諸説紛々の状態にも関わらず、何故、自分達の信じる所を、説明しているのか。学会の一場面なら、何となく、理解できるのだが、それが、国の行末、民衆の行く末を、示すものとなると、大丈夫か、と思えてくる。学説は、唯一人でも、信じていれば、主張できる。
だが、大衆を相手に、従わせようとすれば、様々な考えを、検討した挙げ句、妥当な方針を、出す必要がある。そう信じてきた人間には、今も、何の変わりも無く、お上の方針に、従うのが、当然となる。だが、その根拠は、脆弱どころか、唯一つの見方に、従ったもの、となるとどうか。まさに、その状態が、世界中で、起きており、別の場所では、全く異なる論拠が、示されつつ、道を誤るな、との警告が発せられる。しかし、権力を、握っているのは、選挙で選ばれた、人物達であり、全ての権限を、握った者の特権となる。しかし、ここまで、暴走が続くと、流石に、多くの人の心に、疑いの芽が、生えてくる。ならば、もっと声を、上げてはどうだろう。特に、得得として、自分の説を、発する人間に、根拠を質し、証拠を求めれば、論理の崩壊が、忽ち起こるだろう。それが、世界機関だろうが、国の役所だろうが、研究所だろうが、科学に基づいて、状況を把握し、そこから、方策を編み出したのなら、科学に適う証拠が、不可欠となる。だが、それが求められることなく、結論としての方策のみが、伝えられる現状は、大衆の道を、誤らせることに、繋がっているのだ。これは、単に、発信源の、悪質さや無能さに、寄る処だけでなく、伝達者の、無理解と無責任に、寄る処でもある。この捩れを、正す役割を、誰が担うべきか。本来なら、良識ある専門家が、意を決して、権力に対して、反旗を翻すべきだが、研究の営みが、権力に頼る現状では、難しいのか、殆ど声が、上がってこない。その中で、小さな良識の声は、高まりつつあるが、果たして、世界に、広がるだろうか。
生きとし生けるもの、という言葉を、聞いたことが、あるだろうか。多くの人が、何処かで、接したような気がする、くらいだろうが、では、これに続く言葉は、何だろう。ちょっと、検索した程度では、何も出てこない。ただ、命あるものは、という意味だけ出てくる。
となれば、命は、やがて絶えるもの、となりそうだ。さて、そんなことを、引き合いに出したのは、今の状況を、改めて、考えてみたいからだ。救うべき命、という感覚が、時に、異常に思えるのも、人が、何処かで、こんな感覚を、身に付けてきたからで、寿命という感覚も、避け難いものとして、受け容れている。なのに、世間は、何故、あんなに躍起になり、異常とも思える騒ぎを、当然の如く、続けているのか。運命とは言え、死への恐怖は、誰にも、常にあるものだ。その思いに、便乗するように、騒ぎを、拡大し続けたのは、世界機関の目論見であり、過失とも言える、大失態なのだが、その一方で、その勢いに、押し切られ、民衆を、混乱に陥らせた責任は、各国の保健機関と、その傘下の研究機関にある。この国では、厚生労働省と、国立感染症研究所が、それに当たり、海の向こうでは、Department of Health and Human Services(保健福祉省)とCenters of Disease Control and Prevention(CDC,疾病予防管理センター)が、それに当たる。役所も研究所も、専門家が働き、こういう事態の、解決に当たるのだが、騒動の初めから、今に至るまで、状況の把握さえ、覚束無いまま、民衆を、混乱から救うより、陥れることに、なってしまった。感染予防対策では、確かに、早急な対応が、必要となるが、今回の混乱は、ひとえに、偏った一つの考えに、取り憑かれたことが、最大の失態であり、本来あるべき、多面的な解析や議論を、怠ったことから、生じたのだ。事態を、更に悪化させたのは、異論を、徹底排除したことにある。人災の典型ではないか。
当初から、数々の違和感を、抱いていた。台本として、悲劇の演出は、細々と行われ、皆の恐怖を、煽ると共に、共感を生む効果にも、注意が払われた。だが、それらの殆どは、絵空事に過ぎず、脚本家の思惑が、前面に出る形で、強い違和感を、催させていたのだ。
中でも、現場からの報告として、度々、取り上げられたのは、救えない命、という話題だった。治療にあたる人間にとり、患者が、徐々に衰弱し、死に至るのを、見守り続けるのは、辛いとの物語だが、共感を抱き、同情を感じた人には、何の不思議も、感じられないだろう。だが、それまでも、肺炎で亡くなる人は、全国で月に1万人を、上回る程であり、その多くは、手の施しようもなく、旅立っていった。それに対し、当初から、最新鋭の機器が、紹介されて、その効果の程が、喧伝されたが、何故、これまで、未使用だったのか、説明されたことは無い。救える命は、救うべき、という考えに、異論を唱えるつもりは、毛頭ないが、何度も指摘したように、順位付けもせずに、闇雲に取り組むような、雰囲気を伝えるのは、明らかな誤りだし、一方で、救えない命を、殊更に、取り上げるのも、誤認の表れ、でしかない。更に、現場の人々を、批判する気は無いが、医療行為は、命を救うもの、との思いも、寿命は必ず尽きる、という現実から、かけ離れたもの、としか映らない。厳しく見れば、いつか尽きる命も、目の前では、尽きないで欲しい、との身勝手な願いの、表れでしかないのだ。現実から目を逸らす、傲慢さと、悲劇に直面したくない、身勝手さが、入り混じった感覚を、何故、これ程までに、重視したいのか、正気の沙汰とは思えない。依然として、この事態は、続いており、常軌を逸した主張が、現場から、届けられる。自己中心の考えには、耳を傾ける価値は、一切無い。他人を巻き込むのは、やめさせるべきだ。
政争の具として、使われている、と指摘する声も、大きいようだ。確かに、世界の、特に先進国では、医療衛生状況に、恵まれていたこともあり、この危機は、強い衝撃を与え、規制という形で、政府が、様々に活躍してきた。だが、結果は、惨憺たるものだった。
しかし、自然の脅威への、恐怖の高まりは、身近な政府の、転覆を図る意欲さえ、削ぐものとなった。自画自賛も含め、状況の変化は、自らの論理で、都合良く解釈し、成果を、高らかに謳うことさえ、起きる始末に、冷静な判断を、繰り返してきた人間は、呆れてばかりいる。しかし、主導権は、権力者が握り、好き勝手な方針を、住民達に押し付ける。何処も彼処も、疲弊が強まり、反発の声は、徐々に高まっている。限界を感じた訳でもあるまいが、厳しい規制を、強いてきた国や地域が、その解除に、躍起となるのは、当然の帰結だろう。だが、現実は、それを許さない。自ら築いた、規制の条件を、満たすことの難しさは、ワクチンの効果さえ、疑いたくなるものだ。達成目標に、ほぼ到達した筈の国が、予定していた全面解除を、延期したとの報せは、まさに、そんな事情によるものだ。一方、昨日取り上げた、海の向こうの各州は、それぞれに、新たな局面を、迎えたとの報道があった。新しいグラフは、同じ州のものだが、拡大すれば、直近の陽性者数を、見ることができる。その数値に、驚く人も居るだろうが、実は、こちらの国の数字の解釈が、間違っているのだ。その一方で、こんな数字で、花火を上げ、解除を祝う人々が、集う映像は、愚者の典型を、見る思いがする。信じる者は、救われるとばかり、宗教への信心を、想起するものだが、それなら、科学などに目を向けず、祈り続ければ、いいではないか。今の行動は、科学という邪教に、惑わされた民衆の、狂気を見るようだ。ただ、邪教の科学は、あくまでも、似非科学に過ぎず、偽者を、見破らねばならない。
日々、流される情報は、著しく偏ったもので、時に、操作されたものだ、と思う人は多い。だが、その原因の殆どは、自らの責任で、情報源を選んだ結果であり、巷に溢れるものには、全く異なるものが多い。それに気付かず、情報弱者を名乗るのは、愚かでしかない。
しかし、解釈や説明を、渇望する人々には、数値を眺めて、判断するという作業は、面倒であったり、困難だったり、するようだ。それなら、ある人々の思惑に、振り回されるのも、止むを得ない、となるだろう。一方で、情報をかき集め、そこから、正しい結論を、導こうとする人も、多くは、先入観に、振り回されている。状況把握において、無垢な状態で、臨むことが、重要と言われるが、これは、簡単では無い。誰もが、経験に基づき、様々な予見を持ち、予断を行うが、そこに、情報を、新たに、採り入れなければ、無意味なことに、気付かぬものだ。また、数値を、眺めたことで、結論を導いた、と思ったとしても、実は、その結論に、数値の動向が、反映されなければ、何の意味も為さない。こんなことの繰り返しが、徐々に、認識能力や判断能力を、鍛える筈だが、この所の成り行きは、全く違っている。人間は、望んだことしか、考えられないのだろう。さて、昨日取り上げた、国や州ごとの、対応の違いが、実は、結果には、殆ど影響しなかった、という考え方だが、数値の動向を、改めて、眺めて欲しい。はじめは、この国と北欧の例の国の比較だ。何方も、落ち着いた動向を、見せている。だが、陽性者と死者の縦軸の違いは、この国の情勢が、遥かに良好であることを、示している。一方、海の向こうの国の州ごとの違いは、一部のみを、示してみた。解像度が低いので、見にくいが、どれもこれも、大差なく映る。但し、ここでも、縦軸の違いは、注意を要する。上と下と、真ん中の2つは、知事の支持政党が、異なる。それが、違いを産んだのか、でないのか、眺めてみよう。
恐怖を、煽られ続け、無力感に、苛まれる人が居る。その一方で、恐怖を広げる人々が、まるで、制圧が可能であるが如く、規制をかけるのは、傲慢の表れに思える。明らかな矛盾に、当事者も、巻き込まれる人々も、一向に、気付くことなく、世界は、混迷を続ける。
何故、こんな不条理が、撒き散らされるのか。多くの人々は、そんな疑問さえ、抱く暇を与えられず、心を、苛まれている。だが、考えを、少し転換すれば、いとも容易く、呪縛から、逃れることができる、としたらどうか。日々、公開される数値は、国内のものも、国外のものも、誰もが、手に入れられる。それを、少し眺めれば、騒ぎを主導する人々の、思惑が、いかに、作為的で、意図的なものか、すぐに、気付けるのだ。それは、感染症の防止、という考えに、囚われたことによる、常軌を逸した対策が、どれ程の無駄であり、どれだけの犠牲を、強いて来たものかを、示すものとなる。当初、集団免疫を目指す、という方針から、都市封鎖などの措置を、取らないという、選択をした国は、その後、急変する事態に、担当者が、敗北を認め、国王が、謝罪するなどの騒ぎで、明らかな失政と、断じられたが、現実には、他の選択との違いは、殆ど無かったことは、伝えられていない。海の向こうの大国では、国全体の政策より、州ごとの政策が、優先される為、この事態でも、全く異なる対策が、講じられてきた。それを、知事が、二大政党の、どちらに属すかの違い、として、支持政党の功績と、謳う人々が居るが、実際には、感染対策としては、何方にしても、無力に過ぎず、それ以外の状況の比較も、取り上げられる程の差は、無いようだ。これらの事実は、結局、人々が作った対策は、どれも、感染拡大に対し、無力でしかなく、増減は、単なる変化の表れに過ぎず、対策の効果との解釈は、施政者の思惑に沿ったもの、だけとなる。となれば、騒がずとも、ただ、普通に暮らせば、良いだけだ。
首脳会議が、閉幕して、出された宣言に、安堵した人が、多かっただろう。様々な問題を、国内事情だけ、というより、自分都合でしか、考えない人にとり、外から見たら、どうなるのか、明確な言葉で、示されたことは、大きなことだ。それでも、耳を塞ぐ人も、居るだろう。
相互支援という意味で、こういう集まりが、大きな役割を、果たし得ることを、今回の会議は、確かに示してくれた。独断でしか、物事を考えず、それを、他人に押し付ける、前任者とは、大きく異なり、相互に働き掛け、脅威に対抗することが、今の時代に、不可欠であることを、誰もが、認識したと思う。だが、その一方で、別の不安が、膨らみ続けることに、気付いただろうか。覇権主義、という札を付け、台頭に、更なる警戒の必要性を、掲げたのだ。多国間の関係を、築くことが、重要であるという認識は、共通しているのに、何故、こんな違いが、出てくるのか、不思議に思う人も、多いだろうが、会議で指摘されたのは、協力関係を、築く過程で、必要な資金を、貸し出す形で、事業の導入を、図るという、従来とは、大きく違う方式だ。途上国にとり、成長を図る為の、手立てには、資金が必要となるのは、当然のことだが、従来は、我が国をはじめとして、先進国からの無償供与や資金援助が、行われてきた。だが、依然として、先進国との範疇には無く、自らも、他国からの支援を、得てきた国は、急速な成長で、築いた資金を、貸し出す形での援助を、当然と位置付けてきた。それが、不当なもので、返済が滞れば、権利を得るという契約は、覇権主義の表れ、と断じたのだ。この動きに、当然と見る向きもあるが、参加国からの異論に、現れたように、危惧が、抱かれている。それも、我が国にとり、先の大戦への突入が、様々な圧力から、起きたことを、考えると、これも、同様の経過を、辿るのではないか、と思えるのだ。別の大国と共に、敵対勢力として、扱われれば、同じことが、起きてしまうかも、と。