パンチの独り言

(5月24日〜5月30日)
(大禍、過剰反応、当て外れ、三密、妄言、抗弁、すべき事)



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5月30日(日)−すべき事

 今週は、過ちの数々を、紹介してきた。挙げれば、幾らでも、出てくるだろうが、一旦、ここで、纏めておきたい。これらだけでも、過ちを正し、今、何をすべきかが、十分に、理解できる筈だ。そんな馬鹿な、と思う人が、多いだろう。容易なら、専門家が、助言する筈と。
 だが、これまでに、取り上げてきた、明らかな間違いや、誤解を招く話は、その殆どが、専門家を、発信源としている。俄として、現れた、怪しからん輩を始めとして、それまでに、学問上の業績を、積み上げてきた人さえ、不確かな情報と、単なる思い付きを、さも確かなもののように、掲げることで、社会を、混乱の穴に、突き落としてきたのだ。では、その間違いを、指摘したことで、何が正しいのか、見えてくるのか。その為に、重要なことの一つは、諸悪の根源が、発した警告を、悉く排除し、改めて、現時点で、何が正しいのかを、考えることだろう。毎日の如く、垂れ流されてきた、言葉の数々は、無視しようとしても、耳の奥に、こびりついたままだ。だから、まずは、それを忘れ、改めて、考えてみよう、というのだ。だとして、何が、重要なのか。人々の知恵は、未成熟な科学では、説明できぬことも、何かしらの成果を、認めてきた。その考えから、今回の感染症への、対処として、まず思い当たるのは、風邪や流行性感冒に、感染しない為には、病原体との接触ではなく、その後の発症を、如何に抑えるかが、肝心ということだ。免疫力の向上は、今回も、何度も取り上げられたが、科学的な説明のようで、実は、非科学的なものに過ぎず、結局、日々の生活で、規則正しく、栄養を摂取し、気分良く暮らすことが、第一となる。体調の変化に、気を配るのは、当然のことで、適度の休息も、重要だろう。何も、特別なことに、励む必要は無い。ただ、これまで同様に、暮らすことこそが、肝心なのだ。但し、荒れた生活を、してきた人は、少し改めた方が、いいに違いない。

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5月29日(土)−抗弁

 騒ぐことにしか、能の無い連中は、今回の騒動で、活躍の場を、見つけたのだろう。無根拠に、大きな数字を、掲げることは、科学の欠片も無く、業界では、邪魔者扱いを、何度もされ、鬱積した不満から、遂に、解放された。その上、思わぬ収入まで、転がり込んだ。
 俄成金かどうかは、関心の外にある。それより、嘘に嘘を重ね、良心が、痛まぬのか、不思議で仕方ない。一方で、煽り文句に、見事に乗せられ、不安に苛まれる、愚かな人々には、ワクチンしか、救世主が無い、と映っているらしい。当初の見立てでは、従来の実績から、完成には、程遠いと思われ、ここでも、それに関して、論じたこともあったが、科学の力を、見せ付けるが如く、効果のあるものが、開発された、と伝えられた。そこに、掲げられた、数字の数々は、まさに、驚くべきもので、救世主を、想起させるものだった。だが、藁をも掴む、という気分を排し、算出手順を、冷静に追ってみると、様々な仕掛けが、見えてくるのだ。接種後に、発症した人数を、比較した上で、彼らの中で、重症化した人数も、比較する。それなら、効果が、9割に達する、とされたのだ。だが、偽薬を、接種した人でさえ、1割にも満たない人しか、発症していないことに、この算出は、触れようともしない。更なる不思議は、この算術では、陽性者の検出は、計算外とされたのだ。その理由は、効果が、今回、感染と見做される、検査陽性ではなく、発症予防にある、ということらしい。だとしたら、接種者は、自分には、被害が及ばぬものの、運び屋としての役割は、果たすことにならないか。ここに、当初の筋書きが、破綻し始めたことが、見えてくる。だが、一方で、世界機関をはじめとする、一部の専門家集団は、これを、集団の接種率の向上が、重要との見解に、すり替えたのだ。抗弁の数々は、所詮、主導権を握るからこそ、のものである。事実は、彼らの思うようには、起こらないだろう。

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5月28日(金)−妄言

 これまでにも、流行性感冒など、感染症の予防に、様々な対策が、提案されて来た。しかし、今回、改めて、「三つの密」が、提案されて、皆の認識は、強まっただろう。ただ、これが、妥当なものかは、未だに、確認できていない。誤認が、度重なるのも、その為だろう。
 同様に、今回の騒動で、続出した提言や解説の多くにも、専門家と呼ばれる人々のものさえ、確証無く、迷信じみたものや、常識を逸脱した、噴飯物まで、数多登場している。例えば、騒動前には、世界の笑い物とさえ、揶揄された、マスク姿は、世界中に広がり、大真面目な態度で、各地で、義務付けられた。笑い者にされた、昔を知る人には、異常としか、思えない事態なのだ。これについても、不足が話題となった、当初に、改めて、注意喚起が、行われたことを、覚えているだろうか。監督官庁では、着用の重要性を、強調するチラシを、紹介していた。一方で、着脱の心得、とでもいうもので、正しいやり方を、ビデオで紹介する、大学のサイトさえ、登場した。そこには、当初の注意が、数々並び、今見ると、過剰反応の結果でしかなく、画面に登場する、要人や専門家が、悪例を、見事に演じるのに、失笑するしかない。あらゆる危険性を、排除する為に、編み出された方法は、何事にも、煩雑すぎて、手順を誤るし、無意識の行動が、過ちとされると、動きが取れなくなる。類似の現象は、専門家の提言にも、数え切れぬ程、現れて来た。特に、公共放送に、頻繁に登場した、専門家の一人は、柔らかい口調で、冷静さが滲む、と言われて、好評なのだが、前にも取り上げたように、常識に欠けた内容に、呆れたことも、数知れずなのだ。その一つが、あるサイトに紹介されていたのだが、内容は、ごく当然に思えて、家事を、一つもしたことの無い、男子厨房に、の典型としか、思えぬものだった。服地は、適切な条件で、洗濯することが、重要であり、その為のタグが、付けられている。だが、彼は、汚染の危険を、避ける為に、80℃以上の湯に浸けろ(衣類はの項目)、と指示していた。何ともはや、なのだ。

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5月27日(木)−三密

 筋書き通り、とも思える展開が、起き始めた頃、死への恐怖を、煽ろうとする思惑は、急速に強まっていき、遂には、世界を巻き込むこととなった。その中心となった、世界機関は、感染症の恐ろしさを、如何に伝えるか、を第一命題として、動き始めていたのだ。
 その一方で、国民の安全を、守ることこそが、第一命題である、各国の政府は、世界機関の指針に、従う形での対策を、講じ始めた。だが、そこでの決断が、実は、混乱を、更に広げる結果、となってしまった。都市封鎖は、唯一の手段として、採られたものだが、その効果は、後々、検証されることを、待つしかない。だが、感染の広がりは、その後も、急速に拡大し続け、死者数は、膨大なものに、なったと言われる。でも、その数は、予測を、大きく下回り、逆の見方をすれば、対策が、功をそうした、と言えるのかもしれない。その中で、この国では、当初から、他国とは異なる、対策が採用されたようだ。その一つが、感染予防の観点を、示したことで、社会全体に、その掛け声「三つの密」が、行き渡った。但し、初期の段階でも、誤解が広がり、混乱は、直ちには解消できなかった。「三つの密」は、密閉、密集、密接を指し、それが重なると、感染の危険性が、増すというものだったが、誤解は、それら全てが危険、という煽りから、始められた。このことは、門外漢でも、論理的に考えれば、すぐに理解できた。ただ、広がらなかった理由を、探し出す過程で、導き出した答えは、必ずしも、正しい訳ではない。これについても、後々の検証が、必要となるだろう。初期段階の混乱は、徐々に、解消されたが、その後、感染の波、と呼ばれるものに、次々と、襲われると、一部の首長から、再び、誤解を広げる、妄言が、発せられるなど、無知な政治家の暴走は、続いてしまった。一番の解決法は、冷静な分析だろうが、この混乱では、期待薄なのだ。

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5月26日(水)−当て外れ

 当初から、煽りの道具として、使われて来たのは、仮想計算だろう。変動を、数式化して、そこから、予測される数値を、導き出す手法は、様々に使われ、多くの場合に、成果を得た、と伝えられる。だが、この感染症の騒動では、勇み足ばかりで、嘘吐き呼ばわりも。
 過剰予測が、目立っているのは、煽りに乗って、それらの結果が、流される為であり、時には、妥当な予測が、紹介されることもあった。だが、総じて言えば、騒ぎを拡大する目的、としか思えない結果が、専ら紹介され、失敗の数々が、累々と積み上げられても、懲りない連中は、何度でも、嘘を撒き散らす。世界で、4千万人と言われた、死者予測は、一年経っても、その1割にも満たず、今や、その話自体、忘れ去られている。一方、この国でも、40万人との予測を、紹介した研究者は、度々、世間を賑わしたが、何度、予測を外しても、新たな結果を、提出してくるのは、噴飯物だろう。研究と、競馬の予想を、同列に並べるのは、どうかと思うが、まるで、耳に赤鉛筆を、と思える程の、行状でしかない。そんな予測の、当て外れどころか、この騒動が、妥当さを失った、と思えるのは、膨大な数に、達しなかっただけでなく、平常の数値にさえ、達していないからだ。この感染症が、引き起こす症状と、同じとされるのは、肺炎だが、その死者数(p.11)は、一昨年、十万人を僅かに切っていた。しかし、ある情報から、その2年前に、誤嚥性肺炎を、独立して集計し始めて、その数は、急激に減少したとされる。二つを足せば、13万人を上回り、月に1万人以上が、肺炎で亡くなっているのだ。この感染症による死者数は、月平均で、千人にも達せず、もし、同じ状態が、続いているとしたら、その1割にもならない。予測が、どう外れようが、所詮、机上の空論でしかない。だが、現実の数値は、嘘でも何でもなく、事実でしかない。そこにある、明らかな間違いは、正されなければならない。

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5月25日(火)−過剰反応

 次に、取り上げる過ちは、何だろうか。当初、悲惨さを、伝える報道は、まず、発生国とされる、隣国の混乱を、取り上げ、そして、更なる悲惨さを、欧州の国々から、伝えていた。曰く、死の病であり、発生自体を、押さえ込むしか、生き残る方法は、無いのだと。
 他国の混乱に、鑑みて、優柔不断さが、揶揄されるだけだった、政府の動きは、急だったと言える。昨年1月末に、指定感染症に関する法案が、改正されて、体制整備を、進める決意が、表明されたと言える。高齢者には、法定伝染病の方が、馴染みがあるが、四半世紀程前に、新法が施行され、分類自体も、大きく変化した。前の呼び名で、馴染み深い感染症は、2類に分けられ(注:現在は4類)、今回の感染症も、世界機関の指針に従い、同様の対策を、講じるものとされた。大きな違いは、昨日取り上げた、検査の導入であり、その過ちに加え、隔離対策の導入など、当初の混乱を、冷静に分析しないままに、拙速な対応が、更なる過ちを、加えてしまった。その後、一年半程が、経過したが、その過程で、何度も、分類の見直しが、必要とされ、検討が重ねられた。だが、結局、現場の混乱を、追認する形で、過剰反応の端緒となった、当初の判断の誤りは、正されないままに、放置され、暴走が続いている。検査が、諸悪の根源だとすれば、分類は、諸悪の蔓延を、加速させた、と言えるのだ。今も、このような観点から、入院者数や重症者数が、公表されているが、その実態は、詳らかにされておらず、法律遵守が、正しく行われていない、と言えるのではないか。当初の混乱は、対応を急ぐことが、引き起こしたものだが、それを、鎮められぬままに、稚拙な対応を、続けてしまっている。数字的には、世界と比べて、問題とする必要が、全く無いままに、止まっており、政策の過ちを、指摘する必要は無い。だが、海の向こうの疾病予防管理センターが、危険国に指定という、明らかな過ちと同様に、正す必要がある。

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5月24日(月)−大禍

 愚行、愚論に、腹が立つが、何を言っても、こちらの話には、聞く耳を持たない、気が触れた人々に、届くことは無い。狂気の言動は、自身の心や体への、影響のみに、限られるのなら、自由主義の世の中で、何の問題も無い、と言わざるを得ないが、今のは、危害を加えている。
 では、集団になって、馬鹿げた暴走を、続ける人間に、何を届けたら、良いのだろう。そんなものは無い、との一言で、片付けられ、無視されるのが、落ちと言われそうだが、それでは、気が済まないのだ。人間として、明らかな過ちを、見過ごすことは、倫理に悖る、と思えるからだ。ここで、できることが、一つあるとすれば、これまでの経緯を、振り返ることだろう。はじめから、一つずつ、犯された過ちを、指摘することで、自分の意見を、纏めていきたい。一つ目は、感染症の対策として、取られた戦略に関するものだ。感染症では、感染した人を、特定することが、基本と言われる。学界では、その手法には、大きく分けて二つある、と言われており、その内の一つに、今回は絞り込むことで、対策を講じたと言われる。二つとは、誰もが、感染を自覚する、発症というものが、その一つで、発熱や倦怠感など、様々な症状が、現れることを指す。これは、簡単に、理解できる。しかし、今回、世界中で取られた、感染特定の手段は、病原体の有無を、検査で確定させるもので、発症の有無を、確かめる必要は、無いとされた。前者の場合は、発症の後に、検査で確認する、という順序で、確定されるが、後者は、同じ組み合わせを、満たしている訳では無い。だが、病原体の有無こそが、感染拡大の鍵、とすることで、封じ込めを目指す、という戦略が、世界機関のお墨付きで、世界中で、行われたが、結果は、見込み違い、でしかなかった。今も、発症率が、不明なままで、同じ過ちが、続いているが、騒動に、目を奪われるばかりで、解析を進めない姿勢は、この過ちを、大禍に繋げている。

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