パンチの独り言

(5月10日〜5月16日)
(厳罰に、忌むべき、狂気の果て、すべきこと、まとめ、試行錯誤、戯言)



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5月16日(日)−戯言

 日々、垂れ流される情報に、首を傾げることばかり、と溜め息をついても、何も変わらない。しかし、傲慢な態度で、恰も、頼みごとの如く、繰り返される妄言に、そろそろ、垂れ流しを、止めて欲しい、と願う人は、多いだろう。矛盾にも、破綻にも、気付かぬふりは。
 決め台詞のように、不要不急を、連呼されて、不思議に、思ったことは、一度や二度では無い。カメラの前で、啖呵を切るように、この言葉を、一つ覚えと、叫び続ける人は、一体全体、自分の行動を、何と解しているのか。外出を、控えよとの連呼に、あんたは、何処で、それを発しているのか。わざわざ、垂れ流しに加担する、記者共を、集めた上で、啖呵を切るのは、まさか、歌舞伎舞台じゃあるまいに、何様と思うのか、と。自分とて、知事公邸から、遠隔で、送れば済む程度の、下劣な内容しか、発しておらず、また、重要な会議と称して、集めたり、役所の幹部と、密談することが、要であり、急であるとは、誰も思わない。まして、外出自粛を、都民に訴えるとして、職員を、揃いの姿で、街頭に並ばせ、見える圧力を、掛けようとは、余りに稚拙な、行状ではないか。人間の営みを、止めることこそが、唯一の手立てと、信じるのは、人それぞれの勝手であり、自粛とは、自ら進んで行うことだ。それを、強いる政策は、世界各国で、一つ覚えの如く、何度も、断行されたが、その効果は、殆ど無かった。その前例も、また、自らの経験も、全く活かさぬままに、台本通りに、演じられる芝居に、観客たる庶民は、従う気持ちは、毛頭無い。もし、あるとしたら、呼吸器の感染症を、防ぐ為の、唯一の手立ては、呼吸自体を、止めることだ。その感染症の、行き先である、肺炎は、まさに、息の根を止める、と言われる、死の病だが、そこに至るかどうか、誰もが、自身の体力や抵抗力頼みであり、今も昔も、変わることはない。その中で、こんな戯言、無視して当然なのだ。止めておけ。

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5月15日(土)−試行錯誤

 現実社会にも、仮想世界にも、溢れ返る程の、膨大な情報に、接している現代に、情報理解力を、保つことは難しい。と言われるが、そのまま放置していたら、情報の流れに、巻き込まれて、時に、溺れてしまうことになる。特に、不安や心配を、煽る情報には、要注意だ。
 その中で、まとめてくれる人を、有り難がる風潮が、高まったが、その内容が、恣意的なものとなり、人々の関心の熱は、一気に冷めてしまった。だが、そんな中でも、依然として、洪水のような情報の流れは、止まる気配は無く、時に、塵ばかりが、流れて来る。選別せずに、鵜呑みにしていたら、流れに巻き込まれ、不安という苦しみに、苛まれることに、なりかねない。だったら、何をすべきか。他人任せにせず、自ら、判断することを、始めなければ、浮かび上がることが、できないままに、沈むしかない。煽り情報が、蔓延する世界で、多くの人々が、狂気に晒され、常軌を逸した考えに、惑わされるが、それを、排除する、唯一の方法は、矛盾に気付く為の、論理性を磨くことだろう。一つの意見の中でも、並列された考えの間で、自己矛盾を起こす人が、多いことは、少し落ち着いて、分析すれば、容易に気付ける。また、同じ人間が、同じ日の違う時間や、違う日に、異なる意見を、発するのにも、少し記憶を辿れば、簡単に気付ける。その殆どは、深い考えに基づくものではなく、安易な思い付きによるものだけに、論破することは、難しくない。一方的に、発せられたものでは、意見交換が、出来ないので、論破とはいかないが、もし、意見交換の機会があれば、是非、試して欲しい。一方、自説を、蕩々と述べている時も、別の発言者から、指摘されて、補足する場面でも、矛盾が生じることは、多々あるので、それにも気付いて欲しい。専門知識の有無は、この判断において、全く無関係で、論理の矛盾という基準だけで、判断できるものだ。試してこそ、確かめられる。

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5月14日(金)−まとめ

 囀る人の数が、増えたことで、困り果てる人が、増えたと言う。文字数に、限りがあるとは言え、多くの人が、日々囀れば、その数も量も、膨大なものとなる。関係を結んだ、人のものだけを、読めばいいと思うだろうが、それさえも、ある数を超えれば、手に負えなくなる。
 そこに登場したのが、束ねる役割を、負う人々だ、まとめと称して、話題となっているものを、抜粋して、それらを並べることで、情報把握を、容易にする、と言われた。当初は、良心的なもの、との受け止めが、多かったのだが、すぐに、価値の暴落が、起き始めた。当初は、確かに、献身的な活動、という見方が、大勢を占めていたが、いつの間にか、まとめと称して、自分勝手な主張を、並べる人が増えたのだ。更に、価値を急落させたのは、まとめの場が、広告料で、成り立つ仕組みの導入だろう。広告収入を、目的とする人々が、まとめに関わり始めると、人々の興味を、惹くことこそが、第一とされ、内容の真偽も、情報の偏りも、それ次第で、変化することとなる。結果、劣悪なものばかりが、並ぶこととなり、折角築いた地位も、没落の一途を、辿ってしまった。そうなると、見向きもされず、誰も、興味を示さなくなる。結果、まとめること自体が、無駄との評判が、広がってしまった。だが、今の状況を、眺めていると、その必要性を、改めて考えるべき、と思えてくる。囀りの場だけでなく、公共の電波に乗せた、専門家と称する偽者や、何の知識も持たずに、好き勝手な発言を繰り返す輩、果ては、それらを、自在に扱って、都合よく、大衆を煽動しようとする、テレビ局や新聞の、これまでの言動の数々は、改めて、並べてみれば、その場での嘘や矛盾など、看過すべきでないことが、山積みとなるだろう。地位ある人間さえ、無責任な発言を、繰り返してきたことを、改めて、指摘しなければ、この騒動を、鎮めることは、難しい。だからこそ、まとめが必要なのだ。

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5月13日(木)−すべきこと

 現時点で、感染症の作られた騒動に対する、自衛手段を、考えてみたい。一つは、強制されない限り、下らない検査は、受ける必要が無い、ということだ。二つには、自らの健康管理を、これまで同様に、続けていく、ということだ。どちらも、以前と変わらず、という意味だろう。
 検査を、徹底することが、当初から、強く求められ、その理由として、感染者を特定し、封じ込めることで、拡大を防ぐ、という説明が、盛んに行われた。だが、結果は、どうだったか。感染が始まった、隣国では、確かに、その手法が、徹底されており、収束が起きた、かのように伝えられたが、その後も、散発する感染に、何度も、同じことが繰り返される。つまり、本来目指した筈の、終息には程遠く、この戦略が、机上の空論に、なっているということだろう。本来の、感染症対策としては、発症者を対象とし、場合によっては、隔離などの措置をとり、広がりを防ぐ、という戦略が、とられていた。特に、人が、生きる為にする、呼吸が、その広がりの要因となる場合、通常の生活環境で、完全に予防することは、殆ど不可能だから、自明なことを、何故、これ程の労力をかけ、時に、人々の生活を脅かしてまで、行う必要があるのか、さっぱり理解できない。一方、健康管理は、恐怖により、引き起こされる不安を、少しでも解消し、栄養状態などを含め、日頃の調子を保つことこそが、重要となる。こちらも、戦略の誤りが、露呈しているが、依然として、改められる気配は無い。その上で、人が集まる場で、臨機応変に、予防策を、個人個人が、行うことが求められる。それも、感染拡大を防ぐ、という、まるで感染源となったかの如くの、考え方ではなく、自分に、災いが及ぶことを、如何に防ぐかが、肝心というものだ。とはいえ、普段通りが、まずは基本であり、過剰な反応や、不慣れな備えを、行うことは、無用のことと思えば、不安に苛まれることも、無くなるだろう。

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5月12日(水)−狂気の果て

 緊急事態では、止むを得ないこと、と受け取られるが、果たして、そうだろうか。狂気を前に、論理が通らず、道理に暗い人間の、暴挙を目の当たりにする。恐怖に苛まれ、異常性を発揮し、支離滅裂なことが、繰り返されるが、暴走を、食い止めることは、困難なのだ。
 冷静を、装っているが、その実、気が狂ったように、拘りを見せるのは、前にも、取り上げた、東西の首長だけでなく、多くの政治家達だ。それは、この国に留まらず、多くの国々に、見られることで、政に携わり、国や自治体の行末を、決める役割を、負っている人に、見事に当てはまっている。何故、物事を、論理的に、考えられないのか。その疑問に、答えを出すのは、おそらく、この騒動が収まり、人々が、平静に戻ってから、なのだろう。それ程、多くの人々が、正気を失い、出鱈目なことを、さも真実の如く、主張している。この傾向が、強まるのは、当人が、力を得た時であり、どの制度を、適用するかで、それが、著しく異なってくることに、人々は、気付き始めた。それに、輪を掛けようと、更なる権力を、手に入れる動きさえ、起こした人間も、居たのだが、厳しい批判に、晒されていた。だが、件の西の首長は、その程度では、へこたれない。支持者の支援を、得ていると、信じ込むことこそが、彼の力の源泉であり、都構想の際にも、その異常性の一端が、見受けられた。東西共、支離滅裂な制限を、多種多様な施設に対し、掛けることとなり、その違いへの疑問や批判が、多く寄せられたが、聞く耳を持たない、裸の王様にとり、そんな雑音は、届く筈も無い。結果として、論理より、狂気が勝ったのは、明らかに、なりつつあるが、この状況の異常さは、ここから、更に、極まるだろう。そこに至り、どう対処すべきか、大衆が、決める必要が、出てくるかもしれない。さて、どんな論理を、展開すべきか。答えは、明白だが、気の違った人間を前に、主張する勇気は、あるのか。

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5月11日(火)−忌むべき

 恐怖から、狂気を催す人が、居る。恐怖が極まり、冷静な判断が、下せなくなると、人間は、異常な言動を、起こすと言われる。だが、今回のように、作為的な騒動では、この段階でも、恐怖を煽り、狂気を誘うだけでなく、それが、正当かの如く、見せる連中が、活躍する。
 彼らの多くは、口先では、先の大戦における、権力への加担と、狂気への暴走を、反省するように、振る舞っているが、根本では、何の反省もなく、学習能力の欠如も手伝い、今回も、同じ轍を踏んでいる。本来、報道に携わる人間は、外野からの批判を、得意とし、勝手気儘な意見を、吐き続けるものだが、ある段階を越えると、途端に、権力に与し、異論を唱えず、情報を、鵜呑みにし始める。正義の味方然と、勝手な意見を、述べていたのと、全く同じ論調で、権力の暴走を、支援するのだから、困ったものだ。反省は、猿でもできる、という揶揄も、猿以下の人間には、通用しないようだ。最近も、老人達の楽しみを、奪い取る施策が、数々、繰り出されるが、誰もが、死への恐怖を盾に、押し切ろうとする。だが、長期戦となる中で、精神的な安定が、重要と見る向きからは、狂気以外の何物でもなく、効果の無さと相俟って、異常さが際立っている。好きなことを、したいという思いを、蔑ろにするのは、傲慢さの現れか。一方、狂気が極まった、と思えたのは、ある老人施設の職員が、犠牲者が出たことに対し、感染を広げた人々を、批判する意見を、吐く様子を、伝えた報道だった。依然として、感染が広がる機構が、明らかにされず、不確かな情報ばかりが、流布されているからこそ、こういう話題に関して、慎重に扱う必要が、あると思うが、無能なマスゴミは、こんなものまで、恐怖を煽り、狂気を催させるのに、有用と見るからか、好んで取り上げる訳だ。これでは、役立たずと言うより、汚染を広げる、嘗ての公害の如き、忌むべき存在でしかない。

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5月10日(月)−厳罰に

 無能とか、愚かとか、書けば書いたで、何を偉そうにとか、何もしないくせにとか、そんな誹謗中傷が、飛んでくる。誰もが、自由に発言できる場が、出来て以来、ずっと問題視され、改善が図られるが、何の変化も起きない。自由とは、所詮、そんなものということか。
 だが、十把一絡げにするのは、どうかと思う。根拠なく、検証無しに、ただ、闇雲に、暴言を吐く輩と、根拠を示し、検証を行った上で、正論を吐く人間を、同じに扱うのは、根本への理解をせずに、勝手な発言を続ける、知恵の無さの表れ、だからだ。ここでも、大罪人として、一部の人々を、糾弾してきたが、その根拠は、必ず示してきた。それも、感覚的なものではなく、数字を示したり、客観的な見解として、わかるようにしてきた。では、今回の騒動のように、科学的な事柄の場合、研究者の功罪は、どのようになっているのか。まだ、結論が出ていないが、それでも、一年以上を経過すれば、それなりの結果が、まとめられそうだ。医療現場で、必死で働く人々に、罵声を浴びせようとする、不埒な輩は、殆ど見られない。できる限りのことに、全力を尽くす姿勢に、批判が馴染まないからだ。だが、命を救うことしか、思い浮かべず、優先順位などを、考慮しないことは、批判されるべきだろう。一方、感染症そのものの、研究に携わる人々は、それぞれに、独自の研究を続け、成果が出ている、とされている。ただ、それが、騒動に反映されないのは、何故かは、理解できない。また、治療法に関しても、特効薬は、見つかっていないが、それなりの効果を、示すものが、見つかっている。これも成果だろうが、騒動の収束には、影響が無い。一方、感染症の拡大では、これまでも、疫学や公衆衛生学の手法が、効果を上げた、と伝えられるが、今回のものでは、成果が出てこない。騒ぎに加担するだけで、確かな調査を、進めないからだが、厳しく批判されるべきだ。それにも増して、罪作りは、好機とばかり、盛んに登場した、仮想計算を、道具とする研究者達だ。誤った情報を、垂れ流す張本人として、罰したい程だ。

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