パンチの独り言

(4月26日〜5月2日)
(救われない、異世界、狂気沙汰、合わせず、罪作り、虫螻ども、人災)



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5月2日(日)−人災

 始まりから、現場の混乱は、極まり続けている。悲惨な状況が、伝えられ、死への恐怖が、更に、強められるが、そこに、疑問を抱かないのは、不思議で仕方がない。この混乱の原因が、感染症の拡散にある、と信じ込まされ、まさに、騙されていることに、気付かないのか。
 何度も書いてきたから、読み飽きた、と思われるだろうが、愚かな人々が、自らの過ちに、気付く気配もなく、暴走を続けるから、終わることは無い。医療現場の混乱は、当初、対処法が、定まらず、治療方針も、見出せなかったから、と思われていたが、ここまで長引いても、依然として、殆ど変わらず、悲鳴を上げ続けるのは、やはり、根本的な考えに、間違いがあり、その間違いに、現場の誰も、気付かないから、なのではないか。では、岡目から、何が見えるのか。基本的に、炎症への対処と、呼吸支援が、治療方針となることは、明らかだろう。その一方で、従来から、肺炎に対しては、過剰医療が、施されることなく、自力回復を、基本方針としてきたことが、すっかり忘れられていることに、改めて、目を向ける必要がある。息の根を止める、と言われる通り、呼吸不全は、死の病となり、時に、帰らぬ人となる。炎症の原因が、定かにされても、一度始まった反応を、止めることができねば、重症化から、死へと至る。その常識を、忘れた訳でもあるまいが、騒動に、加わる愚衆の如く、騒ぎ、喚き立てている。その深刻さを、殊更に取り上げ、騒ぎを、広げようとする輩は、更なる行動制限が、唯一の解決策と、訴えるが、これもまた、愚かさの表れでしかなく、世界的にも、その効果は、実証されておらず、無駄でしかない。集団の中に、感染が広がることを、重大事と捉える人々は、制限こそが、最適策と掲げるが、何度失敗すれば、気付くのか。個々の管理こそが、唯一の策であり、歴史が、それを証明している。無能な専門家の、足りない知恵は、無益なばかりか、害悪でしかない。

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5月1日(土)−虫螻ども

 では、大罪人を、のさばらせているのは、誰か。ここでも、例の事故の時と、全く同じ状況が、作られている。恐怖や不安を煽ろうと、躍起になった人々は、それに加勢する、自称専門家を、登場させたのだ。悲劇の筋書きを、支持する意見の主は、引く手数多となった。
 当時、研究者の中には、不安を鎮めようと、正しい解釈を、述べる人も居たが、悲劇には、無用とばかり、舞台から、下ろされてしまった。一方で、不安を募らせるのに、少しでも役立つ意見を、恥も外聞もなく、発することができる人間は、信頼できる専門家として、多くの媒体に、顔を出していた。学問分野では、決して注目されず、無視されたのに、突然、光を浴びた人々は、非論理的な持論を、盛んに展開していた。今の状況は、まさに、酷似している。庶民にとり、本来、情報源となる媒体が、この為体では、客離れは、止めようが無い。一方、監督官庁を抱える、政府も、暴走が、止まらない。誤った政策を、検討することも、点検することも、できないままに、走り続ける姿には、情けなさしか、思い浮かばない。感染症の深刻さを、見誤った判断は、例の如く、引っ込みつかずのもので、いつの間にやら、忘れ去られ、今や、医療崩壊は、自然の流れで、人為的なものでは、決してないと主張する。肝心の医師達も、総元締めが、算術使いと成り下がり、二進も三進もいかぬとばかり、大芝居を打ち続ける。足らぬワクチンが、届いた途端に、打ち手が足らぬとは、何とも身勝手でしかない。その上、また、補助金目当てとは、算術ぶりが、際立つばかりだ。庶民の不安は、こんな具合に、煽られ続け、皆の心は、荒むばかりだ。体調管理とは、体と心の、どちらも保つことが、肝心なのに、これ程に、心を掻き乱す人々が、世に蔓延るようでは、もう、末世と呼ぶしかない。耳を塞ぐか、心を強く保つか、どちらを選ぶか、情報社会では、究極の選択だろうか。

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4月30日(金)−罪作り

 大罪人、こんな騒動が起こされ、世界が、巻き込まれる中、それを、引き起こした張本人だけでなく、騒動を激化させることに、加担した人々の、罪は重い。騒動が、続く中では、彼らの罪を、問うたり、調べ上げたりする遑は、何処にも無いが、数え上げることは。
 張本人は、言うまでもなく、発生源となった、国であり、それを、深刻な感染症として、認定した上で、世界中を、誤った方向に導いた、世界機関である。発生源は、偶々、起きたことへの、責任は、問われないと見る向きも、あるだろうが、初期の対策の不備だけでなく、その後の戦略の大枠を、世界機関と共に、定めたことこそ、大罪なのだ。一方、強いられたとは言え、対策を実行に移した、各国の政府は、その時も、その後も、状況把握を怠り、漫然と、同じ過ちを、繰り返したことが、大罪だろう。ただ、これらは、国や世界の事柄で、庶民にとり、身近な存在に、感じられない。実は、この国をはじめとして、多くの国々で、庶民に寄り添う形で、騒動という大罪に、加担した人々が、数え切れぬ程居る。この国でも、当初から、公共放送で、重用されていた、東北のある大学の教授は、落ち着いた口調で、好感が持たれただろうが、内容は、支離滅裂の連鎖であり、騒動の間、マスクの扱いなど、真逆なことを、平然と話す、まさに詐欺師のようだ。一方、民放では、ある女性教授が、当初、重用されたが、彼女は、国立研究所に勤めた当時から、過激な言動が、問題視されたように、今回も、番組編集者に、好餌となる言動を、繰り返した。ただ、タレント登録された後は、徐々に、姿を消していった。が、後任も、ちゃんと用意され、放送には、穴は開いていない。その他、有象無象が、次々に、登場するが、一研究者が、仮想計算で、耳目を集めるなど、過ちの繰り返しは、数え切れない。ただ、原発事故と同様に、嵐が過ぎれば、皆忘れるだけで、責任追及は、一切行われないだろう。

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4月29日(木)−合わせず

 こんな所で、反対の声を上げても、何の影響も無い。確かに、その通りなのだが、だからと言って、黙ってしまうのは、義に悖る。だから、何度でも、声を上げる。だが、世間には、多くの反対の声が、あるのだから、十分ではないか、という意見も、あるのではないか。
 確かに、数は、十分な程、と言うより、十分過ぎる程に、溢れている。しかし、内容は、騒ぎを大きくしようと、躍起になる輩と、大差無い程に、劣悪なものなのだ。例えば、騒ぐ連中が、一人の感染者が、何人に感染を広げるかを、表した数字と言われる、実行再生産数なるものを、取り沙汰すると、その数値の大小を、取り上げて、反対を唱えている。だが、この数値の算出法が、如何に不確かな仮定に、基づくものかを、論じることなく、相手に合わせるのは、本質的な過ちを、犯している。また、ワクチンの効果を、騒動の中心が、主張するのに対し、その不足や副反応を、せっせと主張することで、反対する人々も、ワクチンそのものが、この感染症に、不可欠なものかに、目を向けず、ただ、相手に合わせて、本質を、見失っている。もう、多くの人々が、核心を見失い、重要な事柄を、忘れてしまった。感染症の拡大が、重大事となるかは、その病により、死に瀕したり、重い後遺症が残ったりする、深刻な影響の有無により、判断されるものだ。だが、今の騒動は、そんなことは棚に上げ、騒ぎの中心が、重大事と主張することで、成立させており、まさに、人為的な災厄、人災となっている。そんな動きに対して、同じ土俵に上がり、せっせと、相手の欠点を、突いていても、根本解決は、程遠いと言わざるを得ない。大切なのは、些事に囚われず、核心を突くことであり、陽性者という幽霊を、追わずに、発症者という実体に、対処することに、違いない。然すれば、何をすべきかは、自ずと明らかになる。

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4月28日(水)−狂気沙汰

 東西の狂人が、語気を強めて、主張を展開し続ける。だが、無知の上に、無恥が重なり、迷走ぶりが、強まるだけでなく、暴走としか思えない、暴挙の数々が、重ねられる。根本には、彼らの過ちを、徹底批判できない、世論の弱さと、専門家の弱腰が、あるのだが。
 しかし、都にしろ、府にしろ、住民は、選んだ責任を、負わねばならない。政治を、人気商売に、成り下がらせたのは、嘗ての宰相だが、当時から、大衆の判断は、間違いを、繰り返してきた。ここに来て、感染症という、自然災害の一つ、と見做されているが、実際には、人為的な災害、人災に過ぎないものに、立ち向かうことが、政治の、最大の役割と、世界の国々が、思い込んだ結果、何処も彼処も、終わりの見えない戦いを、強いられている。発生国が、徹底した規制により、押さえ込んだという実績を、世界に誇ったことが、実は、この間違いの端緒なのだが、それを、後押しするのが、人為災害を、拡大させている世界機関であり、思惑に満ちた、共同作業が、その他の国々を、混乱の穴に、突き落としている。だが、人々の心は、乱され、痛めつけられても、生き延びようとする、意欲は、保たれるものだ。となれば、何度繰り返しても、効果が上がらず、日々の生活が、脅かされ続ける中、人民の抵抗は、見えない形から、徐々に、姿を表すように、なってきている。暴動という、無軌道な動きは、無駄でしかないから、起こる筈も無いが、数々の規制に、素直に従う人の割合は、どの国でも、急速に、低下し始めた。その中で、孤立無援となりつつある、首長や宰相が、できることは、ただ一つだろう。強制力を、行使するしか、打開策は無い、と言うのだ。狂気じみた表情で、叫び続ける、西の首長は、まさに、その一言を、口にしてしまった。人気商売の成れの果て、そんな姿を、世間に晒して、強硬策さえ、厭わないと言う。これこそ、狂気以外の何物でもない。

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4月27日(火)−異世界

 世界が、混乱に陥っても、人間の生活は、確保されている。でなければ、それこそ、科学小説の世界の如く、荒廃し、誰も居ない星が、映し出されてしまう。では、今の状況は、どうか。人為的な圧力で、様々な制限が、課せられているが、それでも、多くの人の日常はある。
 当然、生きていれば、呼吸し、食事をするだけでなく、何かしらの楽しみも、必要となる。その一つが、映画なのだろう。海の向こうで、騒動により、延期されていた表彰式が、開かれた。世界最大の祭典であり、最も注目される、映画賞といわれるが、実は、他のものとは、大きく違っている。それは、この賞が、あくまでも、彼の国の映画を、対象としたものだからだ。外国の映画は、特別な枠が、設けられて、別扱いとなる。だから、賞の選定理由も、国内事情に、よるものとなる。規模から言えば、一大消費地であるから、動く金額も、莫大なものであり、続いて、外国へと配給され、更なる上積みが、なされることを、考えれば、受賞するか否かは、収益の点で、非常に重要なものとなる。だが、彼の国で、評判を得たとしても、他国でも、通用するとは、限らないのだ。嘗て、経済停滞が続き、大衆の気分が、沈んでいた頃、主な映画は、所謂、ハッピーエンドになっていた。沈んだ心を、少しでも、慰めようとするもの、と言われていたが、こちら側は、活況を呈しており、徹底ぶりが、異彩を放っていた。それと、よく似た状況、と思えたのは、今回、多くの賞を得た映画を、観たからだ。貧しいが故に、住む家を、持たない人々が、度々、問題視される国だが、今は、それとは異なる、車に住む人々が、各地に、出没すると言われる。彼らを、捉えた映画は、まさに、その問題を、扱ったもので、役者ではなく、実際の人々が、出演しており、それも話題となった。だが、こちらでは、非現実でしかなく、実感が湧かず、不思議な感覚しか、抱けない。社会背景の違い、なのだ。

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4月26日(月)−救われない

 愈々、冷酷非情なことを、書かねばならない。医療現場では、患者の命を、救う為に、自らの命の危険を、顧みず、全力を尽くしている、と言われるが、本当に、その必要はあるのか。危険を冒す問題より、遥かに深刻なのは、その命を救うべきか、という問題だ。
 命の危険に瀕している、人間を目の前に、何もしないという選択は、医療従事者には無い、と言われるが、その事自体に、大いなる誤解がある、と見ている。生き物には、寿命があり、生まれ出でたら、死を迎えるのは、逃れ得ない運命なのだ。これ程、明らかなことは無いが、にも拘らず、多くの医師と看護師は、目の前の命を、救うことが当然、と見做している。では、これまでと今回の騒動は、何処が違うのか。当初から、明らかな誤りだったのは、治療方針だろう。救えるか救えないか、との判断無しに、命を救おうと、全力を尽くす現場に、称賛が寄せられたが、それ自体、間違いでしかない。選択なしに、全てに対応する、という考えも、明らかな間違いであり、疲弊が広がったのは、その為だった。肺炎という病気は、死の病であり、この国でも、毎年12万人以上が、それで亡くなっている。今回の騒動では、最新機器が、治療に導入され、その数と操作者の不足が、深刻と伝えられたが、毎年、同じ病気に罹った人に、この最新機が、使われたことは、殆ど無かった。何処に、違いがあるのか、さっぱりわからない。この病気だけ、特別であるとの扱いは、異常性を、高めている。確かに、その適用により、救われた命があったのは、事実なのだが、では、何故、全てを救えなかったのか。それは、死の病だからだろう。今更ながら、この問いに、答えることなく、厳しく言えば、漫然と業務を続けるのは、明白な過ちだ。一方で、業界を仕切る、医師会なる存在は、この騒動の中、傲慢さと愚かさを、露呈している。仁術と算術との乖離は、著しくなるばかりで、無意味な存在でしかない。

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