パンチの独り言

(8月30日〜9月5日)
(悪の巣窟、群衆心理、不備、過ち、目を逸らす、見極め、批判的)



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9月5日(日)−批判的

 判断力、などと言われても、何ともならぬ、と思う人が、多いだろう。今直ぐ、何とかしたい、と思ったとしても、直ぐには、どうにもならぬ、と思ってしまう。だが、心の不安を、抱えたままで、出鱈目な情報に、襲われていては、解消するどころか、押し潰され兼ねない。
 そんな時に、少しずつでも、判断力を、鍛える方法を、試すことが必要だろう。では、何を、どうすれば良いのか。ここを、読み続けてきた人には、明らかなことだが、世間一般には、余り理解されていないのは、この鍛錬法だ。昔から、若者達の無謀さが、批判されてきたが、その殆どは、判断力や吟味力の、欠如が原因となっていた。それでも、失敗を繰り返し、自らの力不足を、実感した上で、改善に努めることで、それらを克服し、社会の一員として、務めを果たすことが、できるようになる。そんなことが、歴史的にも、繰り返されてきたが、最近、その様子に、大きな変化が、起きているようだ。褒めて育てる、という掛け声が、家庭のみならず、教育現場や社会にも、広げられたことで、失敗を、反省する必要が無くなり、折角の学ぶ機会を、奪うこととなった。これにより、社会の一員として、不十分な実力のまま、放置されることが続き、今の社会の混乱が、世界全体に広がったのも、これが原因と考えられる。教育現場では、厳しい実態を憂いて、徐々に、変化が起き始めており、判断力や吟味力を、鍛えようとする試みが、続けられている。その過程の一つとして、盛んに取り上げられるのは、批判する姿勢であり、あらゆる事柄を、批判的に捉えることで、判断や吟味を、させようとするものだ。鵜呑みにしたり、盲信したりする人々の多くは、批判することを、避ける傾向にあり、この姿勢では、自分の不安が、膨らんだとしても、抑えることが、難しくなる。そこで、まずは、批判から、と始めさせるのだ。これで、疑いを、先に立て、自分の考えに、変化を起こさせる。どうだろう。

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9月4日(土)−見極め

 連日、科学の功罪、特に、罪の方を、強調してくると、まるで、諸悪の根源かの如く、扱うように、見えてくるだろうか。だが、実際には、科学自身には、功罪両面ではなく、功の面しか無い。科学の進展で、もたらされたどんな知識も、新規のものであり、新たな転換を招く。
 新しい知見を、どう使うかには、殆どの場合、科学者自身ではなく、他の人間が関わるが、その応用過程で、時に、罪と結びつくことが、起きる。結果的に、害に繋がれば、罪悪と見做され、多くの人々は、そういう科学を、悪者呼ばわりする。だが、その過程で、役に立つ面があり、その評価を抜きに、結果論だけで断じられても、どうにもならない。確かに、兵器などの武器に、繋がれば、勝利を得ること以外には、何の益ももたらさないから、害悪そのものだが、それとて、使い様であり、人々の役に立てることができる。要するに、科学の功罪については、科学そのものの責任は、全く無く、その後の進展に、関わる人間の責任が、ほぼ全てとなる。ただ、応用面ではなく、知識そのものの面でも、最近は、功よりも、罪の方が、強まっているように見える。これまでなら、研究過程にあり、確証が得られないものに、大衆の目が向くことは、殆ど無かった。だが、情報技術の進歩は、誰もが、最新の情報に、接することを可能にし、論争の最中にある、様々な主張にも、触れることが、できるようになった。一見、便利になった、と思われる状況だが、その実、不確かなものに、惑わされる人々を、混乱の渦に、巻き込んだだけのようだ。特に、科学的知見を、論拠とする解説で、悪意に満ちた偏向が、頻出するのを見ると、これまで、殆ど無視されてきた、情報伝達に関わる人間の責任を、強く感じる。本来、可能性でしか、ものを言えない科学が、断言に使われ、騙すとなると、罪でしかなくなる。使い様で、功罪転じるだけに、送り手に、依存せずに、受け手が、判断力を鍛えるしかない。

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9月3日(金)−目を逸らす

 この混乱で、明らかになったことがある。昨日、書いたように、科学の進歩が、不十分なままで、不確定で不明確な知識が、騒動を引き起こした、元凶の一つであることが、分かってきた。その混乱の中、不確かな状況で、必要なものが何か、少しずつ見えてきたのだ。
 科学の進歩において、様々な仮説が唱えられ、それらを、確かめる為に、実験が行われたり、観測が行われてきた。立場の違いが、異なる仮説を、担ぐこととなり、激しい議論が、交わされるが、実験や観測により、明らかとなった結果が、どれに与するかで、正しい結論が導かれる。通常、これらの証明には、かなりの期間を要し、導かれた結論が、応用され、実用化されると、人々の目の前に、その成果が登場する。こうなれば、そこにある科学の知識は、確かなものであり、信頼できるとなる。だが、現状は、不確かなまま、いい加減な情報を頼りに、真偽不明な言説が、流布されている。そこにある科学は、仮説に過ぎないものから、無根拠のものまで、確定しておらず、検証も不十分なまま、撒き散らされている。実は、この状況は、今回の騒動が、初めてではなく、異常気象の原因と、その対策という、世界的な取り組みの、源となっている事象でも、同じ状況が、続いている。長期的な変動が、自然現象によるものか、人為的な作用によるものか、依然として、議論が続くが、肝心の議論が、いつまでも、平行線を続けることに、科学への信頼は、ここでも、揺らいでいる。変動そのものを、疑う声があり、問題視する姿勢にさえ、疑問が投げかけられる。こんな状況で、議論は、沸騰するより、冷え切る方に、向かっているようだ。互いに、耳を貸さぬままに、言い放つ姿勢では、意見交換は、到底望めない。その中で、異常気象から、災害が起きており、対策が、喫緊の課題となる。が、政治家は、ここでも、世界機関の意見に従い、長期対策の必要性を、訴えている。洪水は、明日にも、起きるのに、である。

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9月2日(木)−過ち

 騒動のごく初期、政治的な手腕を、発揮する機会に、なるかも知れない、と書いたように思う。隣の大国は、まさに、それを示した例として、今も、自画自賛を続けるが、実態が明らかにならず、相も変わらぬ、秘密主義では、正当な評価を、受ける機会を、自ら放棄する。
 では、他の国々は、どのような状況か。実は、政治的な判断として、評価できるものは、殆ど無い。世界機関の指示に従い、横並びの状況で、同じことを、繰り返した挙げ句、悲惨な状況に、何度も、波が押し寄せるが如く、襲われ続けたからだ。当初、北欧の一国が、他国とは異なる、政策を実施したことは、政治家からは、冷たい仕打ちを受け、大衆からは、強い期待で迎えられた。しかし、当初は、人口密度の低さも手伝い、低い数値で、推移したことで、期待が膨らんだものの、死者が増加し、そこに、陽性者の増加が加わると、厳しい世論に、策定者だけでなく、国王までもが、謝罪を表明する、前代未聞の事態を、招いてしまった。だが、それらの数値とて、厳しい制限で、封じ込めを狙った、政策を断行した国々と、さほど変わらぬもので、別の見方からは、制限の有無が、何の影響も与えぬ、という結論が、導き出された。ウイルスという病原体に対し、人類は、これまでも、数々の戦いを、経験してきたが、殆ど全てに、勝利を得ていない。単純に、感染者が死を迎え、生き残った人々が、その後の繁栄を、迎えただけだ。何故、生き残れたのか。その答えは、殆ど明らかでなく、今回のものも、恐らく、その経緯を辿る、と思われる。良機を迎える、と思われた事象も、現実には、政治家の出る幕はなく、単に、舞台の上で、芝居と無関係に、踊り狂ったのみ、と言えそうだ。ただ、この災厄で、学ぶべきことは、数多くある。一つは、科学の進歩が、不十分なことだ。にも拘らず、傲慢な人々が、知りもせずに、誤った情報を、ばら撒いたことに、混乱の最大要因がある。

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9月1日(水)−不備

 陽性者数に、減少傾向が、見え始めると、突然、週間平均が、持ち出される。だが、傾向が、確かなものになれば、それとて、長続きはしない。そこで、最近持ち出されたのは、重症者数だった。医療現場から見れば、遥かに重要な数値だが、小さな数では、衝撃も少ない。
 そこで、編み出されたのが、変化という相対値だ。これなら、はじめに挙げたものと同様に、増加という決め台詞を、使い続けられる。ただ、既に、聞き飽きたと思う市民には、大した効果が、得られないようだ。脅迫的な報道では、恐怖を煽ることが、最優先の目的だから、この程度で、効果が無いとなれば、別の材料を、持ち出す必要がある。そこで、増加傾向の連呼と共に、使われるのが、個々の事例となる。それも、安全・安心を、伝えるものではなく、単純に、如何に、危険が迫っているかを、個人の死と、そこに至る過程を、事細かに伝えることで、認めさせようとする。彼らの目的は、市民を、混乱に陥れ、頼みの綱として、自らの存在を、認めさせることだが、所詮、作られた騒動では、何をどう強調しても、その他の事実を、打ち砕くことが、できる筈も無い。一方で、煽りや脅しに無関係な、庶民が知りたい、多くの肝心の情報は、触れられることさえ無く、待ち望んでも、何も起きない。これは、愚かな報道機関だけでなく、世界機関をはじめとする、各国の研究機関や管理機関でさえ、発表することが無い。このことは、当初からの混乱の原因が、実は、感染症研究における、感染機構の解明や、発症の仕組みの解明などの、基礎研究だけでなく、感染の広がりを対象とする、疫学や公衆衛生学の研究が、どれもこれも、体制が整わず、研究費獲得に向けての、訴えのみに、終始してきたことにあることを、示しているのではないか。今後も、同様の混乱に、巻き込まれる危険性を、考えると、本気で、研究体制の整備を、進めることが、喫緊の課題と思えてくる。

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8月31日(火)−群衆心理

 十日前に、書いたことは、聞き違いだったのか。改めて、報道された内容を、検索してみたが、残念ながら、見つけられなかった。何故、改めて、そんなことを、する必要を感じたのか。それは、最新の報道で、ワクチン接種者に、死者が出ていることが、伝えられたからだ。
 実は、件の首長が、ワクチン接種者には、重症者が居ない、とした当時でさえ、別の報道では、既に、二人の死者が、二度のワクチン接種を、済ませていたことが、伝えられていた。独り言では、政治家の発言は、信用ならぬ、と断じたが、まさに、その通りだった。だが、それを糾弾する為の、材料が見つからずでは、何ともし難い。この所、あの発言以来、別の狂騒曲が、奏でられている。都会では、数多居る高齢者を、優先する一方で、専門家の協力も、適当な実施場所も、得られぬ環境に、接種が進まぬ状況が、続いていたが、そこに、高波が襲い、高齢者だけでなく、若年層にまで、害が及ぶ事態となり、新たな手立てが、講じられている。忌避している、と見込まれた、若者達を、誘う為の手段は、面倒を避け、確実性を高めたものだったが、予想外の殺到ぶりに、大混乱が起こり、密な状態を、招いただけでなく、接種できない人が、大多数となった。無知な役人の、画期的な試みは、厳しい批判に晒され、後手に回った対策は、面倒と混乱を、招いている。無垢な人々は、情報に振り回され、右往左往を繰り返す。その挙げ句に、群衆心理の典型例を、示している訳だが、その原因は、愚かな首長と、盲従する職員の、愚かな言動と、愚かな策にある。その炎上ぶりに、油を注ぐのは、これまた、煽りしか頭に無い、愚かな報道機関と、放送局となる。こんな馬鹿騒ぎを、眺めるのにも、大衆は飽き飽きしている筈だが、その実、一緒に騒ぎ、あたふたする姿を、晒している。何故、これ程まで、白痴化が進んだのか。あの発言に、先見の明があった、ということか。

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8月30日(月)−悪の巣窟

 諸悪の根源、元凶として、何度も、糾弾してきたが、最近は、音無しの構え、とでも言えそうな、様子ではないか。先日の、祭典の時に、どういう訳か、姿を表したが、その後はまた、表舞台に現れず、世界の混乱を他所に、何を、企てているのやら。実に、迷惑な話だ。
 世界機関は、その多くが、国際的な取り組みに、関わることから、殆どの国が関わる形で、運営されている。その為、上位機関として、国際連合なるものがあり、どの機関も、同じ理念に基づき、目標達成に向け、各国から集まった人々が、働いていると言われる。名誉ある立場として、認識されることが多く、憧れの職と言われることも、多いようだ。だが、以前と比べると、その役割自体が、意義深いものとは、理解されない場合が、増えているのではないか。特に、運営資金を、調達する方法に、各機関は苦慮しており、人道的な意義を、強調したり、共同体の意義を、紹介したりして、何とか、資金を確保している、との話もある。だが、紛争解決を、主たる目的として、作られた組織の下では、平時には、意義を強調しても、認められず、資金確保は、更に難しくなっている。その為か、各機関は、独自に、意義を見出し、それを紹介することで、確保に走る。中でも、保健機関は、世界の人々の健康に、関わることで、存在意義を、訴えているが、これも、国際紛争でなくとも、衛生状況が、整うにつれて、意義が薄れることを、食い止められずにいる。その為、歴代の事務局長は、感染症の蔓延を、危機の種として、撒き散らすことで、食い止めようとしてきた。だが、どれもこれも、実態が伴わず、何度も失敗が繰り返された。今度こそ、巧く運んでいる筈、と思っているだろうが、どうも、彼らにとり、雲行きが怪しくなっている。だからこそ、姿を消し、態度を、決めないのではないか。このままでは、心理的な混乱が、更に強まり、世界の混迷は、深まるばかりだ。騒ぐだけで、収められずでは、仕方ないか。

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