パンチの独り言

(7月19日〜7月25日)
(無用の長物、注視せよ、乱費、喜び勇む、楽観視、狂気沙汰、無恥蒙昧)



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7月25日(日)−無恥蒙昧

 前の日曜日にも、欺瞞について、書いていた。だが、世界の欺瞞は、新型コロナの、作られた騒動だけでなく、他にも、数多く、世の中に、溢れている。何故、正直に、生きられないのか。確かに、自分の思い通りは、周囲にも、自分にも、悪影響を、及ぼすことがあるが。
 しかし、ここで取り上げる欺瞞は、力を持つ者達が、自分達に、有利に働くように、整えたものだ。その意味では、思い通りに運ぶのだが、これは、正直とは言えない。何しろ、様々な嘘を積み上げ、それによって、世界中の人々を、混乱に陥らせる。これは、欺瞞以外の何物でも無い。結局、騙した側が、主導権を握り、混乱を起こし、収めたように、見せるのだ。そこには、詐欺と同様に、自らの利益を、最優先にして、他人に害を及ぼす。感染症は、その典型で、今、その真実が、露呈し始めている。ただ、これについても、主導権を握れば、状況の解釈どころか、数値の操作まで、思い通りに、行うことができる。専門家の特権は、ここにあり、知識を持たない人々にとって、頼りにするしかなく、反論も許されない。本来なら、感染症を、専門とする人だけでなく、免疫を、専門とする人や、疫学などの調査を、専門とする人が、それぞれに、解釈を展開し、正しい答えを、導く筈が、現状は、そんな均衡は、全く取られず、ある筋書きに、則ったものだけが、認められている。これでは、過ちが、正されることも、注意が、喚起されることも、起こる筈が無い。同様に、世界機関が、主導しているものに、SDGsと略される、持続可能な開発目標がある。これも、様々な欺瞞が、織り込まれており、意図的な展開が、仕組まれたものだ。ここでも、専門家というごろつきが、偉そうなことを、書いたり、話したりしている。だが、元々の案自体が、底が浅く、身勝手な論理に基づく為、それに与する意見も、浅薄で、情けないものでしかない。恥知らず、と呼ぶしかない。

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7月24日(土)−狂気沙汰

 当初、現場の混乱と、落胆が、様々な形で、伝えられた。一部の国では、その状況に、大きな変化が起きず、ある意味の悲劇は、続いているが、この国では、普段は、頼りにならぬ、と批判を受けるばかりの、監督官庁が、優先すべき課題を、決定することで、混乱を解消した。
 現場では、依然として、混乱は続く、との指摘もあるが、当初の過剰反応の如く、施設を閉ざすことで、肝心の権利を、奪い取るような愚かさは、消え去ったと言える。だが、世界で見れば、そんなことは、実現不能であり、命を守る為に、多少の犠牲は、止むを得ない、とばかりに、施設閉鎖を続ける。さて、何の話かといえば、学校のことだ。次代を担う子供らに、教育を施すことが、いかに重要かは、論じるまでもないが、そんな簡単なことさえ、忘れ去る程に、恐怖が広がったのか、それとも、実際には、子供のことなど、二の次と思うからか、何れにしても、政に関わる人々の、無能ぶりが、露呈したことだろう。様々なことに、覚束なさを、見せている、この国の政府も、この点に限って言えば、真っ当な判断を、下したと言えるだろうか。細かなことを、無視すれば、今の所、妥当な線を、歩んでいるようだ。ただ、初等中等の学校に関しては、自治体の権限が、及ぶからこそ、危うさは、まだ残っている。既に、感染が拡大した地域で、誤った判断を、下した所もあり、将来を見通せない人間が、関わることの問題を、示している。次に来るのは、接種の有無が、問題になるかで、現時点では、未成年者は、対象外となり、問題とならないが、今後の展開次第では、どう転ぶか分からない。一部の専門家の、馬鹿げた主張が、尊重される状況では、油断はならないが、さて、どんなことが起きるのか。海外では、強制力の行使が、話題となりつつあり、懸念が、高まっている。自由を奪う蛮行が、国を挙げて行われたら、悲惨な結末となる。それまでに、正気に戻るか。どうだろう。

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7月23日(金)−楽観視

 悲観が、世界を覆い、一方的な考えが、席巻する中、論理的で、常識的な考えは、異論として、打ち捨てられつつある。だが、人間の営みを、続けることに、必要なのは、悲観ではなく、楽観である。悲観は、危機意識として、一時に危険を、避ける時に、役立つだけだ。
 病原体との戦いにおいて、勝利を収めたことは、殆ど無い、と言われる。確かに、天然痘は、撲滅された、と言われるが、鳴りを潜めているだけで、何処に、どんな形で、隠れているか、今の科学力では、暴くことができない。一方、細菌との戦いは、抗生剤の登場以来、勝利を収めてきた、と思う人も、多く居るが、それは、浅はかな考えで、無力な時代とは、違うものの、敵は、抵抗性という新たな武器を得て、反撃に出ている、と言われる。どちらも、楽観的な見方は、適さないと思えるが、かと言って、悲観かと問われれば、そうではない。適切な対処を、続けることにより、甚大な被害は、抑えることができるからだ。では、今回の騒動は、どうだろう。まさに、悲観的な筋書きが、この国どころか、世界各地で、広がり続け、特に、甚大な被害が、広がった地域においては、まさに、悲劇が、展開したと言われる。だが、冷静に眺めると、その被害は、ある範囲に留まり、その程度の違いが、国ごとや地域ごとに、異なっていることで、専門家達の戸惑いを、起こしている、と言われる。ただ、これに関しては、自らの不明を、反省することなく、ただ、闇雲に、偏った考えに固執し、検討を重ねない姿勢に、全ての原因が、あるようにも見える。では、楽観では、どんな展開が、予期されるのか。悲観論者が、盛んに用いる、数字には、多くの欺瞞があり、本質を見極めねば、ただ、路頭に迷うだけだが、現時点の状況からは、潜在的な抵抗性を、人間集団が、保持していることが、見えており、それによれば、戦いは、続いたとしても、自然収束が、起きると言える。冷静になるべきだ。

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7月22日(木)−喜び勇む

 喜色満面か、と思うのは、こちらが、良からぬ思いを、抱いているからか。日々、増すばかりの数字に、まるで、鬼の首を、取ったかの如く、勝ち誇ったように、警告を発する。だが、通常の感覚では、何度繰り返せば、目指している筈の、収束に、辿り着けるのか、と首を傾げる。
 これも、何度も繰り返すだけだが、無駄な数字を、集め続けることに、多くの人々は、関心を、失い続ける。その中で、耳目を集めようと、躍起になる人々は、一つ覚えの、数字の発表となるのだ。何故、市民は、言うことを、聞かないのか、と訝しんでも、自分の愚かさを、棚に上げてては、どうにもならぬ。初めから、馬鹿げた騒ぎと、冷ややかな視線を、送り続けるが、それにしても、被害は、広がるばかりで、彼らが作り出した、感染拡大騒動同様、収まる気配が、見えてこない。だが、愚行の数々からすれば、当然の結果であり、世界を巻き込んだ、散財の数々は、人類の歴史に、大きな汚点を、残すに違いない。但し、歴史を書き記すのも、彼らの役割であり、自らの失点は、書き換えられるだけだろう。過ちを犯すのは、人間にとり、ごく当たり前のことに過ぎず、それ自体を、厳しく断じても、同じ罰が、自分に下されるだけだ。それより、重要なことは、過ちを犯しても、その間違いに気付き、改善を図ることで、名誉回復や、汚名返上が、度々、取り沙汰されるのも、その為なのだろう。だが、今回の騒動の、劣悪さは、主人公達が、自らの過ちに、気付くどころか、それに、更なる過ちを、上塗りし続け、元の形が、分からぬ程に、塗り重ねたことだろう。そんな厚塗りを、剥がすのは、容易なことではない、と思えるが、実は、それ程のことでもない。全ての根源に、当初の過ちが、結び付いているから、それさえ除けば、造作もなく、剥がれ落ちる。では、何故、そんな簡単なことが、出来ないのか。そりゃ、それ程に愚かだから、と断じるしかない。

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7月21日(水)−乱費

 弱腰の政府は、例の如く、批判の標的となり、罵声を浴びせられている。だが、今回の騒動に限れば、強気も弱気もなく、全ての政府が、槍玉に挙げられている。当初から、誤った道を選び、何度、過ちを繰り返しても、懲りずに、同じ過ちを犯す。当然の、結果なのだ。
 では、政府だけに、その責任があるのか。否である。諸悪の根源は、当初から糾弾するように、世界保健機関にあり、それに与する専門家と呼ばれる、愚かな集団にこそ、重大な責任がある。感染症への対処として、発症ではなく、病原体の有無を、調べることが、最優先となる、という学界の見解は、封じ込めという目的を、果たす為に必要なものとされたが、これ程の長期に渡る戦いで、どんな成果を上げたか、検証する気配さえ起きない。というより、何をどう調べればいいのか、検討もせずに、一つ覚えの如く、検査を続けているのだから、呆れ返る。戦略として、選んだこと自体にも、重大な過誤があるが、それにも増して、検証を怠り、漫然と続ける姿勢は、まるで、ある業界を、活況とする目的こそが、最優先だったのでは、との疑いを、持ちたくなる。ワクチンの騒動も、下劣な人々に、餌を与えることしか、できていないが、ここでも、非論理的な解釈が、横行しており、専門的な論証さえ、できない連中は、切り捨てるべきとさえ、思えてくる。振り回された人々には、今更と聞こえるかもしれないが、検査を優先するのを、中止することこそが、今、最優先で行うこと、と知るべきだ。発症もせず、何の問題も、抱えていない人々を、感染者と断じ、強制的な措置を、行ってきたのは、封じ込めの為だが、それは、無効であることが、明らかとなった。その上、抵抗性を獲得した人間でも、検査陽性となる事実は、この手法が、根本的に無意味であることを、示しているのだ。世界中が、死への恐怖から、乱費を強いられ、人々の生活を、脅かし続ける。こんな愚行は、さっさと止めるべきだ。

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7月20日(火)−注視せよ

 筋書き通りの展開の筈が、どうしたことか。切り札が登場し、かなりの割合が、接種を済ませたのに、騒ぎが、再燃されている。効力が、限定的かどうかは、未だ、明らかではなく、恐怖を煽る連中には、状況は、好都合と映る。だが、冷静に眺めれば、結論は出ている。
 好況を呈していた、株式市場は、急増する数に、不安を露わとして、急落に転じた。元々、好況の根拠が、脆弱だったからこそ、こんな過剰反応が、起きただけで、市場が、先行指標となる、と主張する、経済関係者の論理も、脆弱ということだ。では、今回の事象は、どう考えるべきか。6割を超す人々が、接種を済ませた国で、突如として、検査陽性者が、急増したことで、不安が広がったが、一方で、政府は、予定通りに、制限解除を始めた。そこに、大きな矛盾を、感じる人が、居るかもしれないが、これは、従来の扇動報道に、乗せられただけで、冷静に見れば、何の矛盾も無い、となる。ワクチンの効力は、検査陽性を減らすのではなく、発症を抑え、重症化を防ぐだけだ。そこからすれば、急増は、驚くことではなく、死者数が、増えないことに、目を向けるべきだ。ただ、ここまでは、想定通りだが、陽性者の内訳を、眺めてみると、気付くことがある。それは、半数近くが、未接種者だったことで、これが事実なら、発症も、重症化も防げず、死者数は、従来通りに、急増する筈だ。となれば、今後の展開を、注視する必要があり、その変化によって、従来通りに、接種が切り札となる。しかし、もし、そうならなかったら、さて、どう考えるべきか。これまでの経緯で、生き残った人々は、その多くが、抵抗性を持つ、と考えるのも、一つだろう。筋書きは、所詮、机上の空論である。それを承知の上で、物事を、精査する必要があり、それを怠ったまま、騒ぐだけでは、何にもならない。騒ぎを続ける、似非専門家達は、まさに、その典型であり、人間としても、無価値なのだ。

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7月19日(月)−無用の長物

 日が迫るに従い、例の如く、批判に終始する輩が、しゃしゃり出てくる。欠陥を、指摘することで、悦に入っているが、対応策を、提示することなく、駄目出しだけだから、何の役にも立たない。が、いつも、こんな騒ぎが起こる。懲りない連中と、野次馬に、よるものだ。
 対策の不備は、敢えて指摘するまでも無く、山積している。関係者に、徹底できるかは、肝心なことだが、規則破りは、常に登場する。それを、殊更に取り上げ、騒ごうとする人々は、この期に及んでもなお、祭典反対の声を、上げ続ける、一つ覚えの愚衆と、変わらない。所詮、現実を、直視することなく、軽重の違いに、気付く気配さえ見えない。その中で、長きに渡り、続けられてきた、感染防止策の一環を、見直す時期が、再び、訪れていると思える。ここでは、当初から触れていた、封じ込めの役にも立たず、単に、一部の企業の収益を、莫大なものとしただけの、検査制度の問題が、改めて、再考すべき時が、来たと思えるのだ。唯一の救いとして、これも同様に、一部の企業に、ボロ儲けをさせた、ワクチンの効用は、あくまでも、発症と重症化を、防ぐことにある、とされてきた。一方で、検査陽性は、発症の有無に無関係に、判定が下されるが、それこそが、封じ込めの手段として、主張されたものの、何の効果も示せず、無駄だったことは、火を見るより明らかだ。その中で、祭典への参加者は、その殆どが、接種を済ませ、自らの安全を、確保したものと見做せる。にも拘らず、無益となった検査を、依然として、続けることは、噴飯物としか、思えない。このことは、何も、祭典に限ったことでなく、あらゆる環境で、同様に扱われるべきだが、非論理的で、非科学的なことしか、叫び続けられない、専門家と称する、嘘吐き達は、そんな良識を、持ち合わせていない。この国も、世界のどの国も、そんな気配さえ見えない。要するに、諸悪の根源である、世界機関の僕に過ぎないのだ。

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