか、判断が付かない、地震の可能性の判断を、活断層の存否に、頼っていたが、学界でも、確定的なことが、言えぬ中では、どうしたものか。更に、火山活動が、引き合いに出され、疑いは、一気に強まった。科学の危うさを、彼自身が、認識しているとは、とても思えず、そこから生まれた、批判についても、反論の余地は、十分にあるのだ。

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3月29日(月)−読み返し

 独り言は、専門家と呼ばれるような、特別な知識を、身に付けなくても、考えられることを、纏めた形を、取っている。別の言い方をすると、専門家達が、自分達の知識を、ひけらかすかの如く、特別な能力を、発揮した結果が、簡単な考えで、打ち破れることを、示したのだ。
 誰もが、自分の考えを、展開することで、その場の、状況判断を、下している。だが、この国の人間に限らず、世界中の人々の、ある割合の人間は、考えることを放棄し、他人の意見を、鵜呑みにした挙句、過ちを犯している。その状況は、決して、良い訳がなく、異常な暴力行動や、集団的な虐待など、極端な行動を、正当化することに、繋がっている。大衆を、扇動する為には、この手法を、用いるのが、最適とされるが、人の中には、当然とされたことに、疑問を抱き、それを指摘する人間も、居るのだ。戦時下では、非国民として、糾弾され、抹殺された、と言われるが、平時には、こんな行動も、許されている。にも拘らず、これ程多くの人々が、何も考えずに、他人の意見に、従うのは、何故だろうか。恐らく、これまで、何の問題も起きず、考えることを、放棄した方が、ずっと楽に生きられる、と実感してきたから、盲従することに、疑いを持つ心さえ、失ったのだろう。そんな世相を、眺めていると、危機感が、強まるばかりで、居ても立っても、居られなくなる。それが、書き始めた理由の一つ、なのだ。今、二十年近く、書き綴ってきたことを、振り返っているのは、実は、独り言の中で、指摘したことを、纏める機会が、訪れているからで、改めて、読み返してみて、その時々の、問題を指摘し、論理的な説明を、繰り返していることに、気付いている。意味があるかないかは、別のことであり、社会に届かねば、結局、意味を為さないことになる。何年続けても、中々届かないのは、仕組みの問題だが、改善できるだろうか。まだ、暫くは、この状態を、続けていきたいと思う。

(since 2002/4/3)