パンチの独り言

(7月12日〜7月18日)
(過誤、取り違え、ごみだめ、無駄、嘘吐き、駄目なの、元通り)



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7月18日(日)−元通り

 いつ頃から、こんな欺瞞が、罷り通ることに、なったのだろう。何の疑いも無く、何の躊躇いも無く、何の衒いも無く、純粋無垢なふりをして、愛する人の為に、と盛んに喧伝する。まるで、それが、人間としての務めの如く、叫び続けるのは、恥知らずとしか、思えぬ。
 人間は、確かに、社会性動物の一つだ。だから、集団の中で、生き延びることが、大切となる。だが、それが、自らを、犠牲にしてでも、かどうかは、別の話だろう。利己主義、個人主義が、台頭する中、この社会性を、強調することで、何かを訴えてきた人々が居る。その主張の一つが、利他主義、というものだ。自分の為ではなく、他人の為に、ということが、考えの中心にあり、それが、ヒトの社会性を、保っているという論理だ。一見、意味深いことに、思えるのだが、少し考えると、そこにある牽強付会は、異常なもので、呆れてしまう。今回の騒動も、死の恐怖を、盛んに植え付け、全体の崩壊を、免れる為には、自己犠牲が、重要とする。それが、まるで、正義の象徴の如く、紹介されると、反吐が出てくる。人間は、確かに、社会の一員として、その歴史を、刻んできた。だが、それは、全体として見渡すことで、見えてくることであり、現実には、各自は、自己中心に考え、その行動の結果として、生き延びたり、死んだりしてきたもので、生物として、存えてきたのは、総合的なものに過ぎず、各個体にとって、その選択が、正しいかどうかは、全く別のものだ。現時点で、確かに、多くの犠牲者が出て、世界全体として、混乱の渦に、巻き込まれたように、見えているが、現実には、ほんの少し、波が高くなっただけで、一時的な現象として、見ることこそが、重要となる。そこからの回復で、どんな行動が、重要となるか。確かなことは、これまで、半強制的に行われてきた、制限を続けることではなく、皆がそれぞれに、自分の身を守ることを、心がけることだ。元通り。

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7月17日(土)−駄目なの

 学校では、剽窃はいけない、と教えるらしい。便利な時代には、紙の上の文字を、自分で、別の紙に、書き写すのではなく、画面に現れた文字を、なぞることで、それを電子的に写し、別の場所に、貼り付けられる。何の造作も無く、熟読さえ無しに、行えるのだ。
 文字に、接することになってから、人類は、書写という行為で、それを身に付けてきた。上に書いたことも、自分で書き写せば、それが、身に付くと言われていた。だから、他人の文章を、拝借するにしても、新たに書くのなら、まだ、何かしらの知識が、身に付くとして、認められてきた。しかし、それが、安易な操作で、行われると、何も残らず、何も身に付かないから、いけないとなった。だが、書写は、今でも、重要な作業であり、それで、身に付くものは、沢山ある。漢字の書き取りも、同じもので、この国では、それで、漢字を覚えた人ばかりだ。それが、学校に、端末が持ち込まれ、操作を繰り返せば、何事も、身に付くものと、言われているが、果たして、どうだろうか。時代が変われば、人も変わる、と言われるものの、何の保証も無く、導入ばかりが、急がされており、懸念は残っている。一方で、剽窃の禁止は、極端な反応へと、結びついており、他人の文章を、真似ることも、禁じる動きが、強まっている。だが、学ぶことの基本は、真似でしかなく、それを禁じて、どうしたいのか、理解できない。切り貼りを、禁じるのは、一部には、意味がありそうだが、どうにも、極端な動きは、馬鹿げた結果しか、招かないように思える。その中、興味深かったのは、仕事上の文書作成の心得、を読んだ時だ。電子メールの宛先や、相手の名前に、間違いがあっては、いけないという説明の中で、解決法は、切り貼りである、という意見があった。何を、大切と思うかが、肝心な筈なのに、あることを、禁じることしか、思いつかないのは、弊害が起きる。極端な反応は、そんなもんだ。

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7月16日(金)−嘘吐き

 便利なだけでなく、安全・安心な生活を、送ることができるのは、科学技術の発展のおかげ、である。だが、良いことばかりではなく、悪影響が、広がったこともある。半世紀程前の、公害は、その際たるものだが、交通事故死も、その一つだろう。過去のこと、だが。
 公害も、交通事故も、技術の発展により、害悪の面が、減じられてきた。ここでは、科学は、自らが招いた災厄を、消し去ってきたのだ。その意味で、人々は、科学の恩恵に、浴している、と言えるだろう。だが、時に、被害が、甚大になると、大衆の印象は、固定されたまま、拭い去ることが、難しくなる。原子力発電所の事故は、これまでに起きたもので、甚大な被害が、及んだ為、それに関する技術への、強い不信を、引き起こした。実際には、一部の懸念は、杞憂に終わり、脅かされた生活も、ほぼ正常に戻った。そこから見えるのは、不信感が、過剰反応により、引き起こされただけで、冷静になれば、全く異なる状況となることだ。しかし、信頼が失墜したことで、元通りに戻ることは無く、別の問題を、引き起こし続けている。一方、この際に、罵声を浴びせられた科学者達は、真摯に解決に取り組み、説明に努力したが、不確定な事象の説明で、窮地に追い込まれた。ただ、彼らは、論理的にも、確率的にも、正しい見解を述べただけで、それが、大衆に、受け入れられなかっただけだ。ところが、今の騒動は、全く異なる様相を、呈している。専門家と呼ばれる人には、科学を学んだ人間も、居る筈なのだが、彼らの殆どは、非論理的な主張を、繰り返すばかりで、自らの過ちを、認めることもしない。その言動により、人々を、恐怖に突き落とし、その成果で、愉悦を覚えている。これでは、詐欺師と同じで、騙すつもりはなかったとする、犯罪者達と同類だ。ただ、嘘を並べて、自らの利益を得る。こんなことで、科学への信頼が、更に失われるのは、不当でしかない。

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7月15日(木)−無駄

 3週間前に、指摘したことだが、ワクチンの必要性が、大きく揺らいでおり、不安を煽る連中には、好餌を、与えている。一部の良識ある専門家は、限定的な効果を、強調することで、懸念を、払拭しようとするが、無理解な愚民には、届く筈もない。お手上げなのだ。
 当初から、指摘されたように、ワクチンは、これまでの騒ぎの、中心となっていた、感染者数、正確には、検査陽性者数を、減らす効果を、持たない。有効性として、製薬会社が、主張したのは、この感染ではなく、発症するという意味での、感染を、防ぐことで、重症化をも、抑えるとしたのだ。自作自演の大騒動を、牽引する人々は、自らが犯した間違いを、正すことなく、依然として、異なる意味の感染を、混同したまま、出鱈目を続ける。脅すこと以外に、能の無い人々に、耳を貸すのは、時間の無駄でしかなく、無視するのが一番だが、暇な報道は、そういうことに、精を出している。何れにしても、効能は、そういうことだが、その説明の中で、効力を示す範囲に、及ぶことがあった。その中で、変異株に対しても、同様の効果が、得られる可能性を、提示していたが、もし、これが正しいのなら、今まで、陽性者数が、爆発的に増えた国と、そうでない国で、何かしら、異なる背景がある、という可能性が浮かぶ。この手の病原体では、今、陽性と括られる、体内への侵入に対し、抵抗を示す、免疫と呼ばれる仕組みが、重要な役割を、果たしている、と言われる。ここに、国ごとの違いが、生じた可能性を、当てはめることは、かなり、あり得ることであり、それを、真剣に考えるべき、と何度も主張してきた。今も、その考えに、変わりはなく、ワクチンに頼らずとも、この国の傾向は、問題無いことを、示していると思う。更に、今回のワクチンが、限定的な期間しか、有効でないとの指摘は、別の問題を、想起させる。だとしたら、この騒動全体が、大いなる無駄、でしかなくなるのでは。

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7月14日(水)−ごみだめ

 算術に精を出し、好き勝手な言動を続ける、医療関係者、特に、その組織の幹部らは、厳しく糾弾されるべきだ。だが、一方で、仁術に拘り、全ての命を、救うことに、目を奪われて、真に大切なことを、見失う医療従事者もまた、批判の対象となる。何故だろうか。
 改めて、指摘するまでもなく、生き物は、必ず、死を迎える。種という集団では、次の世代に、引き継ぐことで、存えることが、可能となるが、個体として見れば、絶えることは、当然の帰結なのだ。ところが、この騒動が、巻き起こった当初から、意味不明な論理が、罷り通るような雰囲気が、作られてきた。そこでは、命を救うことが、命題であり、それを目指す為に、日々の努力を、続けることが、当然と見做されてきた。その考えでは、目の前で、消えていく命の火を、見守ることの辛さが、異常な程、強調されていた。だが、冷静に見れば、命が絶えるのは、運命でしかなく、それを見守るのは、その場に居る人間の、役割となる。医療に携われば、そんなことは、日常であり、それに、精神を揺すられては、失格の烙印を、押されてしまう。厳しいことだが、そこで、行うべきは、救える命と、救えない命を、選別することであり、救急医療では、常識として、扱われる行為なのだ。その理解を、報道関係者が、怠り、馬鹿げた騒ぎを、煽動するのは、今に始まったことではないが、一方で、当事者が、恥じること無く、人道的という考えを、見せびらかすのは、まさに、失格としか言えない。今も続く、現場の混乱は、専門家としての資質に、欠ける人間が、関わったものだが、その組織の幹部は、更に、劣悪な言動を、繰り返している。どの国でも、優秀の極みとして、上り詰めた先にある、職業の一つだが、長く言われるように、専門家としてだけでなく、人間としても、失格と思える輩が、巣食っている世界でもある。一部のゴミに、目を向けるのを、止めるべきだ。

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7月13日(火)−取り違え

 様々に、強いられる中、終わりの見えない戦いに、疲弊が強まる。解決の糸口は、これまでの方針を、殆ど全て投げ出し、ほんの僅か前の生活を、取り戻すことと思う。だが、死への恐怖に、苛まれる人々は、そんな思いを、押し潰そうと、躍起になる。邪魔くさい!
 別の場所で、それについて、書き綴ったら、早速、幾つかの反応があった。その中に、この騒動で、年間の死亡者数が、減少したことを、手柄のように、扱う書き込みを、紹介するものがあった。後期高齢者に属する、その意見の書き手には、確かに、一つの喜ばしい情報に、違いないのだろうが、全体として考えると、とんでもない意見、としか思えない。特に、同じ騒動から、減少を続けてきた、出生率が、更に下がったとの話を、考えれば、少子高齢化が、更に深刻化し、医療費や年金などの、公的な負担が、更に増すことが、予想されるのだ。何度か、書いてきたことだが、生きとし生けるものは、死を迎える運命にある。それが、先に延びたとしても、死は、必ず訪れる。そのことを、考えると、現状の混乱の中で、少し、長生きしたとしても、楽しみが奪われ、自由さえ、束縛されては、何の意味も無い。それを、何を思ったのか、ある一面だけを、捉えることで、正当化するのは、明らかな間違いでしかない。誰もが、長生きしたいと思う、という考えに、縛られる人の多くは、痛みに苦しんでも、生き延びようとするし、寝たきりになっても、生きたいと願う。そういう考えしか、持てない人と、同じに扱って欲しくはない。更に、強いられる中でも、楽しみ方はある、などと宣うに至っては、何をか言わんや、である。問題の本質は、現在、世界が巻き込まれている、制限下の生活が、不可避のものか、という点にあり、その常軌を逸する論理を、糾弾する必要が、あるということだ。この人物の論調は、初めから、的外れであり、読むに値しない。紹介されても、困るのだ。

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7月12日(月)−過誤

 何度も、過ちが、繰り返される。一般社会では、過ちを犯せば、その代償として、罰を受ける、と言われるが、今、世界各地で繰り返される、過ちに関して、そんな気配は、見えてこない。死の恐怖に、勝るものは無い、とばかりに、諦観されたのか、看過せざるを得ないのか。
 ただ、過ちとは、それにより、被害が、出た時に、顕在化する。確かに、数値的には、一向に収まらず、政策の効果は、皆無だった、と見る向きもあるが、現実的には、過ちとされる動きが、行われなかった場合、と比べる必要がある。批評家達が、盛んに、使う分析は、単に、数値の変化を、追跡するだけで、他の場合との比較は、一切行われない。本来なら、国ごとの違いを、比べることで、できる筈のことも、理由は判らないが、気配さえ、見えてきていない。何故、こんな怠慢が、許されるのか。それは、単に、恐怖に駆られ、不安に苛まれるだけで、冷静に、全体を見渡す能力が、無いからに違いない。では、過ちは、あるのか。これまでの経緯でも、十分に、解き明かせるが、政策自体は、役立たずだっただけで、被害を、更に広げたとは、言えない状況にある。感染症による被害として、当初から、重視されてきた、死者数に関しては、有ろうが無かろうが、何の変化も無かった、と言えそうだ。では、それだけで、済ませていいのか。否、である。実際には、病気の蔓延には、手の施しようが無く、無力でしかなかったが、政策を強行する中で、様々な悪影響を、社会に及ぼしたことに関しては、重大な過失があり、その責任は、確定している。混乱を招いたことは、有形な被害として、評価し難いかも知れないが、多くの産業に対して、被害を及ぼしたことは、金額的にも、評価可能だろう。更に、その被害を、削減する為、と称して、導入された、補助金や支援により、国の財政を、出動させたことは、国全体に、被害を及ぼしたこととなる。それこそ、重大な責任を、問うべきことだ。

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