パンチの独り言

(7月5日〜7月11日)
(同じ轍、何したい、危機回避、逃げ足、張本人、自己責任、解決済み)



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7月11日(日)−解決済み

 素直な国民は、方針に従うだろうか。それとも、嘘八百の偽情報に、振り回された挙句、呆然と、立ち尽くすだろうか。何の確証もなく、対策における、最終手段の如く、世界が巻き込まれたが、その成り行きには、まさに、暗雲が、立ち込めている。本当に、最終となるか。
 免疫療法は、本来、人それぞれが、身に付けている力を、そのままではなく、外からの作用で、引き出すことで、感染症に、対抗する為の手段として、開発されたと言われる。今回の感染症でも、それが、唯一の解決手段と、製薬会社が、知力を尽くして、開発された。詳細を、調べるつもりは無いが、有効性が示され、多くの国が、導入することで、対策が、成功したかに見えた。ところが、情勢が、変化しつつある。変異を繰り返す、病原体に、対抗しきれない、との見解が出され、次の手段が、必要と言われ始めた。当初から、効果の程には、疑いが挟まれ、鼬ごっこと言われていた。その様相が、現実となりつつあり、折角、接種を済ませた、と安心した人々は、再び、不安に襲われる。だが、よく考えると、不可解なことがある。この病原体は、ある種のウイルス、と分類されており、それらには、共通性があるから、分類可能となる。だとしたら、共通部分を、標的としたらどうか。これまでの免疫療法でも、相手の変化に、対抗する手段として、そういう戦略が、取られてきたと思う。何故、今回のものに、それができないのか、不思議なものだ。確かに、病原体を特定する、検査においては、同分類のものとの違いを、見つける必要がある。だから、独自の特徴を、特定する。だが、免疫は、そうではない。だとしたら、何故、こんな堂々巡りを、しなければならないのか、理解し難い。更に、ここまで考えてくると、誰もが、何度も、風邪を引いたことがあり、もしかしたら、その中に、この分類の病原体に、感染したことが、あるかも知れない。だとしたら、もう、免疫を、獲得している。

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7月10日(土)−自己責任

 姦しいのか、喧しいのか、それとも、煩わしいのか。同じ言葉が、毎日、頻繁に、繰り返され、人々の心を、蝕んでいる。効果が、上がらないからと、更に、その頻度と、言葉の凶暴さが、増してきて、何時果てるとも知れぬ、暴力に、苦しまされる。何故、こうなるのか。
 連呼の効果は、定期的に開催される、ある出来事で、証明されている、と言われる。どの国でも、どんな場所でも、選挙となれば、大音量で、同じ言葉が、何度も繰り返される。確かに、この国のように、ただ、狂気に駆られた如く、候補の名を、読み上げるのは、異常極まりない、と思えるが、もっと冷静な国でも、似たことが、行われる。海の向こうでは、潤沢な資金を使い、広告を流すが、誹謗中傷だろうが、売名行為だろうが、兎に角、反復が肝心とばかり、垂れ流しが、行われるのだ。今回の馬鹿騒ぎでも、世界各地で、同じことが、行われている。それも、広告ではなく、報道という、情報提供の場で、操作された内容が、意図的に、繰り返される。その効果は、首謀者の思惑とは違い、人々の精神を、蝕む方向にしか、上がっていないのは、結局、彼らの戦略が、根本的に誤っており、無駄の一言で、唾棄されるべきもの、ということを、表している。同じことは、この国で、この季節に、毎年話題となる、災害に関しても、当て嵌まる。避難を、呼びかける情報を、監督官庁も、報道機関も、盛んに流し続けるが、該当する地域で、そんな画面を、呑気に眺める人は、居る筈も無い。にも拘らず、何の目的で、こんな茶番を、繰り返すのか。理由は、どちらの騒動も、関係者が、自らの責任を、逃れる為に、的確な情報を、提供している、という証拠を、残そうとしている、だけなのだ。アリバイ造り、と呼ばれ、厳しく批判される行為は、こういう騒ぎが、起こる度に、繰り返される。責任は、被害に遭うかも知れない、当事者にあり、何処か安全な所で、したり顔で、警告を発する人には、無いのに。

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7月9日(金)−張本人

 月刊雑誌の広告の見出しに、「科学が政官に歪められた」、とあった。諮問を受けるとは言え、最終決定は、政が下す、という状況を、表したつもりだろうが、強い違和感を持った。雑誌は、話題になれば、何事も、糾弾するが、自身も、科学を、便利に使うだけだ。
 数値を並べ、そこから導き出した、状況を報告することで、次の対策を、練り上げる、という科学の常道が、掻き乱されたのは、まさに、見出しにあった、科学を担う人々の代表者が、感情論を、展開し始めてからだ。数値の推移から、脅威を演出するのは、無理との判断から、国民の感情を、持ち出したことは、非科学的な見解と、挙って批判していた。しかし、今回は、数値の推移が、期待通りであり、恐怖を煽るのに、好都合だったこともあり、見出しの論調、となったのだろう。科学を、理解する能力の欠如が、こういう輩を、のさばらせるが、根底には、読者の能力の無さこそが、あることに、世間は、気付く気配も無い。それを、改善する為には、各自の努力に、期待するしか無いが、一年以上続く混乱に、ただ、振り回されるだけの、大衆には、無駄なのだろう。実は、こんなことは、今に始まったことでは無く、いつの時代も、愚民の状況に、変わりは無い。だが、それより深刻なのは、肝腎要の「科学」自体の、荒廃だろう。科学は、関わる人々それぞれが、独自の考えに基づき、調査をしたり、出てきた数値を解釈する。そこから、導き出される結論は、当然の如く、種々雑多であり、どれが正しいのか、各自の業績によらず、ましてや、地位の高低による筈も無い。にも拘らず、現状では、政府が指名した人間が、扱う科学のみが、絶対視されており、そこにこそ、大きな危険が、横たわっている。このように、歪められた科学を、まるで、正しいものの如く、扱った結果が、見出しとされた訳で、科学を歪めたのは、科学自身でしかない。世界の混乱は、誤った科学が、起こしているのだ。

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7月8日(木)−逃げ足

 当初から、逃げ腰だった連中が、明らかに、背中を見せて、駆け出そうとしている。はじめから、得体の知れない敵に、何をすれば、評価されるのか、定かでなかったが、それでも、何かしているフリが、必要とばかり、専門家を、呼び寄せて、策略を講じようとした。
 だが、専門家も、意味不明な説明や、論理の破綻を、繰り返すばかりで、解決の糸口は、見つけられず、敵の不気味さを、強調することで、お茶濁しを、する始末では、頼りになる筈も無い。日延ばしで、時間稼ぎを、目論んだものの、所詮、作られた騒動は、その張本人が、幕を引く以外に、解決は見込めない。本丸である、世界機関は、批判を恐れ、自らの過ちを、認める気配は無く、当然ながら、幕が下りることは、あり得ないままだ。制圧が、及ばないのは、周知の事実だが、夢見心地で、僅かな可能性に、縋るのは、末期症状の現れだろう。見込みが外れ、途方に暮れるにしても、予防薬の効果は、日々刻々、無くなりつつあり、人々の辛抱も、限界を迎えた。息の根を止める、病を克服する為には、永遠の命を、手に入れるしか、手立てが無いが、それでも、治療薬が、見つかったとの発表を、出したとの報道に、期待外れしか、思い浮かばぬ。生き延びる力が、残っていれば、治療の甲斐はあるが、無ければ、無駄でしかない。この病の果ては、死でしかないことに、気付かぬフリを、いつまでするのか。こんな世界で、政に関わる人々は、一斉に、市民達に、背を向け始めた。口約束は、反故とされ、お祭り騒ぎは、音の無いものとなる、と言われる。彼らは、幕引きをするのではなく、単に、舞台を降りるだけだ。それとともに、専門家として、持て囃された人々は、後始末に、追われるのだろう。それとも、彼らも一緒に、舞台を降りるつもりか。所詮、責任などという、幻を掲げ、騒ぎを大きくしたことに、罪悪を、感じる筈も無い人間が、市民を、愚弄しただけだったのか。

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7月7日(水)−危機回避

 災害後に、行方不明者の、救出が行われる。生き埋めになり、生死が、定かでない人を、救い出そうと、特別な訓練を受けた、専門家達が、活躍する場面に、画面に釘付けに、なる人も多い。一方で、災害の度に、生死の境として、話題になるのが、72時間だ。
 今回も、報道関係は、挙って、この制限時間に、触れていた。だが、それを、素直に、受け止めた人は、居るのだろうか。建物が崩壊し、閉じ込められた人々は、多くの場合、隙間もなく、生き延びることが、できない。だが、時に、ほんの僅かな隙間に、閉じ込められ、命を存えている。しかし、それでも、水分の欠乏から、死を迎える。その時間が、およそ3日間、と言われている。だが、例えば、雪崩に巻き込まれ、息が殆どできない場合は、そんな時間の余裕は無い。ただ、その現場が、報道で伝えられることは、時間的にも、物理的にも、殆ど起きない。一方、今回の土石流は、現場の状況が、時々刻々、伝えられるから、この制限時間に、触れようとしたのだろう。だが、水を含んだ泥が、流れる中で、生き埋めになったとして、この設定が、適用されるかは、殆ど可能性が無い、と思える。にも拘らず、そういう点に触れ、何か、重要なことのように、扱う人々の、頭の中は、どうなっているのか。そんな疑いを、抱きたくなる程、今回も、何やら、怪しげな情報を、垂れ流している。今更、こんなことを、取り上げても、あの連中に、何の影響も、示せないだろう。ただ、何度繰り返しても、同じような、過ちを続ける人々に、警告を与える必要が、あると思うだけだ。自然の脅威は、ちっぽけな人間にとり、抗えないものだが、避ける為の手段は、様々にある。災害も、そうだろうが、今回の、感染拡大という、人為的な騒動も、どう避けるかは、各自で考え、実行すれば、恐れるものではない。不安や心配を、口にするだけで、何もしない人間は、偶然に頼るしかない。

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7月6日(火)−何したい

 科学への信頼が、下落し続けている。そう言われるのは、科学の進歩により、新しい技術が、編み出されて、それが、製品化されたことで、便利になった筈の生活が、新技術の悪影響で、脅かされているからだ。始まりは、ずっと昔だろうが、皆が気付いたのは、公害からか。
 まだ、多くの人々が、気付かなかった時代に、警鐘を発したとして、今でも、多くの人々に、取り上げられる書籍は、当初、物議を醸すとして、この国では、翻訳者が、匿名を用いた、と言われる。それ程、良い意味でも、悪い意味でも、影響が及ぶとして、考えられたのは、過激な内容が、含まれていたからだ。だが、読んでみると、全体の論調に、過激さは、感じられず、主張も、確かに、一部の大きな勢力を、敵対視したものだが、その当時も、また、今に至っては、脆弱としか思えない。確かに、権力側を、敵に回して、行動に出ることには、様々な危険が、伴うのだが、当時も今も、言論の自由は、一部の国を除き、保障されている。ただ、だからと言って、身勝手な極論が、許される訳では無い。まずは、確実な根拠を示し、それが、どんな影響を及ぼすか、仮想的にせよ、検証する必要がある。それを怠り、嘘を並べて、それを重ねる行為には、反吐が出るだけでなく、何かしらの処分の必要性を、感じる。自由の保障は、嘘や欺瞞をも、含めたものではなく、特に、市民の混乱を、招くものとなれば、厳しい処分を、すべきだろう。先月読んだ本で、科学そのものに関して、論じたものがあったが、どうにも、歯切れの悪いもの、と思えた。科学者が、自省を含め、問題点を、整理したつもりだろうが、その多くは、舌足らずに終わり、問題点の整理さえ、覚束ない状況に、終始した。論客として、注目されるからこその、出版だろうが、内容の質は、期待外れだった。どうも、科学の世界そのものが、この著者の姿勢と、似た状態にあり、何を、反省したいのか、明瞭でなく、理解し難い。

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7月5日(月)−同じ轍

 新聞や放送などの、マスメディアの役割が、大きく変化している。自由主義、民主主義の下では、客観的な視点から、判断を下すことが、権力に対抗し、民衆への情報提供は、偏向を矯めていたが、死への恐怖という、圧力の下では、一部の極論に、与しているようだ。
 この姿は、嘗て、軍国主義、独裁主義の下で、権力者に与して、彼らが発する、恣意的な情報を、流していたものと、似ているように見える。権力に屈したものとは違い、今回のものは、単に、圧力に屈したものだが、力の出元が違っても、屈服するという、報道に携わる人間が、忌み嫌ってきた、あるまじき行動、という意味で、同じと見做せる。何故、こうも簡単に、靡いてしまうのか、自分で、客観性を維持しつつ、判断を下してきた人間には、理解し難い。だが、その兆候は、平和な時代にも、災害などの被害が、広がる度に、現れていたのではないか。権力者だけでなく、大衆からも、数々の圧力を受け、その結果として、与する情報提供を、繰り返してきた人々は、客観性や多様性を、蔑ろにし続けている。権力だろうが、大衆だろうが、力に屈することは、あってはならないことであり、常に、一方的ではなく、多方面からの視点で、情報を収集し、提供することこそが、彼らに課された、役割なのではないか。それを、すっかり忘れて、全てを投げ出して、恐怖を煽ったり、間違った情報を、垂れ流し続けては、その存在意義さえ、失うものとなる。再び、何故かを問うと、そこには、安易な考えが、あることに気付く。つまり、力に屈することで、何も考えずに、同じ方に流れれば、何事も、簡単になるからだ。上から流れる情報を、検証もせずに、垂れ流すことも、その表れだろうが、本来なら、細かく解説すべきことも、ただの請け売りにすれば、手間要らずとなる。だが、それが、社会を、誤った方に導くとしたら、その責任は、嘗て同様、非常に重いものとなる。

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