パンチの独り言

(5月17日〜5月23日)
(疑心暗鬼、目糞鼻糞、愚蒙、神か悪魔か、実態は、卑怯者、貴人)



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5月23日(日)−貴人

 生まれながらに、ある地位にある人々、嘗ては、尊敬の対象となったが、時代の変遷と共に、社会の対応も、大きく変わってきた。例えば、羨ましい、という感覚も、その一つで、働かなくて良いとか、お金持ちで良いとか、そんな印象が、羨望を、強めたのだろう。
 だが、それもまた、変化を余儀なくされ、そんな地位は、窮屈なものに、違いなく、自分だったら、と思うのだ。一方で、当人達の気の持ち様も、大きく変わってきた。統治する、という立場は、制度が残る国々でも、殆どが、失われてしまい、結果として、象徴となっている。時に、お飾りなどと、揶揄されることもあるが、国民からの尊敬は、失われておらず、その役割は、多岐に及ぶ場合も多い。嘗ての王子、と紹介した国の、現国王は、そういう意味では、旧来の役目を、果たしているように、感じられる。昨年の読んだ本でも、紹介したが、彼女が、即位した事情は、複雑なものであり、先ほどの嘗ての王子と、よく似た行動を、示した人物の後任、とでも言うべきか。身勝手さは、あの一族の特徴、とでも言えばいい。だが、老齢に至っても、毅然とした態度を貫く、精神力の強さは、最近の傾向とは、大きく異なると映る。戦時の政府への信頼は、その一つと言えそうで、最近の、国民に寄り添う姿を、目指しているのとは、全く違っている。まあ、この国では、政府の頼りなさが、余りに際立つ為に、そちらに与しては、恥とでも思えるのか、致し方無いようにも見えるが、果たして、真意は、どんなものか。世界の騒動でも、国民に謝罪したり、寄り添う気持ちを表したり、首を傾げたくなる。所詮、お飾りなのだから、と言うつもりは、毛頭無いのだが、こんなことを、繰り返していると、不要論が、出て来かねない。そんな杞憂を、抱かせる程、何の為のものか、と思わせるような言動には、やはり、首を傾げてしまう。

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5月22日(土)−卑怯者

 事情は、何であれ、人は、窮地に陥ると、悲観的になり、所謂、弱者と化する。時に、救い出す必要が、出てくる程で、手を差し伸べて、やらねばならない。だが、救われた途端、その恩は、何処かに消え、勝手な態度に、戻ってしまう。甲斐の無さを、感じる時だ。
 同じ人物に、同じ仕打ちを受ければ、誰でも、学ぶものだ。終いには、相手にせず、放置することになる。だが、世の中は、救う神が、居るものらしい。弱者保護の馬鹿らしさは、何度も取り上げ、その意味の無さと、無駄と弊害を、様々に書いてきた。特に、問題なのは、弱い立場にない人間が、弱者のフリをすることだ。社会が、弱者を特別視し、特別扱いすることで、その恩恵に、浴したいと願うのは、立場の上下に関係なく、心の貧しい人間の、特徴なのかも知れない。貧しい境遇でも、努力を積み重ね、成功を手に入れた人は、歴史の上では、数え切れぬ程に居る。だが、どんな事情があるにせよ、ある立場に居座り、その利益を享受する人間が、突然、弱い立場に居る自分を、主張することには、強い違和感を覚える。特に、努力により、手に入れた立場ではなく、生まれながらに、その地位を得た人間に、そんな態度を取られると、反吐が出る程の、嫌悪感を覚えるのだ。人間は、常に平等である、という考えは、重要なものだが、社会が存在する以上、そこに、地位の上下が、生じることは、止むを得ない。それが、全体の統率を、導く為のものであり、それにより、様々な仕組みが、円滑に動くとなれば、下に居る人間も、納得するのだ。王室や皇室も、そんな存在の一つで、国によっては、伝統として、それに属する人間が、存在している。これ自体を、誤りと思うのは、人の勝手だが、その地位に居る人間が、上に書いた特別視を、望むのには、身勝手という表現しか、思いつかない。王室を離れた、嘗ての王子の、亡母に関する、国営放送の暴挙が、話題となっているが、自らの無軌道さを、棚に上げての、被害者然の態度には、呆れるのみだ。

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5月21日(金)−実態は

 日々、伝えられる数字に、一喜一憂を、繰り返す人が、多いのではないか。だが、それが、悪意かどうかは、定かではないものの、煽りの方針から、意図的な操作が、施されたもの、だとしたら、どうだろうか。当初から、指摘しているが、どうも、気付かぬ人が、多いらしい。
 誤用が続く、感染者という表現は、諸悪の根源だが、その数字にも、悪意が込められている、とさえ思えるものが、多く見られる。正確には、検査陽性者とすべき数字は、恰も、大事のように、大きな数字として、伝えられ続けてきた。しかし、先日、改めて調べた結果からも、余りに小さな数字であり、地道に、対応を続ければ、問題無しとすべきものだ。何しろ、散々騒いだ挙句でも、二百人に一人しか、陽性となった人間が、出ていないのだ。ただ、この数字は、積算で扱うから、増減で捉えれば、増えるしかないものであり、それを騒動の道具として、使い続けている。しかし、それを、どう冷静に眺め、価値を推し量った上で、無視するのが、心の平穏を保つ為に、最も重要なことだろう。混雑した、公共交通機関で、通勤や通学をする人以外は、日々、この人数より多くの人に、出会う人は少ない。職場でも、内勤となれば、部内の人に、会うのが精々で、未発症の陽性者に、遭遇する人も、殆ど居ないだろう。また、買い物に出ても、すれ違う人を入れても、出会えそうにない。積算した挙句でさえ、その程度の話を、如何に大事のように、伝えているか、少し考えれば、理解できるのだ。しかし、確率で考えると、と不安を抱く人も、中には居るだろう。確かに、確率は、0にはならない。その通りだが、上で書いたのが、確率なのだ。報道は、まるで、確実なことのように、感染の仕組みを、伝え続けるが、遭遇を含め、あらゆることが、確率でしかなく、確実などとは、誰にも言えない。そのことに、気付く冷静さを、取り戻す機会を、見つけ出さないと、厄介事が、また増えてしまう。

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5月20日(木)−神か悪魔か

 掛け声だけで、煽られていたのと違い、今は、尻に火がついた、いや、尻に火がつけられ、皆が、必死で、走り回っているようだ。生き延びる為の、唯一の手段を求め、気が狂ったかの如く、電話や端末を手に、繋がらない相手を、探し続ける。異常としか、見えてこない。
 だが、渦中の人々は、何の疑いもなく、騒ぎに加わっている。驚くべきは、ワクチンの効用に関して、専門家が、挙って支持しており、まさに、救世主の如く、扱っていることだ。昨日の数値から、欧米に比べ、東アジアでは、陽性率そのものが、低い傾向が、続いている。その原因が、どこにあるのかを、定めようとしないまま、救いの神に、委ねるのは、逆に、悪魔に魂を、売ることに、繋がりかねない。麻薬のように、一度手を出せば、次々に、変化を繰り返す相手に、合わせざるを得ず、何度も、接種を繰り返し、依存するしか、手が無くなることに、専門家でさえ、気付かぬのか、あるいは、そのフリをしているだけか、愚かとしか思えない。不信感に満ちた目で、見つめるしかない隣国も、発生源となった後、制圧を宣言し、ついに、例年同様の、お祭り騒ぎを、少しの制限を加えるだけで、断行したのには、欧米の例からは、接種率が、十分な値に達したから、という理由がある、と思う人が居るだろうが、実際には、ほんの3割しか、至っていない。それでも、平穏が戻ったかの如く、振る舞えるのは、根本的な違いが、そこにあるからではないか。同様に、この国も、現時点の人口当たりの陽性率は、0.5%程で、白人中心の国の、20分の1に過ぎない。この割合の違いは、病原体への反応に、起因するのであり、そこに、根本的な差異が、あると仮定して、物事を考える必要が、あるのではないか。狂ったように、救世主を求めるのは、愚民の行動なら、理解できるが、科学者達が、その後押しとばかり、全国民が、などと宣うのは、戯言としか思えない。

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5月19日(水)−愚蒙

 世界中が、作られた騒動に、巻き込まれてから、既に、一年以上が、経過している。その流れの中で、大本山は、自らの異常な程の執着を、気取られぬよう、様々な手練を、繰り出しているが、感染症そのものの恐怖は、彼らの思惑通りには、広がらないままなのだ。
 そんなことは、決して無い。と、支援者や、加担する専門家は、盛んに、擁護に走るが、不確かな証拠や、単なる思い付きを、並べるだけで、まるで、詐欺の仲間に、加わったように思える。では、現状は、どうなのか。世界には、混乱を続ける国が、数多くあり、大本山にとり、材料に事欠かぬ、という状況にある。ただ、今この時の状況に、目を剥くだけでは、真相は、決して見えてこない。当初から、数値は、追跡されており、それぞれに、状況把握に、役立つものとなっている。これまでに、何度も報告してきたが、最新のものを、掲げてみよう。そこには、大騒ぎを繰り返し、恐怖を煽ることで、混乱が、極まっていると、自作自演の芝居を、演じ続ける、報道が伝えるものとは、明らかに異なる状況が、はっきりと見えている。ここ3ヶ月半程の変化から、確かに、死者数は、倍に増えたが、増加数としては、6千人弱で、2万人から20万人を超える、他国と比べると、依然として、極端に少ないことが、理解できる。これは、陽性者の人口比が、1%にも満たないことが、全てだろう。ただ、これを逆に、集団免疫の問題、として捉える専門家が、居るようだ。ワクチンの普及に、躍起になる人々は、世界機関と製薬会社に、尻尾を振るのだろうが、彼らが訴えるような、感染と重症化の筋書きが、通用しないのを、免疫を、既に獲得している、と推測しないのは、解析の能力の有無だけでなく、その気さえ、持ち合わせていないことを、明示している。こんな騒ぎを、いつまで続けるのか、また、それにより、大切なものを、次々と放棄することを、いつまで続けるのか。愚の骨頂でしか無い。

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5月18日(火)−目糞鼻糞

 政治家の判断が、生温いとして、専門家の会議が、反旗を翻したことに、称賛の声が、寄せられた、と伝えられたが、まるで、目糞鼻糞を笑う、を地でいくような話で、呆れるしかない。これまでの、世界の経緯も、国内の経緯も、役立たずの判断しか、無いのに。
 何方が、目糞で、何方が、鼻糞なのか、については、どうでもいい。だが、何方にしても、世界機関が、定めた大間違いに、付き合うという意味では、同じ穴の狢、に過ぎない。何が、間違いかは、後々、検証されることを、期待したいが、大本山が、この為体では、科学的な解析が、憚られかねない。今の流行と同様に、金の流れに乗る研究に、蛆虫共が、群がることが、続きそうだ。だから、と言う訳ではないが、今、こちらの考えを、改めて、引き合いに出しても、問題ないだろう。当初から、誤用が続き、誤解を招いていたが、それも、声の大きい方に、軍配が上がる。感染者と呼ばれる、その実は、検査で陽性反応を、示した人々を、炙り出すことで、感染の拡大を、未然に防ぐという戦略が、世界規模で、取られたのだが、戦況は、全くふるわず、各地で、敗走を続けている。それでも、数字が、少しでも落ち着けば、戦況の改善を謳い、まるで、戦績を誇るが如く、各地で、厳しい制限が緩和され、人々の気持ちは、上向きになった、と伝えられてきた。しかし、これが、何度繰り返されたら、元通りの生活に、戻ることができるのか、人々の夢と希望は、何度も、砕かれている。これは、この国でも同様で、反対の声が、上がった時には、既に、山は越しており、減少傾向が、続いていく。潜伏期間は、陽性反応では、どの程度なのか、依然として、確かな話は、全く伝えられず、専門家の無能ぶりが、これだけでなく、様々に、噴出しているが、そちらに目を向け、反省する気配は、全く無いままに、叫び声だけは、上がり続けるのだ。明日は、数字を並べて、馬鹿騒ぎを、嗤ってみよう。

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5月17日(月)−疑心暗鬼

 昔から、武士は食わねど、と言われたり、戦後の闇市に、一切関わらず、命を落とした裁判官、の話があったり、人それぞれに、我慢することや、耐えることが、あると言われる。だから、施しの話が、起きた時の反応も、それぞれだった。一年前の話、なのだが。
 あの金が、どう使われたのか。誰も、調べはしないだろう。調べたとて、正直に答える人が、少ないことも、あるのだ。その後、次の支給を、と望む声があり、人気取りの商売では、何度も、その提案が、現れては消えを、している。これは、万国共通の話題で、海の向こうでも、前大統領が、支給を行なったが、新大統領も、同じように、決めたようだ。ただ、支給方法や対象が、微妙に異なっていた。前者は、納税者を対象に、とのことだったようだが、今回は、登録者を対象としたらしい。実は、先日、知り合いが、あちらの政府から、小切手が届き、驚いたとの知らせが、入った。そこには、例の如く、換金の困難を、訴える文面もあり、銀行制度の違いを、改めて感じたものだ。今朝届いた、ある新聞の記事には、それに触れたものがあり、心当たりがなく、戸惑いが広がる、との見出しがあるが、記事の内容から、全くの誤解を、催させるものと思えた。調べてみると、あちらに滞在していた人物が、前者に関する話題を、ネット上に書き込んでおり、換金方法の説明も、そこに記されていた。その記事を、読んだ人達からの、意見が並ぶ中、新聞記事同様に、理由不明から、不安を抱き、返送したとまで、触れる人が居た。手違いだと、後で罰を受ける、という理由だったが、どうしたものか。あの国に、暮らした人であれば、権利の意味は、十分承知している筈で、だからこそ、昔、働いていたことで、年金を受け取る権利を、履行しただけだろう。なのに、政府からの送金は、意味不明と受け取り、権利放棄する。何とも、理解不能に思う。新聞は、それに与する論調だったが、これもまた、世間知らずの意見では、ないだろうか。 >

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