世界全体に、情報操作が、蔓延っており、何が真実なのか、判らない。そんな思いを抱きつつ、振り回されない為には、遮断するしかない、と言われても、それはそれで、できる筈も無い。では、どうしたら良いのか。庶民にとり、究極の選択を、迫られている、という気分だ。
見極めることの大切さは、ここで、何度も取り上げ、それに必要となる、道具も、幾つか紹介してきたが、切り札は、無いに等しい。一つには、操作する側が、騙す相手を見て、手法を変えており、対応策を、講じたとしても、その備えを、打ち破る手立てを、準備してくるからだ。統計は、その典型であり、以前なら、事例を、一つでも挙げれば、簡単に騙せたのに、全体として見た時に、どんな状況かを、冷静に見極めれば、騙されずに済んだ。そこで、操作する側も、統計処理を、施した数値を、掲げることで、主張を通そうとする。統計に頼って、判断を下してきた人は、その多くが、この方法で、また、簡単に騙される。だが、それが、嘘であることは、処理された数値から、見破ることは難しい。何故なら、その処理に使われた数字が、既に、操作を施したものであり、それだけを、見たとしても、全体を見渡したことに、ならないからだ。では、その嘘は、どう破るのか。統計で、用いられる数字には、全体を表すものとして、母集団がある。本来、母集団は、全体を示すが、そこでの操作により、ある特定の母集団を、作り出すことができる。これで、統計を、自由に操ることとなり、主張に合致する、数値を作り出すことさえ、可能となる。こんな操作が、繰り返されれば、統計に頼るのも、危ういとなる。では、と思う人が、居るだろう。心配無用だ。こんな操作は、実は、簡単に見破れる。分析対象となる、元の数字を、見つけ出せば良い。一部を除き、最近は、そういう調査結果を、公開するのが、常となっているから、調べてみれば良い。簡単に、騙されてはいけない。
危機が迫る中、打開する手立ては、強い指導力にある、と言われる。今回も、当初は、そんな評価が強まり、国や地域を率いる勢力が、どんな判断を、下すのかに、注目が集まった。まだ、結論は、出ていないが、これまでの経過からは、強さへの期待は、裏切られたようだ。
二つの世界大戦、どちらにも敗れた国は、率いた勢力が、異なるものの、同じ結果に導かれた。そこには、共通の要因が、あるように感じられる。特に、2つ目の直前には、逼迫する経済状況に、敗戦の後遺症を、強く感じた国民が、合理性を重んじる、考え方から、強い指導者に、期待を向けたことが、悲劇への道を、歩ませたと言われる。冷静に見れば、狂気としか、見えないものに、何を期待したのか、当時の熱狂を、分析することで、今回の騒動を、理解することが、できるかもしれない。特に、封じ込めへの対応に、強制力の危うさが、現れている。多くの国や地域は、死への恐怖から、その原因が、広がること自体を、押さえ込む手段を、講じてきたが、殆ど全てが、目的を果たせず、犠牲者が続出した。その責任を、問う声も、各地で上がっており、今後も、続くと思われるが、検証の無いままに、互いの主張を、繰り返すだけでは、何も解決しない。そのうち、指導者は、舞台を去り、別の人間が、別の過ちを繰り返す。市民は、そんな騒動に巻き込まれ、悲惨な状況に、追い込まれる。この国は、他国のそんな状態と、比べてみると、ずっとましな状況にある筈だが、自覚さえ無く、騒ぎの渦に、巻き込まれる。だが、自然を相手に、無い知恵を絞るより、流れに任せ、できることだけ、行い続ける方が、遥かに良好な結果を、導いたと言えないか。科学という道具も、使い方を誤れば、目的を果たせないばかりか、体制を整えられず、被害を、更に広げてしまう。そう考えると、無駄な対策より、身近な対応の方が、遥かに効果的と言えそうだ。
恐慌とは、まさに、今の世界の状況、と思えるが、実は、この用語は、経済に関わる話で、よく用いられる。死への恐怖は、誰もが抱くもので、逃れることができないのに、成る可く、先送りしたく、成る可く、楽にしたい、と願う。その通りだが、先立つものが、必要だ。
そこで、経済の動向へ、目を向けるのだが、当初の混乱で、これまでの事件同様、経済への打撃が、広く深く起きる、との予想があったのに、見事に見込みを誤り、株式市場の活況が、起き始めた。人々の生活への不安は、依然として、続いているのに、何故、こんなことが、おきているのか、不思議に思う人が、大部分だろう。それも、当初の見込みが、経済活動の停滞を、予想しただけに、何の打開策も、講じられぬまま、活動が、殆ど影響を、受けなかったことには、未だに、説明ができていない。確かに、一部の業界は、大打撃を被り、回復の兆しさえ、見つからない。一方、部品供給が、滞った結果、減産を、余儀なくされた業界もある。だが、それらは、ほんの一握りであり、感染症関連で、直接的、間接的に、活況を呈した業界も、多く見られる。これらの不均衡は、実は、全体として、経済恐慌に、繋がるとも言われる。利益分配は、解決策の一つだが、市場原理からすれば、ほぼ不可能だろう。一方、これを機会に、再編が進むとの見方も、今の感染症対策同様、根拠のないままで、無策を続けるだけで、傍観者の戯言でしかない。今、世界で進められる対策は、支援に向けての支出に、集中しており、財源への言及は、全く無い。税制の改革で、高収益の企業から、利益を還元しようとする動きが、始まったとはいえ、未だ途上に過ぎず、すぐに実現できそうにない。恐怖に駆られ、対策を誤り、間違った方に、向かい始めた世界が、何処で気付き、方向転換するのか。株高に、浮かれるだけでは、崖っ縁を、避けられそうにない。
飽きたのか、疲れたのか、いや、単純に、信じられなくなったのだ。相変わらず、脅しに終始する業界は、まるで、破滅に向かう、愚か者達を、紹介するが如く、画面に登場させるが、当人達は、まさに、取材陣を、嘲るように、真摯な態度で、応じている。何方が正しいか。
勝敗は、初めから、決していた。にも拘らず、騒動を起こした世界機関も、鵜呑みにした各国政府も、そして、傍目八目の筈の、報道機関も、馬鹿げた騒動を、盛り上げるのに、躍起になり、濡れ手に粟の、俄景気に、便乗する、製薬業界の活躍と、偽情報と虚偽解釈を、ばら撒き続ける、似非専門家までが、加わることで、多くの人々が、命の危険に曝され、市民から集めた、貴重な公的資金が、湯水の如く、注ぎ込まれた。これ程、愚かな行状は、世界戦争以外には、歴史上に、無かったことだが、失われた思考能力は、戻ってくる気配が、見えない。不安に駆られる、無垢な人々は除き、多くの人々は、既に、薄々感付いているが、それとて、うっかり声を上げれば、村八分のような、憂き目に、遭わされかねない。しかし、これまでの動向から、陽性者の増減には、偽者達が、盛んに強調する、制御可能とされる要因ではなく、全く異なる、別の多くの要因が、絡んでいることは、明らかだろう。ただ、本来の役割を、投げ出したまま、扇動を続ける、研究者の怠慢は、これらの要因を、見つけ出す作業に、手を出すことなく、金稼ぎに、精を出し続ける。一度も、的確な指摘が、できなかった連中が、依然として、要職に居座るのも、驚くべきだが、厚顔無恥に、同じ間違いを、懲りもせずに、繰り返して、不安を煽ろうとするのは、市民を、更なる窮地に、追い込もうとする、犯罪行為でしかない。無知の素人でも、感染が、病原体の伝搬だけでなく、対象となる人の、抵抗性によるということくらい、明白と見えるが、その要因さえ、取り入れられない、無能ぶりには、不信感しか抱けない。
耳に胼胝ができる、と言われるだろうが、騒ぎが、収まらない限り、書き続ける必要がある、と思う。大流行を、喧伝するのは、あの世界機関の務め、とでも思うのか、今回も、始まりから、異常な程の盛り上がり、を見せていた。ただ、当初の見込みは、大外れだったが。
発生源と言われた国で、騒動が起きた時、今とは真逆の見解を、発表したのは、あの国への配慮、とも言われたが、真意は定かでない。一方、その後、予想を超える速度で、感染が蔓延すると、この時ばかりと、最悪の筋書きを、並べ始めた。だが、その後の経過は、想定外の連続、だったようだ。ここに来て、最後の望みが、世界に行き渡る気配が、消し飛んだことから、懲りもせず、根拠の無いままに、妨害工作を始めた。どの道、この望みさえ、頼りにならぬ、との空気が漂う中、何を、躍起になって、後進国への救いを、強調し続けるのか。機関自体の、本来の存在意義に、拘泥る姿勢には、事の重大さを、推し量る気配は、一切見えず、冷静な判断に、必要となる情報も、集められない、無能ぶりが見える。その中、再度の接種に、反対する意見を、表明したのは、後進国支援が目的だが、その正当性を、権威づけようとする動きが、報じられていた。だが、肝心の文書は、専門誌の、見解表明の場で、どんな審査過程が、あったのかさえ、判明しない。内容も、追加資料にあるように、闇雲に集めた、公式、非公式入り混じる情報であり、選別の結果、とも思える。本来、自らの決定を、正当化するだけなら、機関の公式発表で、十分なのに、何故、専門誌掲載となったのか。そこにも、思惑が見え隠れする。また、最近の動向からは、専門誌でさえ、信頼に値しない、との意見もあり、特に、この騒動では、緊急との判断から、不確かなものが、審査無しに、発表されており、科学の価値が、暴落している、とも言われる。こんな暴挙の数々が、科学不信を、招いているようだ。
では、支援とは、具体的に、どんなことか。流石に、精神的なものは、除外するとして、実質的なものは、武器と資金となる。後者さえあれば、前者は、自ずと手に入る筈、との解釈もあるが、現実には、売買経路から、足が付くことがあり、紛争地域以外では、難しい。
嘗て、国内で、様々な恐怖を招いた、ゲリラ活動も、武器の流通が、盛んでない国情から、難しいと思われたが、狩猟などに用いる銃を、売買する店から、略奪するという手段が、用いられたと言う。その際の犯人が、今回の騒動の中心となる、首都の医師会の会長の、兄だったとの報道から、その辺りの事情が、改めて認識された。世界的に見れば、全く、状況は異なり、武器の供給の多くは、国からの支援として、行われているようだ。現在も、対抗する勢力が、敵対する勢力へ、それぞれの都合で、武器供給を行い、戦いの継続を、支援している。安全保障理事会の、常任国が、互いに、裏で、そんな活動を行い、紛争を、支えるのは、人道も何も、身勝手な都合でしかなく、噴飯物としか、言いようが無い。一方、テロに参加する人々が、生活困窮から、抜け出す目的で、紛争地帯に向かうのは、雇用の一種とも、考えられることから、資金提供が、支援の重要な要素であるのは、明白だろう。だが、その流れに、目が向かうことは、殆ど無い。おそらく、機密活動などが、水面下で、追跡を続けているのだろうが、その内容から、市民に明らかとなることは無い。一方で、資金洗浄が、依然として、問題視されており、一般通貨でなく、暗号通貨に目が向き、規制の必要性が、議論されているが、こちらも、どうなるのやら。市民の生活を、守るための資産運用も、悪用されるとなれば、様々な規制が、掛けられかねない。実は、資金洗浄より、直接的な資産運用が、活動資金に、繋がっているのかもしれない。だとしたら、テロによる恐怖そのものが、運用利益に、結び付く可能性さえ、あり得るのでは。
ふた昔前、まだ、賑やかだったサイトは、あの事件を伝える映像に、見入る人々が、言葉を交わす場、となっていた。次々に、高層の建物に、突っ込む旅客機は、事故なのか、事件なのか、何の情報も無いまま、恐怖を催す、場面を映じていた。不安が、サイトに漂っていた。
その後の展開は、この所、様々な番組や、新聞の特集で、伝えられる通りだ。悲惨な事件を、巻き起こした集団に、罰を下そうと、地球の反対側で、武力行使した国は、正義を掲げながら、自らの行為を、正当化することに、終始していた。が、たとえ、集団への処罰が目的としても、他国に侵攻し、戦いを行うことに、正当な理由は、一切、見出されない。その果てに、これ以上の駐留が、意味を成さないとの判断が、長期に渡る検討の末に、決断されたことで、蘇る恐怖への思いに、注目が、集まっている。テロという言葉が、盛んに使われるが、ある年代より、上の人々にとっては、ゲリラという言葉の方が、馴染みが、あるのではないか。どちらにしても、小さな勢力が、暴力的な行為により、自らの目的を、果たそうとする動きだろう。だが、嘗てのゲリラが、国の内部での、話として閉じていたのに対し、テロは、外の勢力が、ある国の中で、活動する形態を、指しているように思う。だからこそ、わざわざ、反対側にまで、侵攻する必要が、あったのだ。もう一つ、違いがあるとすれば、ゲリラ活動では、支援の有無が、成否に関わる、と言われる。今も続く、社会主義国が、成立したのも、他国からの支援が、得られたからで、南北間での戦いで、ゲリラを支えたのは、北の軍隊、ひいては社会主義の隣国の関与、と言われている。対して、この国でも、嘗て、赤軍と呼ばれたゲリラが、活動したが、支援を失い、外国へと移り、大事件を、引き起こした。今、テロの恐怖を、盛んに、取り上げるが、この違いに、触れるものは、殆ど無い。テロの温床は、宗教の違いではなく、支援にこそある。