パンチの独り言

(6月21日〜6月27日)
(仮説だろ、保身、思い通り、接種無用、利点でない、人非人、象徴)



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6月27日(日)−象徴

 やんごとなき人々に、下賤な輩が、あれこれ申し上げるのは、恐れ多い。こんな表現を、ごく普通と思えるのは、ある程度、年齢を重ねたからか。現代は、相手が、どれ程高貴な人間でも、批判を向けたり、好奇の目を向けたり、隣近所の人々と、同じに扱うらしい。
 世が世なら、と思うのも、時代の進歩に、乗り遅れた、老人の妄想かもしれないが、そうでなくとも、礼を失していることは、間違い無いだろう。たとえ、知り合いでも、そんな無礼を働けば、何らかのしっぺ返しが、戻ってきそうだ。ただ、この傾向が、全世界に広がり、当然のように、見られるとなると、社会全体に、大きな変化が、起きたとも思える。以前、取り上げたように、王室を離れた、元王子の言動には、逆に、立場を弁えない、非常識が、見えていた。確かに、衆人環視の状態が、生まれてからずっと、続くことは、平民には、理解し難いものだが、それを、運命と捉えず、何か迷惑と見做すのには、違和感を覚える。あの家系では、嘗ても、王位を投げ打ち、恋路に走った人も、居たらしいが、現在の女王は、威厳を保ち、自らの為すべきことを、知り尽くしている、と見えている。その孫が、庶民感覚を、押し通そうとしても、無理難題としか、見えないのは、当然だろう。そんな話を、書いてきたが、この国でも、現在の象徴は、国民の為と称して、不思議な言動を、繰り返している。災害への関わり方は、先代からの伝統だろうが、それも先先代とは、異なる振る舞いだろう。そのやり方が、今回の言動へと、繋がったのかもしれぬが、どうにも解せぬ。象徴は、その役割を、考えるべきであり、権力者とは、異なるのが当然だ。あの女王が、ある意味で、こちらの先先代を、尊重していたのも、同じ方向を、感じるからであり、今の状況には、違う印象を、抱いているだろう。時代が、そうなのだから、との考えも、不思議に思える。あるべき姿を、保ってこその意味を、考えて欲しい。でないと、絶えてしまう。

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6月26日(土)−人非人

 一時の怒りが、憎悪の形をなし、暴力へとつながれば、犯罪となる。だが、それが、潜在するままに、精神的なものを含め、相手に対する、圧力へと結び付けば、虐待となり、極端でなければ、犯罪とはならず、世に蔓延ることとなる。今回の騒動も、そんな様相が、見え隠れする。
 当初、発生源への偏見から、ある人種を、暴力の標的とし、身体的なものも、精神的なものも、差別意識の表れとして、世界各地で、顕在化していた。理解不能な論理を、持ち出す人々は、無視するしか、手立てはないが、理論武装した輩は、厄介な存在となる。陰謀論も含め、数々の謀略が、次々に、提案される度、人間の限りない猜疑心に、呆れるばかりだが、犯罪に結び付くようなものは、徹底的に、排除する必要がある。一方、収束への、唯一の手立てとして、過剰とも思える、期待で迎えられたワクチンは、多くの専門家が、接種を呼びかけ、大多数が行うしか、世界を救う手段は、無いものと訴えたことから、接種自体の副作用ではなく、別の災いを、招いたようだ。それは、接種の有無を、発端とする差別であり、法治国家では、保障されるべき、基本的人権さえ、侵しかねない、事態を招き始めたことだ。それは、組織での活動に、接種を不可欠とする、条件を、設けることであり、それにより、組織の安全が、確保できる、という論理だった。初めて、その狂気の論に、触れたのは、海の向こうの大学での、講義参加の条件であり、接種者のみを、対象とする、というものだった。学問の府として、専門家が、存在する組織で、このような暴論が、発出されるのは、狂気の沙汰である。如何に、恐怖に駆られようとも、重大な過ちを、犯して良いというものではない。人権無視の論理は、今回の騒動で、度々、持ち出されるが、その異常性を、看過する程に、冷静さを失っては、人の皮を被った、怪物と成り下がる。今、起こりつつある、身近な問題も、同じことだ。

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6月25日(金)−利点でない

 自分が、接種を受けないのは、必要を、感じないからだ。体調を、万全に保てば、との一言に、過剰反応を、示す人が居るが、彼らは、接種が、問題の全てを、解決すると信じ、中には、他人に、それを強いる勢いの人が居る。でも、その間違いに、気付く気配は無い。
 今回の騒動で、話題の中心の一つに、集団の利益がある。皆が、免疫を得れば、全体として、感染症の撲滅が、達成できる、というものだ。確かに、天然痘や結核は、その手法で、ある程度の成果を、得てきた。ただ、前者と違い、後者は、未だ、達成しきれていない。その理由は、この手法が、病原体の変化により、無力化するからだ。今回も、同じ問題が、立ちはだかる中、理由は定かでないが、専門家の殆どが、接種を、絶対条件として、強く推奨している。それも、自身のみならず、周囲への配慮から、すべきとの主張だが、これではまるで無症状陽性者を、槍玉にあげたのと同じだろう。更に、既に明らかになりつつあるように、接種がかなり進み、安堵の声が、上がり始めた国から、不穏な状況が、伝えられており、予断を許さぬ、とも見える。にも拘らず、関係者からは、一つ覚えの「接種を」の声が、上がり続ける。これでは、利点が、活かせなくなる、と思うのは、猜疑心が、強過ぎるのか。風邪の一種、との認識を、間違いだと強調する人々は、症状の重さを、理由の一つとして、掲げているが、感染の仕組みそのものは、まさに、風邪そのものだろう。その中で、重症化を防ぐ手立ては、定かでなくとも、個人としての対策は、同じことを、続けるだけだ。それにより、抵抗性を、示すことのできた人々が、多数となれば、自然に消え去るものとなる。利点を、強調する人々は、副反応への言及と、それらを天秤に掛けることが、当然と思うようだが、その観点自体が、間違いなのだろう。何しろ、利点が、利点でなくなれば、この論理は、全く通用せず、無駄となるからだ。

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6月24日(木)−接種無用

 ワクチン騒動は、収まる気配が、見えてこない。と書くと、心配や不安を、催すかも知れないが、実は、この騒動、あくまでも作られたものに過ぎず、劣悪な報道に至っては、枝葉末梢に、目を向けるだけで、相変わらず、本質を見抜けぬままに、馬鹿騒ぎを繰り返す。
 幾つかの場面で、どんなことが、話題として、取り上げられたか、少し思い出してみると、その無能ぶりと悪質さが、はっきりとしてくる。何の根拠もなく、不足を、報じ続けた時、担当者達の努力は、極みに達していた。しかし、正式な契約として、結ばれた約束は、報道に携わる人間が、度々繰り返す、口約束を、破ることと違い、達成せねば、莫大な損失を、被ることとなる。結果として、杞憂ばかりが、膨らまされて、鵜呑みして、不安に、苛まれた人間が、頻出したが、結果は、何事もなく訪れた。次の心配は、接種に従事する人数の不足だったが、それも、場当たり的な対応が、施されることで、解消した。ただ、ここでは、副作用が、顕著となった。今度は、過剰供給の状態となり、後始末に追われることとなったからだ。だが、これに関して、報道は無視していないか。責任の一端というより、その大部分を担った悪者達は、知らぬふりを、決め込むしか、手立てを持たないらしい。それ以外にも、数々の創作劇が、演じられたが、ネタ切れとなったらしい。さて、ワクチンは必要か。この重要な問題に対し、議論は進まない。例の如く、調査不足で、先入観に囚われたまま、話を進めるのだから、進む筈がないのだ。ワクチンを、これまでも、流行性感冒に対し、接種しなかったが、今回も、その考えに、変化は無い。多種多様な病原体に、対応しきれず、毎年、博打が繰り返され、外れが、打ち捨てられるのを、見る限り、接種の意味は、無いと思うからだ。それより、自身の体調管理を、万全にして、大禍なく過ごせた。今回も、同じことだ。

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6月23日(水)−思い通り

 仮想計算、という分野に、注目が集まる。まるで、金儲けの話に、群がるように、研究と称するものが、行われている、ように見える。だが、実際には、計算対象に関する、専門性は、殆ど無いままに、机上の空論を、展開している。それは、専門家でさえ、そうらしい。
 数学を、専門とする人々には、この光景は、どう映るのか。これまで、聞いた話から、推測すると、計算せねば、言えないことは、数学とは違う、と断じそうだ。確率や統計も、依然として、数学の分野として、認知されることなく、批判の対象となるだけだ。計算科学も、人間だけでは、とても実現できない、高速性を、頼りにするだけで、使われる数式は、人間が、思いついたものだ。だから、という訳でもないだろうが、感染の広がりや、死亡者の数に関して、これまで、何度も、過大な数字を、示すことで、世間の注目を浴びてきた、研究者も、反省どころか、自らの過去の成果に、言及することなく、新たな計算結果を、示し続けてきた。責任を、追及したい人々は、彼をはじめとする、計算結果を示し、世間を惑わした挙げ句、知らぬふりを、決め込む人間達に、厳しい声を、挙げているが、当人達は、何処吹く風なのだろう。何故なら、研究において、仮説を立て、それに基づいた設定で、計算を行うのは、常道であり、そこに、間違いが起きたら、仮説を立て直し、同じことを繰り返すのが、当然の策だからだ。だから、結果そのものに、責任を感じろ、と言ったとしても、ではやり直します、となるだけなのだ。問題は、そこにあるのではなく、驚愕の結果に、飛び付いて、扇動の道具として、使う連中にある。都合良く使える、とばかり、予測として掲げてきた、役所の人々も、大衆を脅す、最適な道具として、振り回してきた、報道の人々も、計算に使われた仮定が、どんなものだったかを、理解しないまま、結論のみを、持ち出してきた。責任は、そこにこそある。

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6月22日(火)−保身

 今も進行中だから、雑音にしかならないが、それにしても、書いておこうと思う。日々、様々な決定がなされ、それにより、庶民は、右往左往させられている。などと、書いてきたが、実態は、そうでは無い。もう、馬鹿げた決定に、耳を傾けず、無視する人が増えたのだ。
 だが、それでも、街頭で、意見を聞かれたら、早過ぎるだの、怖いだの、不安を口にする人は、相変わらず居る。煽りを常として、依然として、その路線を、突き進む悪人達にとり、これ幸いの情報であり、殊更に、取り上げられるが、果たして、どれ程の人が、いつまでも、そんな戯言を、信じているのやら。報道に携わる人々の、無責任さは、改めて、取り上げる必要は、全く無いのだが、一方で、決定に携わる人々の、責任は、どうだろうか。政に、関わる人々は、その大部分が、選挙で選ばれることで、その地位を、手に入れる。だからこそ、責任は、次の選挙で、果たせばいい、となるのだろう。海の向こうの大統領も、俄人気が、急速に高まっても、現実を、直視する人々から、忌み嫌われる結果となり、前の選挙の、魔女狩りにも似た、勢いに押されて、舞台を去っていった。一方、彼らに雇われた、委員については、どうだろうか。選んだ当人が、舞台を去れば、それと共に、消えるのかもしれないが、責任を果たすのとは、全く異なる結末であり、納得できない人も、多いのだと思う。そんな目で、今の状況を眺めると、雇った人間に、反旗を翻すなど、度々、話題となるものの、彼らの責任感は、全く別の所に、あるような気がする。それは、つまり、保身そのものなのだ。舞台から、去った後の、自分の身に、起きることを、考えれば、当然のことだが、味方となる人間を、いかに残すかが、彼らの頭にある、唯一の大事と思えるのだ。長という立場に、就いて以来、言動が、不安定と化した人間は、その最たるもので、最近の非科学的な発言と共に、保身だけが、関心でしかない。

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6月21日(月)−仮説だろ

 それぞれの組織で、その地位に、上り詰めたのは、業績を積み上げたり、政治的に動いたり、した結果なのだろう。だが、過去の業績が、どうあれ、今の問題に、立ち向かった際に、正しい答えを、導き出せるとは、限らないのだ。今回の騒動は、まさに、その典型と思う、
 世界機関に巣食う、極悪人共は、自らの信念に従い、今回の戦略を、推し進めてきた。唯、これまでにも、爆発的感染という、作られた悲劇は、何度も起こされてきた。今回のものが、これまでと違うのは、首謀者達の思惑以上に、騒ぎが、急速に広がり、その悲惨な光景が、世界各地で、実際に起きたことだ。従来の、マッチポンプ方式では、死への恐怖という図式は、全く同じだったが、適切な対策により、大事に至らずに済んだ、という結末を、迎えることで、機関の意義を、高めることに、繋がっていた。だが、今回は、想定を、遥かに上回る、数字が、日々、そして、各地から、伝えられることで、首謀者からは、対策の徹底不足だけを、指摘する声が、上がっていた。そこには、経験に基づく、見通しがあったが、それ自体が、大甘なものに、すぎなかっただけだろう。これと同じことは、今も続き、専門家として、登場する人物達は、持論を展開するが、浅薄な内容では、早晩、破綻を来すだけだ。制圧された疫病の、専門家の弁も、矛盾に満ちたもので、浅はかな論理に、突っ込みどころが、満載と思えた。多種の動物への、感染が確認されたことが、集団免疫の可能性を、打ち消したとの結論も、検討不足と思えたが、それ以上に、だからこそ、ワクチンが不可欠、との筋書きに至っては、自己矛盾しか、考えられない。これまで、制圧できたと言われる、疫病での、免疫獲得の手段は、対象の特定が、不可欠であり、変化を伴えば、不可能と言われてきた。確かに、今回の開発では、新技術が適用され、変化への対応も、可能とされるが、その信頼性は、未知数でしかない。経験豊かだから、その仮説は確か、などとは、誰にも言えないのに。

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