パンチの独り言

(8月23日〜8月29日)
(望み薄、虫の目、大間違い、ぼろ儲け、教え育む、大災厄、危機迫る)



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8月29日(日)−危機迫る

 情報発信の道具が、皆の手に渡り、老若男女差別無く、発言の機会を、与えられた。これ自体、民主主義の典型、と見る向きもあるが、当初から、数多の問題が、噴出している。まさに、玉石混淆の状態にあり、価値の高低とは関係なく、機会は、均等に与えられる。
 それだけなら、大した問題も、起きなかったろう。現実には、価値の高い、耳を傾けるべき意見より、無価値で、害悪を撒き散らすとしか思えない、悪辣な意見の方が、耳目を集める結果となり、それが、再発信される度に、意味のあるものと見做され、いつの間にやら、嘘が真実へと、変貌してしまう。この繰り返しは、社会問題となり、法治国家では、法の下での裁きが、行われるに至る。本来なら、社会規範が、法の成立以前に、築かれるものだが、未成熟な仕組みが、招いた混乱は、その遑を与えぬままに、悪化の一途を辿り、誹謗中傷の的として、被害者を、多発することとなった。意見の発出は、本来、議論の場を、築くことへと繋がるが、一方的な意見が、無知蒙昧な大衆や、悪意に満ちた輩の、賛同を得ることで、大勢を占めることで、議論の無いままに、社会的制裁とも思える、暴力の犠牲者を、産み出してきた。以前に比べれば、少しずつだが、制動が掛かり、暴走は抑えられるが、依然として、身勝手な人々が、自らの不明に、気付くことなく、暴走に手を貸し、暴力の蔓延を、助長する。互いの意見を、交換することで、議論を進める手法は、このような環境下では、好まれない。その結果、一方的な意見を、放つばかりで、耳を貸すことさえ、しなくなる。実は、政治の世界でも、学問の世界でも、同様のことが、起きつつあり、道具を手にした人間が、勝手な意見を書き込み、反論を受け付けない。このままでは、どちらが正しいのか、競うだけであり、議論の果てに、妥当な結論を、導くという民主的な手法は、絶え果ててしまう。人間社会の危機が、迫っているようだ。

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8月28日(土)−大災厄

 国民性を、逆手に取った、と解釈したら、歪曲と捉えられるか。利己主義が、嫌われ続ける中、利他主義という言葉が、盛んに用いられ、社会性を重視して、統制の取られた行動を、起こすことが、世界的に、評価されている。その行動を、引き出す言葉が、使われている。
 個人主義の社会なら、自分の為に、との勧誘の言葉が、投げ掛けられるだろうが、この国では、他人の為に、と誘われてきた。危険性の高い、高齢者の為に、とか、周囲に広げないように、とか、自分よりも、他人を優先させる、言葉掛けが、行われている。だが、有効性として、説明された項目からは、何処にも、他人に有利なように、という図式は、見えていない。たとえ、接種したとしても、感染そのものを、防ぐことはできず、単に、発症や重症化の確率を、下げるという効果が、治験段階で、確かめられたことから、認可を受けてきたからだ。一方、過剰反応でしかないことが、流布される中で、データ解析は、殆ど進まず、結果的に、感染経路も、感染の仕組みも、更には、発症や重症化の機構さえ、明らかでなく、暗中模索が、続いている。にも拘らず、一つ覚えのように、繰り返される、利他主義的な表現は、明らかに、市民を、誤った方に導き、誤解が、社会全体に広がっている。この悪質な言い回しを、いつまで続けるのか、政府をはじめとして、対策決定に、重要な役割を負う人々が、認識を、改めない限り、過ちが、繰り返され、騒動の中心は、人為的な災害と、なってしまうだろう。これは、世界の他の国々に、目を向けても、同じことであり、接種証明が、まるで、安全の保証かの如く、扱われる場所では、未接種者の危険が、甚だしいものとなり、人災とも言える、害悪が、社会全体に、蔓延しかねない、と見ることもできる。騒動の当初から、世界機関主導の、重大な過ちを、指摘してきたが、ここにきて、一つの山を、迎えている、と言えそうに思う。

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8月27日(金)−教え育む

 内実が、定かではないが、決定当初、監督官庁の職員から、現場の教員まで、激震が走った。対応に追われ、最善策を講ずるべく、どちらも、蜂の巣を突いた如く、混乱の極みに、陥っていた。その衝撃だけでなく、教育の重要性から、暴挙を繰り返さぬ、との思いが広がった。
 一旦落ち着いた後は、細心の注意を払い、子供らの権利を、守る為に、現場も官庁も、全力を上げて、教育の維持を、続けてきた。これまでの状況は、当初の混乱を除けば、次代を担う人材の育成を、最優先と見做した、対応が行われた、と評価できる。一方で、世界に目を向けると、命を守るという、崇高な掛け声で、子供の権利を、蔑ろにしてまで、制限を強いる国々が、出てきている。しかし、戦いの長期化は、状況を悪化させ、虐げられ、無視された子供達に、将来は無い、と映るまでとなる。被害が、小さいこともあるが、この国の場合、教育に関する優先順位は、何とか、守られてきた。しかし、この所の狂気に満ちた、社会情勢は、折角の配慮を、無にしかねぬ方に、向かっている。社会全体に、強い制限が続き、抑圧的になった人々は、落ち着きを無くし、八つ当たりを、始めかねない。子供らに、障害者大会を見学させ、多様性を学ばせる、という試みは、心無い人々には、矛盾に映るようだ。だが、各自が、勝手気儘に動き回るのに比べ、子供の見学は、制御下で、限定的な行動しか、許されない。その違いにさえ、目を向けられず、被害者意識だけを、持ち続けるのには、狂気に近いものが、感じられる。確かに、諮問するなど、重要な役割を果たす、専門家の人々は、同じ狂気を、社会に向けて、振り撒いている。彼らの非常識は、これまでの行状から、明白になったが、それでも、重用する政治家には、どんな意図があるのか。あるいは、どちらも、狂っているからこそ、の状態なのか。騒動が、収まった時に、良かったと思えるように、教育の機会は、維持されるべきだ。

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8月26日(木)−ぼろ儲け

 濡れ手に粟、と断じたら、心外との答えが、返ってくるに違いない。何しろ、不可能と言われたことを、可能にして、世界中の人々を、救ったのだから、と。だが、それにしても、この騒動の最中、一体全体、どの程度の金が、世界で動いているのか、知りたくなる。
 最近、報道されたことによれば、各社とも、莫大な利益を、上げているようだ。世界では、企業の決算は、四半期毎に、発表される。記事によれば、その中の一つでは、前期に比べて、2.3倍に増え、増加の一途を辿り、年間で、3兆円の販売額に、なると予想される。もう一つは、売上高で、前年の65倍と見込まれ、勢いは衰えない。この企業が、発表した内容では、その16枚目のスライドに、純利益が表示されているが、驚くべきことに、昨年は、赤字だったものが、4,000億円を、上回る利益を、上げたことになる。他企業についても、記事では、触れているが、そちらは、利益を上げない方針、とあり、意味不明に映る。何れにしても、開発費を含め、膨大な予算が、必要だったとするだろうが、それにしても、今、世界中で、それだけの金が、ワクチン絡みで、流れているのだ。この騒動絡みでは、更に、検査費用が、嵩んでおり、同等あるいは、それ以上の金額が、費やされている。現時点では、政策上のものだから、個人負担は、治療に関するものを除き、強いられていないが、結局は、税金で賄われる。つまり、世界を巡る金銭が、ある一部の業界、ある一部の企業に、流入している訳だ。製薬業界は、莫大な開発資金と、長期に渡る治験に、厳しい状態が続き、合併が盛んで、業界再編が、進んだとしても、お先真っ暗、と揶揄されていたが、これで、一息つけるだろうか。だが、肝心の効用に、陰りが見え始め、別の暗雲が、近づきつつあると言われる。根本解決が、覚束ない状況では、救世主も、姿を消すかも知れない。所詮、戦略の過ちは、正されるべき、となるのだろう。

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8月25日(水)−大間違い

 この芝居は、開演当初から、矛盾だらけで、支離滅裂だった。発生当初の隠蔽や、混乱の数々は、当局の不手際を、誤魔化すものとされ、後手に回った対策は、長期間に渡り、市民に困難を、強いてきた挙げ句、解決への道筋は、全く見えない。こんな台本は、破棄すべきだ。
 焚書は、権力側が、不都合な書籍を集め、燃やすことで、その思想や考えを、完全否定する姿勢を、市民に示すものだが、今回の顛末では、権力を握る人々が、対策を講じたとして、何度も繰り返した、行動制限を始めとする、様々な規制を、記してきた文書を、強いられた挙げ句に、何の解決も得られず、虐げられてきた市民が、大挙して、破り捨て、燃やすこととなる。行動制限は、一部の極端な例を除けば、どれ一つ成功せず、繰り返しが、信頼を甚だしく損なうだけでなく、その後の混迷が、市民の精神を、蝕むこととなる。法治国家にとり、この事態は、最悪の結末を、予感させるものだけに、世界機関を始めとする、多くの失態を繰り返した組織は、いち早く、自ら、台本を破棄し、方針転換を、始める必要がある。この独り言では、当初から、この問題について、糾弾してきたが、未だに、解決の糸口も、見つけられぬ人々は、自らの不明を、詫びるどころか、嘘を糊塗することに、終始するだけで、迷走が続くだけだ。これに加担した、政治家だけでなく、専門家として、国の政策に関わり、最前線で動く人々は、厳しく糾弾されるべきで、まずは、舞台から、引き摺り下ろすことが、必要だろう。一方で、世界機関も、各国の関係機関も、更には、政治家さえも、舞台から、離れることは叶わぬ。となれば、これまでの行状を基に、失態の数々を、明示することで、彼らの責任を、追及するだけでなく、方針変更を、厳しく迫る必要がある。市民が、規制に慣れ、効果が薄れたなどと、責任転嫁に終始するのは、御門違いであり、既存の対策が、無駄で無益なものであることを、認めるべきだ。

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8月24日(火)−虫の目

 重い腰を、上げぬ態度に、恐怖に駆られた人々は、罵声を浴びせる。だが、我関せぬの表情で、訳の分からぬ事情を、説明する代表の態度は、まるで、組合との交渉を、想起させる。命を救う治療より、自らの事情を優先させる、利己主義の塊は、算術しか、頭に無いのか。
 厚顔無恥な態度にも、要請という弱腰でしか、挑めなかった政治家達が、意を決して、重い腰を上げた。病床提供を、要請ではなく、強制力を持つ形で、迫るというものだ。だが、その実体は、杜撰な仕組みで、抜け穴だらけだろう。名称公表との話からは、例の遊戯施設の問題を、思い起こさせ、相変わらずの傲岸さの現れだ。一方、法的措置の根拠は、今回の感染症の、重要度が改められ、流行性感冒と、変わらぬ水準にしたことと、矛盾するなど、後手に回ったに違いない。政に携わる人にとり、最も大切なのは、俯瞰的な視点に基づく判断であり、それができないと、市民を大混乱に陥れる。今の状況は、まさにそのものであり、無能で、狭量な人間が、招いた災厄でしかない。一つひとつの事例から、問題点を、導くことは、確かに必要だが、それぞれに、目が奪われ、大局を見誤れば、失着を重ねることになる。妊婦の問題が、盛んに取り上げられ、対策が、講じられつつあるが、虫の目しか持たぬ行政は、限定的なことしか、思い付かず、適用例が限られる。確かに、そんな些細なことも、数を重ねれば、究極的には、全体に行き渡るだろうが、そんな暇は、何処にも無い。個々の事例が、どれも、悲劇であるのは、紛れもない事実だが、一つは、一つでしかなく、その他の多くには、なり得ない。全体として、何をどうすべきか、考えることなく、一つひとつに、対応することは、個人ならまだしも、全体を考えねばならない、行政においては、間違いでしかない。これに、気付くことさえ、できない人間が、政に関わるのは、あり得ないことだが、彼らを選んだのは、混乱に落とされた市民だ。

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8月23日(月)−望み薄

 希望を失うな、と訴える人々が居る。皆に、どう響くかは、判らないが、自分には、何の影響も無い。生きる上で、「希望」は、大切な言葉で、それを叶えること、それを抱くこと、それを失わぬこと、そんなことが、生き甲斐を産む、とも言われる。でも、無用の人も居る。
 確かに、目標を持ち、それに向かうことが、意欲を高め、努力を引き出す、のかも知れない。だが、それは、人それぞれで、そんな意識が無くては、何もできない人も居れば、そんな意識が無くても、何ともない人も居る。後者である自分には、この騒動でも、何か特別な助けは、必要とはならない。単に、社会状況を確かめ、自分の状況に、目を向けるだけだ。その意味では、今までと同じで、何の変化も無い。あれやこれや、社会で求められ、時に、強いられる場合でも、何処吹く風なのだ。検査は、当然のこと、ワクチン接種さえ、無用と思う。人間は、誰もが、生まれてから死ぬまで、数々の災いに、襲われ続ける。地震や暴風雨などの、自然災害は、相手構わず襲い掛かるし、病気は、襲われる年齢が、違う場合が多い。前者は、多くが、防ぐ手立ては無く、単純に、運に任せるしかない場合もある。後者も、運に左右されるが、医学の進歩で、様々に、避ける手立てが、講じられている。ワクチンや予防注射は、流行性の感染症を、防ぐ手段として、開発されてきて、それらの恩恵に、浴してきた人が、殆どだろう。今回のも、その一つ、と専門家は見做すが、どうも、風向きが悪い。当初から、自然免疫をはじめとする、人間が、生まれながらに持つものや、日々の生活から、獲得した免疫が、今回の感染症でも、働いていると思われる。検査陽性者の割合が、それ程高くないことや、発症後に、死に至る率も、同様に低いことから、そんな推測ができる。だが、悲劇の筋書きを、突き付けようとする人々には、そんな希望は、一切無いらしい。だからこそ、希望を持て、と訴える。何も見えていない。

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