パンチの独り言

(8月9日〜8月15日)
(読む価値、忘れない、駄目学者、手付かず、支配目的、誤用、信頼を損なう)



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8月15日(日)−信頼を損なう

 科学に関わる人間にとり、科学不信は、理解し難いもの、と映っているだろう。何故、科学の本質を、理解できないのか、とか、何故、誤解を基に、歪曲した情報が、流されるのか、とか、時に、悪意に満ちた罵声に、心を痛めている、に違いない。だが、それだけだろうか。
 発電所の事故では、その後、不安を募らせる人々が、不信感を、露わにして、科学的な説明に対し、拒否反応を、示していた。その原因は、建設を推進する中で、断定的な説明で、安全性を、訴えたことにある。危険性は、何事にも、常にあるにも関わらず、まるで、その可能性が、皆無の如く、推進の為に、嘘で塗り固めた説明を、施してきたことが、不信感を、爆発させた訳だ。説明側からは、冷静に、耳を傾け、議論に応じれば、別の対応が、あったと見る向きもあるが、これは、不信を招いたことへの、無反省を、露呈するだけのことだ。今回の騒動でも、同じことが、繰り返されている。恐怖を、撒き散らすことに、躍起となった人々は、事実を歪曲させ、過大評価を繰り返し、感染症の本質に、近づく気配さえ見せない。科学的な解釈は、仮説を立て、それを確認する過程で、築かれるものだが、当初から、歪曲や不適切な調査が、繰り返されたことで、多くの仮説が、排除されてしまい、筋書き通りのものだけが、採用されており、適切なデータ収集も、覚束ない状況が、続いている。それでも、暫くすれば、データの再検討が、行われることで、改めて、正しい解釈が、なされるだろうが、たとえ、そうなったとしても、仮説の段階で、未検討とされたものは、データ収集が行われず、再検討も不可能となる。こんな状況で、科学者の一部には、データによらぬ、まるで精神論としか、思えぬ発言を、し始めている。外から眺めれば、まるで、自ら、災厄を招く、愚かな行動だが、本人達は、気付く気配も無く、ただ、正義を翳しているようだ。また、科学不信の種が、蒔かれている。

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8月14日(土)−誤用

 感染症の騒動では、報道機関の悪質さが、露呈されている。意図的に、歪曲した情報を、流すだけでなく、無知から、用語の誤用を、頻繁に起こし、専門家と称する、無知な輩も手伝って、脅しに終始している。これは、人為的な災害だけでなく、自然災害にも、当てはまる。
 三密や、感染者という、言葉の意味を、自己都合に合わせて、好き勝手に捻じ曲げ、喧伝を続けてきたが、そろそろ、足元の脆弱さが、際立ち始めた。都合に合わせて、使い分ければ、自己矛盾を、招くことくらい、少し考えれば、思いつきそうなものだが、そんな思慮は、微塵も存在しない。これまでも、同様のことを、繰り返してきたが、監督官庁からも、業界の監視機関からも、殆ど、注意を受けることなく、放置されてきた。無能な連中に、害悪を流されて、迷惑を受ける筈の大衆も、所詮、看破するだけの慧眼は、持ち合わせず、社会全体が、混乱を常とし、個々の被害は、些末なものに過ぎず、一部の反発も、無視しておけば、それで済む訳だ。騒ぎは、大きくなるばかりだが、実際の被害は、従来、同じ病名で死んだ人の数には、遠く及ばず、騒ぎの意味は、とうの昔に消滅している。それより、全世界は、異常気象と呼ばれる、突然の自然災害に、巻き込まれており、こちらの方が、遥かに、恐ろしいものなのだ。ただ、ここでも、報道機関は、誤用を繰り返し、情報の歪曲を、続けている。線状降水帯は、数年前から、盛んに使われ、現在、気象用語として、注目を浴びるものだが、官庁のサイトでは、「組織化した積乱雲群が、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過、停滞する」と説明されている。それが、レーダー上には、線状に連なる画像として、現れることから、名付けられたものだが、一部の報道では、雨雲が線状に連なるものを、こう呼んでいるようだ。だが、一時の画像で線状でも、その線が上下するように、動いてしまえば、定義を外れる。勝手な解釈でしかない。

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8月13日(金)−支配目的

 社会全体を、一つの単位として、国家を成立させる、社会主義とか共産主義とか、呼ばれる制度は、経済を中心として、国家を成立させる、資本主義との戦いに、敗れてしまった。原因の一つに、個人を尊重しない、全体主義が、制度の疲弊や腐敗を、招いたことが挙げられる。
 自己中心的な考えが、社会を占めた時、利己的な行動が、優先されることで、疲弊や腐敗が、起きるとされるが、これは、資本主義にも共産主義にも、通用する話だ。確かに、資本家が、自らの利益のみを、追求すれば、歪みが起きるが、社会を顧客として、自らの営みを、成立させようとすれば、単純に、自分のことだけを、考えていては、早晩、自己崩壊を招く。実際には、社会主義や共産主義において、全体を優先させる中、一部の権力者が、社会の為と称して、自らの権益を、追求することの方が、遥かに、危険なことは、結果を見ても、明らかだろう。一党支配とか、一党独占とか呼ばれる、仕組みが、社会主義においては、唯一のものとして、実践されたが、その腐敗ぶり、脆弱さが、証明されてきた。だが、依然として、世界には、その仕組みを、続ける所がある。独裁者の存在は、論外だが、一党支配の国々が、安泰かと言えば、そうでもない。隣の大国は、社会主義に自由経済を、導入することで、今の繁栄を、手に入れたのだが、その頂点に君臨する人間が、嘗ての独裁者の如き、振る舞いを始めてから、状況が、急激に変化している。嘗て、文化大革命として、当時の役職者を、尽く、突き落とした暴挙は、今や、反省の対象とされるが、それとは異なる形で、自由経済の恩恵に浴し、成功を手に入れた経営者を、窮地に陥れる、政策変更は、まるで、あの暴挙の再来と、思える程のものだ。当時も、若者の権利を、という掛け声が、飛んだらしいが、今回も、次に続く者の権利、との解釈が、囁かれている。だが、当時も今も、権力者の頭には、自らの地位を脅かす人間の、排除しか無いのだろう。

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8月12日(木)−手付かず

 盥回しは、やられる度に、腹が立つものだが、命の危険に、曝される中、やられては、堪らない。役所や会社を、相手にすると、お手上げ状態となり、待たされた挙げ句、目的が果たせずでは、諦めるしかないが、救急医療では、諦める訳にも行かず、途方に暮れるだけだ。
 今回の騒動でも、重症化した患者が、救急車に運ばれ、数え切れぬ程の病院に、断られた挙げ句、絶命したという話が、度々伝えられるが、何を今更、という感が、否めない。以前から、この盥回しは、日常化しており、特に、診療時間外には、対応できる体制が、整っておらず、断らざるを得ない、などと宣われては、何をか況んや、と思うこと頻りだ。病院の事情は、この際、取り上げる必要は無い。逆に言えば、体制が整わぬ所に、運ばれたとしても、悪い結果を、招くだけだからだ。一方で、救急搬送体制については、全く別の考えが、適用される。救急搬送を、公的機関で、行う以上、それが、あらゆる面で、整えられるのが、当然だからだ。このような事例でも、問い合わせても、全て断られた、との報道がされるが、この問題が、顕在化してから、数十年経過する中で、同じ手作業を、いつまで続けるのか、と呆れてしまう。少なくとも、救急病院と消防署が、相互に、繋がる体制を、築く必要があり、その中で、受け入れの可否を、確認できる仕組みは、手間を掛けずとも、できる筈ではないか。それを、放置した挙げ句に、助かる筈の命が、投げ捨てられるのは、理不尽極まりないことだ。その上で、今回の騒動のような、極端な例に、どう対処するかを、検討すべきなのは、これもまた、当然のことだ。この問題は、地域で解決させるのではなく、全国で、解決すべきものであり、その仕組みの導入に、予算が投入されるのに、反対する人間が、居る筈も無い。にも拘らず、依然として、同じ問題を取り上げ、報道する連中にも、本質を、考える気配が無い。所詮、その程度の連中なのだ。

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8月11日(水)−駄目学者

 もう一年以上も、画面に映り続ける人は、専門家と呼ばれ、知識を基に、説明を施すように、見えるかもしれない。だが、実際には、何の根拠も無く、ただ、漫然と、危険とか緊急とか、依頼された通りに、一つ覚えの言葉を、繰り返すのみ。あの世界に、巣食っている。
 先日、取り上げた本でも、唾棄すべき存在として、紹介されたが、その一方で、あの専門家は、政府に関わる専門家をも、批判の対象としていた。誤解に基づく、誤った情報を、垂れ流すだけでなく、無用の対策を、市民に押し付け、困惑を広げ、成果を上げられないままだからだ。電波に乗った、偽情報は、さも真実かの如く、化粧を施され、垂れ流される。だが、文字として残る、活字媒体と雖も、無能な人間が作り、無能な専門家を、引っ張り出しては、同じ結果しか招かない。この所、経済状況の停滞が、ワクチンの効果が、及ばぬ為との解釈が、世界中に流布されるが、これとて、実験結果を、歪曲したもので、愚論でしか無い。その騒ぎを、盛り上げる為に、専門家を使った記事が、経済新聞に掲載された。感染症を、専門とする科学者が、如何に、劣悪な状況にあるかは、国内だけでなく、世界的傾向だが、ここでも、無知を晒しただけで、学問自体の荒廃を、憂えてしまう。ワクチンの効用は、監督官庁のサイトにある通り、陽性か否かの、所謂感染への影響は、調べられておらず、単に、発症の有無から、有効率が、算出されただけだ。なのに、相変わらず、検査のみを繰り返し、陽性の確認を、世界中が行い、増加傾向に、慄いている。本で触れられたように、検査を、病原体の有無を、確認できるまでに、拡張すれば理解できるが、その兆しは、一向に見えない。一方で、発症の確認の手立ては、客観的な指標が、示されないまま、放置されている。自ら招いた災厄を、自らの怠慢で、拡大させており、その片棒を、無能な専門家が、担いでいる。幕は、とっくの昔に、下りているのに。

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8月10日(火)−忘れない

 この季節、76年前に起きたことを、思い起こそうとする動きが、盛んとなる。最近、特に、被害の多少に関わらず、出来事を、忘れない、との訴えが強まり、直前ことだけでなく、かなり昔のことまで、記憶を、新たにしようと、様々な催しや企画が、実施されている。
 これ自体は、純粋に、忘れないことを、目指したものだが、人の記憶には、自ずと、限界がある。ある事に、拘る人間には、忘れないことが、当然と思えるものも、別の人にとっては、些事の一つとなり、朧げな記憶か、時には、痕跡さえ、残っていないこともある。互いにとり、重要性の違いから、こんな齟齬が起きるが、ある意味、致し方ないことだろう。「夏の雲は忘れない」という、戦前生まれの、女優達が、始めた朗読劇も、原爆体験者の手記を、朗読するものだったが、高齢化により、解散した。先日紹介されたのは、戦後生まれの、女優達が、復活させたとの話で、従来通り、小学生にも、参加させていた。稽古中に、女優の一人が、小学生達にした、問い掛けは、興味深いものだった。曰く、3・11って知ってる?というものだ。朗読劇の主題は、原爆であり、それに関して、小学生は、何かしらの意識がある。だが、70年以上前のことでなく、ほんの10年前の出来事に、彼らの反応は、皆無だった。そこでの、彼女の一言は、小学生達に、突き刺さっただろう。世の中には、様々な出来事があり、興味のある無しに関わらず、覚えておくことは、大切なのだ。ただ、それに続く一言は、蛇足というより、誤った先入観を、植え付けるものだった。この時の事故は、人が作り出した、原爆と同じようなもの、という解釈は、本人にとっては、重要なものだろうが、無垢な子供達には、一種の偏見を、植え付けるものに過ぎない。朗読劇の主題と、同じものとすることで、強い印象を、与えようとの意図は、やり過ぎでしかない。間違った記憶は、役立たずでしかない。

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8月9日(月)−読む価値

 昨日、紹介した本には、読む価値がある、と思う。だが、この混乱の最中、強い影響力を、及ぼす為には、まだ足りない点が、多々あるように感じる。特に、異論を唱える上で、欠くことができないもの。それは、多種多様な反論だ。過ちが、様々な点から、指摘できる。
 その点では、企画段階から、無理があったのだろう。だが、端緒としては、十分なものだ。今、世界を席巻する考えが、如何に誤ったものか、を示すことが、手始めとなるからだ。ただ、このままでは、もう一つの極論が、示されたに過ぎず、更には、一面的な捉え方では、他の考えの妥当性を、検討する機会が、見つからない。次は、多くの人、それも専門家だけでなく、専門外の科学者が、関わったものを、企画する必要がある。とは言え、これまで、恐怖一辺倒だった社会に、一石を投じたことは、大いに価値がある。読んでもらうのが、一番だが、その前に、参考の為、一部抜粋しておく。「計算上では、(中略)ウイルス10個分くらいでした。論文情報だと遺伝子として10万個以上ないとその中に生きているウイルスはいません。」「何百万個もウイルスが検出される人もいれば、二十〜三十個の人もいます。二十〜三十個程度の人は、その検体のなかに生きているウイルスがいないこと、その人が他人に感染させるリスクがほとんどないことがわかっています。(中略)大量の検体を自動的に検査するシステムではシロクロしかわからず、不必要な人まで入院させて医療の逼迫を招くことになります。」「そういうときに「マスクを手で触っちゃいけない」などと変なことを言う人がいます。マスクの表面にウイルスが付着しているからだと、実は至近距離で咳を浴びるなど、よほどのことがない限りウイルスは付着しないし、もし付着していても一向にかまわないんです。手で触れたって問題ない。その後に手を洗えばいいだけの話です。」どうだろうか。

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