パンチの独り言

(8月2日〜8月8日)
(無批判、残念ながら、頼りない、復権、議論抜き、議論好き、多士済々)



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8月8日(日)−多士済々

 今週、偶々、書評で取り上げられ、題名にある、「正しく」という言葉に、惹かれて、2冊の本を購入し、遠出の途上で、読んでみた。話題の感染症の研究者と、報道に携わる人間が、騒動の本質に、迫る勢いで、話し合った結果を、纏めたもので、読む価値は、確かにある。
 この欄では、毎月、読んだ本を、纏めているが、月初めに読んだ本の紹介は、月末まで、報告できない。その点に関しては、暫く待ってもらうしかないが、少しだけ、内容を紹介したい。と言っても、まずは、背景から始めよう。この出版社は、以前、ある国立研究所の研究員を、取り上げていた。曰く、感染爆発は、非常に危険であり、その警告を、発するのは、ある著名な作家が、発していた、環境問題の警告と、同価値である、というものだ。だが、立場の違いも、弁えぬままに、大衆を煽動する発言には、専門家にあるまじき、態度と見えていた。その後、姿を消したと思えたが、この騒動が、始まった途端に、突然、画面に現れた時の驚きは、かなりのものだった。我が意を得たり、との表情で、得得と語る姿は、あの時と、全く変わらず、煽動者としか、思えないものだった。その出版社からの本は、全く異なる論調で、結局、表面的な理解しか、できないからこそ、という事情が、見えていたが、少なくとも、世界を覆う過ちを、批判する姿勢は、評価できた。ただ、この研究者の考えも、数多あるものの一つに、過ぎない。書籍で、世に問うのなら、紙面や画面を、賑わすだけの、似非専門家ではなく、真の専門家や、専門外の研究者が、どう考えるのかを、論じる場を、提供して欲しい、と思う。話として、刹那的な意見を、残すのではなく、活字として、後々まで、批判に晒される、確固たる意見を、残して欲しいのだ。それこそ、言論界を含め、意義深い、議論の場を、提供するもの、となるに違いない。今の問題が、意見の偏りを、発端としているからこそ、多様なものを、扱うべきだ。

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8月7日(土)−議論好き

 議論の場が、設けられていない、という問題は、実は、かなり深刻なのだと思う。良識ある人間なら、様々な情報源に、接することで、多種多様な情報を、手に入れるのだが、殆どの人は、自らの好みで、好都合なものだけに、触れようとして、結果、知識が偏ってしまう。
 そんな中でも、ある情報源が、そこでの議論を、提供していれば、好むと好まざるに関わらず、様々な意見に、接することが、できるだけでなく、その持ち主達が、議論を戦わせれば、互いの意見の違いや、問題点を、整理することが、容易となる。だが、そんな場は、どこにも存在せず、皆が、発信源と受信源として、便利に扱う端末でも、取捨選択を行うより、事前の設定や、仲間の形成などで、篩に掛けることで、情報の限定化が、行われてしまう。好き嫌いで、動くことが多い人間には、この傾向は、何の問題も招かず、日々の生活を、安穏に送ることが、可能になるとされる。だが、こんな安心、安全は、実は、非常に危ういものであり、間違った方に、自ら向かうこととなる。それも、本人は、正しいと信じた話のみを、手に入れてきた、と信じているだけに、疑いも抱かず、検討の余地など、あろう筈が無い。これでは、情報操作を、妨げることは、できない。では、どうしたらいいのか。まずは、好むと好まざるに関わらず、という点に、目を向けることで、多様な意見に、接することに、努めることだろう。その上で、その真偽を含めて、内容を吟味して、単純に、ある意見に賛同するのではなく、それぞれの良い所を、拾い出す作業を、行えばいい。これだけでは、自己満足に過ぎないが、それでも、何が正しいかの判断だけは、下せるようになる。次は、相手が必要だが、意見交換の場に、乗り出すことだろう。単に、遣り込めるだけでなく、互いの意見の検討を、繰り返すことで、考え方を磨くことが、議論に不可欠なものとなる。少し、手間が掛かるが、大したことではないのでは。

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8月6日(金)−議論抜き

 議論が苦手、という国民性は、この騒動の最中も、かなりの悪影響を、及ぼしている。一方的で、極端な主張が、如何に、権力側から、発せられていると雖も、反論が、表に出てこないのは、力の問題だけでなく、議論が行われず、検討が、なされていないからだろう。
 その解決には、まずは、冷静に、状況を判断する力が、必要となる。如何に、恐怖に駆られようとも、状況を、客観的に捉え、そこから、本質を、見出すことが、肝心なのだ。その過程では、単に、把握や分析の力だけでなく、他の意見と、検討することも、重要だろう。しかし、この騒動では、情報操作という、悪質な動きが、権力側にあったとはいえ、それを、見破った上で、正しい情報のみを、拾い上げることが、殆どなされぬまま、右往左往させられている。まずは、その点を、認識することが、優先されるのだが、それが、できたとしても、次の問題として、議論がある。世界的な傾向であり、どうにも、まともな検討が、行われないのは、この国に、限ったことではない、かもしれないが、だとしても、解決への道筋を、つける必要がある。何故、こんな状態が、続いているのかについては、様々な意見が、出されているが、どれもこれも、改善への手掛かりを、与えるものとなっていない。今の状況では、議論の手法を、授けることが、最優先だろうが、その機会を、与えるだけで、肝心の議論が、成立しないことに、問題があるのだろう。多くの組織では、会議が、行われたとしても、台本通りに、運ぶことだけで、意見の交換は、行われない。この状態が、教育現場でも、同様のままでは、将来への改善は、期待できない。それぞれの学校では、改善に向けて、努力していると言われるが、教える側が、何も知らず、何も教えぬままでは、何も起きそうにない。形だけでも、自由な意見交換が行われるような、土壌を作らない限り、変えようがないのだろう。

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8月5日(木)−復権

 情報操作、とも思えることが、長い期間に渡り、行われている。当初から、この騒動を、先導してきた世界機関は、感染の状況を、捉える為に、必要となる数値を、操作している、との疑いを抱かれ、報道機関は、挙って、ある国の大学の発表へと、流れていった。
 この問題は、すぐに、忘れ去られたが、それは、国ごとの報告が、定期にならず、時間的な変化を、追えないという、責任転嫁の為だったか。だが、肝心の数値自体、世界機関が、感染症対策に、必要なものとして、推奨したもので、これを追尾することが、より著しい混乱を、招いたことは、明らかだろう。その中で、別の事象が起き、更なる混迷に、市民は、巻き込まれてきた。この問題を、解決する手段として、唯一、期待されたのは、大国の脱退であり、頼みの綱である、資金提供が、打ち切られれば、機関自体が、路頭に迷うことから、方針転換が、起きると見られたが、当人が、再選を果たせず、一縷の望みは、潰えてしまった。では、もう、望みは、完全に、絶たれたのか。そんなことは、ないのかもしれない。それも、肝心の世界機関や、各国の医療機関、更には、政府そのもののように、世界的な方針を、決定する、枢要な立場ではなく、医療に携わるにしても、発言権や決定権を、持たないけれども、研究に関わることから、これまでの、世界を席巻してきた、見解とは、明らかに異なる、考えを表明している。大衆が、こういう情報に、触れることができるのは、その考えが、書籍という形で、発表されたからで、情報操作を、盛んに行う機関や、それに与する、報道機関やマスコミに、委ねなかったことが、重要だったのだろう。活字離れが、問題とされてから、長い期間、出版業界は、低迷を続けている。しかし、情報や世論の操作が、甚だしくなる中で、こういう媒体の価値が、見直されるのではないか。

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8月4日(水)−頼りない

 医療に対する信頼は、地に落ちた、と言えるのではないか。本来、命を救ってくれる筈が、何やら、意味不明な事柄を、表明するだけで、頼りにならぬことが、歴然としてきた。確かに、瀕死の重症に、陥った患者にとり、最後の砦、となったことは、事実に違いないが。
 何故、こんなことになったのか。自業自得なことは、火を見るより、明らかだろう。まずは、感染症への対策が、様々に講じられ、市民は、救いを求めて、それに従ってみた。だが、どれもこれも、有効な手段とならず、副作用とも言われる、経済的な打撃や、日々の生活の困難さが、強まるに従い、信じる気持ちは、徐々に、薄れていった。その過程で、導入された検査体制も、当初は、制圧の手段として、導入されたのだが、現実には、脅迫の道具として、使われているだけとなり、意義は、失われた。更に、最後の頼みとして、開発されたワクチンも、製造者の触れ込みでは、確実と言われたのに、接種率が、高まるにつれ、逆に、不安要素が、増えている。この事態を、悪化させたのは、検査の継続であり、無駄でしかないものを、続ける意味は、皆無と見るべきだ。医療技術は、確かに、進歩しているから、治療成績も、向上しているが、命を救うのが、当然との見方からは、満足できぬものでしかない。だが、本来、死の病でしかないものを、治せると信じる根拠は、何処にも無い。ここでも、誤解から、葛藤を繰り返すのは、愚かでしかない。救える命と、そうでないものを、区別することで、成績を、上げてきたのに、ここに来て、まるで、全てが救えるかの如く、安易な考えに、取り憑かれたのは、何故なのか。医療全体に、本質を、見失った為、と考えるのが、妥当ではないか。では、庶民は、何を頼ればいいのか、単純なことだ。自分しか、頼るものはなく、死の病に襲われたら、運を天に任せる、しかないのだろう。

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8月3日(火)−残念ながら

 ここを、読みに来た人には、何故、これ程まで執拗に、批判を続けるのか、と思えるのではないか。誰もが、気軽に、発信できる環境が、整ったことで、意見の多様化が、起きたと言われるが、実情は、大きく異なると思う。極端な意見に、流れる人の洪水が、起きているのだ。
 嘘や偽の情報が、巷に溢れて、それを、事実のように、扱う人々によって、害悪が、拡散される。その原因は、確かに、発信源である人々の、悪意に満ちた嘘が、あるのだが、この仕組みの、一番の問題は、そこではなく、その後、拡散に加担する人々に、あるのだ。最近、誹謗中傷に、悩まされた人々の訴えが、裁判で取り上げられ、罪の重さが、議論されているが、それでも、歪んだ状況は、矯められることなく、害悪の洪水は、無くなりそうにない。特に、誹謗中傷とは異なり、今回の騒動では、専門家や高い地位にある人々が、明らかな間違いを、発言したり、発信したりすることで、市民の不安を、煽る材料となっている。その中で、誤った情報や誤った解釈を、鵜呑みにする人々が、拡散に手を貸す訳で、こんな状況が、許される筈が無い。では、拡散を、止める手立ては、あるのだろうか。あると思うからこそ、批判を続けており、多様な見方を、紹介することで、皆に、考えるきっかけを、与えているつもりなのだ。だが、果たして、その声は、届いているのか。残念ながら、今の状況では、伝わることは無い。ここでも、もう一つのSNSでも、同じような意見を、盛んに、書き続けているが、それらの声が、届かないのは、何故だろう。おそらくは、洪水のように、溢れる発言の数々は、その真偽により、分別されることなく、漂うだけだから、こういう肝心な意見も、その中に、埋没してしまう。誰にでも、届かせようとすれば、やはり、名声や地位が、必要となる。一見、誰もが、平等に発言できる場が、できたように見えて、実は、そんな状況では、決して無いのだ。

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8月2日(月)−無批判

 指示待ちの姿勢が、国民性の欠点として、盛んに、論じられてきた。自ら、考えないことが、重大な問題、と言われると同時に、指示を、鵜呑みにすることも、大問題とされた。だが、その状況に、殆ど変化は無い。一方で、状況の悪化は、別の所から、起きている。
 上からの指示に、正しいか、誤っているかを、判断することなく、従う姿勢は、組織としての過ちを、犯す結果を招く。組織腐敗の多くは、こんなことの繰り返しが、長く続いたことで、起きたとの指摘も、何度も繰り返された。だが、状況に、変化は起きない。ただ、その中で、災害時には、この姿勢が、状況の悪化を、回避すると言われ、好ましいものとされた。今回の騒動も、その一つであり、恐怖に駆られた、過剰反応が、起きないことが、被害を、抑える役に、立ったとも言われる。だが、この傾向が、別の要因と相俟って、潜在的な問題となることを、注意する必要がある。指示待ちの如く、ただ、受け取る側に、徹していた時と異なり、今は、自分と同じ意見を、受け取ることで、意を強くして、それを発信することを、繰り返す人々が、増えている。手にした端末が、受信だけでなく、発信源になることが、この行為を、促しているのだ。これ自体は、自分の考えを、磨くことに繋がれば、良いことなのだが、実際には、安易な考えを、検証することなく、同意を得たと思い込み、偏った意見に、傾くこととなる。この反復が、異常な意見の拡散に、繋がるとしたら、一人ひとりの行為は、たとえ小さくとも、社会全体には、大きな影響を、及ぼしかねない。受信や発信そのものには、罪が無いかもしれないが、それに関わる人間が、暴走することは、罪を作りかねない。本来は、自分の意見も、他人の意見も、常に、批判的に眺めることで、考える力を、磨くことを、忘れてはならない。賛同は、確かに、心強いだろうが、誤った考えに、偏ることには、注意を要すると思う。

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