パンチの独り言

(4月5日〜4月11日)
(盲撃ち、騒ぎの源、姿なき怪物、危機迫る、一大事、見失わぬ、聴かせる)



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4月11日(日)−聴かせる

 人前で、話すことの難しさは、今も昔も、変わらぬものだ。だからこそ、技術の一つとして、話し方が、取り上げられ、その秘訣が、紹介される。だが、容易でないから、習得することができず、何度も、失敗を繰り返す。挫折する人もいれば、何とか、形にできる人も。
 面白いのは、独り言を、呟いたり、友達と、話したりする時には、何の問題も、抱えないのに、いざ、多くの人の前に、出た途端に、押し黙る人が、居ることだろう。緊張が、その原因であり、それを、克服する為に、様々に、工夫を凝らす。お呪いも、その一つだろう。掌に、「人」という字を、書いて、それを飲み込む。人に飲まれず、人を飲み込む、という謂れから、使われる呪いだが、功を奏する人も、そうでない人も居る。何が違うか、呪いの効果ではなく、心の持ちようなのだ。それに加えて、話す内容への、自信の程が、大きく影響する。技術を磨くことに、目を奪われる人が、多いのだが、実際には、内容を高めることに、目を向けない人が、多いことは、残念なのだ。その理由は、定かではないが、今の風潮が、そういう傾向に、あるのだろう。技術ばかりに、目を向けて、その習得に、時間をかけても、肝心の話の内容が、伴わなければ、耳を傾けて貰えない。ごく簡単な事実だが、気付かぬ人が多いのは、残念としか、言いようがない。話上手の多くは、実は、人が興味を持つ話題を、多く抱えており、それを、紹介することで、注目を浴びる。技術的なことは、何も必要ない、とは言わないが、技術よりも中身のことを、考えてみることだ。その典型とも言えるのは、外国語での話だろう。拙い言葉しか、並んでいないのに、聴衆の多くは、真剣に、話を聴いている。その理由は、話の中身にあるのだ。聞き取りにくく、話の組み立ても稚拙、なのに、皆が、一言も聞き漏らすまいとする。内容があるからなのだ。その価値は、話し方ではなく、中身にあるのだ。

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4月10日(土)−見失わぬ

 教育の機会を、奪ってはならない。との主張を、しているからと言って、教育の効果を、絶対視している訳ではない。一部の学者は、どんな人間でも、教育を施すことで、向上させられる、と謳っているが、そんな甘い考えは、捨てた方がいい。才能は、才能なのだ。
 このことは、運動能力を、思い出してみれば、すぐにわかることだ。泳いだり、走ったりする能力は、人それぞれで、努力によって、ある程度は、高められるが、かと言って、限界は、人それぞれだ。だが、学校教育では、皆が努力すれば、誰でも、ある水準に、到達できる、と謳う人々がいる。しかし、ここでもまた、限界があり、それが、水準に届かねば、仕方ないとなる。でも、それを、無駄の一言で、片付けてはいけない。無駄だから、機会を与える必要も、ないとなっては、困ったことになる。また、機会に関しても、人それぞれに、異なる形が、必要な場合があり、それを、探し出すことが、まず必要だ。これは、子供の側にも、教える側にも、必要なことだが、画一的な、学校教育では、難しいとされる。ただ、画一的とはいえ、ずっと長い間、同じことが、繰り返される訳でもない。新しい手法が、試され、新しい題材が、使われる。常に、より良いもの、という観点が、働いているが、必ずしも、思惑通りとは行かぬ。今回の騒動でも、身の危険を、回避する為と称して、直接の接触を、避ける手立てが、講じられ、その中で、新たな手法が、試されてきた。その中の幾つかは、効果的なものとして、注目されるが、集団とか、接触とか、そういう類の観点を、無視する動きには、賛同しかねる。一時、経験の重要性が、専ら取り沙汰されたが、正反対の動きが、騒ぎの為とはいえ、突然起きたことに、何の違和感も抱かず、飛び付く人々には、肝心なことを、任せられない。身を以て知ること、そんな基本を、忘れてしまっては、元も子も無くなる。

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4月9日(金)−一大事

 騒ぎが、始まった当初から、その後、に関する話題が、取り沙汰されるのを、眺めていて、まるで、噴飯物と思った。騒ぎを、どう収めるか、を論じるより早く、収束後の対策を、講じるのは、生命の危機を、謳いながらでは、危機感の欠如、としか思えないのだ。
 だが、他人を出し抜くには、そのくらいのことは、当然と見る向きもある。そんな様子を、眺めながら、穿った見方から、所詮、騒ぎは、創作でしかなく、誰も、大事と考えていない、からではないか、と推し量ったが、当初の過大予測程では、無いにしろ、巻き込まれる人の数は、徐々に、上昇を続け、各国の政府は、事態収拾に、追われることとなった。だが、その中でも、相変わらず、その後の展開を、予測する動きは、強まり続けている。特に、厳しい制限が、課される中で、実施される対策の中には、その後も、継続した方が、適切との判断が、多く為されており、効率化や省力化など、多くの効果を、謳うものに、注目が集まっている。だが、中には、表面的な効果に、目を奪われて、本質を、見失ったものが、数多く見られ、一部の人々の、思惑に魅きつけられ、誤った判断が、下されようとする、別の危機が、迫っているのではないか。例えば、人と人が、直接、顔を合わせることなく、意見を交わす機会が、この騒動の中で、急激に増えたことで、使われる道具も、驚く程、発達したのは、事実に違いないが、教え育む現場で、その活用が、検討されるだけでなく、導入が、急速に進んでいる現実に、目を向ける、必要がある。ただ単に、何かを覚え、その能力を競うだけなら、それで十分かもしれないが、教え育むことには、上の世代から、下の世代に、伝えるべきことが、数多くあり、そこでは、手取り足取り、顔を突き合わせて、行うことでしか、伝授できないことが、山ほどあるのだ。それを無視して、便利な道具に、目を奪われ、心までも奪われては、人間社会は、荒廃するに違いない。

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4月8日(木)−危機迫る

 学問の危機は、じわじわと迫っている。元々は、役立たずと断じられ、限りある予算を、振り分けないことで、研究が、継続できないことが、問題となっていたが、その後、資金を得る為と、焦りにも似た、動きが強まることで、自分で、自分の首を、絞め始めたのだ。
 それは、資金調達の早道として、高い業績が、必須であるとの評判で、一部で、注目が集まると、我も我もと、業績を、主張し始めたことだ。それまで、時間が掛かっても、確実な道を、歩むことこそが、研究の基本であり、学問の肝となる、とされてきたが、過剰な競争は、不確かなものを、発表することだけでなく、偽造や改竄という、ある意味、犯罪となるものまでが、登場するに至り、失われつつあった、学問への信頼を、失墜させるものとなった。重要な発見として、過剰な反応を、導こうとする動きは、既に、半世紀も前から、始まっており、資金調達の激化は、当時から、問題視されていた。そこに、予算の削減が、起こることで、更なる激化が、進んだことで、学問に対して、異なる考えを、持つ人々が、派手な動きを、強めただけでなく、必要悪を、認める動きさえ、容認してきた訳だ。一方、今回の騒ぎは、こんな経過の中で、脆弱性が、露わになっていた、学会の恥部を、世界に晒して行った。業績を、上げる為の、好機とばかり、飛び付いた人々が、報告した論文は、緊急事態に乗ったことから、筋書きばかりが、目立つ傾向となり、肝心のデータは、不十分であり、その解析も、一面的なものとなり、不確実な内容が、並ぶこととなった。そこに、新たな問題が起きたのは、ワクチン開発に関する、治験報告をはじめとする、研究報告の内容だろう。特に、効果の程を、訴えることが、最重要とされることで、不確実なデータを、過大評価するものが、目立っていることが、最大の問題だろう。医療自体は、学問ではない、との意見もあるが、この遣り取りに、登場する専門家が、不確かな説明を、繰り返すことが、学問全体の危うさを、強めていると思える。

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4月7日(水)−姿なき怪物

 漸く、重い腰が、上がり始めた。この話題も、何度も取り上げ、重大な問題として、紹介してきたが、意味不明な言い訳を、並べ立てることで、多くの政府が、私企業に対して、優遇を続けてきた。だが、ここに来て、思わぬ外圧から、大国から、方向転換が、提案された。
 外圧と言っても、この国が、得意とする、外国からの圧力ではない。自然の脅威、それも、局所的なものではなく、全世界に広がる恐怖に、対抗する為に、どの国でも、封鎖などの厳しい措置と共に、経済的支援が、不可欠となった。家計と違い、国の経済では、負債が増えたとしても、手立てを講じれば、表向きは、大禍となることは、殆ど無いのだが、自由経済において、放置すれば、早晩、破綻を生じかねない。となれば、増えた支出を、補う為には、収入を確保する必要が、出てくるのは、当然のことだ。国にとり、収入の大部分は、税金であり、個人からのものより、企業からのものの方が、遥かに重要と見做される。そこで、従来の考えでは、他国への移転を、止める為に、法人税の減税が、最重要とされてきたのを、増税へと、舵を切った訳だ。当然、所得税率も上げられ、それも、高所得者への累進税率を、より高くするとする政策へと、転換している。最低税率という、不思議な仕組みを、導入するとのことで、単純な増税ではなく、国家間の均衡を、保つ目的をも、含んだものであり、従来から、問題とされてきた、抜け駆け的な措置を、防止する思惑も、含まれている。だが、肝心なのは、世界的な会計制度の問題であり、そちらに手を入れるより、安直な選択を、行ったのだろう。本来なら、企業への課税は、国内活動そのものに、対して行われるべきであり、そう定めれば、懸念の殆ど全てが、解消される筈なのだ。一方で、法人税を上げれば、企業は、報告する利益を、縮小させるだろう。それが、社員への還元となれば、一石二鳥どころか、もっと稼げるだろう。だが、今回の外圧は、姿の見えぬ怪物であり、論理の飛躍でしかない。冷静な計算が、求められるのに。

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4月6日(火)−騒ぎの源

 連日、書いてきたことに対して、何故、と思う人が、多いのではないか。何しろ、国を挙げて、世界を挙げて、何が何でも、この災禍を、克服するのだ、とばかりに、躍起になっているのだ。更なる対策を、などという意見が、出てくる中、それ自体を、無駄とするのは、と。
 通常の感覚なら、そう思うのが、当然だろう。専門家が、総掛かりで、英知の粋を集め、最新技術を、駆使することで、唯一の頼みとなる、ワクチンの開発まで、辿り着いた、と伝えられ、実施が進む中、全てが無駄、と断じる意見を、受け入れるのは、容易なことではない。根本的に、誤った判断に、基づくものとする意見は、騒動が、起きた当初から、何も変わっていない。そればかりか、次々に、繰り出される、対策のほぼ全てが、徒労に終わるだけでなく、唯一の頼みでさえ、相手が、変わり続ける中で、鼬ごっことなることが、明らかと思えるだけに、やはり、厳しく、無駄と断じるしか、方法は残されていない。では、その結論に達した根拠は、何処にあるのか。何故、陽性者を、炙り出すことが、無駄なのか。確かな証拠は、まだ、得られていない。だが、これまで、世界に広がってきた、同種のウイルスを、原因とする風邪や、流行性と呼ばれる、別のウイルスを、原因とする感冒では、常に、発症を基準として、その症状から、診断が下されてきた。その上で、抗原検査を行い、確定すると共に、型の分類を、行ってきたのだ。それに対し、今回の騒動では、症状を示さず、ただ、無作為の検査から、存在を、確かめたからとして、感染の広がりを、追跡している。これが、感染症の広がりと、一致するのか、それ自体に、大きな疑問が、残っている。以前のものと、比較できないままに、騒動は、異常な程の高まりを、示し続け、世界中を、大混乱に、陥れているのだ。本来なら、混乱の最中でも、肝心な資料が、収集されねばならないのに、それが、行われないのは、誰かの作為なのか。

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4月5日(月)−盲撃ち

 的外れ、の一言で、片付けるべき、ではないのかもしれない。確かに、国の政府が、世界機関の指針に、従って、厳しい規制を、敷いたとしても、それに逆らって、緩いままに、維持したとしても、結果は、大同小異で、感染者も、死者も、大した違いを、示していない。
 逆に言えば、政府の決定は、国民の命を、守ることには、繋がらず、生活さえも、守れなかった、と結論付けられる。では、政府の責任を、問うのが、筋なのだろうか。確かに、救える筈のものを、手を拱いて、放置したのなら、その責任は、厳しく問われるべきだ。だが、どれくらいのものが、対策と呼ばれたもので、救えたのか。誰にも、分からない。その上、批判する人々が、躍起になって、主張するように、別の手立てを、講じたとしても、世界の現状を、眺めてみれば、大した違いに、ならなかっただろうことは、すぐにわかる筈だ。なのに、批判を繰り返す。そこに、的外れの一言を、浴びせるのは、間違いではない。何方が、正しかったのか、を論じたいのなら、どちらも、正しくないのだ。まるで、諦めのようだ、と言われそうだが、その部分に関しては、その通りだろう。では、何をすべき、だったのか。その疑問に、答えるには、原点に戻る必要がある。それは、世界機関が、当初から、過剰反応を繰り返し、取るべき措置として、各国に、求めてきたことに、大きな間違いが、あったということだ。感染拡大を、抑える為には、感染者を、炙り出して、徹底的な封じ込めを、行うしかない、としてきたことが、間違いなのだ。元々、検査で陽性となった人々は、確かに、体内に、病原体を、持っていたのだろうが、彼らが、感染源となるかどうかは、その時点で、全く不明だった。なのに、それに、全力を傾け、人も金も、注ぎ込むことで、治療という、肝心な現場を、疎かにした。ここに、最大の問題が、あった。そこに、目を向けず、依然として、封じ込めのみに、目を奪われた人間に、批判をする資格は、全く無い。

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