パンチの独り言

(6月7日〜6月13日)
(機会剥奪、見極め、使いよう、作り過ぎ、終演、知らない、後手後手)



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6月13日(日)−後手後手

 死の恐怖を、煽ったことで、舞台は、整っていた。しかし、肝心の役者が、揃わなくなり、開幕に、間に合わない、との指摘が、続出してしまう。そこで、登場したのが、代役とも言える、自衛官達だ。今や、国の防衛より、災害対応や、救助活動の方が、主務なのか。
 本来、高齢者にとり、日頃から通う、医院での接種が、好都合に思えるが、保存や運搬などの、数々の問題が、不都合を、山積みしたことで、希望は、叶えられなかった。そこで、編み出されたのが、大人数の接種を、可能とする施設の、設置だった。しかし、頑迷な組織の、無理難題とも思える、要求には、応えることが、難しいとの判断は、公僕の登場、となったようだ。一方で、各自治体が、独自に設置した、施設の方は、予定通り、地域の医師が、担当している。ただ、こちらも、やはり、頑迷な組織の、悪影響からか、人手不足が、深刻と伝えられた。次々と、提案する、不足解消の手立ては、打つ側も、打たれる側も、腰が引けるような、奇策ばかりだが、それとて、接種を熱望する人を、満足させる為には、やむを得ないとなる。だが、急場凌ぎとは言え、やっと整えた仕組みも、すぐに、別の問題を、生じさせた。移動の難しさが、外出規制と相俟って、人集めを、困難にしたのだ。用意した数が、集まらなければ、折角の計画も、宝の持ち腐れ、となる。ここぞとばかり、罵声を浴びせる、無責任な輩には、批判するしか、能が無いのは、これまで同様だが、この際も、結局、何の知恵を、出すことなく、文句を並べ、庶民の不安を、掻き立てることに、躍起となっている。もし、移動が、問題となるなら、今、経営状態が、悪いと言われる、バスやタクシーなどの、公共交通機関を、活用すれば、良いのではないか。税金を、投入してでも、と思うのなら、この位の覚悟を持って、首長達は、住民の便宜を、図ってみるべきだ。簡単なことなのに、手を拱いているのは、愚かとしか思えぬ。

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6月12日(土)−知らない

 考えることの大切さを、事ある毎に、説いてきた。だが、時に、考えることの意味を、まさに、考えさせられることがある。これまでにも、公開された数値を、どう扱うかで、今、巷に溢れる、誤った情報を、打ち消すことが、可能と説明してきたが、別の使い方も、あるのだ。
 それはつまり、同じ数値でも、解釈の仕様で、結論は、何とでもなる、ということだ。だったら、考えても、無駄なのでは、と思う人も居るだろう。だが、そこにこそ、重大な問題が、存在している。違う解釈を、施すことによって、反対の結論が、導き出せるのなら、巷に溢れる嘘を、暴くことも、できるとなる。不安や心配を、煽る筋書きを、用意した上で、どう解釈すれば、それに載せられるかを、検討するのは、まともな考え方ではない。しかし、今の風潮は、挙って、そちらに向いており、猫も杓子も、悲観的なものへと、引き寄せられる。それに対して、自分なりの考えを、実行するにあたっては、予め用意した結論ではなく、数値そのものを、様々な観点から、眺め回して、論理を組み立てていく。それによって、築き出された結論が、世間に流布される、ものと違えば、どこがどう違ったのかを、更に考えてみる。そういう過程で、自分の論理が、構築されるのだ。やってみると、意外な程簡単に、専門家達が、さも当然のように、説明していた論拠を、見破ることが、出来る筈だ。一方で、数値の推移を、解釈する中で、威厳と共に、示した根拠が、如何に脆弱なものかも、少し、注意していれば、簡単に、見破ることが出来る。実は、権威の多くは、この国に限らず、世界の何処でも、不用意に、拙論を、展開している。確かに、ある研究では、金字塔を、建てたのかも知れぬが、他のことでは、無学でしかなく、時に、恥晒しとなることも、あるだろう。これは、無知蒙昧に、教えてやる、という傲慢な態度が、裏目に出た結果であり、知らぬことは、知らんと言い切る勇気が、必要だ。

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6月11日(金)−終演

 日々、伝えられる数字の増減に、一喜一憂する人が、居たのだが、長期に渡る取り組みに、皆の興味は、失せてしまったようだ。残っているのは、日々の暮らしを、支える為の収入に、関わる部分だけで、それも、無関係となれば、目を瞑り、耳を塞いで、暮らすだけだ。
 当初から、書き続けており、現状でも、主張を変えるつもりは、毛頭ないが、この数字自体に、意味がある、と今だに信じ込む、無能な専門家達の、絶えることのない叫びは、虚空に散り、弱々しく、消えている。その理由は、こちらから見れば、考えるまでもなく、無意味なものに、しがみ付くだけで、その増減を、さも重大時の如く、扱う姿勢が、信頼を、失墜させているからだ。にも拘らず、愚かな考えに固執し、状況を、冷静に見極めることなく、同じ言葉を、吐き続ければ、まるで、昔話の「狼が来た」と叫んだ少年のように見える。あの物語では、最後には、本当に襲ってきた狼に、羊が食べられてしまうのだが、こちらの物語では、いつまでも、狼は登場せず、人々は、狼少年の存在を、忘れるだけのことだ。これまでに、要職にある専門家達が、犯した過ちは、多種多様な意見の中で、危険性を、過大に評価し、間違った手法に、取り憑かれたことで、感染症予防についても、おそらく、これまでに、彼らが提案したものの中で、一つとして、有効性が確認された物がない、ということだ。元々、このような病気の蔓延は、人類の歴史上、数え切れない程、起きてきた訳だが、これまでの所、災禍を乗り越え、生き延びてきたからこそ、今の我々の存在がある。昔も今も、予防という観点で、克服されたものは、殆ど無く、抵抗性を、集団として獲得して、終息してきたのだ。今回のものは、従前と比べ、致死率も、感染率も、かなり低いと見做せる。なのに、この騒動となったのは、まさに人為的なもので、現代の狼少年達が、嘘を撒き散らしたからなのだ。もうそろそろ、幕を引いてくれ。

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6月10日(木)−作り過ぎ

 日々の生活への不安は、この騒動の中、全く異なり始めた。感染の不安は、見えぬものへの恐れ、の表れであり、見えぬからこそ、抑制の効かないもの、となってしまう。では、それ以前は、どんな不安を、抱いていたのか。貧しい時代と違い、豊かな時代には、何に。
 皆が、貧しい生活を、送っていた時代には、日々、満ち足りぬ生活を、送っていただけでなく、必要不可欠なものが、手に入らぬことも、度々あったと聞く。食糧不足は、その典型であり、天候不順から、飢饉ともなれば、普段口にしないものも、食料として、考えるだけでなく、実際に口に運ぶことも、あったのだろう。今は昔、そんな時代のことを、想像することさえ、難しくなっているが、物が余り続ける時代に、嘗てとは異なる、全く別の問題が、生じていると言われる。日々、捨てられる食物も、尋常でない量ともなれば、処分自体が、難しくなる。時に、家畜の餌として、活用されたこともあるが、これとて、中間処理を、必要とするから、余りが増えたとしても、すぐに、対応することは、難しいだろう。身近な問題として、もう一つ、大きく取り上げられるのが、衣服であることは、気付かぬ人も多い。大量生産、大量消費は、互いの均衡が、取れていれば、何の問題も無いが、現状では、廃棄される衣服の量が、膨大過ぎて、想像を超えており、喫緊の課題とも言われる。だが、消費者にとり、安い衣服が、手に入る仕組みは、逃したくないもので、できれば維持して欲しい、と思うだろう。としても、問題は問題である。解決法は、様々に考えられるが、価格と見合うか、と問われれば、難しくなる。捨てずに済ます為に、再生法を、考えようという動きがあるが、それも、現状の問題が、生産量であることを、考えれば、誤魔化しでしかない。生産を増やせば、単価が下がる、という論理は、そろそろ破綻に近付き、見直しが、必要と思える。適正価格を、考える中で、生産量を、見直そう。

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6月9日(水)−使いよう

 世の中に溢れる、害悪から、公的機関が、守ってくれる。法治国家では、当たり前のことが、近年、保証されていない、と感じる人が、増えている。警察や役所が、その役目を、果たしていない、という場合もあるが、多くは、身近で、被害が多発しているから、なのだ。
 殺傷事件のように、明らかな被害は、勿論、受けたくないが、その発生数が、急増している訳ではない。それより、直接的な被害が、起きていなくても、罵声を浴びせられたり、ひやりとするなど、精神的なものも含め、小さな事件が、日常的に、起きているのだ。その為、自己防衛の手段を、講じる必要がある、とまで言われる。自身の経験から、それに似たことに、出会したことは、度々あるものの、何かせねば、という思いには、至っていない。しかし、日々報道される、煽り運転と呼ばれる、危険運転の光景は、我が身に起きたら、との懸念を、大きくしており、業界の動きも、それに合わせて、撮影装置の整備を、勧めている。確かに、近年は、自動車事故の検証に、これらの記録を、活用しており、権利を守る為にも、重要と見る向きがある。先日も、目の前を走る車に、装備を謳う札が、付けられていた。だが、高齢者の運転からは、自衛措置より、別の効果を、想起した。つまり、装備者自身が、中央線をはみ出したり、不可解な制動をしたりと、危険とも思える運転を、繰り返していたのだ。だったら、その危険度を、撮影装置の記録分析から、計測したらどうか、と思う。既に、多くの記録を分析し、その評価を下す仕組みは、人工知能を使えば、実現できると言われる。高齢者の運転の、危険性の話が、これほど、取り沙汰される時代も、無いように思うが、こういう道具を、被害の回避に使うのなら、そんな利用法も、考える必要が出てくる。特に、保険会社は、事故対策として、記録利用を謳うが、危険度の評価から、保険料の査定に、結び付けるのも、一考の価値が有りそうだ。

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6月8日(火)−見極め

 劣悪で、悪質な情報伝達に、情報の取捨選択が、各個人にとり、喫緊の課題となっている。精神の不安定に、悩み沈む人々にとり、時に、命の危険にさえ、晒される事態は、情報源の組織が、躍起になって煽る、例の感染症の危険より、遥かに大きく、深刻なものとなる。
 当初から、そして、それ以前も、強調してきたように、論理的に、物事を判断し、拾うべきか、捨てるべきかを、決めていくことが、このような状況では、不可欠なものとなる。何事も、論理立てて、考えることで、そこにある、矛盾や出鱈目を、暴き出そう、という訳だ。だが、冷静な時でも、難しいと思う人には、感情を逆撫でし、不安感を煽られる中では、より困難であると考えるだろう。だからこそ、日頃から、考える習慣を身に付け、異論を唱え、再検討をする、癖を身に付ける、必要があるのだ。そんな中、今朝の報道には、耳を疑うしかなかった。恐怖を煽る、もう一つの材料として、異常気象を、招く原因とされる、二酸化炭素の存在が、取り沙汰される。海の向こうの公的機関が、発表した数値は、彼らによれば、驚くべきものであり、危機が、そこまで迫っていることを、示していると言う。その中で、驚愕な見解は、二酸化炭素を0にすることが、必要であるというものだ。原語での見解は、"reduce CO2 pollution to zero"であり、pollutionとは汚染だから、悪者を無くせ、という意味だが、それが、いつの間にか、この気体を無くせ、とされている。害悪という意味では、人間の存在こそが、汚染源であり、それ自体を無くせ、と言えなくもない。いずれにしても、件の機関の専門家が、発した警告も、かなり無茶苦茶なもので、言うに事欠いて、とも思える。感染症同様、この話にしても、科学的な見解は、多種多様であり、一部の主張のみが、支持される事態となっている。専門家の弁を、鵜呑みにせず、冷静に、見極めることこそ、必要なのではないか。

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6月7日(月)−機会剥奪

 焼きが回った、としか、表現しようが無い。首長の殆どは、人気取りは、得意だとしても、票数以外の数字は、とんと理解できないようだ。国内各地で、感染症にも、接種にも、悲鳴にも似た叫びを、上げるばかりで、冷静な判断も、的確な状況把握も、覚束無い。
 住民の期待は、悉く、裏切られ続け、悪化の一途を、辿っている、と信じられている。だが、これは、住民の無理解と、それを煽り続ける、悪質な報道に、原因の大半はある。ただ、だからと言って、首長の判断が、妥当なもの、と言える訳では無い。猫の目の如く、コロコロと変わるのも、馬鹿の一つ覚えの如く、一向に変えないのも、どちらにしても、状況を、把握しようともせず、住民の為と称して、愚策を、押し付けている。騒動の始まりを、思い出せば、政府の暴挙から、この国の深刻な被害は、広がり続けている。それも、報道が、狂気に満ちた論調で、日々伝え続ける、死者数では、現実には、深刻さが、全く無いのに比べ、人々の心や生活への、悪影響は、深刻さを増すばかりだし、次代を担う、子供達への悪影響も、当初の、休校措置などに始まる、教育の機会剥奪が、その後、重大な問題として、強い反省に基づき、正常化を、図る事態へと、変化してきた。教育の重要性が、この馬鹿騒ぎで、影響を受けるのは、最大の失態であり、この点に関して、前政権は、責任を果たさぬままに、逃げてしまった。そこに、今回、降って湧いたのは、南の自治体が、厳しい状況にあり、その為、休校措置を、取るとの決定が、成されたことだ。あれ程、反省をしたとしても、焼きが回った人々は、目の前の恐怖と、戦う姿勢より、犠牲者を出すことに、意義を見出したようだ。元々、流出が止まらず、政府からの補助金頼みの、無策の自治体が、肝心の若者を、蔑ろにする判断は、愚かでしかない。無症状の若者が、感染を広げるとの妄言も、苛め以外の何物でもないが、この強行策は、暴挙だ。

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