パンチの独り言

(6月28日〜7月4日)
(茶番劇、矛盾だらけ、情勢変化、救いの手、検討課題、貧困の嘘、作り話)



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7月4日(日)−作り話

 耳目を、集める為に、様々な工夫を、凝らしている。だが、その工夫の殆どは、書き手が、恣意的に作り上げ、無い筈の悲惨さを、脚色したものだ。しかし、無垢な人々は、そんな作り話に、簡単に騙される。そこにある心理は、まさに、格差を、意識したからこそ、だ。
 人々は、上を目指すことで、日々の努力を、積み重ねるより、下に、誰かが居ることで、安心を得ることの方を、選ぶようだ。だからこそ、悲惨な貧困が、伝えられると、挙って、同情の声を、上げるものだ。だが、所詮、作り話に過ぎぬ、世迷い言には、何の意味も無く、無駄の一言で、片付けるものだろう。貧困の深刻さを、伝える為と称して、様々な事柄が、伝えられる。日々の食事にさえ、摂れないとの悲鳴に、提供の場が、設けられており、それが、盛んに、喧伝される。中には、本当に、困り果てた人が、含まれるだろうが、その多くは、個人事情から招いた、苦境に過ぎない。同じことが、女性特有の、月のものに関して、伝えられるが、余りに多くの要因が、並ぶ中で、貧困のみに、光を当てる理由は、耳目目当てだ。教育現場の混乱ぶりも、貧困との結び付きを、殊更に、強調する論調には、悪意さえ、滲み出ている。体操服を、持参しない児童に、貸し出し始めた学校が、話題となったこともあるが、返さない子や、汚れたものを、平気で返却する子に、呆れるのは、正常な反応だ。また、朝食を、摂らずに登校する児童に、提供を、始めた所も、あったらしいが、家庭問題が、学校に持ち込まれ、その理由を、貧困とする身勝手には、支援者を含め、責任転嫁しか、思い当たらない。親の義務を、果たそうともしない、身勝手な人間を、罰するどころか、全力で助けようとするのは、慈善事業の取り違えでしかなく、社会を、混乱させることで、喜びを感じる、特殊な人間の所業、としか思えない。格差と貧困は、確かにあるが、これらの作り話、とは違うものだろう。

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7月3日(土)−貧困の嘘

 格差と貧困の問題が、深刻化している、と言われる。成功物語が、夢と希望を、紡ぐものとして、語られることが多い、海の向こうの国では、その結果として、できてしまう、格差については、殆ど無視されてきた。その一方で、貧困の問題も、仕方ないものとして。
 だが、こちらの国では、敗戦から、立ち上がる過程で、国を挙げて、努力を積み重ね、格差を広げるより、皆の努力で、平均を向上させる、と言う意識があった為か、皆が、中の上、という地位に、あるものとの意識も、強まっていった。だから、たとえ、格差があったとしても、集団の中に属し、その一員として、社会に貢献することを、当然と思う風潮が、全体を覆っていた。ところが、その情勢に、変化が起きたというのだ。皆が、上を目指して、努力してきたが、そこに、差が生じ始め、どんどん広がると、意識にも、変化が起き始めた。そこでは、格差は、歴然とあり、零れ落ちた人々は、貧困に、苦しんでいる。こんな話題が、屡々取り上げられ、解決すべき問題として、掲げられるが、どうも、その様子には、違和感を覚える。貧困を、問題視する人々は、その殆どが、解決には、支援が必要として、精神的なものばかりか、金銭的なものまで、差し出す必要を、強く訴える。確かに、一部には、急を要する事例も、あるのだろうが、実は、大部分は、その状況には、陥っていない。それどころか、貧困に苦しむという場面と、生活を享受するという場面が、繰り返されると、支援の必要性自体に、疑いを持ちたくなる。日々の食事や、生活用品にも、困っているという状況を、伝えるのが、常道のようだが、一部の出費を、抑えようともしない人間に、支援は、馴染まぬように思える。食事、生活、教育、それぞれに、最低限の配分を、することを忘れ、別の楽しみに、金を注ぎ込むのは、野放図でしかない。義務教育の義務は、親に課されたものだ。それを、放置するのは、人で無しなのだ。

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7月2日(金)−検討課題

 恐怖に襲われ、異常行動を示すことを、恐慌と言う。今では、カタカナ語で、表されることが、多いのだが、大衆が、屡々陥る症状となる。だが、大衆を導く立場にある人は、常に、冷静な判断を下し、過ちを犯しても、修正できる、と言われる。個々の判断より、全体として。
 信頼のおける指導者は、大衆が、望むか否かに関わらず、正しい判断を、下すのが常だ。ところが、馬鹿騒ぎの中、駆り出されたのか、しゃしゃり出たのか、何方にしても、これまで、様々な指針を、示してきた人の大部分は、その能力に、欠けていることが、明らかとなっている。先入観に基づき、誤った判断を、下したとしても、その検証を、行うことなく、同じ間違いを、繰り返す。未知の事象に、関わる場合に、前提が必要となるのは、当然のことだが、あくまで、仮に定めたものであり、要所要所で、再検討を行う必要がある。にも拘らず、その指針を示さず、更には、情報収集を怠り、過ちを重ねるのは、まさに、愚の骨頂でしかない。今回の騒動では、検査を徹底し、陽性者を見つけることで、感染拡大が、防げるとする前提が、置かれたのは、周知の事実だ。しかし、状況の変化が、あったとは言え、その見込みが、大きく外れたことも、周知の事実だろう。潜伏期があり、検査で判明するより、以前の時期に、伝染させる可能性を、指摘しながら、防止策を論じるのは、何とも情けない程、知恵の無い話だが、それに縋ったまま、一向に方針転換を、検討もしないのも、愚かの極みだ。極端な言い方をすれば、この手の感染症では、拡大を食い止める手立ては、殆ど無いに等しい。免疫獲得が、その一手とされるが、それが、人工的に施すか、自然に手に入れるか、どちらになるかは、精査の必要がある。特に、風邪のように、普段から、接触する機会がある、感染症については、後者の可能性が、検討されて然りだろう。だが、ここでも、無能な輩達は、手を拱くのみだ。さっさと動け!

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7月1日(木)−救いの手

 読者が少ないと、どんな問題が、起きるのか。簡単には、情報の広がりが、起きないことだ。本来、噂程度のものでも、人から人へ、言伝られれば、徐々に、広がりが起きる。以前なら、一対一の広がりだけが、頼りだったから、噂の広がりも、大したことは無かったが。
 それでも、倍々ゲームと呼ばれる、一人が、少なくとも二人に、伝えることが、起きたなら、すぐに、膨大な数字に、なるのだか、伝言では、内容の劣化が起き、不正確な情報となり、衰微していく。特に、間に入る人々が、全てを鵜呑みにせず、自分の考えを、反映させると、中身がすり替わる、ことさえ起きる。だが、今の時代は、噂を広げるには、便利になっている。手にした端末から、発信しさえすれば、それが、倍々どころか、凄まじい勢いで、拡散されるからだ。この仕組みには、悪影響を及ぼす可能性もあり、最近は、それに対する注意勧告が、度々行われるが、無知な人々は、その意味さえ、理解できないまま、嘘八百を拡散する。でも、同じ仕組みを、正しい情報の伝達に、使えれば、何事も全て、解決するのではないか、と思う人も多いと思う。だが、興味深い噂と異なり、正しい情報は、面白味に欠け、理解し難い、という欠点を持つ。だから、誰もが、その勢いを増す助けに、なる訳では無い。この独り言も、長く続けてきたが、今では、たった一人しか、毎日の読者は居ない。これでは、社会への発信には、不十分と考え、所謂SNSに、同じことを、掲げてもみたが、誰の興味も、惹かないようだ。原因として、思い当たるのは、読み手の理解に、任せる書き方だが、それを、少し具体的に変えても、まだ不十分らしい。だとすると、原因は、情報の正しさが、興味を失わせることに、繋がるからなのか。良識ある人々の、理解を期待してきたが、匿名でない所での発言さえ、広がりが、起きないことを見ると、それだけではないようだ。彼らでさえ、騒ぎに巻き込まれ、救いを求めているから、正しさより、助けが欲しいのかも。

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6月30日(水)−情勢変化

 過ちに、気付くことなく、騒動が、続けられている。最先端の研究者が、必ずしも、正しい見解を、述べる訳ではないことは、これまでの瑕疵から、明らかになったが、一方で、こういう事象において、最も重要な判断を、下せる筈の分野が、無力なのに、驚かされる。
 これまでの、感染症との戦いにおいて、治療法の開発が、最も重要な役割を、果たしてきたことは、誰にも、わかることだろう。しかし、それが追いつかなくても、状況把握を、正確に行うことで、講じられた対策が、功を奏したことにも、目を向けるべきだ。今も、その傾向が、現れているが、局地的な拡大が、起きた時には、何らかの原因が、あると見做して、それを探る必要がある。その為に、様々な調査を行い、原因と思われる事柄を、炙り出すのが、疫学や公衆衛生学の役割、と言われている。それが、正常に機能せず、ただ、騒ぎを大きくすることに、加担している現状は、専門家が、本来の役割を、果たすことなく、無能ぶりを、発揮していることを、表している。それと共に、ここで、ごく初期から、何度も指摘してきたが、発症ではなく、検査陽性を、指標として用いることが、正当かどうかの評価が、一切行われず、ただ漫然と、同じやり方を、続けていることに、唖然とするばかりなのだ。その中で、世界各地から、ワクチン接種の効果を、減じるような情報が、もたらされると、更に、複雑な事情を、考える必要を、感じるのだ。感染は防げず、発症の状況を、変化させる効果が、事実だとすれば、それに対応する方法を、新たに編み出す必要が、ありそうに思える。だが、現場の状況が、正しく伝わらず、無知な報道機関が、身勝手な情報操作を、行う中では、大衆に、正しい情報が、もたらされることは、決して無い。日々刻々、変化する状況に、頑なな態度で、持論を述べるだけの、似非専門家頼りでは、肝心なことは、何も達成できそうにない。

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6月29日(火)−矛盾だらけ

 恣意的な報道が、多くの問題を、招いているのは、今や、周知の事実だ。にも拘らず、庶民は、自ら、問題を解決しようともせず、悪質な情報に、振り回され、煽られ続けている。ただ、ほんの少し、意識するだけで、これを、防げることに、気付いて欲しいものだ。
 例えば、今、世界で、話題になっていることも、当初の情報を、思い出せば、全く違う様相が、見えてくる。この国では、専門家と呼ばれる人々が、更なる感染を、広げない為と称して、接種を、盛んに推奨している。だが、既に、先を行く、幾つかの国で、感染者の増加傾向が、明確になった、との報道が、それと同時に、流れてくると、不安に駆られる人々は、心配を募らせる。まるで、筋書き通りの展開に、悦に入った人々は、明らかに矛盾した事柄を、並べ立てて、脅し続けるが、簡単に見破れる、矛盾を指摘する動きは、世界中で、起きる気配さえ無い。当初、ワクチンの効能を、製薬会社の説明として、請け売りしていたが、そこでは、感染を防ぐのではなく、発症や重症化を防ぐ、とされていた。つまり、接種したからと言って、感染が防げる訳ではない。これは、現在の指標で、感染者とされる、検査の陽性者が、意味を成さないことを示す。にも拘らず、依然として、同じ指標を振り回し、恐怖を煽るのは、愚か過ぎる話なのだ。とは言え、当初から、陽性者が、事実誤認を、招いていることを、何度も指摘してきた人間には、何を今更、とさえ思える。これに限らず、報道に携わる人々も、専門家として登場する人物も、まともな判断も、確かな記憶も、本来、こういう業務に、不可欠となるものを、一切携えず、勝手気儘な言動を、続けているのだ。そんな無能者の言い分に、耳を貸す必要は、全く無いばかりか、害悪でしかない連中を、排除することこそが、今、世界で行うべき事柄で、その為には、良識ある人々が、大きな声を、上げる必要があると思う。

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6月28日(月)−茶番劇

 不安を煽る材料は、幾らでもある。些細なことを、大袈裟に、取り上げることで、考える暇を、与えることなく、心配させればいいからだ。だが、その被害者となるかどうかは、各人にかかっている。脅し文句に、縮み上がることなく、冷静に、論理的に、対処すれば良い。
 これ程、単純なことも、できない人に、かける言葉は、浮かばない。たとえ、悪意に満ちた、煽り文句が、その発端に、なったとしても、それを、心の中で、膨らませるのは、本人に違いないからだ。だから、彼らに向けて、助言しようとは、思っていない。少しでも、理解力があり、その為に、時間をかけようとする人に、言葉が届けば良い、と思っているだけだ。祭典が、開催可能かどうか、今だに、議論の対象と、考える人が居るが、馬鹿げたことと思う。この程度の被害で、何を、過剰に騒ぐのか、理解に苦しむ。ただ、小さな数字に、毎日触れると、同じように、小さな数字に、騒ぐ人々が、出てくる。南半球の、二つの国の反応は、まさに、その典型だが、狂気とも受け取れる、首相の宣言に始まった、あの国の騒動は、異常なのだ。数の問題は、比較という感覚が、強く反映される。その一方で、そこにあるカラクリに、気付かぬのは、如何なものか。ワクチンは、当初から、感染ではなく、発症と重症化を、防ぐものとの発表が、何度も繰り返されたのに、そのことを、忘れてしまうのは、やはり、無能だからか。その意味では、集団としての要求も、感染拡大の観点からは、無意味でしかなく、馬鹿げた思い付きなのだ。この先、誰が、どのように、正しい道筋を、示せるかが、世界を、愚かな騒動から、救う為に、必要となるだろう。ただ、所詮、この馬鹿騒ぎは、一部の人間が、作り出したものだけに、こんな茶番を、続けること自体、無駄の一言で、片付けるべきことだ。利己的な、人間達の愚行が、世界を巻き込んでいる。

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