パンチの独り言

(9月6日〜9月12日)
(交代劇、議論とは、騒ぐ程か、不感知、すべきこと、根も葉も、自滅)



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9月12日(日)−自滅

 恐怖に駆られ、判断を誤る。こんなことは、市民には、日常茶飯事だろう。だが、枢要な立場に、ある人々には、どうだろうか。個人の問題で、済まないばかりか、その過ちにより、膨大な数の人々が、死に瀕するとしたら、日常などと、軽率には、言えないに違いない。
 だが、一時の恐怖ではなく、これ程長く、それも、何度も襲われて、冷静な判断は、難しくなっている。などと、評しては、これもまた、軽率の謗りを、受けることになる。たとえ、窮地に陥っても、正しい判断を、下すことこそが、立場ある人間の、務めというものだ。愚民政治と揶揄されようが、愚かな民達は、自己都合だけを、考える訳で、その中で、被害が広がれば、嘗てなら、公開処刑、大衆の面前で、断頭が行われただろう。それ程の覚悟が、今の世界各地の政府に、あるとは思えぬが、だとしても、責任の重さに、変わりは無い。死への恐怖だけでなく、立場を失う恐怖にも、苛まれる中、最善の策を、講じようとするのは、当然のことだ。だが、何が最善なのか。見極めるには、十分な調査に基づく、確かな状況把握と共に、方策を講じる為の、冷静な判断が、必要となる。議会での、罵り合いに精を出し、揚げ足取りに、終始してきた連中が、ある日突然、そんな資質を、求められても、おいそれと、応じられる筈も無い。驚くべきは、世界の大多数の国々が、同じ過ちを繰り返し、打開策を、打ち出せぬままに、今に至ったことで、政の劣化が、これ程まで、進んだのか、と呆れるばかりだ。だが、これとて、政に限ったことでなく、あらゆる事柄に、及んでいる。報道業界は、その最たるものだが、地道な活動が、続けられてきた、学問の世界でさえ、人気取りに走り、資金獲得に、奔走してきた挙げ句に、嘘八百を、散乱し続け、確かなことが、失われつつある。世も末、と評すべき状況だが、それを招いたのは、自分達なのだ。感染による死への恐怖より、こちらが、遥かに恐ろしい。

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9月11日(土)−根も葉も

 煽りを常とする、報道に対して、専門家が、加担する、という図式が、毎日のように、見せ付けられるが、本来なら、論理的に、物事の説明をするのが、常の筈の専門家が、破綻し続けるのは、状況把握や、その吟味が、不十分だからに、違いない。尊敬には、値しそうにない。
 脅しを武器に、注目を浴びるのは、反社会的勢力の、十八番だったが、最近は、社会を煽動する動きが、専ら使う、武器となったようだ。だが、彼らは、愚かなだけでなく、無能なのだから、自分で、材料を作ることなど、出来やしない。頼りになるのは、俄仕込みでも、尤もらしい説明を、施してくれる人々で、画面に登場する、似非専門家は、殆どが、それに当て嵌まる。だが、本来なら、話題となる対象を、専門とする人の中でも、諸説がある筈で、それら全てに、耳を傾けた上で、自分なりの理解を、進めるのが、市民のやり方だ。それもせずに、一方的な情報を、垂れ流す業界の、悪質さも、問題だが、鵜呑みにして、騒ぐ市民は、更に大きな問題だろう。この図式は、今に始まったことではなく、大震災が、起こる度に、取り上げられるのが、次の大地震の可能性であり、それを、確率として、提示したのが、関連する学会だった。一専門家ではなく、集団として、主張したことは、恰も、総意であることと、受け取られるが、実は、何の確証もなく、これまでの事実を、並べた結果でしか、ないものなのだ。その上、確率の算出には、多くの仮定が絡み、そこにも、確率が関わってくる。未来予想は、元々、確たるものでなく、様々な仮定の果て、のものでしかない。最新機器で、詳細な解析が、と伝えられた、GPSを用いた、地殻変動の解析も、報道は、如何にも確実と、伝えていたが、これまでに起きた地震と、今回の解析結果に、相関があるかを、論じることなく、予想の確率のみを、取り上げることで、脅しに使うのは、愚の骨頂だろう。これで、研究費が手に入れば、と思うのか。

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9月10日(金)−すべきこと

 懲りない連中が、またぞろ、懲りずに繰り返す。対策が、不十分だから、別の方策を、となるなら、わからなくもないが、現実には、万策尽きて、新たな提案を、一切思い付けず、同じことの繰り返しを、決めただけのことだ。役立たず、では済まず、その罪を、償わせたい、と願う。
 唯一、可能な対策は、完全封鎖であり、誰一人、出歩くことが、出来ない状況に、落とし込むことだ。だが、それとて、一時の満足を、得るだけのことで、感染の波は、いずれ襲ってくる。では、何が出来るのか。感染拡大を、相手にしないことで、それは、自然の成り行きに、任せるしかない。これまでの経緯や、歴史上の事実から、ある程度、明らかとなるのは、病原体に出遭った時に、感染するかしないかは、人それぞれであり、同じ人間でも、体調などによる、ということだ。だとすれば、ある程度の時間を、経過したところで、大多数の可能性が、潰されてしまえば、後は、自然消滅へと、向かうことになる。これまでの、爆発的な感染も、何かしらの対策が、功を奏したのではなく、単純に、波が上下した挙げ句に、終息を迎えた、だけのことだ。一方で、ワクチンの効果を、訴える人々が居るが、今の状況を、眺める限り、望み薄となる。ワクチンが、功を奏した事例を、眺めてみると、感染は、爆発性のものではなく、徐々に広がる形で、感染後の症状が、重篤である為に、開発されたことで、多くの人が、逃れることができた、というものだ。爆発性の場合、接種の広がりとの競争も問題だが、感染を繰り返す中で、変異を起こすことが、別の問題を生じる。今の状況は、まさに、それと考えられ、過度な期待は、雲散霧消しつつある。では、何が肝心か。自明なのは、治療体制を整えることだ。現場の人々を含め、関係者が、不断の努力を、怠った結果が、今の問題となっている。だが、これとて、救うことができる命、に限った話であり、その吟味さえ、怠っているようでは、駄目だ。

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9月9日(木)−不感知

 この所、囀りに書かれた意見に対して、横槍を入れてみた。と言っても、多くの輩が、度々問題を引き起こすように、相手を、罵倒したり、意見を、一方的に糾弾したりの、横暴なやり方ではない。単純に、他の意見や見方を示し、再考を、促してきたのだ。
 その結果、何が、起きたのか。幾つかの「いいね」が、寄せられたが、それが、元の囀りに、与する人と、反対する人の、両方からのものとなったのだ。理由は、定かではないが、推し量るに、こちらの書き込みの、一部を捉えることで、自分に都合の良い意見、と受け取ったのではないか。SNSでは、この傾向が、著しいと思われる。海の向こうの大統領が、日々の思いを、書き綴ることで、多くの支援者や賛同者を、得ていたことは、誰もが知る所だが、彼が、自らの判断を、強く主張し、それに反するものは、嘘呼ばわりや、偽報道と、断じていた。極端な意見であり、情報操作や、民衆煽動を、行ったとして、利用を禁じられたが、その処分は、支援者から見れば、不都合を潰す、という図式に思える。正義こそが、全てと思う人の中には、我こそが正義、と思い込む人は多く、彼らにとり、意を強くする、支えとなったのだろう。その後、好き嫌いの二極に、分断する動きが、高まったまま、今がある。それが、初めに書いた状況へと、繋がっている。こちらが書いたのは、科学では、全ての数字が大切とされる、ということだったが、中で、都合の良いものだけを、拾い出して、自分の正義を貫く。何とも、情けない人間だが、当人達は、大真面目で、自らの正当性を主張し、同調者を見つけると、相互支援を繰り返す。時には、真偽の判断無しに、引用したり、利用する。かなり前から、とんでも科学なるものが、危険思想として、紹介されているが、科学も、使い様で、悪用できるのだ。その結果、騙された人々が、挙って取り上げ、正義を振り翳す。気付きを促すのは、容易くない。

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9月8日(水)−騒ぐ程か

 実際に行われたことが、伝えられている通りなら、擁護の必要は全く無い。県民が、厳しい規制の下、窮屈な生活を、強いられる中、この催しに集まった人々の、野放図な振る舞いは、批判されるのが、当然と思えるからだ。感情的には、まさに、その通りだろう。
 だが、科学的にはどうか。規制を破り、確認を怠った上で、観衆の身勝手な行動を、放置したことに、科学は、何の意見も、掲げない。科学が、何かを、論じられるとしたら、今回の暴挙が、如何に、甚大な被害を、及ぼしたかを、数字によって、見極めることだけだ。では、何が、それを裏付けるのか。報道によれば、参加者は約八千人であり、その中で14人の感染が確認された、とある。割合で見れば、約0.18%となる。荒っぽく考えれば、千人に二人となる。比較が適切かは怪しいが、学年5組の小学校で、精々3人位のことだ。それも、参加者各人は、それぞれ異なる経路をたどり、異なる行動をしただろう。感染が、あの場で起きたかどうかは、定かではない。だが、心情的には、怒りに任せ、糾弾したくなる。群集心理だろうし、愚かな判断なのかもしれない。同じことは、世界でも起きた。接種率が、早々に高まった国で、開催された国際試合に、観客は、約35万人だったそうだが、その中で、感染者が6400人だった、と報じられた。この中で、入場時の感染者数は、約三千人と見積もられた、とあったから、新規感染は、3400人となる。いずれにしても、こちらも計算すると、1.8%か1.0%となる。統計処理は、難しいのだが、これを、観戦しなかったら、どんな数字になるか、を導く必要がある。恐らく、三千という数字が、基となるだろう。観戦によって、感染した人は、一人の感染者当たり、1.1人となる。拡大が続く数値だが、催しを、悪者呼ばわり出来る程の、ものではなさそうだ。いやはや、狂気に走り、怒りに狂う人々には、科学は、無用なのだろう。

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9月7日(火)−議論とは

 人間は、興味深い心理を、持っているようだ。例えば、自分の意見を、否定されると、その人間は、反対勢力である、と思い込む。論理の吟味が、不十分であり、成立しないから、という理由で、否定されたのに、大元の意見に、反対されている、と受け取るのだ。
 だが、否定した人間は、特に、意見の正誤に対して、態度を表明した訳ではなく、単純に、そこにある論理に、賛成できない、としているだけだ。この違いに、気付かぬ人は、かなり多いようで、何か、話題になる度に、賛成反対の二分化を、論じる人々が、登場し始める。だが、議論は、何も、賛成反対に基づくだけでなく、そこに示された事実や、仮説などに関して、どんな背景があるのか、どんな状況で得られた事実か、などを、確かめようとする場合がある。しかし、賛否ばかりに、目を奪われる人にとり、そういう議論は、馴染まないようだ。賛否の態度を、明らかにしないと、議論に参加させる、意味は無い、とまで言われ、単純な議論参加者を、排除しようとする。その上で、賛成反対、それぞれの立場からの、議論こそが、有意義なもの、と見做す訳だ。これ程、下らないものはなく、役立たずのものも無いが、当人達は、大真面目で、その意義を、信じ込んでいる。これでは、まともな議論は、できる筈も無い。何故なら、結論ありきの議論は、飽く迄、並行線を辿り、歩み寄ることも、新たな結論を、導くことも、できないからだ。今、世の中、世界を、覆っている状況は、まさに、そのままであり、各自が、手にした端末から、それぞれ、勝手な意見を、言い放つばかりで、何の結論も、導かれることが無い。これが、重大な問題に、結び付くと考えるのは、騒動の発信源が、実は、同じように、自分達の偏った考えを、世界に向けて、発信し続けることにも、反映されており、様々な意見交換で、正しい結論に、向かおうとする姿勢が、全く見えていない。愚かなことだ。

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9月6日(月)−交代劇

 祭典の直前、どうしても、中止したいと思った、分科会の代表は、国民に向かい、感情に訴える声明を、発表した。それまで、データに基づく、分析の結果から、様々な制限の必要性を、強く訴えてきたが、市民の行動に、大きな変化が起きず、業を煮やした、からだろう。
 だが、本人がどうであれ、科学を根拠とした、感染症の拡大の恐れでは、あくまでも、データに基づいた、論理の展開無くしては、対策の意義が、無に帰する。その結果、何が起きたのか。高まった波は、低くなりつつあり、彼らの警告は、杞憂に終わりつつある。だが、懲りない連中は、次々に、問題を掘り出し、さも重要なことの如く、掲げ続ける。しかし、一度離した科学との連携は、元の状態には、戻せそうにない。新たな提言も、これまでの矛盾を、放置したままで、目先を変えるという、従来の手法のままで、新たな展開は、期待できそうにない。口先だけのものは、たとえ、科学を援用しても、本質的な過ちが、正されることなく、感情で訴えるのと、何ら変わらぬ状況にあったが、ここに来て、科学との乖離は、著しくなるばかりで、我田引水の典型を、積み続けている。そこに、俄仕込みのような、科学的な分析が、困難となっている、との報道については、分科会の解散を、求める声が、大衆から出ているが、所詮、首を挿げ替えても、同じ結果となるだけだ。所詮、当初の混乱から、同じ筋書きの上で、展開してきた芝居では、役者を変えても、筋が変わる筈も無い。感染症拡大抑制ではなく、発症者治療への転換を、進める以外には、手立てが残っていない。金も人も、無駄遣いを続け、世界中で、数字に振り回される、混乱が、続いているが、これを改めるには、まずは、台本を、焼き捨てるしかない。新たな政権が、と取り沙汰されるが、そこへの期待は、殆ど高まっていない。やはり、台本を書いた連中が、糾弾され、全く異なる戦略を、携えた人々と、交代するしかない。

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