パンチの独り言

(5月31日〜6月6日)
(区切り、無視、政争の具、脅迫、伝えない、終わり、啓蒙書)



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6月6日(日)−啓蒙書

 現代の人々には、想像できないのではないか。活字離れが、取り沙汰されてから、四半世紀を、越えたと思うが、百年近くの昔に、国民の教養を、高める目的で、ある出版社が、新書と呼ばれる、新しい書籍の類を、世に出し始めた。活字こそが、情報源とされた時代だ。
 啓蒙こそが、出版の役割、との自負から、業界を牽引する、意欲の表れ、だったのだが、最近の動向は、隔世の感がある。指折り数えられる程の、種類に限られた時代から、まさに、活字離れが、深刻化した時代には、雨後の筍の如く、何処も彼処も、挙って、新書の出版に、走り始めた。二つの出版社が、競っていた時代と異なり、読み手の問題より、書き手不足が、深刻となれば、良書の影は薄く、害悪にも似た、劣悪なものが、目立つようになる。だからこそ、本家本元は、初期の目的を、失うことなく、啓蒙に邁進する、との望みは、会社自体の編集方針の変更か、打ち砕かれてしまう。それが、明確化したのは、大震災の後、新エネルギーとして、期待された存在が、甚大な被害を、及ぼした結果、その出版社が発行してきた、科学系の雑誌の内容に、著しい偏りが、現れたことにある。原子力を、悪魔の技術として、徹底的に糾弾する姿勢は、啓蒙とは、かけ離れたものであり、政治色を、著しく強めていった。その結果、新書にも、狂気の沙汰としか、思えない内容のものが、登場した。ここでも、7年程前に、×印をつけて、読んだ本で紹介したが、それ以外の本にも、質の劣化が見え、出版業界の荒廃が、大手にさえ、及んでいることを、実感した。つい先月にも、同じ趣旨の新書を、紹介したが、今度は、別の出版社からのものだ。こういう傾向に、強い危機感を覚えるのは、一部の知識人に、限られるだろうが、この傾向が続く限り、活字への回帰は、期待できない。それより、活字媒体が、電子化したことで、無責任な、偽情報の発信が、可能となったことで、書籍への信頼が、失われることに、危惧を覚える。

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6月5日(土)−終わり

 横並びで、誤った情報を、流すのなら、これ程の数は、必要無い。無駄としか、思えないが、権利主張となれば、それぞれが、独自色を、謳い始めて、保身に走る。この馬鹿げた騒動を、主導する媒体は、自らの不明を、恥じる気配も無く、それぞれ、雁首を並べる。
 大衆の理解を、促す為に、説明を施すのが、報道の役割だが、この態度は、そんなことを、微塵も感じさせない。そればかりか、この体質こそが、大本営発表を、垂れ流した元凶であり、更には、騙されたふりをしつつ、加担しただけで無く、主導していた、と見るべきではないか。となれば、あの頃の、政府に加担した暴挙を、深く反省するのも、見せかけに過ぎず、体質自体が、変わらぬことを、明示しているのだ。だが、これは、報道に、限られたことではない。今も、政府をはじめとして、批判を浴び続けるが、その中で、孤軍奮闘の如く、報道が持ち上げる、例の老害そのものの、長の言動にも、不見識が、満ち溢れている。特に、長たるもの、大所高所の判断が、必要となる筈が、異論が噴出しても、相変わらず、一部の悲観論に、取り憑かれた専門家の意見のみを、殊更取り上げ、それにより、決定する態度には、不見識では、片付けられぬ、危険性を、孕んでいる。この暴走が、一年過ぎても、続くのは、確かに、感染症が、収束しないことが、一因に違いないが、それ以上に、人為的な操作により、道を誤り続けている、世界の不見識にこそ、責任の大半がある。科学の基本である、様々な考えの検討と、そこから導かれる結論、という道筋に関して、悲観論に囚われた権力者が、目を向けずに邁進したことが、災禍を招いた訳だが、様々な試みが、効果を示さなかったのは、ほぼ全ての対策が、徒労に終わったことを、表している。その見方が、科学的な根拠に、基づくかどうかを、確かめないままでは、終わりの見えない戦いは、本当に、終わらなくなる。

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6月4日(金)−伝えない

 祭典を、行うかどうかについて、喧しい。以前書いたように、競技者が、やりたいと望むなら、やらせればいい、と思う。だが、被害者意識ばかりが、強調される世相では、まるで、彼らが全てを決める、かの如くの論調が、目立っている。老害も、甚だしさを増し、限度を超えた。
 これも、以前触れたが、長の席に、就いて以来、悲観的な意見しか、吐けなくなった人物は、今や、何を根拠に、何を訴えているのか、見えていないとしか、思えない程、一つ覚えを、繰り返す始末。失礼な言い方では、世間的には、認知症を、疑われるような言動、と思えてくる。政治的な立場では、確かな情報は、無用の長物であり、理解するのも、理解させるのも、厄介な代物とされる。だが、真の理解を、避けていては、正しい判断は、やはり下せぬものだ。この騒動で、強く批判され、諸悪の根源として、指弾される代表は、マスゴミの中で、テレビと言われるが、先日発表された、調査結果の伝達で、まさに、その典型と思える内容が、流されていた。それも、どのチャネルでも、同じ論調が流れ、調査自体の不備を、疑ったものだが、新聞では、漏れ無く伝えられ、更に、記者発表を掲載するサイトでは、発表時に使われたグラフが、示されていた。これも、会見を伝える映像を、流した公共放送でも、提示されたグラフを、折角、映し出していても、それについての言及は、一切無かったのだから、噴飯物なのだ。理解力の欠乏は、恥ずべきものだが、彼らのやり方では、自分が理解できなければ、それを伝える必要は無い、というものだ。想像では、どうせ、視聴者も理解できないから、というのだろう。事実を伝達する役割では、この姿勢は、まさに愚の骨頂であり、情報操作の典型となり得る、犯罪にも似た行為となる。一方で、発表されたグラフも、論理的な過ちが、示されており、調査に当たった医師達にも、問題があるように思える。このままで、論文発表は、禍根を残しかねない。

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6月3日(木)−脅迫

 人の命を、脅かす存在、との脅迫は、初期の目的を、達したと言えそうだ。科学者達が、あり得ないと予想した、世界を巻き込む騒動は、その実態が、明かされることなく、人々の心を、蝕み続け、疲弊した挙句、諦めに似た心境に、達したと言える。威甲斐が、あったと。
 その中で、驚くべきこと、と見做されるのは、全体としての、経済の疲弊が、起きなかったことだ。一時の、過剰反応から、様々な経済停滞が、起きた時には、他の人為的な要因で、これまでに、引き起こされてきた、衝撃と同様に、長期に渡る停滞が、起きると予想する人が、大勢居たのだが、予想外と、思える程の経過に、言い訳にも似た、後付けの説明を、施さねばならなかった。だが、経済の動向は、常に、こんなものであり、机上の空論で、予想をすることより、起きたことの説明を、施すのを、専らとするのは、学問として、成立していない分野、だからこそのことと言える。だが、全体として、正常に戻ったように見えるからと言って、個々の事例にも、同じことが、起きた訳では無い。周囲を、見渡せば、すぐに見えてくるように、身近な存在に、強い悪影響を、及ぼしてきたことは、紛れもない事実であり、それに関わる人々の、命の危険さえ、及ぼす事態に、陥っている。人為的かもしれない、感染症の危険より、明らかに、人為的な脅威により、生活を脅かされる方が、遥かに、大きな危険を及ぼし、思考停止に陥った、施政者達の、役立たずの施策が、効力を、発揮できないばかりか、悪影響だけを、及ぼし続けることに、強い憤りを、覚える人も、少なくは無い。ただ、何の根拠も示せず、実態調査も怠ったまま、依然として、世界中を、覆い続ける脅威は、晴れる気配を、見せていない。救世主が、世界に広がっても、何の安心も、保証できないことに、気付いた時には、何が起きるのやら。

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6月2日(水)−政争の具

 これまでに、何度も、書いてきたことだが、今回の騒動は、政治にとり、絶好の機会を、与えるのでは、との指摘があった。感染の拡大を、防ぐことは、不可能だとしても、それを、少しでも、抑えることが、できたなら、政に携わる人々の、評価が、一気に上がる、と。
 実際には、そんな気配は、微塵も見せず、国民、市民などの、死への恐怖を、減らす為と称して、数々の制限が、世界各地で、実施された。その一方で、当初、都市封鎖などの制限は、この類の感染症には、効力が無く、それより、病原体との接触から、各自に獲得される、免疫の機会を、保った方が、全体の利益になる、との判断を下した国も、あった。結果は、明らかな違いが、見えていない。徹底した調査は、混乱の最中に、実施できないから、本当の終息を、迎えてから、改めて行われる調査に、期待するしかないが、現時点で、ざっと見渡す限り、違いが無い、と言えそうだ。また、国内で、散々批判を受ける、緩い制限に関しても、当然、その強さの違いは、影響無しと言えそうだ。ただ、これまでの過程を、見返してみると、そこに、政治の道具として、使おうと、躍起になった人だけでなく、それに乗じて、騒ぎを大きくする人々が、居ることに気付かされる。海の向こうの選挙で、不正が行われた、として、依然として、負けを認めず、君臨し続ける暴君に、同調した人々は、民主主義の象徴を、汚す行為さえ、正当化していた。彼らの狂気は、平時なら、唾棄されるに違いないが、この喧騒下では、擁護の声さえ、聞こえてくる。それも、海のこちらで、その騒動に加担し、権力批判と共に、暴君支持を、表明する人が、出てくるのには、狂気に似た異常性を、見る思いがする。まさに、感染騒動が、政争の具として、使われた典型だが、そこには、好悪により、賛否を決める、貧しい心が、居座っている。右だろうが、左だろうが、どうでもよく、論理的に、考えるべきだろう。

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6月1日(火)−無視

 不明なことが、数え切れない程、あるにも関わらず、断定的なように、伝える人々の責任は、こういう事態の時、非常に重いと思う。感染症の騒動は、まさに、そういう点では、作られた騒ぎであり、その実態も実体も、何方も、不明なことが、多過ぎるのだ。
 にも拘らず、報道は、過剰反応を、示し続けるだけでなく、明らかな間違いさえ、煽れるとなれば、平気で、垂れ流し始める。病原体が、どんな仕組みで、体内に入るかだけでなく、そこから、感染という段階を経て、発症させるまでの仕組みも、無知を晒すばかりで、不確かな情報を、次々と、ばら撒きまくる。その為体は、改めて、論証する必要は、感じられない。何故なら、毎日のように、流される、汚物としか、思えない情報は、前言撤回どころか、互いに矛盾することまで、並び立てられるからだ。それだけでも、少し、注意すれば、暴くことは、容易なのだが、記憶装置を、持ち合わせぬ、報道機関は、自己矛盾も何のその、全く意に介さず、嘘八百を、吐き続けている。一方で、愚かな人々は、自分で確かめる、能力も意欲も無いまま、騒ぎに巻き込まれ、悲鳴を上げ続ける。だが、そちらはそちらで、自業自得なのだ。考えることを、放棄して、他人の話を、盲信する人々に、選択の余地は、残されていない。騒ぎの渦中で、仲間が居ることに、安心を得るしか、残された道は無い。そんな人々に、手を差し伸べるのは、同じ愚かさでしかなく、無意味であることは、明白なのだから、結局、無視するしか、方法は無いのだろう。所詮、大した被害も無く、実害も及ばぬなら、このまま、黙りを決め込み、知らぬふりで、構わない。一々、他人の行状を、気にかけることで、不安や心配が、膨らむのなら、尚更なのだ。社会生活では、無視は、禁忌と言われるが、こんな状況では、正常な社会とは、とても呼べない。だったら、仲間外れも、手の一つだろう。

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5月31日(月)−区切り

 毎日の積み重ね。数えてみれば、驚く程に、膨大な量、となっている。最新号は、毎日、3週間前のものを、消去した上で、新しいものを、書き加えているが、同時に、週毎に、束ねている。気が付いているか、知る由も無いが、その名前の数字が、三桁を満たした。
 では、と暫く考えてみた。一つの方法は、四桁目に入ること、だろう。だが、管理面からは、安易に、進めたくない気持ちが、起きてくる。ずっと昔、独り言を書き始め、2年近くが、経過した時、名前の数字が、二桁から三桁に、変わった。その際、単純に、三桁にするだけだと、名前の並びに、変化が起きた。99と100では、100の方が、後に来る筈だが、電子的な処理上は、1と9の大小関係から、100が前に並ぶ。それでは、整理上、面倒な感覚だったので、099としたのだ。これで、並び方は、こちらの思惑通り、となった。では、今回はどうするか。確かに、全てに、0を書き加えて、全てを四桁とする、考え方が、あるだろう。しかし、それだと、次の変化まで、9000近くの数が、積み重なることになる。今までの、十倍ほどの余裕は、逆に見れば、十倍の年月が、必要となる。そんな時間が、こちらの人生に、残っていないのは、明らかだ。では、他に、方法は、無いのか。そこで、思い付いたのは、計算機の社会で、専ら話題とされる、二進法の延長で、16進法で使われた、表示法だ。9の次に、アルファベットを、当てることにした。今回は、A00が、名前として、使われる。本来の進法であれば、全体に、変更することが、正しい手法となるが、それは無視して、便法として、使うことに決めた。これで、暫くの間、面倒なことを、考えずに済む。また、これなら、名前の順序にも、悩まずに済む。一石二鳥かは、判らないものの、悩まないことが、第一と思ったのだ。やれやれ、という気持ちで、これを書いてみた。

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